語る世界、遥かなる沈黙〜第2章 黙する言葉(後)〜◇
一体、どれくらいの時間を微睡の中で過ごしたのだろう。
私を蔑んだ彼らの中に未だ息づく私のことに、彼らは気付いているのだろうか。
数多の言葉で紡がれる可能性の海の中で現実を、拾い上げることはとても難しかった。どこにでもいて、全てを見て、聞いて──世界の始まりから言葉が存在していたのなら、私は私の民を救うことも、悲惨な戦争を生き延びることもできたのに、現実はそうはならなかった。
体を捨て去っても尽きることのない激情が世界を焼き尽くしませんように。私が世界の中で生き続けられますように。
──世界が、私を忘れませんように。
◇
カーヴェはまだ体をうまく動かせないアルハイゼンを背負うと、惨状の広がる広場の片隅へと場所を移した。壁に背中を預けるアルハイゼンは暫くの間、手を握ったり開いたりを繰り返していたけど、段々と体の動きを取り戻していた。
「……セノを呼んでくれ」
「彼は子供達の面倒を見てる。なんだ、僕には話せないのか」
「君の悪癖が発揮されなければ──ここに来ている時点で火を見るより明らかだな」
今回の彼の態度は頑なに過ぎる。カーヴェだって仲間なのに、どうして話してくれないのか──そう伝えれば、アルハイゼンは大きく溜息をついた。
「──言えば、彼は同情する」
「同情?僕が?君に?まさか──」
「我らが大先輩は大層お優しい人間だからな」
「君っ……!まあいい。だが、あの惨状の説明ぐらいはしてもいいんじゃないか。そもそも、どうして君はここにきたんだ」
アルハイゼンはチラリと、学者達だったものを見た。その中心の光の中にあるものを見透かそうとしているようにも見える。目を伏せた後、彼は話を続けた。
「半年前のことになる。書記官宛にある荷物が届いた」
彼はそう言いながら、腰のカバンから小さな木箱を取り出した。蓋が開かれた中は真っ白い布が敷き詰められており、真ん中にある僅かな凹みから手のひらに収まるほどの大きさのものが入っていたことが分かる。
「端的に言えば、入っていたのは人の骨──頸椎だ。元素視覚で見てもおかしなところのないそれに触れてから、四六時中、幻覚や幻聴が起こるようになった」
「あっ!じゃあお前がフォンテーヌの絵を描いてたのって幻覚で見たからなのか?でも、オイラ達が見たのと本当にそっくりだったぞ」
「ただの幻覚というより、切り取ってきた現実を見せつけられている、と言った方が正しいだろう」
「君、そんな状態で仕事をしてたのか?呆れるな……」
「俺が仕事をしなければ、君も食うに困ると思うが」
「うぐっ……それで、その骨とこの場所にどういった関係が?」
「このメモだ」
布の下から取り出されたメモにはこう書かれていた。
──私は貴方の舌を抜こう。そうすれば、貴方は問いに答えることができる。
「だいぶ気持ち悪いぞ……あ、でも、これってセノが見せてくれたメモにちょっと似てるな」
「蒼白なる魔神のことについてはすでに聞いているな。クラクサナリデビ様に相談し、いくつかの資料を突き合わせた結果──送られてきた骨は魔神のものの可能性が高い」
「それって……」
どことなく、神の心と似ている。もっとも、神の心は降臨者の遺骨、らしいけれど。
「誘拐事件はこの魔神にまつわる二つの研究グループが引き起こしている可能性が高かった。そのうちの一つ──魔神の病を取り除こうとした学者が、今あそこで息絶えている者達だな」
病。学者達の死に様は病と呼ぶに相応しい狂気的なものだ。あのようなものが、私たちの身のうちにあるのだろうか。
「もしかして──彼らは全く異なる言語体系の獲得を目指したのか」
カーヴェは、思考から言葉を絞り出すように自説を語り出した。
「君達知論派の論理で言えば、言葉は思考の限界を定義づける──超越的な思考を求める学者にとって、言葉はまさしく病だ。旅人、あの時、キノコの子供が言葉を話していたことを覚えているか?」
「うん。意味はわからなかったけど……」
「分からなかったが意味があるように思えた。彼らは器質的に今ある言語を取り除こうと、人体実験を繰り返していたんじゃないのか?」
愚かしいがその通りだ、とアルハイゼンは肯定した。
「彼らの論には穴がいくつもある。異なる言語体系であっても思考の制限は免れないし、そもそも、言語の制限なしに思考は成り立つのか?仮にそんなものを得たとして、あの死体のようになるのが関の山だろう」
