【ヒス晶♀】たった一夜の恋人 元の世界へ帰る方法が見つかった。
数々の苦難を乗り越えて、数々の嬉しさを分かち合って、心を繋げた、私の魔法使いたち。彼らの魔法――彼らの心から生み出されるシュガーをそれぞれ二十一人分、エレベーターへ投入してレバーを下ろせば、私の願う場所へ導いてくれる、という話。
傷だらけだったこの世界。壊れかけだった美しい世界。もう〈大いなる厄災〉と呼ばれることのない月の、ひかりに浸った美しい夜。
遥か下方に街並みがあって、そう遠くない高みに夜空があった。風は星の瞬きをはらんで、世界をすべらかに流れてゆく。
風の営みを耳元で感じながら、私たちは空を飛んだ。いつも通りを取り繕うための、他愛のないお喋りはいつのまにか途絶えて。風の響きに包まれて、箒に跨るヒースクリフの腰へ遠慮がちに手を添えて、彼の肩越しに、美しい世界を眺めていた。
あ、と息をこぼしたのは、世界のふちがひかったとき。夜色の水平線に映り込む月明かり、大らかにたゆたう静かな水面。
「海だ」
思わず、ひとりごちるように、呟いた。そうしたら、ほんのわずかにヒースクリフの肩が揺れて、あ、と息を吐く気配がした。
「……すみません」
肩越しにこちらを振り返ったヒースクリフが、弱くうろたえた声で言葉を繋ぐ。
「随分、遠くまで来てしまいました。その……ぼうっとしてしまって。申し訳ありません、賢者様をお乗せしているのに」
「いえ……、私も。景色に見とれていました」
たぶん、私たちの言葉は、そのどちらともがほんの少し嘘。互いにそれに気づいていて、互いに知らないふりをした。
風の冷ややかさが、頬の上辺を撫でてゆく。眼差しの先で、風と馴染んだ金色の髪先が繊細にひかる。美しい青の瞳に、睫毛の影が落ちる。
「――魔法舎に、戻りましょうか」
穏やかな微笑みを浮かべて、ヒースクリフはそう言った。だから、私も同じように笑って、「はい」と頷いた。
風の中で緩やかにターンして、やってきた夜空を引き返す。世界のふちが遠ざかる。
これは、いつも通りを取り繕うための、他愛のないお喋り。
「この世界の海の向こうには、何もないんですよね」
「そうですね……。そう言われています。海の向こうに行って、帰って来た人はいませんが……」
前を見つめたまま、ヒースクリフは静かな声で続けた。
「賢者様の世界だと、海は全部繋がっているんですよね」
「はい……。ずっと海を渡っていくと、世界を一周して、同じ場所まで戻ってきます」
「物語で読む世界みたいだ」
笑みを含んだヒースクリフの声につられて、
「そう……かもしれませんね」
私も微かに笑う。
遥か下方の街並み、そう遠くない高みの夜空。
心と自然を繋げて、不思議の力を使う魔法使いたち。
「私にとっても、この世界は、まるで物語だったから」
かつん、と靴音が薄闇に消えた。猶予めいた時間は終わりを告げて、秒針の響きが明瞭になる。
暖色の灯りが足元に落ちる魔法舎の廊下、互いの部屋の前。
いつも、の夜と同じように、眼差しを合わせて挨拶を交わし合った。そのままいつもの夜のように、ごく自然に眼差しを外して、自分の部屋へ下がるつもりだった。
だけど、おやすみなさい、に連なる息遣いを呑み込んだまま、時が止まったように――時が止まればいいのにと願うように、立ちすくんだ。
暗闇の中にひとり放り出されたみたいに、途方に暮れて、眼差しを弱く揺らめかせた。
ヒースクリフも立ちすくんでいた。互いの息遣いを微かに感じる距離で、言いようのない切なさを眼差しに滲ませて。
このまま、ここで時の流れに抗おうとしても、抗えないことなどわかっていた。だから、美しい青の瞳から、引き剥がすように眼差しを外して、ヒースクリフに背中を向けようとした。――だけど。
次の瞬間、指先にすべらかな体温が触れた。驚いて顔を上げれば、ふたたびヒースクリフと眼差しがかち合う。
