七灰ワンドロワンライ46.『足音』.
ふと、意識が浅いところまで浮上した。
重たい瞼はなかなか上がっていかないが、なんとなく起きなければならない気がして懸命に目を開けていく。視界に入るのは真っ暗な部屋の中だが、視線を少し頭の方に移すと、カーテンの向こうは薄っすらと明るくなっているように見えた。
パシパシと瞬きを繰り返していると部屋の扉の軋む音が微かに鳴った。自分一人だった部屋の中に自分以外の気配が混ざる。その気配の主が誰かわかった時、鼻先まで引き上げていた布団の中で自然と口元が緩んでいった。
寝ぼけていた意識もはっきりとしてきて、夢から現実へと頭が切り替わる。
数日前から七海が単独で任務に出ていたこと。今夜には帰れるかもと昨晩メールがあったこと。待ってるねと返したら、遅くなると思うから無理しなくていいと返事が来たこと。
一年も三学期になると、お互いに別の術師との任務や単独任務の頻度が増えてきた。ただの同級生であったなら、少し退屈な一人きりの授業や実習を乗り切るだけで済んだだろう。
けれど、同級生だけでなく恋人という間柄が重なっているとしたら、退屈という気持ちだけを乗り切るだけでは済まない。どちらかが任務から戻った夜。待っていた方の部屋で一緒に眠るようになったのは最早必然だった。
七海に『わかった!』とメールを返したあと、自分なりに頑張ってみたものの、結局は眠気に負けてベッドに入ったのは深夜一時半頃だったと思う。備え付けの狭いベッドの中にもう一人分のスペースを作るため、壁際ギリギリまで寄って掛け布団に包まってから携帯をいじったところまでは覚えているが、いつの間にかすっかり寝入っていたようだ。
台所と居室を隔てる引き戸が開き、気配の主である七海がベッドの方へ近づいてくるのがわかった。ついドタバタと歩いてしまう自分とは違い、行儀のいい七海が普段から極力足音を立てずに歩いていることはよく知っている。ただ、そこまで気を遣わなくてもいいのにと、そろりそろりと忍び寄るように近づいてくる人影に少し苦笑いが漏れる。
ようやくベッドの側に七海がしゃがみ込んだところで、開けていた瞼を閉じた。いわゆる寝たふりだ。
無理して起きて待たないこと。
そう提案したのは七海の方だが、こっちが遅くなっても、読書に夢中になっていたと何かしらの理由をつけて出迎えてくれることが多かった。そのくせ、七海が帰ってきた気配でこっちが目を覚ますと、嬉しそうにする反面どうにも申し訳なさそうな顔をするのだ。
極力マットレスを揺らさないようベッドへ上がった七海が、慎重に掛け布団の中へ身体を滑り込ませてきた。
一緒に夜を過ごして一緒に眠りにつく時の七海は、小さな子どもが大好きなぬいぐるみを抱きしめるように、ぎゅうぎゅうと少し息が苦しくなるくらい抱きついてくる。首筋に顔を埋めて、すりすりと鼻先を擦り付けてきて、心底幸せそうに「おやすみ」と耳元で囁いてくるというのに。
遠慮がちに腰に触れた手のひらの感触が愛おしくて、少しもどかしい。
ここでぎゅっと抱きしめてあげたなら、七海はどんな反応をするだろう。
普段は切れ長の瞳をまん丸くするだろうか。いつもへの字の口元を緩めていくだろうか。もしかすると、複雑そうに眉を下げて「すまない、起こして」とこぼすだろうか。
最後の反応はあんまり見たくない。
なら、言えないようにすればいいんじゃないだろうか。
鉄は熱いうちに打てだ。
そう思い、バッと目を開けて七海の方へ腕を伸ばした。
「な、っ!?」
驚いた七海の声がすぐそばで聞こえるが、そんなこと気にせずにぎゅうっと七海の首筋に顔を埋める。自分の部屋でシャワーを浴びてきたのか、いつも七海が使っているシャンプーの香りが鼻をくすぐった。
よかった。ちゃんと帰ってきたんだ。
今更になって感じる安堵に胸の奥がジンと熱くなる。
腕の力を少し緩めると、珍しく狼狽えている七海の姿に思わず笑みがこぼれた。しかし、パチリと大きくなっていた七海の瞳はじわじわと下を向いていく。眉も、口角も少しずつ角度を下げていく。
このまま甘えてきてくれたらよかったのに。でも、こんなに不器用で優しい七海のこと、僕大好きなんだよね。
しょんぼりとした表情の七海へニコリと笑いかける。それから、手のひらで頬を包み込んで、何か言いかけた薄い唇をそっと塞いだ。