【ブラ晶♀】おとぎ話 おとぎ話、の語源を知ったのは高校生のとき。国語の先生が、思い出したように口にした雑談で。
あっ、と私は声を弾ませた。リケとふたりでうーんと首を傾げていたところに、かつかつと靴音が聞こえたから。
「ブラッドリー! ちょうどいいところに」
「あ?」
怪訝な顔をするブラッドリーをソファへ招いて、つい今までリケと覗き込んでいた本を見せる。
「リケに、おとぎ話を読み聞かせてもらっていたんですけど」
私の言葉を、少し悔しそうな面持ちのリケが引き取る。
「はい、途中までは上手く読めていたんです。でも、この部分がまだ読めなくて……」
言いながら、リケはしゅんと面差しを俯ける。そんなリケを一瞥すると、ブラッドリーは手元の本に視線を向けた。そうして、とん、と。骨ばった指先で、文章中の一節を示す。
「こいつは何て読む?」
「冒険、です」
おずおずとリケが答えれば、ブラッドリーはまた別の箇所を指差した。
「こいつは?」
「飛ぶ……じゃなくて、ええと……飛び出しました、です」
「なら、こいつは?」
「知っています、です」
リケの答えを聞いてわずかに口端を上げたブラッドリーは、とんとんとん、と指先で文章を追っていく。
「この部分、読み上げろ」
「はい。王子は、冒険に飛び出しました」
「なら、冒険の前に入る言葉は何だ?」
リケは真剣な顔で本を見つめる。私も、読めないなりに本を見つめた。すると、リケが先程『知っています』という意味だと答えた単語の一部が、『冒険』を表す単語の前に含まれていることに気づいた。
あ、もしかして――と私が思うのと、リケがぱっと表情を明るくしたのは同時だった。
「まだ知らない……まだ知らない冒険です! 王子は、まだ知らない冒険に飛び出しました! 合っていますか?」
瞳を輝かせるリケに、
「上出来だ」
ブラッドリーは満足げな眼差しで応じる。その後、『まだ知らない』は『未知』と言うのだとさりげなく説明を加えたあとに、ブラッドリーはあっさりとその場を去っていった。
そんな彼とふたたび顔を合わせたのは、お風呂上がりの廊下だった。
まだ乾ききっていない髪に、かろうじてスキンケアだけ済ませたような状態。着ているものも寝間着だったから、私は気まずさで眼差しを俯ける。もう何度か見られているとはいえ、恥ずかしいものは恥ずかしい。
ブラッドリーは私のささやかな羞恥を承知しきった面差しで薄笑うと、
「来いよ」
とだけ、短く言った。「はい」と小さく頷いた私の声は、自分の心音にかき消されるくらいに掠れていた。
夜の帳を揺らさないように、そっと薄闇の隙間を縫うように。
ブラッドリーの後ろをついていった私は、招かれるまま彼の部屋へ。
言葉を交わしたのは二言、三言。
革張りのソファの上で、指先と指先が触れ合えば、言葉はもう意味を失くした。互いの温度を溶け合わせるように、くちびるを合わせて舌を絡めた。熱を孕んだ吐息がこぼれる。ぐずるような声が鼻先から抜ける。だんだんと蕩けてゆく意識の中で、こういうことをするのが随分と久しぶりであることに気づいた。――しばらく、任務続きだったので。
彼の重みを身体に掛けられたとき、「あ、」とためらいの息をこぼしてしまった。それを聞き拾ったブラッドリーは、鋭い眼差しの中にほんのわずかな穏やかさを浮かべて、
「別に、無理強いをするつもりはないぜ」
と、微かに笑う。そうして、咄嗟に口ごもる私に、からかうような気軽な口調で。
「おとぎ話でも読み聞かせて寝るか?」
それを聞いた私は、不服を表明するように少し口を尖らせる。
「子供じゃありませんよ」
拗ねた言葉を落としたくちびるを彼のそれに合わせて、私がちゃんと大人であることを証明する。
薄明かりが仄めく空間に微熱が灯る。甘やかな揺らぎが、私と彼との境界を曖昧にする。
浅い息をこぼしながら、いつか聞いた話をぼんやり思い出した。
おとぎ話――御伽話。伽、とはつれづれを慰めること。あるいは、寝所に侍ること。
今のこの刹那も、あるいはおとぎ話なのかもしれない。私は切なさを慰めて、あなたは退屈を慰める。言葉の代わりに吐息を交わして、体温と体温を重ね合わせて、泣きたいくらいに幸せで、――けれど私の役目が終われば消えてしまう、夢みたいに儚い恋。
この物語は、決して賢者の書には綴れない。
私と、私が恋したあなただけが知っている、切なくて幸せな秘密のおとぎ話だ。