【飯マジュ】きみがきらい 窓の外は、今にも雨の降り出しそうな空だ。バッグの中から、くぐもった着信音が聞こえた。
「マジュニア、鳴ってるぞ」
「ほんとだ、もう帰りますか?」
「ああ、夕課外、終わったらしいから」
二人の前で電話には出ない。出ないことを向こうも分かっているから、留守電に切り替わったタイミングで切れる。バッグに荷物を仕舞うオレを、デンデとネイルが微笑みながら見ている。何だか腹が立って、二人を睨みつけた。
「なんだよっ」
「いーえ、ねぇ、ネイルさん」
「何も言ってないのにな」
大体、あいつが特進クラスの課外授業になんか参加しているのが悪い。授業が終わったらさっさと帰れば、こうしてオレが待つ必要もないのに。
「そんなに怒るなよ、マジュニアがあいつを気に入ってることくらい、誰でも知ってる」
「はぁ?」
何を言い出すかと思えば……ネイルはすぐこうして物事を決めつける。本当に不愉快だ。何か言い返してやろうと思ったが、時間が惜しく再度睨みつけるに留めた。椅子を机へ乱暴に押し込んで、教室を出る前にふと振り返る。
「……いつも付き合わせて、悪いな」
「いいんですよ、僕ら楽しいから」
「ああ、早く行け」
二人に手を振って廊下を走る。リノリウムの床は走るとうるさくて、いっそ飛んでしまいたくなる。でも帰った時に何故かバレていて叱られるのが目に見えているから、我慢して駆けた。
駐輪場が見えてきて、一度足を止めた。学校指定のバッグとローファーは地味だし、少しはマシに見えるようにスカートの裾とソックスを確かめる。別に、あいつに会うからじゃない、誰が相手でも良く見られたいのは一緒だ。
「遅いですよ、マジュニアさん。雨降りそう」
「うるさいな、結構急いだんだぞ。そもそも、待たされたのはオレだ」
「それもそうか……だけど、先に帰ってても良いんですよ」
悟飯は全く邪気なく笑う。自転車の後ろを示して、どうぞ、と促す。
歩いて帰っているところに悟飯から声をかけられたのは、一年の秋の頃だった。たまたま帰る向きが同じで、今日みたいに雨の降りそうな日だったから、家まで送ってくれた。あの時は結局、雨に降られて二人とも濡れたっけ……あれから一年近く経つ今も、二人乗りで帰るだけの関係がなんとなく続いている。
悟飯の自転車はあまり揺れない。自転車が上等なのかもしれないし、運転が上手いのかもしれないし、もしかすると、勘違いかもしれないけれど、後ろに乗るオレに気を遣ってくれているのかもしれない。はじめて乗せてもらった日は、もっと揺れて危なっかしかったような記憶がある。
「悟飯、水を買いたい」
「水? コンビニなんか寄ってたら降られちゃいますよ!」
確かに、肌で感じられるほど空気は湿っていて、雨が降る直前の独特の匂いがした。空は見るからに垂れこめて、今にも底が抜けそうだ。
「でも喉が乾いたんだ、お前を待ってたから」
「ずるいな、マジュニアさん……知りませんよ、降られても」
水を買ってコンビニから出ると、しとしとと小雨が降り始めていた。悟飯の自転車も、停めてある車もゴミ箱も紅葉のはじまった街路樹も落葉も猫も雀もみんな、濡れている。
「あーあ!」
悟飯がわざとらしくため息をついて、じっとりとこちらを見かけて、すぐに目を逸らした。制服のシャツが、濡れて肌に貼りついてしまっている。こんなものに動揺するなんて、本当にからかい甲斐がある。却って楽しくなってきて、自転車の後ろに掛けた。
「マジュニアさんのせいですよ」
「うるさいな、喋ってないで早く帰ろう」
「僕はずっとそう言ってます!」
悟飯が自転車を出す。川沿いの長くカーブする道を、オレたちの住む町へ向けて走る。雨は段々と繁くなり、シャツだけでなくスカートもずっしりと重くなってきた。悟飯は自棄になっているのか、いつも出さないようなスピードで自転車を走らせている。
「さっき、ネイルがな」
「なに? ネイルさんー?」
耳元を抜ける風の音で声が聞こえにくいらしく、悟飯はずいぶん大声で返事をする。うるさくって、聞こえやすくなるように腰に抱きついて顔を耳に寄せた。あきらかに肩を竦めるのがなんとも面白く、密着した背中は温かく心地良い。はじめて乗せてもらった時は、オレもどうしていいか分からなくて、こんな風に掴まったりは出来なかった。
「オレが、お前を気に入ってるって言うんだ」
「えっ……それで、どうなの?」
「きらいだよ、お前なんか。口うるさいから」
「……僕だって、マジュニアさんなんかきらいです! 水買うし、僕の言うこと聞いてくれないし!」
「ふーん、そうか。はじめて気が合ったな」
馬鹿馬鹿しくて、二人して笑ってしまう。スピードに比例して気分が高揚する。遮る車も人もない川沿いの道を、雨に磨かれる街が後ろに跳び去って行く。濡れたアスファルトは鏡のようになって、自転車はその上を軽々と走っていく。 雨粒は目の中に入り込んで、水槽の向こうを見るように景色が滲む。
なんて意味のない会話なんだろう。
本当に、きらいだ、こんなやつ。口うるさくて面倒なのに、子どもみたいにまるで無邪気に笑うから、また笑顔を見たいと思ってしまう。まぁいいかと絆されてしまう。癪に障るのに次を待っている。何を言われても、本気で嫌がれないでいる。きらいだから、明日も明後日も、ずっと構ってからかって困らせてやりたい。
家が近付いてくるのが、心から残念に感じられた。いつまでも走っていたかった。
明日、ネイルに会ったら言ってやろう。あんなやつ、きらいだって。