【飯PネイP】煙るバーカウンターにて/14ヴァージンモヒート 四人分のティーカップを片付けながら、デンデはネイルに温室の鍵とメモを渡した。
「週末には戻りますので、改良中の鉢だけメモの通り世話をお願いします。ネイルさんなら安心です!」
「ああ、カルゴによろしくな」
温室はすっかり任されているというのは、本当らしかった。ネイルも、メモの内容についてあれこれ詳しく質問している。悟飯にも分からない話ばかりのようで、おれたちは蚊帳の外だった。
その晩の閉店は、少し遅くなった。日曜は長居する客が多い。「仕事帰りに一杯」ではなく、最初から飲むつもりで来ているからだ。
CLOSEDの看板を下げ、カウンター以外の照明を落とす。
「せっかく炭が熾きているから、水煙草はどうだ?」
カウンターを拭いていたネイルに問いかけると、いいな、と明るく返ってくる。明日は休みだから、少しくらい遅くなってもいいだろう。何より、座って話したい気分だった。
水煙草の葉を捨て、新しいものに取り替える。何にするか迷って、ネイルの好きなオレンジブロッサムを選んだ。客が残していった煙を抜き終わるころ、カウンターの片付けを終えたネイルが向かいの椅子に腰掛ける。
「ソファに座ればいいだろう、疲れているのだから」
「そうか? 遠慮したんだがな」
「なにを馬鹿なことを……」
一体何に遠慮をしたのか、分かってしまうからこそ、無闇に狼狽えた。動揺を振り払うように、ソファの隣を手のひらで軽く打つ。特段気にする様子もなく、ネイルは隣に掛けなおした。
吸い口をネイルに渡す。既に炭が熾き、燻されている水煙草を静かに吸い、ゆっくりと吐き出す。何百回も見たはずの横顔は、今夜に限っては初めて見るように感じられ、それでいて懐かしかった。話したいことが沢山あるはずなのに、いざとなると何から話せばいいか分からない。
「……デンデの花は、すごかったな」
「ああ、以前見たものより更に美しくなっていた……新しいものを作り出すというのは、尊いことだな」
ネイルは感じ入るように呟き、吸い口を弄びながら続ける。
「私も品種改良に興味が湧いたよ。今度、もっと詳しく教えてもらう約束もした」
「そうか……お前は昔から植物が好きだったから、本格的に打ち込むのもいいかもしれないな」
ネイルは頷き、静かに吸い口を手渡してくれる。迷いや戸惑いが見えない微笑に、もう終わるのだな、と分かった。
水煙草を深く吸う。橙の花の甘さは、果物やバニラよりずっと儚く、舌に感じるそばから消えてしまう。煙は静かに立ちのぼり、薄暗い店内に溶けていく。
ネイルは「自由な生き方を選べるはずだ」と言った……それはおれたちが長い間、目を逸らし、選択肢から排除してきたことだ。この安全で、優しさしかない狭い空間を出ることが、ただ恐ろしかった。そのせいで互いに身動きがとれなくなっていると、気付いていながらも。ネイルに支えられなければ生きていけないと、それでいいはずだと……大切な相手を縛りつけているとどこかで分かっていたのに、目を向けることができなかった。
ネイルへ水煙草を渡す。気泡が弾けるささやかな音が、耳に心地よかった。ゆっくりと吐き出される煙が、頬をかすめて湿らせる。
ネイルは水煙草の吸い口を、ほんの少しだけ噛んでしまう。だから細かく傷が入って、客に出すことができなくなる。何度指摘しても改善されず、この吸い口は、閉店後に二人で共有するためのものになった。そう決めて、傷の入った吸い口を別の小さな箱にしまった時「これでもう、噛んでもお前に叱られないな」と笑ったネイルは、珍しく子供っぽく見えた。煙に霞む視界で、そんなことを思い出すと、不意に胸がしめつけられた。
何気なくソファの座面へ手をつくと、ネイルの手に指がぶつかった。ネイルが顔を上げてこちらを見る。手を離しても吸い口が落ちないのは、やはり噛んでいるからだ。それを取り上げて握りこみ、そのまま肩に手をかけた。
「ネイル……」
この穏やかなまなざしが遠のいてしまうことは、怖かった。けれど、このままネイルに頼りきっていては互いに先がないことも、明らかだった。
「こういう気持で、お前に触れるのは、これで最後にする……」
「そうだな……きっとそれがいい。私はずっと、幸せだったよ」
おれだって、と言いたかったが、言葉を発すれば涙も溢れてしまいそうだった。そんなことになれば、またネイルを引き留めて、自分にも未練が生じてしまう。
ネイルの手が背中にまわり、宥めるように撫でてくれる。強く引き寄せるでもないその感触に、自然と身体が動いた。吐息が混じり合うほどの距離で、視線だけが絡む。
