【飯PネイP】煙るバーカウンターにて/10アルマニャック ネイルは酒を飲まない。
熱に浮かされながら抱きしめた時、イエーガーマイスターの香りがして、妙だな、とは思った。
暫くの後に声が聞こえて、抱き合った相手がネイルではなく悟飯だったのだと分かった。なのに……。
開店まで、まだ一時間以上ある。それでも店に着いた時には既にネイルがいて、カウンターの中でライムを切っていた。カウンター上の照明だけが一つ灯って、ナイフを持つ手元を照らしている。
「ネイル、何か手伝うことは?」
「いや、大丈夫だ。……お前は、大丈夫か?」
カウンターへ入りながら、ネイルの横顔に目を遣った。たった今来たばかりのおれに、おかしなことを訊く。何年も前から見慣れた横顔は、目を上げもせず、ナイフに集中している。
無意識に、背後の棚を眺めた。イエーガーマイスターの特徴的なラベルが目について、途端になんとも言えない、耐えがたい胸騒ぎが湧いてくる。
「ネイル……」
漸く顔を上げたネイルが、濡れた手を拭いてこちらを振り返る。目が合うと、胸騒ぎは明確に不安に変わった。呼び掛けておいて、おれは何をどう話せば良いのか分からず、二の句を告げない。
ネイルは何か感じたのだろう、薄暗いカウンターの中で、無言のままおれの腕を軽く引く。照明が落ちた店内の、何もかも灰色に塗られる薄闇を通しても、ネイルのまなざしは慈愛に満ちていた。
こういう時「どうした」とも「何があった」とも尋ねないのが、ネイルの優しさだった。抱き寄せられて、体温が伝わってくる。乱れのない鼓動と、強くも弱くもない腕の力……この優しさに助けられて、今まで生きて来られたのだ。
ごく近くで、視線が合わさる。何百回も覗き込んだ瞳に、ほんの少しだけ、見たことのない色が混じっている気がした。ネイルは口を開きかけ、言い淀むように一度閉ざす。宥めるように頬を寄せて、少しの沈黙ののちに耳元で低く囁いた。
「……ちょうどライムを切った。ヴァージンモヒートを作ろう」
「ああ……」
腰を抱き寄せている手のひらが、我が身の一部に思えるほど馴染んでいる。うなじに冷たい指が添えられると、ライムの残り香が感じられた。自然に唇が重なり、優しく食まれる。貪るような熱ではなく、かすかに吐息が交わる温度が心地よかった。快楽より安堵から、気付けば身体の力は抜け、指先がネイルの背中を辿っている。
今までずっと、どんなに気分が荒んでいても、また塞いでいても、ネイルの体温を感じると凪いだ心持ちになれた。しかし今はまだ、かすかな漣が残っていた。こんなことは、初めてだ……。
「少し休んだら、仕込みを手伝ってくれ」
頷きながら、ゆっくりと離れる。指先だけが言うことを聞かず、ネイルの腕をなぞり、最後までその指先に絡んでいた。
開店までは、まだ随分ある。けれど今すぐ身体を離さなければ、永久に離れられなくなりそうな気がした。それほど、寄る辺ない気持だった。
開店して三十分ほどで、賑やかな話し声と共に扉の開く音がした。ネイルがすぐに振り向いて、客を迎える。
「いらっしゃいませ……ああ、悟飯さん。それにデンデも」
「ちょうどそこで会ったんです。ねぇ、見てください、この花!」
目を輝かせて、抱えていた花束をデンデが差し出した。花弁のやわらかそうな、角のない造作の花だ。見覚えのある、薄い青色。
「村にあった花と似てるでしょう? 僕が色々と掛け合わせて、咲かせたんですよ!」
確かに花の色は、懐かしいあの花の色によく似ていた。にしても、品種改良をしているとは知らなかった。
「すごいじゃないか、デンデ! 本当にそっくりだ。それに、そうでなくとも美しい花だ。元は何の花なんだ? どうやってこの色を出した?」
