【飯PネイP】煙るバーカウンターにて(終)/15ライム入りトニックウォーター 送別会シーズンの忙しさも落ち着き、バー『Veil』へは通常の雰囲気が戻ってきていた。とはいえ日曜の夜は、それなりに賑やかだ。繁華街に面した窓は閉まっていて、外の音は聞こえないはずなのに、浮かれた人々の喧騒が店内にまで届いてくる心地がする。
カウンターの花瓶には、デンデが育てた青い花が飾られていた。かすみ草の白に囲まれて、雲の中に漂っているように見える。
「悟飯さん、フレーバーは何にしますか?」
「バニラと……デンデに任せるよ、その方が間違いないから」
「バニラなら、カルダモンかな? 準備しますね」
僕の前まで水煙草を持ってきて、デンデが炭を熾こしてくれる。はじめの頃に比べて、すっかり迷いのない手付きだった。忙しい週末は手織りのカーテンに覆い隠されていた水煙草も、デンデが扱えるようになったため、今は見える位置に堂々と置かれている。
「準備、早くなったね」
「ずいぶん慣れましたよ! ね、ピッコロさん」
「どうだかな、まだまだ未熟だ。慢心していると失敗するぞ」
グラスにリキュールを注いでいたピッコロさんは、デンデの方を一瞥しただけで素っ気ない。デンデは不満そうに口を尖らせ、水煙草の葉を瓶から取り出す。
「もう、素直に褒めてくれたらいいのに!」
「お前が油断して火傷でもしないか、心配してるんだよ。なぁ、ピッコロ」
ネイルさんが笑い、ピッコロさんがそれを睨みつける。やはりネイルさんには、何もかもお見通しのようだ。
炭が熾きる前に、カクテルが出される。明るく澄んだ若葉色が美しい。グラスを押し出してくれているピッコロさんの手の色に、よく似ている。
「見たことない色、何かのリキュール……?」
「テキーラと、メロンリキュール、グレープフルーツジュース……飲みやすいが、度数は少し高い」
一口飲めば、甘く瑞々しいメロンのにおいが口いっぱいに広がるようで、確かに飲みやすい。グラスを持ち上げて、その向こうのピッコロさんと見比べてみる。
「すごく綺麗な色。これ、ピッコロさんのイメージのカクテルですね。なんて名前?」
尋ねると、ピッコロさんは何故かきまり悪そうに目を逸らした。ネイルさんが横から口を出す。いつもの穏やかな微笑ではなく、可笑しくて仕方ないといった笑顔だ。
「シャディレディ……妖しい女、誘惑する者、の意です。ピッコロのイメージですか……」
「……うるさい、ネイル。お前だって似たような膚の色だろう。デンデ、笑っているがお前もだぞ」
「僕はピッコロさんの言う通り、まだまだ未熟ですから、誘惑なんてとてもとても……はい、悟飯さん、もういいですよ」
悪気はなかったのだが、要らないことを言った僕までピッコロさんに睨まれてしまった。カウンターの向こうから身を乗り出して、デンデが吸い口を渡してくれる。
テーブル席の数名から注文の声がかかる。二人がカクテルを作る姿は、いつ見ても完璧だ。言われずとも相手が必要としているリキュールを、グラスを、オープナーをマドラーをライムを次々に渡す様子は決められたダンスを舞うようで、この店にはやはり二人揃っていないと、と思わせる。このさまに嫉妬を覚えたこともあったが、今はただ、感じ入る気持しか湧いてこなかった。
やがて客は僕を残すだけとなる。ネイルさんが扉へCLOSEDの看板をかけ、カウンター以外の照明を落とした。
「先に上がらせてもらっていいかな、明日は早いんだ」
「構わないが、何があるんだ?」
「デンデの温室に、朝だけ開く花を見せてもらいに行く……写真でしか見たことがないんだ、絶対に遅れられない」
脱いだベストを裏へ置きに行ったネイルさんが、コートを羽織りながら戻ってくる。明日が待ち遠しくて仕方ないような笑顔に、こちらまで気持が浮き足立ってくる。
「それからな、ピッコロ。温室のそばに立ち枯れた木があったのを覚えているか? あそこに何を植えるかデンデに任されているらしくて、私も相談されたんだが、もし……」
「……おれの部屋の鉢植えだろう? 願ってもないことだ、場所さえあればと思っていた」
「そうか、明日デンデに話しておくよ」
