七灰ワンドロワンライ38.『勝負』.
二人きりの学年。他学年との合同授業もあるにはあるが、基本的には座学も実技も灰原と二人で受ける。
それに不満を持ったことはなかった。ただ、体術のペアが常に同じというのは正直刺激が足りなくなるものだった。
「これさ、負けた方が一週間自販機のジュース奢りってどう?」
周りからノリが悪いと言われがちではあったが、それでも十代真っ只中。変わり映えのない授業にちょっとした遊びがあってもいいだろうと、とある体術の授業の終わり際に挑戦的な笑顔でそう提案してきた灰原へ七海が頷き返したのは、入学してまだ間もない頃だった。
勝敗の結果で何をするのかについては交互で決めていた。
大抵は敗者が勝者へ食べ物を奢ること。ジュースやお菓子なら一週間分、昼食なら三日分。遠出の任務が決まっている時はご当地グルメになったり、灰原の提案で手作りの夕食が賞品になったこともあった。(ちなみにその時は七海が勝ったので灰原の数少ない得意料理である大盛りの焼きそばになった)
他にも、日誌や報告書の当番免除。レンタルビデオ屋で二本目を借りる権利。次の休日に出掛ける先の決定権。
だが、敗者の当番が終わるまで勝者が待っていたり、二人ともが気になった作品を借りたり、相談して行き先を決めることが多かった。結局は変わり映えのない授業にスパイスが欲しいだけで、負けた時のことは特に気にしていなかった。
だから、その日も七海は特に深く考えずに授業の最後の組み手前に灰原へと声をかけた。
「今日もするんだろう?」
「あー、うん」
しかし、さっき試した応用体術のおさらいをしていた灰原は、どこか歯切れの悪い返事をした。
「どうした?今日は灰原がペナルティを決める番だったよな?」
「うーん、そうだけど……」
いつもなら七海が聞く前に嬉々として「今日はねー!」ペナルティという名のちょっとしたお楽しみについて話してくるというのに。灰原は難しい顔をしたと思えば、七海をちらりと見て恥ずかしそうに顔を逸らしたりと落ち着きがない。
「どこか調子でも悪いのか?」
「ううんっ、そうじゃない……んだけど……」
何事にも真っ直ぐと意見を述べる灰原がここまで言い淀むなんて、明らかに様子がおかしい。
別に勝負なんて無理にすることはでないし、仮に灰原が明確に気づいていないだけでどこか痛めたていたとしたら、最後の組手は無しにした方がいいだろう。
だが、七海が「今日はやめておこうか」と口にしようとした時。弾かれたように顔を上げた灰原は、頬を真っ赤に染めて必死に叫ぶようにこう言った。
「あのさっ!今日は負けた方が勝った方の一番好きなとこ言うってのはどうかなっ!?」
「……は?」
「おーい、そろそろ終わりだから最後やるんならさっさとやれよー」
七海が言葉を失っていると今日の担当教員が鍛練場の入口から顔を覗かせた。
「はーいっ!」
声を張って返事をした灰原は、七海の返事を待たずに組手を始める時の定位置へと慌てたように駆けていく。さっきまでどこかでサボっていた教員も、最後の施錠があるから入口近くに留まっている。
仕方がない。小さく舌打ちをした七海は自分も定位置へと踵を返した。
灰原とはつい先日から所謂お付き合いというものを始めたばかりだった。
最初の頃は自分と正反対過ぎて正直苦手だった。だが、一緒に過ごすうち、違うからこそ補い合えるのだと気がついた。自分にない部分を純粋に尊敬して、そんな灰原に頼られると素直に嬉しくなった。
同級生から友人に、友人から親友に。そして、お互いもっと特別な感情を抱くようになったのは必然だった。
曖昧な関係の壁を破ったのは灰原の方。
「僕、七海が好き」
真っ直ぐに見つめてくる黒い瞳はそれまで何度も目にしていたもの。しかし、緊張と少しの不安で潤んだ瞳と真っ赤に染まった頬を見たのはその時が初めてで、七海はそれまでよりもさらに灰原のことを好きになったのだ。
さっきの挙動不審な姿とは打って変わって、自然体で佇む灰原と対峙する。だが、七海の頭の中は大いに混乱していた。
一体、さっきのはどういうことなんだ。
当の発言の主は普段緩やかに弧を描いている眉にグッと力を入れていて、いつもくるくる動き続けている口元をキュッときっちり結んでいる。だが、頬はまだほんのりと赤みを帯びているようにも見えた。
組手の開始に合図はない。どちらから先に仕掛けるのかも、勝敗を分ける鍵になるからだ。
二人はしばらくただ静かに向かい合っていた。そして、木造の建物がパキッ、と微かな音を鳴らした瞬間。大きく飛び出してきたのは灰原の方だった。
灰原は一言で表すと超近接タイプだ。術式は持っているが、それよりも呪力で強化した肉体を駆使して戦うスタイルが性に合っているらしい。
七海も近接タイプだが普段呪具の使用をメインにしていることもあり、今日のようなシンプルな組手は灰原と比べるとやや劣る。それでも、状況判断や戦術の組み立てでは七海の方に分があり、トータルで言えば勝敗は五分五分だ。
間合いを詰めてきた灰原がフェイントを交えながら次々と拳を繰り出してくる。ガードの隙を狙っているのはバレバレで、いつもなら大振りな灰原の隙を反対に狙いにいくところだ。しかし、七海は拳を受けることで精一杯になっていた。