思いのほかネイルが喜び、また興味を示して、花束から一本を手に取りためつすがめつ見ている。「どうだ」とばかりに胸をはり、改良の経過を細かに説明するデンデが微笑ましい。
「もう少し紫に寄せて、花自体も大きくしようと、いま頑張ってるんです。咲いたら、また見せますね!」
「楽しみだな……切り花もいいが、ぜひ咲いているところが見たい。植物園を訪ねてもいいか?」
花束を花瓶に活けているデンデに、ネイルが笑いかける。こんなに燥ぐ様子のネイルは珍しい。二人の心からの笑顔に、おれまでつられて嬉しくなった。目を遣ると悟飯も、二人を見て笑顔になっている。
「悟飯、注文は?」
「うーん……秋らしくなってきたし、秋っぽいカクテルをなにか、ありますか?」
いつものカウンター席に悟飯が座り、デンデの飾った花を見ながら言った。
ウイスキーとレモンジュース、それからメープルシロップをシェイクする。カクテルグラスに注ぐと、悟飯は小さく歓声を上げた。
「綺麗な橙色。紅葉の色ですね。名前は?」
「メープルリーフだ。砂糖や蜂蜜ではなく、メープルシロップで甘味をつける」
「楓かぁ。色も材料も秋っぽくて、いいですね」
平日の早い時間だからか、他の客はテーブル席の三人組だけだった。職場の同僚といった感じで、自分たちでアイスペールから氷を取り、互いに酌し合っている。
「僕もこれ……見てほしくて、持ってきました」
悟飯が雑誌を取り出し、おれとネイルがカウンター越しに覗き込む。デンデは悟飯の隣の席へ座って、雑誌に顔を寄せた。
「わぁ、すごいじゃないですか! あっ、写真も載ってる」
載っていたのは、以前発表した悟飯の研究が一定の評価を得て……そしてそれが注目を浴びているという記事だった。
「最近調査していたこととは別なんですけど……何だか勢いがつきました」
「いつも真剣に取り組まれていますよね、素晴らしいです。おめでとうございます」
ネイルの称賛に、悟飯ははにかんでいる。若者らしい笑顔だ。先日、決定的なことを言いかけた時の、思い詰めた表情が、まるで嘘のような……。
「ではこれは、祝物になるな……激励のつもりで準備したんだが」
カウンターの下から箱を取り出すと、悟飯だけでなく、ネイルもデンデも驚いた顔をした。つい怯みかけるが、そのまま悟飯に差し出す。
「ブランデー……高価なものではないが、お前の生まれ年のアルマニャックだ、少しずつ飲んでくれ」
「……僕に? どうして生まれ年を?」
「ウィンナーコーヒーを出した時、言っていたじゃないか」
悟飯は箱を受け取り、呆気にとられたように見つめている。デンデはもっと呆気にとられているのか、悟飯と、ブランデーの箱と、おれの顔を順番に見た。あまりに居心地が悪く、何か言おうとした矢先に、悟飯が箱から顔を上げた。
「ありがとうございます、大事に飲みます」
「……カフェ・ロワイヤルを気に入っていただろう、そのアルマニャックで、家でも飲める」
緩みかけた空気にほっとして呟くと、悟飯も頷いて笑った。それを潮にデンデが立ち上がり、カウンターの中へ入ってくる。ミネラルウォーターを差し出すと、自分でほんの少しレモンジュースを注いで、バースプーンで混ぜた。
「ピッコロさんって、悟飯さんのこと大好きなんですねぇ」
今度はおれが、呆気にとられる番だった。
見上げてくるデンデは、無邪気な笑顔のままだ。ネイルの方も、悟飯の方も、すぐには見ることができない。
「……常連を嫌うバーテンダーはいない」
「そういうことじゃないですよ。いつの間にか呼び捨てになってるし……お客さんに贈り物なんて、初めてじゃないですか。ねぇ、ネイルさん」