静かに重ねた唇は、熱くも冷たくもなかった。橙の花の名残に呼吸は浅くなり、思わず深く重ねそうになる。離れたくないと思ったのが、正直な心持ちだった。けれど背中にあるネイルの手が、かすかに指を立てるのが感じられ、その意図が伝わってきた。ここで離れないと、また同じことを繰り返すと。
額だけを合わせ、ため息をついた。ネイルの肩に置いていた手が、いつしかその腕を辿り、指先と指先とを絡めてしまっている。カウンターの中ではいつも冷たかったネイルの手が、今はあたたかい。
唇を離すことより、指先を離すことの方が名残惜しかった。身を切られるような思いで何とか指先を離しても、凭れ合うように寄り添った身体は、離れがたかった。
「……最後に、お前のために一杯作らせてくれ」
ゆっくりと身体を起こして、ネイルが立ち上がる。カウンターへ歩いていく足取りは、いつもと寸分違わぬように見えた。
ソファに身体を沈める。握りこんでいた吸い口を咥え、甘い煙を静かに吸う。意識したことがなかったが、唇に集中すると、吸い口の側面が傷によってざらついているのが分かった。
橙の花の煙をそっと吐けば、煙る視界の向こうに、バーカウンターの中のネイルが見える。なんと落ち着く光景なのだろう。この光景に救われて、この街に生きて来られたが、これからは違う。寂しくもあるが、いつかは決めなければいけないことだろう。
「ヴァージンモヒートだな……」
「おい、私に言わせてくれよ。格好がつかないだろう」
苦笑しながら、ネイルがグラスを手渡してくれる。
一口飲んで、気付いた。
いつもよりライムが薄く、砂糖が入っていて甘い……。
初めて分かった。これまでは、専用のレシピで作ってくれていたのだ。けれど今受け取ったこれは、通常のレシピの味だ。思わず見上げると、ネイルはただの「幼馴染み」の顔だった。
隣に掛けて、おれから吸い口を受け取る。煙を吐き出して、静かに微笑む。
「これからは、恋人ではなく、この店の頼れるバーテンダーとしてよろしく頼む」
「……まだ、この店に置いてくれるのか?」
「来月は年の暮れで忙しくなる。優秀なバーテンダーがいないと店が回らないことは、お前が寝込んだ時によく分かった」
ネイルは肩を竦めて、深く煙を吐く。細く長く上がる煙が、カウンターの明かりの中で眩しい白にひらめいている。
ネイルはポケットから何かを取り出し、おれに差し出した。おれの部屋の鍵と、新しい吸い口だった。
「いつまでも私と吸い口を共有していると、誰かが嫉妬するだろう? 鍵もな」
一度言葉を切り、おれが鍵と吸い口を受け取るのを見届けて、ネイルは静かに微笑んだ。
「お前はもう大丈夫だから、心配するな。私も、多分」
「……何かあったら、いつでも助ける。店のこと以外でも」
「ああ、頼りにしているよ」
ライムが薄く、甘いヴァージンモヒートを飲み干す。この味に慣れなければ……もっとライムが欲しければ、自分で好きに作ればいいだけのことだ。ネイルに、頼らずとも。
「ピッコロ、お前の世話を焼くのはやめるが、世話焼きの癖は簡単には抜けないだろう。だから、これからはこっちの世話を焼くよ」
ネイルが掲げたのは、デンデから預かっていた温室の鍵だ。
「明日はデンデのかわりに、温室の花へ水をやりに行かなくてはならないんだ……そろそろ帰るよ。お前は、どうする?」
「もう少し吸ってから帰る、この新しい吸い口で」
店の入口まで、ネイルを送るようについて行く。扉の前で足を止めると、振り向いたネイルが腕を広げた。素直に身体を寄せると軽く抱きしめられたが、昨日までと違い、情愛は全く感じられず、親愛と信頼だけがこもっていた。
「また火曜に、ピッコロ」
「ああ、おやすみ、ネイル」
扉が閉まる。小窓から見えていた後ろ姿が、半屋外の廊下の奥へ消える。
一人になった店内で、ソファに戻った。新しい吸い口を咥えてどんなに集中しても、ざらつきは感じられない。
これまで、オレンジブロッサムはひたすら甘くしか思えなくて、あまり好きではなかった。かすかに苦味が含まれていることに今日はじめて気付き、ネイルがこれを好きな気持が、少し分かった気がした。
煙を吐くたびに記憶が蘇り、ゆるやかに広がっては無人の店内に溶けていく。
誰かが嫉妬する、だと。本当にネイルは、おれに関しては何でも分かるという言い方ばかりする。そしてそれは大抵、当たっているのだ。
これからの人生がどうあろうと、ネイルに救われてきたこと、誰より近しく感じていること、これからも力になりたいと思っていることは間違いない。"誰か"が嫉妬したとしても、ネイルに助けを求められれば、駆けつけるだろう。大切な幼馴染みとして。
そこにだけ灯りのともったカウンターを眺めると、傷の入った吸い口の小さな箱が、退場を待つ役者のように沈黙している。
ネイルへの感謝と、"誰か"のことを考えながら、熾火が力を失うまで、ぼんやりと水煙草を吸い続けていた。