私の手を掴んだヒースクリフは、自分の行動にうろたえているようだった。瞳を小刻みにふるわせて、「すみません」と口走る。
そのまま、ヒースクリフは私の手を離そうとする。指先の力が緩まって、体温が遠ざかろうとする。
その途端、泣きたいほどの切なさが、満ち潮のように心に寄せた。
数々の奇跡を見せてくれた、物語みたいな世界。この世界の海の果てが、私の世界だったらいいのに。
「ヒース、」
揺らぐ声に、涙が滲む。思いをとどめていた堰を切って、切なる恋が溢れ出す。
遠ざかる体温を引き留めて、ヒースクリフの指先を握りしめる。
刹那、私の身体全体が、あなたの体温に包まれた。
肩口に、切なげな息遣いが触れる。
秒針の響きが沈む夜に、落下するのは祈りに似た哀願。
「――晶様。今夜だけ、あなたを俺の恋人にすることを許して」
ドンッ、と荒っぽく、背中が扉にぶつかった。いつだって控えめで丁寧だった指先は、性急に私の輪郭に触れる。顎に掛けられた指に促されて上を向けば、美しい青の瞳と、間近で視線が重なり合う。
ヒースクリフが私に向ける眼差しの意味を、ずっと前から知っていた。いつしか、私の眼差しも彼を追うようになっていたこと、その事実を、ちゃんと私は知っていた。だけど、束の間の幸せを手にしても、いつか必ず手離すときが来るのだと、ヒースクリフも私もわかっていた。その予感の通り、いくつもの思い出と大切なひとたちと、たったひとつの恋とを天秤にかけて、私は恋を選べなかった。ヒースクリフにも大切なひとたちがいて、守るべきものがいくつもあって、だから。
秒針の響きが導く先で、私たちの恋は確実に終わりを迎える。
それでも。
晶様、と囁くヒースクリフの声の甘やかさに微睡むように、ゆっくりと目を閉じる。
夜が明ければ、醒める夢。
それでも、今夜だけは、私はあなたの恋人だから。
白い眩さを感じて、目をひらいた。あたたかな泥に沈んだような感覚の中で、ゆっくりと上体を起こす。さらりとした何かが肌を滑る感触。ひとつ、まばたきをして、のろく視線を動かせば、こちらを見下ろす美しい青の瞳と、視線が重なった。
「ヒース……」
「おはようございます」
普段着の白いシャツの袖を捲っていた彼は、一歩こちらへ近づいた。それと同時に、私はここがヒースクリフの部屋で、自分がベッドの上にいて、衣服を何も身に着けていないことに気づく。
あ、と咄嗟に眼差しを伏せた。次の途端、ふわり、とまるで抱きしめるような動きで、肩からシャツを着せかけられる。
ほんの少し皺が寄った、私の普段着用のシャツ。ぎこちない動きで袖に腕を通して、ふたつ、みっつ、取り急ぎ前のボタンを留めて、右手で寝具を引き寄せて、おずおずとヒースクリフを見つめた。
ベッドの縁に腰掛けたヒースクリフは、穏やかに笑った。そうして、
「賢者様」
と、私を呼んだ。
「……はい」
私も微笑んで、彼に応じれば、こちらへ何かが差し出される
「俺の分のシュガーです」
ころん、と左の手のひらで受け取った星形のシュガー。それをかたちづくる透き通った白の粒子が、きらきらと繊細にひかりを反射する。
私が元の世界へ帰るためのシュガー。胸に押し寄せる切なさを押し込めて、
「ありがとうございます」
大切に、シュガーを握りこむ。ヒースクリフは微笑んだまま、私のその手を丁寧に取った。
青の瞳に、睫毛の影が落ちる。静かに眼差しを伏せたヒースクリフは、私の指へくちびるを寄せた。
「晶様。きっとあなたは、俺の最初で最後の恋です」
左手薬指の、誓いの指輪を嵌める場所。儚いしるしを祈りのように残して、
「先に、食堂へ行っていますね」
私のほうを見ずにジャケットを羽織って、部屋を後にした。
ひとり、ヒースクリフの気配が色濃く佇む部屋に残された私は、ぎゅ、と両手でシュガーを握りこむ。
不思議なエレベーターで、この世界へやってきた。この世界で綴った、奇跡みたいな物語。
だけど、最後のページを大切に閉じて、今日。
不思議なエレベーターで、私は元の世界へ帰る。