「アルハイゼン、念の為確かめておくが──」
「俺は殺していない」
「良かったよ、君をマハマトラに突き出さずに済んで。それで──君が気絶している間に誰が殺したんだ」
カーヴェの目はいつになく厳しかった。それは、目の前の友人が明らかに隠し事をしているから、なのだろう。
「君は答えを持っているんだろう、アルハイゼン。大体、どうしてこんなところに来た。どうして気絶していた?君が子供達を助けるため、なんて殊勝な理由で動かないことは僕も理解してる……」
カーヴェがアルハイゼンの胸倉を掴み、今にも殴りかかりそうな雰囲気にパイモンはどうにか仲裁を図ろうとしている。
「君はまた、ハイブマインドの時のように厄介ごとに一人で首を突っ込んでいるんじゃないのか!君に同情なんてしてやるもんか!だから……」
──話してくれ。
最初の勢いを無くし、拳と共に尻すぼみになった言葉でも、アルハイゼンの耳に届いたはずだった。なのに、彼は何も言わない。
そして、答えの代わりに奇妙な問いを寄越した。
「君は、自分が幼かった頃を覚えてるか?」
「そんなの当たり前だろ。今はそんな──」
「そうか」
心底納得できた、という声だった。思考の自己完結ゆえの発露、そんな風で。
「カーヴェ!旅人!」
「セノ?」
追いついてきたセノの叫び声が廊下に、広間に響き渡る。
「ファデュイが来る!」
甲高い悲鳴と共に、天井のステンドグラスが割れ、哀れなガラス片は地面へと叩きつけられた。同時に降りてくるのは遊撃兵や銃兵、重衛士──その中に、一際異彩を放っている人物がいる。試験管を模したピアス、表情を悟らせないマスク、青い髪の──
「この惨状を見るに、彼らは想定通りの末路辿ったようだな」
執行官第二位──博士。
「どうしてファデュイなんかがここにくる!」
カーヴェは大剣を構え直し、ドットーレへと真っ直ぐ向けた。ファデュイはまだ武器を抜いていないが、敵意があるのは状況から明らかだった。
でも、ここにわざわざドットーレがきた目的はなんだろう?
「アルハイゼン、これも君の想定内だなんて言わないよな」
「まさか。想定内に決まっているだろう」
「はぁ……」
ドットーレはこちらを一人一人順番に見渡し、最後にアルハイゼンのところで目を留めた。
「──私は研究成果を回収しに来ただけなんだがな」
「奇遇だな。俺も君に用がある」
世間話でもするような気軽さの中に、腹を探り合うような剣呑とした空気が混じる。
「ドットーレ。大マハマトラとしてお前の入国は許可できない。更にこの学者達の共犯であるというのならば、スネージナヤに正式に抗議しなければならないが」
「は!私がこの愚昧共と同じだと?あくまで、彼らの行動を罠として利用しただけだ」
誰のための罠なのかは、言うまでもない。アルハイゼンはこの事態を予期しながらも、いつかと同じように自ら渦中に身を投じたのだ。
「随分と賢い君でも、まさか僕達がついてきているとは思わなかっただろ?」
「お前達ごとき、数には入るまい」
ドットーレはなおも不遜な態度を崩さない。その上、「アルハイゼンを引き渡せ」と目的を隠すことすらしなかった。漏らしたところでなんの問題もない、と舐められている。
「蒼白なる魔神の研究について、ここの学者達は心底愚かなことをし続けた。それに比べれば、一つの結実を成した彼らは一定の評価を下しても良いかもしれないな」
アルハイゼンが研究の成果──?
「それはどういうこと?」
「そうだぞ!人間が研究成果なんて、それじゃ、まるで……」
口を噤んだパイモンの言いたいことはみんな分かってる。
──言えば、彼は同情する。
先刻のアルハイゼンの言葉が頭を過ぎる。彼は、どこまで事態を把握しているんだろう?
「……何だか知らないけどな、アルハイゼンを連れて行かせるわけないだろ」
カーヴェの手元から離れた大剣は端の方にいたファデュイの腹部目掛けて飛んでいき、強かに気絶させた。それと同時に、セノは元素爆発を起こしながら隊列へと突っ込んでいく。
開戦の狼煙だ。
「全く、穏便に進めようとしたというのに」
刹那、ドットーレの姿は視界から霞のように消え去った。
「旅人!後ろ!」
パイモンの呼び声に後ろを振り向けば、眼前には剣の鋒が迫っていた。
(死ぬ──!)