ネイルさんとピッコロさんは微笑んで頷き合っている。三人の故郷の花木がデンデの温室のそばで大きく育ち、花をつけ、その根元にデンデが品種改良した花が開けばどんなに美しいだろうか。古くからの大切な思い出と、新しく生み出されるもの……その光景を想像すると、胸の温かくなる思いだった。
「では悟飯さん、失礼します。何でもこれに申し付けて」
「早く帰って寝ろ」
「おやすみなさい、ネイルさん」
小窓から手を振って、軽やかな足取りでネイルさんが遠ざかって行く。
水煙草のバニラは甘く、カルダモンの刺激が絶妙だ。顔を上げずにゆっくりと吐き出すと、煙はバーカウンターにぶつかり横に広がった。煙に覆われたグラスが空になっているのを見て、シンクを片付けていたピッコロさんが尋ねてくれる。
「そういえば、ニコラシカに興味を持っていたな。作ろうか?」
「強いんですよね? 大丈夫かなぁ」
「潰れたら、部屋まで連れ帰ってやる」
軽口を叩いて、ピッコロさんが僕の手から吸い口を抜き取る。静かに吸って、ゆっくり吐き出された煙は、カウンターを滑り僕の身体へも落ちた。自分で吸う時よりバニラの香りが甘く濃い気がして、煙が消えていくのを勿体なく感じた。
「……ううん、やめておきます。今日はもう飲んだし……あなたに背負われるようなことになったら、情けないから」
そうか、と微笑んで、ピッコロさんは吸い口を返してくれる。グラスにトニックウォーターを注ぎ、氷と、くし切りのライムを入れる。見るともなしにそれを眺めながら、僕は煙を吐き出した。立ちのぼる煙が、照明の暖色に染まる。
「酔いの回ったお客様にはこちらを。ライム入りトニックウォーターです」
ウォッカトニック……では、なかった。タンブラーを押し出して、ピッコロさんは悪戯っぽく笑う。長い指にひかる黒真珠の爪が、一枚板のカウンターの上でつややかだ。グラスを受け取ると、また吸い口を奪われる。結露が手を湿らせ、氷に冷やされた炭酸水が、清々しいライムが、はじめてここへ座った時と同じように、酔いを覚ましてくれるような心地がした。
形のよい唇から、甘い煙がゆっくりと吐き出される。気泡の弾ける静かな音に、グラスの氷が触れ合う音が重なる。僕がグラスを空にするのを見計らって、ピッコロさんが吸い口を差し出してくれる。
一口吸って、俯いて静かに吐き出す。カウンターの上に落ちた煙が、先ほどと同じように横に広がっていく。もう一度吸って、顔を上げて吐くと、バニラの煙はいつもと同じように視界を霞ませた。
グラスを片付けようと、ピッコロさんがカウンターの上へ身を乗り出す。考える間もなく、咄嗟に手を重ねると、驚く目と視線がぶつかった。煙を吐いて、指先を絡める。
「……手、冷たいですね」
「氷を、触っていたからな」
吸い口を握りこんで、僕もカウンターへ身を乗り出す。そっと顔を近付けても、ピッコロさんは逃げたり振り払ったり、しなかった。
まなざしの交わりに、脳髄は熾火のように熱される。体温が感じられるほどの距離で、一度だけ戸惑いが生じた。だが、揺蕩う煙に助けられて、静かに唇を重ねた。触れている唇から、絡まった指先から、全身が痺れていく。思いの外やわらかい唇に、バニラがひそやかに香った。
煙っていたバーカウンターが、少しずつ晴れてくる。
ゆっくりと身体を離すと、絡めた指先はしっかりと握られていた。
「……帰りましょうか。ライム入りトニックウォーターのお陰で、酔いもさめました」
「それは何よりだ。自分で歩けないほど酔うのは、よくない」
「はい、歩いて帰れそうです。一緒に」
片付けを終え、二人で店を出る。深夜の空気は、トニックウォーターのように清々しい冷たさだった。
階段を一段降りるごとに、店が遠ざかっていく。
ビルの入口まで出ると、『Veil』のテナントサインが見えた。このテナントサインがあったから、すべてが始まったのだ。
ヴェール……覆い隠すもの……それは水煙草の煙でもあり、「マスター」「バーテンダー」「客」という役柄でもあり、何層にも重なった心でもあるだろう。
覆い隠すことが、すべて悪いことだとは思わない。けれど大切な人にだけは、真実を隠さずにいたい。
『Veil』のサインがちょうど消灯するのを確かめて、僕らは並んで、それぞれの足で歩き出した。