それは週末の昼下がり。今日は朝から万次郎、場地、春千夜、そして武道が珍しく花垣家に集まっていた。
「そろそろ腹減りましたねー。メシ食ってく人手ぇ挙げてー!」
そう武道が問い掛けると、元気な幼馴染たちは揃って歓声をあげた。
春千夜もまた、帰宅してもあの兄のもとではまともな昼食など望めないがゆえに、無言で手を挙げている。
ぱたぱたと軽い足音を立てて去っていく武道の背中を見送りながら、「昼飯なんだろーな」「オレたい焼きがいい」「それメシじゃねーだろ! オレはペヤングがいい」「家で食えよ」とそれぞれ好き勝手に話す幼馴染たち。
それに対して、春千夜はぼんやりと。
手で食べられるものならいいな、と思っていた。
「お待たせしましたー! のびちまう前に食いましょ!」
「お、ラーメン? オレ塩がいい」
「もうできてるんで変更はナシです!」
春千夜の希望は外れ、武道がわせわせと運んできたのはラーメンだった。子供ゆえに気を利かせることのない場地と、子供でなくても気を利かせることのない万次郎とは違い春千夜は運ぶのを手伝おうかと立ち上がり──しかし、気が付けばその足はキッチンではなく玄関へ向かっていた。
「あれ? さ……春千夜君、どこ行くんスか?」
「……帰る」
「え? あ、ちょっ!」
両手にラーメンの丼を持った武道とすれ違い、春千夜は花垣家を後にした。空腹に効くいい香りがしたけれど、皆で食べる昼食はきっと美味いけれど。それでも春千夜はあの場で食事などしたくなかったのだ。
帰りたくもない家への帰路には、これまたいい匂いのする飲食店がいくつかある。蕎麦屋、ファミレス、ラーメン屋にファストフード店。けれど、確かに腹を空かしている筈の春千夜はそのどこにも近寄らない。
ただ、億劫さにも諦めにも似た嫌な気分だった。
「っは、春千夜君! 待って!」
「……あ?」
と、突然春千夜の右手が誰かに掴まれた。
慌てて走ってきたのか、はひはひと息を切らして頬を紅潮させるその人物は、幼馴染たちと食事を楽しんで居るはずの武道だった。
「……なんで追いかけてきたの? ラーメンのびるよ」
「だ、だってなんか、ヘンだったから!」
「……変って、何が」
「なんか、……なんか! 悲しそう? だった!」
「……!」
悲しそうだった、と話す武道の方が悲しげに顔を歪める様子に春千夜は少し驚いた。この新しい馴染みはいかにも子供っぽく、聡い春千夜から見れば馬鹿らしく思えるようでもあったので、その察知能力が以外だったのだ。
「ね、何かイヤだった? それともオレが何かしましたか?」
「……そーゆーワケじゃ、ない。けど……」
「じゃあなんで、急に帰っちゃったんスか?」
春千夜の手を再び握り直して心配そうにきゅっと力を込める様子にも、置いてきたラーメンはきっともう少しのびてしまっているであろうことも、春千夜は少し嬉しかった。武道はあの二人と食べる楽しい昼食よりも、春千夜を案じて息を切らしながら駆け付けてくれたのだ。その僅かな“特別扱い”が、どうしようもなく春千夜の気分を上昇させ、また口を軽くした。
「……ハシ」
「ハシ?」
「ハシ、使うの下手だから。人前で使うの、イヤだ」
それはあまりにも些細で、けれど恥ずかしい春千夜の悩み。カッコイイ兄のいる万次郎にも、ちゃんとした母親のいる場地にも話したことがない。頼る相手がいないことで生まれたコンプレックス。
春千夜は、箸を使うのが不得手だった。
うまく食べ物を掴むことができず溢してしまったり、ひどく不恰好な食事風景になってしまう。
いつもの2人やその家族の前では、居心地悪くも食事をとることがあった。どうせあの幼馴染たちは気が付きもしないだろうし、その家族たちは気付いても叱ったりすることは無いだろうと考えていたからだ。事実、これまで春千夜が誰かに箸使いを注意されたことは無い。
しかし、新しく加わったこの年下の馴染みの前では、同じ思いをしたくなかった。
結局その当人にその悩みを打ち明けてしまっているのだから変な話だが、春千夜は武道に弱みを晒したくなかったのだ。
「……」
予定もしていなかった暴露に、春千夜は俯いた。落ちた視線の先にはこの間ケガをしてほったらかしの擦り傷が、まるで「おまえを気にかけるやつなんていないよ」と嗤っているようだった。
いっぽうの武道は、しばし考えた。万次郎とのタイムリープでは“全員を助ける”と決めているので、周りみんなが年下であることも相俟って、どんな些細な憂いでもどうにかしてやりたいと考えるようになっていたのだ。
ましてやこの潔癖で鬱屈とした少年時代の春千夜の漏らした弱みだ。
武道は安心させるようにニコ、と笑った。
「春千夜君、ちょっとお邪魔していースか?」
そうして二人は明司家へ足を踏み入れた。
普段は広さのある佐野邸か屋外で遊んでいることもあり、ここへ家族以外が訪れるのは稀だった。
それに奇妙な気恥ずかしさ、あるいは気まずさをかんじながらも春千夜は武道を案内する。
「お皿あります? お箸は……あ、割り箸も買ったんで大丈夫スよ」
「……なんで、皿にポテチ?」
武道に請われて案内した台所で、武道はおもむろに道中購入したポテトチップスを皿にあけた。そして、二膳の割り箸を添える。
「そりゃあ……今から練習するんですよ!」
画して、武道による秘密の練習会が開始されたのであった。
「……そう、上の箸だけ動かして……上手です、そのままゆっくり掴んでみましょ? ……うん、大丈夫です」
「下の箸は動かさなくていいんです、……ほら、オレの手、わかりますか? ……うん、春千夜君ならできます」
「……はい、次はこっちを挟んで……ほら、できた。……よくできました、春千夜くん」
「じゃあ、次は……」
集中できない。
そう思いながらも手先は進歩しているのだから、春千夜は元来不出来な人間ではないのだ。
ただ、武道が。この年下のはずの少年が、えもいわれぬ色気のようなものを撒き散らすからいけない。
精密な作業をしているという雰囲気からか、日頃耳に障る煩さは也を潜め。落とされた声に混ぜられた吐息が春千夜から平静を奪う。
教えるためにと添えられた手は苦労を知らないふにふにと柔らかいもので、武道が年下の、未だ稚い少年だと思い出させた。そうして、普段なら他人に触れられる事など御免被るというのに。今もそして先程も、武道に触れられた時に嫌悪感を覚えたりはしなかったと思い至る。
青く大きな瞳は手元を注視していて、春千夜が武道を見つめていることなど気付きもしない。きっと、春千夜が顔を近付けたとて、最後の最後までそれを察知することは無いだろう。