剣が頭に到達するまでのほんの一瞬に流れたのは走馬灯だった。星海を旅したこと、片割れと別れて、目覚めて、テイワットを旅したこと。苦難と、喜びと、冒険と──それらが幻のように立ち現れては消えていく。
その光景を切り裂いたのは、一筋の光だった。
「部外者に危害を加えるのはやめてもらおう」
アルハイゼンが飛ばした光る剣はドットーレの凶刃を撃ち落とし、そのまま霧散した。
「この展開は不本意だが、おかげで状況はよりシンプルになった。君を叩きのめせばいいだけになったからな」
「ほう、私を?」
「アルハイゼン、一人で戦うのは──」
「一人?俺はそこまで無謀ではないよ」
セノとカーヴェの方を見れば、うまくファデュイの兵士たちを抑えられているようだった。だったら、こっちはドットーレに集中できる。
「少し時間がかかる、か」
ドットーレは二人相手でも余裕の姿勢を崩さない。執行官二位の実力は伊達ではないのだろう。
「──行くぞ」
アルハイゼンが地を蹴るのと同時に前方へと飛び出す。そのまま正面から切り掛かり、アルハイゼンは高速移動によって背面からまわりこみやいばを振り下ろすが、ドットーレは日本のメスのような短剣で器用にそれを受け止めた。瞬間、火花が散る。アルハイゼンがすかさずもう一本の剣を振るい同時に光幕を叩き込むが、まるで見透かされているかのようにドットーレの体はするりと膠着状態から抜け出した。
「琢光鏡!」
間髪入れずに三枚の琢光鏡がドットーレを取りかこみ、光線を反射する。そこに火元素の攻撃を打ち込めば、ドットーレ自身を火だるまにできる──はずだった。
「──っ!」
不意にアルハイゼンが体勢を崩すと、琢光鏡も何もかも消え失せた。彼はそのまま立っていることもできずに地面へと蹲った、その上から、ドットーレが冗談とは思えない力で背中を踏みつける。
「──アルハイゼン⁉︎」
異変に気づいたカーヴェの叫びでハッとしてドットーレに切りかかるが、容易にいなされ大きく後ろに吹き飛ばされてしまった。
「神の目との接続に思ったより時間がかかったようだが、何も問題はない。全て想定通りだ」
「何、を」
ドットーレは箱を取り出し、その中身をアルハイゼンの上へと落とした。
「ここにある頸椎は五つ。お前の中にあったものと、学者がお前に贈ったものが合わせて二つ。これだけ手間をかけてもなお不完全ではあるが、神の目よりも研究の役には立つだろう」
背中に落とされた骨が消えていくたびに、アルハイゼンの呻き声は大きくなっていく。それと同時に、彼の肩にある神の目はその色彩を失っていった。
「見たまえ旅人。これが、人間と神の不均衡を打ち破る鍵の一つだ」
もはや動かなくなったアルハイゼンの背に浮かび上がったそれをドットーレは無遠慮に掴み取ると、目の前に掲げた。
「人造の──神の心、とでも言えばいいかな」
白く無機質なそれは、かつて見たことのある神の心とは異なる。ただひたすらに骨のような見た目で、僅かな継ぎ目から草元素の光が漏れている。
「ドットーレ‼︎」
「カーヴェ!やめろ!」
「うるさい!」
セノの静止の声も聞かずにカーヴェは一目散にドットーレに突進し大剣を振り下ろそうとした。ドットーレはソレを意にも介さず、埃でも払うように大剣を弾き飛ばした。
「アルハイゼンに何をした!」
「どれだけ聡い人間でも、自分自身を観察し結論を出すというのは困難極まる、ということだ」
「訳の分からないことを」
「用は済んだ。撤退するとしよう」
ドットーレは、最初から自分たちのことなんて眼中にない。精々、炉端に転がる石に躓いた程度の認識なのだろう。
ドットーレが部下に指示を出すと、天井の穴から何本もの鎖が垂れ下がってくる。
ここには、鎖で引っ張り上げられていく彼らを止められるほど力が残っている人間はいなかった。ただ、ドットーレがアルハイゼンの抜け殻のような体を担ぎ上げて登っていくのを見送ることしかできない──セノを除いては。
「待てっ!」
大きく跳躍したセノは、真っ直ぐにドットーレへと手を伸ばす。その大きな爪はドットーレの鼻先を掠めたが、届くことはない。そのまま落下していき、両者の間の距離は決定的なものとなった。
「……ソ……クソッ!」
拳を床に打ち付けて平静を失っているカーヴェに比べて、セノは冷静に天井を見上げていた。
