【飯P】焦点の先 常緑樹の木立は冬でも青々として、木漏れ日をちらつかせている。湧き水に濡れた手を払いながら振り向いたピッコロさんは、僕を見るなり怪訝な顔をした。何か言われる前に口を開く。
「すっかり視力が落ちて……とうとう眼鏡になりました」
濡れた口元から、首まで水の筋が延びて光っている。怒られるかな、という予想に反し、ピッコロさんは静かに頷いた。
「勉学に打ち込んでいたからだな」
「最近まで、なんとか裸眼で暮らせてたんですが」
眼鏡を作ってはじめて、どれほど視力が落ちていたか分かった。そして眼鏡をかけてはじめて、どれほど世界がくっきりと鮮やかだったかを思い出した。この人の目が、こんなにも美しかったことも。
ふと、ピッコロさんの面差しが困惑に染まる。
「しかし、顔の前にそんなものがあると、邪魔になる時があるだろうな……」
「案外、気にならないですよ」
「そうでなくて、その……特定の場面で」
ピッコロさんは言い淀むように口を噤み、目を逸らす。一度は開いた口を閉じて、何か別の言葉を探そうとしていた。
なるほど、普段素っ気ない態度をとっているのだから口に出しにくいだろう、キスする時に邪魔だなんて! 僕はピッコロさんの腕にしがみつく。瞑想に耽っていたのか、北風に晒された肌はひんやりと冷たい。振り仰ぐと、レンズの向こうの見慣れた顔は、思いのほか真剣に考えているように見えた。
「大丈夫です、邪魔なら外しても、ぼんやりとは見えます」
「ぼんやりでは、困らないか。目線の動きや呼吸から予測を立てることもあるだろう?」
「それは確かに……」
話すにつれ、急激に心配になってきた。このくらい密着していればともかく、普通に会話をする程度の距離だと、細かな表情までは分からない。薄暗くなると、せいぜい輪郭程度しか見えない。口付けを落とそうとして"空振り"を起こした時のなんとも白ける空気……あれを味わうのは嫌だった。出来れば、この視力を保っていたい。
「確かに、外すとピッコロさんの顔もよく見えなかったし……とはいえ着けてると邪魔……何か対策が必要かも」
「おれの顔?」
ピッコロさんは僕を見下ろし、首を傾げる。
「何故おれの顔など見る必要がある」
僕を腕から引き剥がして、ピッコロさんは樫の根本に置かれていたマントを着けた。白い布地を、木漏れ日が塗り分けている。
「だからこうやって……」
僕は改めて正面から歩み寄り、ピッコロさんのうなじに手を掛けた。レンズのお陰で、何もかも詳らかだ。
「キスする時……見えないと困るけど、でも、眼鏡が邪魔ですよね」
ほんの一瞬、ピッコロさんは沈黙した。それからじっと、レンズ越しに僕の目を見て、とうとうくつくつと笑いだした。
「馬鹿、そんな話はしていない。戦う時の話だ。邪魔だろう?」
僕は呆気にとられて、それから脱力して一緒に笑った。
「戦う時? だったらなんで、あんなに言いにくそうにするんです」
「平和に学問に打ち込んでいるのに、戦いの話など悪いかと思ってな」
「あーあ、考え込んで損しました。でも、キスする時に邪魔なのは本当です。外しちゃうと、見えなくて困るし」
うなじを捉えたままのピッコロさんを見上げる。レンズひとつ挟むだけで、本当に、今までどれほど見えていなかったのかが分かる。
目の合ったピッコロさんが、不意に僕の眼鏡を抜き取った。急に視界がぼやける。思えば、よくぞこんな視界で生活していたものだ。明るい場所だから、なんとなくは見える。しかし……。
「やっぱり……困るな」
「困らない」
困りますよ、と言いかけたところへ、やわらかく唇を塞がれた。不意打ちの驚きと、甘やかな熱の広がる心地で、手指が痺れる。うなじにかけたままの手を引き寄せて、繋ぎ止めたかったが、ピッコロさんが身体を起こす方が早かった。ほんの短い時間合わさっただけで、近付いたかと思われた体温は離れてゆき、かすかな官能だけが残る。
「……おれからは見えているから、困らない」
掠れたような、囁くような声。どういう表情なのか正確に見たくて、僕は眼鏡を取り返そうとピッコロさんの腕を捉えた。取り返すまでもなく、抜き取った手がそのまま眼鏡をかけてくれる。ぼやけていた視界が、確かになる。
「……いつも、ピッコロさんからしてくれるってこと?」
「お前次第だな」
レンズを通して目が合ったのは、もはや普段と変わらない様子のピッコロさんだった。とはいえ、はっきりと焦点の定まった先の微笑は、僕の心を揺さぶるには充分だった。