【飯P】水のにおい 「また濡れるぞ、もう少しこっちへ来い」
洞穴の奥から声をかけたのは、濡れたマントを外し壁に凭れたピッコロだった。悟飯は戸惑いながらも、言われるがままに洞穴の入口を離れる。
普段は乾ききった荒野が、今はひどい俄か雨に覆われている。雨脚が弱い内は、いつもと変わらず修業に打ち込んでいたが、目の前が真っ白になるほどの土砂降りになっては中断せざるを得ない。少なくとも、まだ幼く、指導を受け始めたばかりで未熟な悟飯は。
「雨、止むでしょうか……」
「この時期の雨は、長くは降らない。雨脚が弱まれば再開だ」
ピッコロから少し離れた入口側に腰掛けて、悟飯は狭い空間を見回した。岩肌が剥き出しの壁面に植物はなく、荒天のせいもあって薄暗い。
雨にうたれなくなると、却って寒さを覚えた。濡れた服地が肌を冷やし、雨粒混じりに吹き込む風が体温を奪う。俯けば、靴の先まですっかり濡れている。せめて焚き火のための枯れ木でも持ち込んであれば、よかったのだが。
急に視界に陰がさして、悟飯は顔を上げた。ピッコロが、目の前に立っている。
「もう少し奥へ行け」
静かに言葉を落とすと、吹き込む雨風から悟飯を庇うように、入口側に腰掛け直す。身体が触れ合うほど密着した距離に、悟飯はほんの一瞬、身を竦めたが、すぐに身体を預ける。
「ありがとうございます、ピッコロさん」
「体温を補い合う方が、効率的なだけだ」
ピッコロの返事は素っ気なかったが、声は少しだけ、いつもより柔らかかった。
なめらかな腕に、悟飯の肩が触れる。濡れた服地は、身体の線をすっかり露にしていた。補い合う体温に、知らず心はほどけていく。
――水のにおいだ。
悟飯は顔を上げ、再び辺りを見回す。白雨の匂いとも、洞穴の黴の匂いとも、濡れた服地の匂いとも少し違う。澄んだ水をのせた新芽のような、ひそやかな匂い……一体どこから感じるのか分からず、ピッコロに尋ねる勇気も持てないまま、豪雨の荒野を見るともなしに眺めていた。
十五年が経った。
同じように俄か雨が降りだして、二人は洞穴へ駆け込んでいた。大した雨ではないものの、今はあの時と違って、降雨の中でも修業を続けるべき理由などない。
「……寒いですね」
今度は悟飯の方から、身体を寄り添わせる。ピッコロの肩が強ばり、拒もうとする動きが伝わってきた。当然だろう、恋情はとっくに白状していたし、隙あらばと狙う悟飯に気付かぬピッコロではない。
「そう密着する必要があるか?」
「でも、体温を補い合う方が効率的だって、誰かが言ってましたよ」
「……誰がだ」
濡れた肩を並べるだけでなく、腕を回して抱き寄せながら、悟飯がピッコロの耳元に囁く。
「誰だったかな……覚えてるくせに」
熱っぽい声色。接する身体は確かにあたたかかったが、ピッコロはますます身じろいで逃れようとする。あの時の無垢な体温と違い、差し出されているのは、求める者の熱だ。
悟飯の手が、抱き寄せているピッコロの腕をなぞり、やがて脇腹に差し入れられる。濡れた服地を探るように行き来する手のひらは、それでも獲物の身体を油断なく固定しており、ピッコロが逃れることを許さない。
雨音は、はじめて共に雨宿りをしたあの時ほどには繁くない。悟飯の手のひらに、触れている身体の側面に、ピッコロの体温が伝わってくる。
――水のにおいだ、やっぱり。
悟飯は躊躇なく、ピッコロの首筋へ顔を埋める。驚いたピッコロが振り払うことすらできないところへ、すぐそばで目を上げた悟飯が微笑んだ。
「水のにおいですね、ピッコロさん」
「……雨に濡れたからだろう」
「ううん、違います。このくらい密着してないと、感じられないけど……ピッコロさんが、水のにおい」
さっきまで脇腹を辿っていた手を離して、悟飯はピッコロを抱きしめる。不思議と、身体を離そうとしていたピッコロの抵抗が止む。
澄んだ水をのせた新芽のような、生き物の身体にしては、あまりにもひそやかな匂い。何もかもあの頃と同じで、変わったのは、こうして密着が許されていることだけだった。