「お、おい……これってどうなっちゃうんだ……?」
「パイモン、慌てなくていい」
「慌てるな、だって?随分と薄情じゃないか、君は」
「カーヴェ」
セノの諭すような声音に、カーヴェはキツく目を瞑った後に「すまない」と言った。
「君に八つ当たりしても意味はない。僕はどうかしてたみたいだ」
「友人が攫われて腑が煮え繰り返っているのは俺も同じだ。安心しろ。兵士の何人かに追跡装置をつけておいた」
「……学院祭の時のやつか?」
「あれよりも小型で、精度もずっと落ちるがな」
「ならすぐに──いや、今の僕達ではダメだ」
情報も、戦力もない。首を突っ込んだはいいものの、今の自分達は暗い森の中で明かり一つ持たずに歩き回る子供と同じだった。
「アルハイゼンは草神様に相談した、と言っていた。まずは相談すべきだ」
何せ相手はファデュイなのだ。無策で相手にできるほど生やさしい相手では無い。だから今は、彼らができうる限りの時間を与えてくれることを祈るしかない。
◇
「君は──この研究チームで何をしていた」
「何って──研究に決まってるだろ?君こそ、他の学生を振り落として何がしたいんだ」
俺たちの間にはいくつもの矛盾と反駁があった。
最初こそうまくいっていた。性格の差異はあれ、学術的態度も、才能も、あつらえたようにピッタリとはまり込む──唯一無二の友人のようにお互いを思っていた。それはもちろんただの錯覚であり、実際には月と太陽であり、鏡の表と裏だった。そのことに先に気付いたのは自分で、後から気付いたカーヴェもそれをあえて指摘しようとはしなかった。
俺達と、カーヴェ曰く『振り落とされた』学生達との差には埋めようの無い差があった。彼らは議論に付いてこられない。研究の速度を彼らに合わせることもできないし、合わせる必要もない。研究は公共事業や慈善事業ではないからだ。
履き違えたカーヴェが他の学生達の分も夜鍋して作業していることは知っている。そういった履き違えは共同研究よりも昔から続いていたが、それが破滅的なものになったのは今回が初めてだった。多くの作業をこなし、ろくに休みすら取らない彼は疲弊していた。その輝きを他の哀れな学生に分け与えて、彼からは精彩が失われていた。
「振り落としてなどいない。彼らはただ──ついて来られなかっただけだ」
あまりにも自明だ。研究能力がなければ研究はできない。ただそれだけのことを、彼は理解しない。いや、理解はしているが認められない。
「君のそういうところが……僕は許せないんだ。許せないんだよ、アルハイゼン」
利己的だ、とカーヴェは詰った。
「君は研究チームの筆頭として、もっと多くの学生を助けるべきだ。君の頭脳を持ってすれば容易だろう」
「俺が彼らを助けてどうなる」
灯りを最低限まで落とした部屋の中で、机の上のランプが揺らめく。照らし出された机上の研究資料はその居場所を見失ったかのように、光の中で不安げに揺れていた。
「俺が彼らの作業を手伝ったとして何が変わる。研究は相変わらず彼らを置いて進むし、彼らが絶望してチームを抜ける結末も変わらない」
そう、何一つ変わらないのだ。運命はその人自身の性格と──行動が決める。多少他者が手助けをしたところで、彼らの結末を変えることはできない。
「そんなことはない!君がもっと彼らを手助けしていれば──優れた研究は突出した個人が生み出すものじゃない。多くの人が携わることで素晴らしいものを生み出し、知恵を共有できるんだ。今回も──そうなるはずだった」
論文の下書きの表紙には、かつてはチームにいた何人ものメンバーの名前が連なっている。今はそこに線が引かれており、残っているのはカーヴェと俺の二人だけだった。彼らが研究に携わっていたことを示すのは、末尾に添えられた僅かな謝辞の項目だけだった。
「俺は別に、共同で研究成果を出すことを否定しているではない。君と俺のように──対等であるもの同士であれば、素晴らしいものが残せる」
対等、という言葉にカーヴェは目をぎらつかせた。彼は、突出した個であるのに群衆の中に混ざりたがった。ただ一人だけがたどり着けるような高みを望みながら、それに手をかけることを恐れていた。それは彼の信念というよりも病質的なもので、将来へ禍根を残す性質であることは容易に想像がつく。そして、その病がどこからきているのかも。
