とん、とん、とん。規則正しく指先に触れる拍動。時々瞼の下で動く眼球。眠っている。死んではいない。わかりきっていたそんな確認作業はただ、手持ち無沙汰だったからだ。人の気配があると眠れないってタイプじゃないらしいけど、それにしたって油断し過ぎでしょって可笑しくなる。
寝顔、もう少し眺めていたかったけど、眠ってる人の横で煙草吸うのちょっと気が引けたから、なるべくベッドを揺らさないように静かに降りて、シャツを羽織って、煙草とライターとスマホを全部片手で持って、それからそーっとドアノブをひねって部屋を出た。おやすみ犬飼。そう言えば今日は言えなかったな。あと、もう少しだけかまってほしかったかも。
俺の夜に付き合ってくれる犬飼は、眠そうな顔を隠しきれないまま無理して優しくしてくれる。俺が犬飼にそうしてもらうみたいに、犬飼の朝には、俺が付き合ってあげられたらいいのに。眠い顔を隠す気もないけど、それでも優しくしてあげられたらいいのにな。けどきっと無理なんだと思う。
犬飼は夜と朝の間に、明確に線を引いている。
眠れなかった。消灯前に新しく開けたばかりだった煙草はもう半分程になっていた。喉ががさがさするしちょっと胃も痛い。眠ろうと目を閉じて、眠れずにベッドを出て吸って、戻って目を閉じて、それからまた。何度も。そんなことを繰り返していたらいつのまにかカーテンから朝日が透けていて、あーあ最悪だ、最後、これ一本吸ったら寝る、絶対に寝る。そう思って部屋を出たらそこに犬飼がいた。俺を見てびっくりした顔をしていて、その顔を見た俺がもっとびっくりした。
「おはよ」
犬飼が何かを発する先に、おはようが言いたかった。そうやって犬飼の朝を俺が始めたかった。けれど犬飼はもっともっとびっくりした顔をして、おはようございます、と返してくれて、それからすぐに心配そうな顔をして、もしかして眠れませんでした?って聞いた。
うん、そうだよ、そうだけど違う、そうじゃなくて、朝は俺が優しくしてあげる番なのに、なのにうまくいかない。まだ四時だよ、もう少し寝たら?ちゃんと寝ないとだめだよ、全部先に言いたかったのに。
「犬飼こそ眠れなかった?の、わりには昨日は俺のことおいてさっさと寝ちゃってたけどね」
「えっと……すみません……ちょっと疲れちゃってたのかもしれません……」
「いつも付き合わせてごめんね。嫌なら断ってくれていいのに」
優しい言葉をかけてあげるつもりが意図せず突き放すみたいな嫌な言い方になってしまったことを後悔したときにはもう遅くて、一瞬犬飼の顔から表情が消えてそして、そんな言い方しないでくださいよって言って悲しそうな顔をしながら目を逸らした。
また失敗しちゃった。優しさってなんなんだろ。勝ち負けだとか優劣だとか、そんなものじゃないのは解ってるけど、犬飼がくれる分だけ、それ以上に、俺だって、俺にだって。でも俺にはちょっと難しいみたいだ。
「ねえ犬飼、優しくしてあげるからしてほしいこと言って」
「えっ?突然どうしたんですか?優しくしてあげる……とは……?」
「いいから言ってみて。今すぐ、できることだと嬉しいんだけど」
「そう言われても……あぁ、では……」
寝不足の動きの悪い頭で自棄気味になった俺に優しい優しい犬飼は言う。
「まだ時間はあります。起床時間まで少しでもいいので眠ってください。私の心配を取り除いてくれるのも優しさ、ですよ」
「だからそういうんじゃなくてさあ……」
俺と犬飼、夜と朝の間に引かれた強固なラインはその上に、近づいたら跳ね返す電流のようなものが流れていて、どうやっても立ち入らせてくれないらしい。優しくしたいだけなのにこんなにも苦しい。こんなのはエゴだって解ってるけど、どうせ優しくするのなら、エゴにだって付き合ってほしかった。
「犬飼は優しいよね」
明確に棘を含ませて放ったこの言葉に、犬飼が何を思うか、どんな顔をするのか、どう返すのか、正解に直面する前に俺は、触れた電流に弾かれるようにしてまだ明け切らない俺の夜へと逃げ帰った。