七灰ワンドロワンライ49.『手紙』.
珍しく午後からも座学が詰まっている日だった。
いつもなら午後は身体を動かす実技が中心で、昼食後特有の眠気など感じる暇もなくあっという間に時間は過ぎていく。しかし、春の陽射しでぬくもった教室は時間の流れが外よりもゆっくり流れているのか、黒板の上にあるアナログ時計の針はさっきからほとんど進んでいるように思えない。慣れない任務で疲労が積み重なってきたことと、教科があまり得意ではない日本史であることも、時間の流れを遅く感じさせる要因の一つだった。
睡魔が眠りの世界へ誘おうと、瞼をどんどんと重くしていく。シャーペンを持つ右手はなんとか板書を続けているが、肘をついている左の頬は体重がかかって不格好な形に歪んでいることだろう。
そんなふうに眠気との攻防戦を繰り広げていると、机の端に小さな紙切れが置かれたことに気がついた。
この教室にいるのは三人だけ。うち一人は当たり前だが自分自身。もう一人は単調な解説を続けながら板書をしている日本史講師。となれば、紙切れを置いた主は残る一人。隣の席に座る、つい先日あったばかりのたった一人の同級生だ。
重い瞼をなんとか開いて隣へ視線をやると、まん丸な黒い瞳と目が合った。たった一人の同級生は──灰原は何やら笑みを浮かべちょいちょいと紙切れを指さしている。
一体なんだ。
素朴な疑問が頭に浮かんだが、眠気が誤魔化せるならなんでもいいかと、講師にバレないよう四つ折りの小さな紙を静かに開いた。
『眠いね』
書いていたのはたったこれだけ。
パッと顔を上げると、灰原はイタズラが成功したように歯を見せて笑った。
正直、灰原のことは苦手だった。明るくて、前向きで。どんなことにも真っ直ぐ全力を尽くす。自分とは正反対。今まで関わったことのないタイプで、入学してから半月ほど経った今もどう対処していいか見出せずにいた。
授業中に渡された、短すぎる手紙。
おそらく灰原なりの助け舟だったのだろう。満足したのか、黒い瞳は手元のノートと前方の黒板を行き来している。
これまでなら、きっとこのまま流していた。授業後に、「助かった」くらいは言うかもしれない。
しかし。
今日は何故か、自分から一歩踏み込みたくなった。
灰原が渡してきた手紙はノートの端を千切ったもの。中綴じのノートは千切るページによったら既に使ったページもバラけてしまうから、あまり雑に扱いたくはない。だが、他に使えるものはなく、バラしても大丈夫なページを確認して講師にバレないよう慎重にノートを千切った。
一〇センチ四方にも満たない、便箋とも言えない小さな紙切れ。そこに綴ったのは、他愛のない、今の素直な感情だった。
ノートの切れ端を四つ折りにして、講師の動きを確認するため視線は前方に向けたまま、隣の机へ慎重に手を伸ばす。灰原はすぐに気がついたようだ。視界の端でシャーペンを握る右手が動きを止めた。
カサリと、紙が開く微かな音が耳に届く。一体、灰原はどんな反応をするだろう。隣を見たいような、見たくないような。そんな、ほんの少しの緊張と高揚が、眠気をすっかり吹き飛ばしていた。
そんな時、スピーカーから授業の終わりを知らせるチャイムが鳴った。講師は中途半端なところで板書を区切り、次回までの課題を教卓に置いてさっさと教室を出ていく。
こんなに早く授業が終わるなら、返事なんて書かなくてもよかったかもしれない。そんな小さな後悔と気恥ずかしさが込み上げかけた刹那。
「七海っ!」
隣の席に座っていた灰原が、そう声を上げるとともにこちらへ身体を乗り出してきた。灰原の手にはもちろん、さっき渡したばかりの小さな紙切れがある。
「……なんです?」
「僕は日本史好きなんだ! 戦国武将の名前って強そうでカッコイイし! あっ、あとは陰陽師とか! あれって呪術師の始まりって感じだよね!? 映画見たけど結構おもしろかった!」
今日やったのは弥生時代だぞ、とか。陰陽師はれっきとした官職の一つじゃなかったか、とか。あれは完全にフィクションだろ、とか。いろいろと言いたいことはある。しかし。
『日本史は苦手だ。漢字が多すぎる。』
そんな、自分が書いた些細な手紙にここまで前のめりで反応してくるなんて。心底嬉しそうな笑顔を向けてくるなんて。
こっちの顔まで、緩んでいってしまう。
「ていうか、七海が返事くれるなんて思ってなかったからビックリしちゃった!」
「きみが先に渡してきたからでしょう」
「それはそうだけどさ。あと、手紙は敬語じゃないんだね!」
「別にたいした内容じゃなかったですし」
「えー、そうかなぁ」
灰原は少し怪訝そうな顔をしたが、小さな紙切れを眺めては口元を綻ばせている。その横顔を見つめていると、なんだか胸の奥がむずがゆくなった気がした。
「ねっ、七海」
「なんです?」
「敬語、なしにしてよ」
「は?」
「いいじゃん。手紙ならタメ口出るんだし、敬語より短いよ?」
灰原の言うことはまあ理解できる。ただ、出会ってから半月ほど距離を縮めあぐねていたこともあり、突然関わり方を変えることにはまだ少し戸惑いもある。
けれど。
「……分かった」
短い手紙のやり取りが、自分の行動が灰原に笑顔をもたらしたことが妙に嬉しくて、もう一歩踏み込んでみてもいいかもしれないと、そう思えてしまった。