「君は──君自身であることに耐えられないのだろう」
「……ろ」
「自分から生みだされたものに自信も持てなければ肯定もできない。君はそんな自信のなさと不安を誤魔化すためだけに、第三者に行動の理由を求めている」
「……めろ」
「君の理想は信念ではなく、現実逃避に過ぎない。君が過去の出来事で自分を許せないのだとしても、その罪悪感を他者へ投影したところで現実は何も変わらな──」
「やめろって言ってるだろ!」
彼がこんなにも声を張り上げるのは初めてだった。ランプが作り出した影の中でカーヴェの手は俺の頬を張り、現実には彼の衝動によって床へと押し倒された。そんな痛みは言葉を止める理由にはならない。彼はいつか──自分自身の問題と向き合わなければいけない。
「君の手助けは──延命に過ぎない」
「……っ!」
「いや、延命ですらない。彼らにとどめを刺したのは君だ。彼らがどれだけ時間をかけてもこなせなかった作業をこなす君を見て、彼らはどう思った?それが分からないほど、君は愚かでは無いはずだ」
「違う!僕はただ──」
「彼らは才能の差を見て絶望し、嫉妬しただろう。君が思い悩む姿を見てこう思ったはずだ──自分達と違い才能があるくせに、どうして思い悩んでいるのかと」
振り上げた拳は、しかし降ろされることはなかった。光も届かない影の中で顔を失った彼は、おそらく静かに泣いているのだろう。
「どうして……そんなことを言うんだ……僕はただ……君に……」
カーヴェは目元を袖で拭って立ち上がる。床に転がっているわけにもいかないので同じように立ち、彼を正面から見据える。先刻の怒りは消え去り、ただ冷えた眼差しだけがそこにあった。
「分かったよ。僕に君は変えられない。君も僕を変えられない」
友人になんてなるべきじゃなかった──とカーヴェは言った。押し倒された時に強かに背中をぶつけた痛みが、胸の辺りまで回ってきている気がした。
「これ、あげるよ」
そう言ってカーヴェが取り出したのは、いつかに貰ったお土産のプリズムだった。
「僕達はもう──同じものは持てない」
光を失ったプリズムを受け取る。それは何も語らず、闇の中でただ静かに横たわるだけで、カーヴェが論文を破る光景だけが小さく映し出されていた。
あの後、次の日には教官へカーヴェの離脱を伝え、彼の名前を著者から謝辞に移した。それを伝え聞いたカーヴェは怒り狂ったらしいが、不思議と怒鳴り込んできたりはしなかった。
──言葉とは、即ち最低条件であり、規則であり、武器であり、暴力である……多くの場合、人は言葉によって統制される……
論文をまとめるためにプスパカフェへと来ていたが、課題を早々に終わらせてからは読みかけの本を開き、コーヒーを啜っていた。論文の表紙に残っている名前は、もはや自分一人だけだった。
後悔はしていない。なぜなら、あれらの言葉がk―ヴェを傷つけることは分かっていた。分かっていて、必要だから言葉を紡いだ。関係性を続けるのならば黙することが正解だったのだろうが、それはできなかった。人が不幸に転げ落ちていくのを側から見続けていられるほど、自分は薄情ではない。
「……」
ため息をついて、ポケットからハンカチを取り出す。その中には彼との約束の証だったものが入っている。結び目を解くと、完璧な形のプリズムと、倒れた拍子にひび割れてしまったプリズムとが揃いで並んでいた。その内、傷付いた方を取り出し、そっと天井の明かりにかざしてみる──いつかの彼がしていたように。
ひび割れてはいても、その鮮やかさは失われていなかった。変わらずに光を七色に散乱し、眩い色彩で瞳を照らした。
(あの時、俺はどう思ったのだろうか)
彼の怒りを見た時、悲しみを見た時──断絶を見た時。胸を掠めた痛みは、きっと物理的なものではないのだろう。平穏さの中にはなかったその鮮烈さの輪郭をいくら言葉でなぞってみても、本質には辿り着けていない気さえする。
言葉では何も語れない。この問いに対して、言葉は黙し、口をつぐむしかない。
──どうして、プリズムが散乱する光を鮮やかに感じるのだろうか?
答えなどあるはずがない。それは言葉の外側にあるからだ。
プリズムを元のように大事にしまいこみ本の続きを読もうとしたが、それは既に最後のページだった。さらに捲れば裏表紙のようだ。
そして、本の下に、光る精巧な装飾品があることに気が付いた。