大事なレースのハンカチ イヴと別れた後、美術館を出てまっすぐ帰宅する。急いでいたのは大学のレポート提出期限が、アタシを待ってくれないからだ。
「ただいまー……っと」
一人暮らしのアパートの部屋に声がこだまする。玄関の鍵を閉めて明かりを点けると、安堵の深いため息が漏れた。あの美術館での命がけの冒険を思い出すと気が遠くなる。こうして生きて帰って来られて、本当によかった。
命の恩人でもある少女を思い出す。イヴ。美しい響きの名前。それとキャラメルブロンドに赤いスカートのよく似合う、気丈な女の子。あの子がいなかったら、きっとアタシは……現実には存在しない美術館の地下で、誰に知られることもなく息絶えていただろう。
そうだ、イヴから借りたハンカチ。次に会うまでにきれいに洗濯しておかないと。慌ててコートのポケットをまさぐる。赤黒いアタシの血のシミの付いた白いハンカチだ。血のシミは早めに対処しておかないと取れなくなる。レースのついた上等な代物。材質はコットンで間違いないだろう。広げてみるとレースの精緻な意匠に目を奪われる。あのくらいの年齢の子供に持たせるには少し不釣り合いのような気もしなくもない。
――っと、早くシミ抜きしないと。セスキはあったはずと、バスルームへ向かいながら洗濯機の傍にあったのを持っていく。
バスルームで洗面器に水を張り、セスキを溶かして広げたハンカチを漬け込む。ふと、先程は気づかなかった端の細かい刺繍が目に入った。それは誰もが知っているような高級ブランド名。ちょっとこれの値段を想像するだけで軽く眩暈がした。しっかりシミ抜きしなきゃ。それにしたって、イヴは本当に良家のお嬢様なのね。言葉遣いもあの歳で、拙いなりに気品のようなものが感じられたから。
そういえばイヴがこれを貸してくれた時、アタシは手に怪我をしていたはず。そう思い返して両手のひらをまじまじと見つめる。裏返して手の甲も見てみるけれど、傷一つない。
「……けれど、幻覚を見ていたってわけではないのよね」
だってアタシの記憶の中にはイヴもいる。『精神の具現化』という大きな赤薔薇の展示物を見ていた時に声をかけられて、思い出した。一緒に美術館の在りもしない地下階層を巡った記憶。
ふいに命に関わる毒ガスのトラップを想起して、またコートのポケットを探った。使い慣れたオイルライターが出てくる。少し前から禁煙していたのだけど、お守り代わりに持っていてよかった。役に立つ場面もあったし。
そうして出かける前に一個だけ忍ばせていた、レモンキャンディがなくなっている。それを再確認して、なんだか自然と頬が緩む。
――イヴってば、あのキャンディをあげた時に、初めて笑ってくれたっけ。
あの子はキャンディをアタシのポケットから見つけた時に、それこそ薔薇のつぼみがほころぶように笑って、大事に大事に自分のスカートのポケットにしまい込んでいた。食べていいわよ、って言ったのに。いつでもいいのだけど、あれは溶ける前にちゃんと食べてもらえるのかしら? あのキャンディの行く末を思うと、喉から小さな笑いがこぼれだす。
別れ際に、また会いましょうって約束したけれど、どこでいつ、なんてお互いに指定しなかったのはきっと、あれだ。アタシとイヴの間では、またあの美術館へ行けば会えるという共通の認識ができていたから。
そこで我に返る。そうだ、レポートを何が何でも間に合わせなければ。明日にまで提出期限が迫っている。そう思ってアタシは部屋まで戻り、窓を開けた。夕暮れ色に空が染め上げられていた。そうして椅子に座って、テーブル上の書きかけのレポート用紙とペンに手を伸ばす。肉体的にも精神的にも疲れているはずなのに、なんだか今日は頑張れそう。そんな気がする。