灰原と付き合い始めてから日は浅い。お互い初めての恋人で、まだ友人の延長線上のような雰囲気で過ごしていた。それでも、少しずつ関係は変わっていっていると思っていた。順調にいっていると思っていた。だから、突然あんなことを言われるなんて思っても見なかったのだ。
負けたら相手の一番好きなところ言うなんて。
頭の中はぐちゃぐちゃで上手く集中することができない。
しかし、七海も十代真っ只中。簡単に勝負に負けるなんてことはもちろん、恋人を前にして格好悪い姿を晒す方が無理な話だった。
七海が眼前で拳を受けた刹那、空いた脇腹へ灰原がもう片方の拳をねじ込もうとしてくる。だが、その一撃で決めようと焦ったのか、タメが少し長かった。
その隙に眼前で受け止めた灰原の拳を自分の方へ思い切り引っ張った七海は、僅かに体勢を崩した灰原の足元を足蹴で払い退けた。自分の方へ倒れ込んでくる灰原を拳を振り出す隙間がないくらいガッチリと抱き締めた七海は、体勢を反転させて灰原を地面へと押し倒した。いわゆる、寝技である。
そのまま押さえ付けていると、降参だと灰原が背中を叩いてきた。身体を起こしていくと、大きく息を乱した灰原が目を白黒させて見上げてくる。
「はっ、は……っ、もう、なに今のっ!?」
基本的に呪具を使って戦う七海は、寝技のような獲物のリーチを活かせられない方法はとらなようにしている。だが、呪具ばかり頼りにしていることはまずいだろうと、七海なりに対処法を模索していたのだ。
「前から考えていたやつ……頭の中では何度もシミュレーションしてたけど、実際にやったのはさっきが初めてだ」
「なにそれ、ずるいよ……でも、すごかった」
そう言ったものの灰原は悔しそうに唇を尖らせている。入口の方から教員が「ほら、終わったんなら早く出ろよー」と声をかけてきて、七海は倒れている灰原へ手を差し伸べた。
寮へ戻る途中。トボトボ歩いていた灰原がポツリと言葉をこぼした。
「僕の負けだね」
「そうだな」
しばらく経っても、灰原は何も返してこなかった。いつもなら、仮に灰原が負けた時でも勝負の振り返りをしてからペナルティの内容について楽しそうに話してくるというのに。灰原は複雑そうな顔をして唇を結んでいる。
そんな灰原の横顔を見つめながら、七海は覚悟を決めてゆっくりと口を開いた。
「美味しそうに食べるところ」
「え……?」
灰原が歩みを止める。いつもよりさらにまん丸くなった黒い瞳に射抜かれて、脈が早まっていくのがわかる。ただ、ここで止めるつもりは七海にはなかった。
「ちゃんと手を合わせていただきますとごちそうさまを言うところ、誰に対しても丁寧に接するところ、小さな子とも視線を合わせて話すところ、ネガティブな言葉をポジティブな言葉で言い換えられるところ、些細な頼み事でも嫌な顔せず引き受けるところ」
「えっ?ちょっ、えっ!?」
灰原の頬がじわじわと赤く染まっていく。不自然に力の入っていた眉間が緩み、キュッと結んでいた唇はあわあわとして、単語にならない声を漏らしている。
「朝に強いところ、おにぎりを綺麗な三角に握れるところ、意外と字が綺麗なところ、感動もの映画ですぐ泣くところ、よかったと感じたことをちゃんと言葉にできるところ」
「まってよ、七海、なんで、」
「いつも一生懸命で、前向きで、笑顔をたやさなくて、自分よりも他人を優先してしまうくらい優しいところも好きだ」
七海が言い切ると灰原はブワッと首筋まで真っ赤に染めた。きっと自分も同じような状況になっているだろうと、頭の片隅で思った。
「一番なんて決められない……きみの好きなところはたくさん、数えきれない程あるから……」
灰原は大きく目を見開いたまま、ポカンと口を開けている。
一方的に伝えるばかりになってしまった。だが、これいけないだろうと七海は大きく頭を下げた。
「ごめん、言葉足らずで。私は自分の気持ちを言葉にするのが得意じゃない、でも、それで灰原を不安にさせていたとしたら、本当に申し訳ないと思ってる」
今日のペナルティの真意は本当のところは分からない。ただ、素直に好意を伝えてくれる灰原に甘えていたことを、今回のことで七海は自覚したのだ。
「私は灰原が好きだ。勝負にしなくても、好きなところくらい今みたいにいくつでも言うよ」
くらい、なんて。今まで言ってこなかったのは自分の方だというのに。
七海が頭を上げると灰原はグッと眉間を寄せていた。しかし、次の瞬間。灰原はタックルのように勢いよく飛びついてきた。
「もう!もうっ!もおぉっ!」
ぎゅうぎゅうと抱き締められて、正直息が苦しい。それでも、目の前に見える灰原の耳は真っ赤なままで、すごく可愛いなと思った。
「急に何!?僕結構悩んでたのに!一番好きなとこって言ったのにあんないっぱい!数えきれないとか、ほんとっ、も—っ!!」
「すまない、決められなくて。それに、まだ言ってないのたくさんあるから」
「わかったって!」
ようやく腕の力を緩めた灰原がそう高らかに宣言する。
「僕だって七海に負けないくらい七海の好きなとこいーっぱいあるんだからね!覚悟してなよっ!!」
まるで勝負のお誘いみたいだな、と七海は「受けて立つよ」と小さく笑った。