「さぁ……どうだったかな……」
ネイルはアイスペールに氷を入れて、デンデへ渡した。デンデはテーブル席へそれを運び、溶けかけたものと取りかえて戻ってくる。
扉が開いて、二人連れの客が二組入ってきた。空いていたテーブル席と、カウンター席へ掛け、店は俄に忙しくなる。ナッツとチョコレートを出しながら、助かった、と思った。
デンデの指摘に、自分でも驚くほど動揺した。なんと答えたらいいのか、分からなかった。
そもそも、路地裏で荒っぽく振る舞うのを見られた時に、二度と来ないだろうと思ったのだ。しかしあろうことか、悟飯はその足で店を訪ねてきた。そのうえ、それからも度々来店しては、盛んに話しかけてくる。まるで何事もなかったかのように。
あの夏風邪の夜のことは、悟飯が訪ねてくるはずがない、妙な夢だったのだろうと、忘れようとしていた。なのにネイルとの会話で、夢ではなかったとはっきりしてしまった。
……相手がネイルではなかった。なのに、それが分かった時に、嫌悪を感じなかった。故郷を出て以来、ネイルとデンデ以外の者と深く関わることを、あれほど嫌厭していたのに。
「ピッコロさん、グラスホッパーとブラックパールを」
せわしなく歩き回るデンデが、空になったグラスを三人組のテーブルから下げてくる。ネイルも、カウンターに座った二人連れの相手で忙しそうだ。
故郷を出てこれまで、ネイルの助けがなければ生きて来られなかった。これからも、そうであるはずだ。
……けれど、本当にそれでいいのだろうか。ネイルに縋るばかりで、自分で歩く方法も忘れ、あいつの枷になっているのではないか?
シェイカーに、ミントリキュールとカカオホワイト、生クリームを注ぐ。考え事をしながらでも、よく出るカクテルであれば手は勝手に動く。バッタ、と名付けられた淡い緑色のカクテルが、品種改良の成果に跳びはねるほど喜んでいたデンデに運ばれていく。
もう一つの注文に取りかかる。ラムとココナッツ、それからコーヒーリキュール。……コーヒー。計量の手が、止まりそうになる。カフェ・ロワイヤルを作った時、何かを確かめたい気持で、わざわざ悟飯の隣に腰掛けた。なのに印象に残っているのは、角砂糖を包み揺れる、密やかな青い炎ばかりだ。悟飯の表情は、自分の気持は、あの時どう動いていたか……。
「ピッコロさん、もうひとつキールを……あ、シェイカーがない!」
「いや、キールは直接グラスで作る」
「じゃあ僕、シェイカー洗ってきます」
デンデが洗い物を抱えて、裏へ引っ込む。水音と、ステンレスのシェイカーがシンクに置かれる音がかすかに聞こえた。キールを作りながら視線を向けると、悟飯と目が合った。悟飯の方が、先にこちらを見ていたのだ。何か言いたげにも見えるし、いつも通りにも思える。
「急に忙しくなりましたね」
「待たせるが、注文があるなら言ってくれ」
「落ち着くまで、待ってます」
カウンターに、贈ったアルマニャックが置いてある……目標のため一心に打ち込む若者を激励したいと思ったのは、嘘ではない。けれど本当に、それだけだったのか……。
デンデがまだ裏にいるので、自らテーブル席へキールを出す。カウンターへ戻ると、ネイルは瓶やレモンを片付けはじめている。おれもそれに倣っていると、一本のリキュールに両側から手が伸びてぶつかった。
「……失礼」
顔を上げると、目が合う。マスターとしての完璧な微笑のようだったが、あまりに長いこと緊密な関係でいたから、つい小さな綻びを見つけてしまう。きっとそれは、ネイルも同じだろう。
お互い、言いたいことがあるのに言えない。どう表現すれば正しく伝わるか分からない。そんなもどかしさの影がちらつく、まなざしだった。