言葉にすれば簡単だ、なんて簡単に言ってくれる。誰が最初にそんな事を言い出したんだろう。簡単なわけはない、だってそれが出来ていたら私はこうして悩みを抱えてなんかいないのだから。
考えてみる。例えばそうだ、選択肢の一つとしては嘘をつくこと。それならばたしかに簡単だと思う。真実を隠してそれとは真逆のことを口にしてみる。その結果どうなるか、答えは明白、今ここにある問題は何も解決はしない。それでは駄目だ、これは無し。
続けよう。次は選択肢その二だ。その二、その二は……どうしたらいいんだろう。思いつかない。ただ言葉にするという事がこんなに大変な事だなんて実感を、これまでの人生において何度経験することがあっただろう。
でもその中でもこの問題は特に難題で、もし間違った言葉を選び、発してしまったら、取り返しのつかないことのように思えた。実際そうなんだと思う。
どうしよう、どうしたら、私はまるで答えの出ないなぞなぞを解くような気持ちでぐるぐると迷い続けていた。
よし、角度を変えてみよう。言葉にするよりも態度で表すことのほうがきっとずっとシンプルで容易いことなのではないか、しかしそれでは伝わらない可能性もある。そうなるとやはり言葉にしたほうがいいように思うが、それが出来ていればこうして悩みを抱えてなどいない。ああ、スタートに戻ってしまった。
「焦げてるけど」
背後からの声に慌てて目の前のフライパンを見ると、黄色と黒が私の視界の中で悲鳴を上げていた。
「あ、あの……すみません、考え事をしていて……」
私は声の方を振り返ることもなく、一部が真っ黒になって固まった卵を、菜箸でこ削ぎながら皿に移す。ため息が聞こえる。つられて私もため息をついた。
「これ、食べられませんよね?」
「俺に聞かないでよ、犬飼が食べられると思うなら食べれば?」
ようやく振り返って見解を求めた私に、甲斐田くんは呆れたような顔をしている。いや、どうでもいいというような顔かもしれないが。
「勿体無いので食べようと思います……焦げちゃったところは捨てるしかないですが……」
甲斐田くんは少し間をおいて、それから細い指で焦げていない部分をつまんで熱い、なんて言いながら口に運ぶ。
「美味しいよ」
「本当ですか?」
「うん、でもまあなんていうか……いやなんでもない」
何か言いたげな甲斐田くんにそれ以上は追求せず、私も少し食べてみた。甲斐田くんが言いたかったことがなんとなくわかった気がした。たしかにこれは……言葉にできない。
「って言うかさ、なんでこんな時間に卵焼いてんの? 夜食?」
「ええ、まだもう少し仕事が残ってるんですが、お腹が空いちゃって。それから気分転換も兼ねて、ですかね」
「で、こんな時間に卵を?」
「はい、これしかなかったもので……」
他になんかなかったの、はい本当に卵しか、ラーメンとか買っとけば? あったはずなんですが見当たらなくて……誰か食べちゃったんですかね。そんな会話をしながらも甲斐田くんは少しずつ焦げた卵をつまんでいて、私が食べるはずだったそれは真っ黒な部分だけを残す状態になってしまっていた。あーあ。一体なんの為にしたことだったのか。
「その……食べてくれてありがとうございます。私は仕事に戻るので、甲斐田くんももう寝てくださいね」
そう言うと甲斐田くんは、何か言うことない? と言ってぐっと顔を近づけて私の目を見た。そうだ、そうなのだ、そのせいで私はこうなったのだった。
忘れかかっていた問題が再び私を襲うけれど、答えは出ず、言葉にもできないまま、ただ時間と卵を犠牲にして得たものは何だったのか。
だめだ、だめだ、どうしていいのかわからない。私は目をそらしてまた堂々巡りを再開してしまう。
何が一番簡単か、どうすれば問題は解決するか、言葉か、態度か、はたまた別の何かか。
「犬飼俺のこと好き?」
わかってる、答えられない、わかってるけど、答えたくない。
「一時間前の質問、忘れてるのかと思ってもう一度聞いてみたけど、なんならもう一度」
「大丈夫です! 覚えてます!」
「じゃあ答えて」
「それは……」
多分私、今顔真っ赤だろうなあ。恥ずかしい。正直これで察してほしい。いや察しているはず。だけど甲斐田くんが欲しがっているのはきっとこういうことじゃなくて、おそらくは言葉、決定打となる一言がほしいんだと思う。だけどそれは私にはあまりにも荷が重いことであって、察するのならばこの部分までもまとめて察してくれたっていいのに……なんて他力本願なことか。
「今日のところはまあいいや、可愛い顔見れたし」
甲斐田くんはそう言ってちょっと悪い顔をして笑った。本当に恥ずかしくて、焦げた卵と一緒にゴミ箱に隠れたいくらいだ。
「じゃあ俺、寝る」
私は、おやすみなさい、そう言って見送るはずだったのに、なぜだか口から飛び出た言葉は、「まだ行かないでください」だった。あれ? どうしてこんな事を。
「んー? どうして?」
そんな事、私が聞きたい!そして答えに詰まった私は咄嗟に言った。
「焦げたフライパンをきれいに出来るまで、話し相手になってほしくて」
甲斐田くんは一瞬目を丸くして、その後目を細めて笑って、いいよ、と言った。そしてそれから、さっきの答えももういい、と言ってフライパンに直接洗剤を大量に掛けて、ほら早く洗いなよ、とスポンジを手渡してくれた。
「答えなくて……いいんですか?」
「うん、いい。大体伝わったから」
「何がですか?」
「可愛いねえ、犬飼は」
32のおじさんに可愛いと言う甲斐田くんの目に今映っているのは、そう形容されるに違いない情けない顔をした男の姿なんだろうか。
そんな想像の中の自分の姿をかき消すように、私はフライパンの上にスポンジを滑らせた。