はじめての贈り物「名前の由来?」
「はい、ご両親にお聞きしたこととかありませんか?」
「さあ…どうだったかねえ」
テーブルに並んだマグカップから、心地よく湯気が揺らいでいる。互いに風呂を済ませてくつろぐリビングで、同じソファに隣り合わせで腰掛ける泉が「そういえば」と切り出した話題は、服部にとってあまり馴染みのないものだった。追求されたくない事柄に関して、覚えていないふりをすることがままあると服部は自覚しているが、今回ばかりは、その手の記憶にさっぱり心当たりが無かった。
「なんでまた?」
「最近体調を崩しがちだった友人が、おめでただったんです。それで、旦那さんが今からどんな名前にしようか真剣に悩んでるって聞いて、微笑ましくて」
「なるほど」
言い終えてから、泉が少し屈んでマグカップを手に取る。満杯に注がれたホットミルクにそっと口をつける姿も、もう見慣れたものだ。彼女が一緒に用意してくれた特製の抹茶ラテは、一度に飲み干すのは躊躇われてまだ半分ほど残っていた。
「それは私たちも励みましょうってお誘いだったりするの?」
「へ!?そ、そうではなくて…!」
そのままマグカップを落とすのではと危うさを感じるほどのリアクションに、服部は思わず吹き出す。カップをそっと机に戻して、顔を赤くしながら「またからかって」と膨れる泉と目が合った。その瞳に、姿に、愛おしさを感じるようになったのは、いつの事だったか。それはまた今度ね、と言えば、気恥しさを隠せない瞳がふいっと逸らされてしまった。少しばかり掻き乱してしまったが、翌日の予定を気にせず過ごせる貴重な夜に、こうして穏やかに眠りを待つだけの時間も、悪くはないと思うのも嘘ではない。
「でも、大切な我が子ですから。その時が来たら、とびきり素敵な名前、一緒に考えましょうね」
ふと、穏やかな空気と共に、ふわりと響いた声。服部の顔を覗き込むように顔を傾けた泉の微笑む表情は、頬の赤さも抜けないままなのに、随分と柔らかかった。
考えたのは、己の両親について。飛び切り悪い思い出もなかったが、いい思い出というのも記憶が無い、そんな間柄だった。服部がどれほど飛び抜けて物事を高水準にこなすことに優れていようと、その影響か、他者とどこか一線を画した様子であるのも、彼らにはあまり興味が無かったのだろうと思う。彼らはこちらのことを理解する気は無いようだったし、恐らくはその努力をしても到底理解が及ぶものでもない、扱いづらい子供だっただろうから、そうして自然と服部も、彼らのことを理解するのを諦めてしまった。
彼らも、こうして考えたのだろうか。生まれ来る我が子に授ける名前に、慈しむような声を滲ませる日が、あったのだろうか。…今更そんなことを聞くには、面映さに勝てない歳まで来てしまったが。
「玲」
「はい」
「……名前。呼んで」
静けさを纏う服部の顔が、少しだけ見開かれた泉の瞳に映り込む。泉はふわりと微笑んでから、微睡みの中にあるような柔らかい声で、静かにその名を呼んだ。
「…耀さん」
「もっと」
「耀さん」
「足りない」
「…ふふ」
その声を近くに感じるために、彼女の肩に顔を埋める。それをこそばゆく思ったのか、泉は小さく身じろぎをしながら、乗せられた頭にそっと頬を擦り寄せた。
「なーに」
「可愛いところもあるんだなあって思いまして」
「ほーん?そんな口、二度と聞けないようにしてあげてもいいんだけど」
「ヒェ」
四十路が迫った男に使うには随分と似つかわしくない形容詞だ、などと思ってはみても、不思議と嫌な心地はしなかったが。君の方が、ずっと似合うのに。その言葉は、声にはならなかった。
服部は埋めた顔をそっと上げて、泉の背に腕を回す。そのまま軽く力を込めれば、華奢な身体は容易く引き寄せられた。優しく、けれど離さないように、腕の中にある温もりに触れる。泉もそっと、自分を包む大きなからだを抱き返した。
「玲」
持てる最大限の感情を、彼女を呼ぶ声に込める。少しでも伝わるように、彼女の祝福の証を、大事になぞるように。どうやらそれは十二分に伝わったようで、照れくささを隠しきれないままに、はにかむような返事があった。
生まれてはじめての贈り物は、どうやら君の声で輝き出すらしい。