【飯P】月が落ちる時 荒野の夜に、月はなかった。
何気なく「この荒野からは、月が見えませんね」と話した悟飯に、ピッコロは興味がないといった様子で「軌道が変わったのではないか」と答えた。どんな本でもそんな話は読んだことのない悟飯だったが、子供を荒野に放り出す大人も、戻ってくるなり毎日ぼろぼろになるまで修業に取り組ませる大人も、そのくせ時たま、直視を躊躇うほど優しく笑いかけてくれる大人も、やはり本には載っていなかった。衛星の軌道が変わるくらい、大した現象でもないかもしれないと自分を納得させていた。
高台に熾した焚火の側に腰を下ろし、悟飯は疲れた身体を休めていた。荒野に覆い被さる夜空は晴天で、砕いた氷を撒いたような星が瞬いている。
ピッコロは少し向こうで、漠々たる荒野を眺めている。昼は眩しく白いマントが、今は青ざめた月白色に見えた。
やがてこちらへ戻ってきたピッコロが、焚火の側に腰を下ろした。真向かいでもなく、隣でもない。師弟はいつも、直角に向き合うように座る。
揺れる炎の照り返しが、ピッコロの横顔をやわらかく見せていた。瞳に宿る灯火、危ういほど憂えてみえる面差し……黙して見つめていると、悟飯は落ち着かない気分になって仕方がなかった。尊敬や親しみに似ていて、どこか違う気持が心の底にあることが、意識されてならないのだ。しかしながら、それが何なのかいつも分からない。
「ピッコロさん、前に、月の軌道が変わったって言ってましたけど」
「……そうではないか、と言っただけだ」
ピッコロは悟飯と目を合わせず、言い訳をするような小声で呟く。悟飯は気にとめず、焚火の底を枯れ枝でかき回した。
「月って、ずーっと地球を見守ってるのに、あれ以上、近付くことはないんでしょう? なんか、寂しいと思いませんか」
自分の感情が分からない歯がゆさを誤魔化すべく、悟飯は思いつくままに述べる。暫しの沈黙があったが、ピッコロは悟飯を見遣ることもなく口を開いた。
「月は近付かずとも、常に地球へ影響を与えていた。暗闇に道を示し、潮を引き上げる……」
「離れていても、影響していれば寂しくないってこと?」
ピッコロは答えずに、枯れ枝を焚火へ放り込む。舞い上がった火の粉が夜空の星のように光り、その輝きを失いつつ重力に従って静かに落ちた。無数の彗星が落ちるような一瞬に、悟飯は思わず目を奪われる。
「……もし月が落ちてきたら……地球に近付きたくなって、落ちてきたら、どうなるかな」
「落ちてきたら? 月は砕けて終わりだろう。地球の方でも、世界が変わってしまうかもな」
今晩のピッコロは、いつになく饒舌だった。悟飯は嬉しい一方で、妙な不安を覚える。忍び見る師の瞳は、まさに月のように静かな光を湛えていた。
もっと親密になりたいと願っているのは、間違いなかった。直角に向き合うのではなく、隣へ座れるように変わればと……しかし、そう願う心の漣が、知っているどの感情とも一致しない。名付けることの出来ない感情の正体が分からなくて、悟飯は焦れていた。
「……落ちる前に、変わる前に、分かればいいのに」
「変わってはじめて、分かることもあるだろう」
意外な言葉に、悟飯は答えられない。そもそも、こんな漠然とした言葉に返事をしてくれたことこそ悟飯には驚きだった。目線を寄越しすらしない横顔を、じっと見つめるのが精一杯だった。
荒野の夜風が、細かな砂を舞い上げている。焚火の炎はずいぶん落ち着き、熾火となって二人を暖めていた。
今まさに渦巻くこの感情の正体が、いつか分かるのだろうか。月が地球のために落ちて砕けるような、大きなきっかけで、世界が変わる時にはじめて……。
それでは遅い気がして、子供の心はますますざわつく。落ちる前に、世界が大きく変わる前に、分かればいいのに。
ため息をついた悟飯が、熾火に吸い寄せられていた目線を上げると、ピッコロとはじめて目が合う。やはり何も口に出すことはできなかったが、体温まで伝わるほどしっかりと絡んだまなざしは、少年の心をわずかに落ち着かせた。