夏インテ原稿(七灰)④*
灰原に涙を拭われてから、一度きりだった冬の思い出をぽつぽつと振り返った。
あの頃、寮でこたつを持っていたのは灰原だけで、一つ上の先輩たちはよくここへやって来た。灰原の部屋にはテレビゲームのハードもソフトもそれなりに揃っていて、四人でゲームをすることも多かった。その時、いつも五条が画面のよく見えるテレビ正面に座りたがり、そこが定位置である灰原は毎回律儀に席を譲って七海の横へ移動していた。
「あの人は本当に遠慮ってものを知らなかったな」
「別に僕は気にしてなかったよ?」
もちろん、灰原がそう思っていたことはあの頃からわかっていた。それに正直なところ、肩が触れる距離で灰原と座れることは七海にとって好都合だった。
ゲームが深夜まで続くことは当たり前で、早寝早起きが身体に染み付いている灰原がウトウトし始め、ゲームを離脱してそのまま隣で寝落ちてしまうことも多かった。そこまでなると、夏油が気を利かせて渋る五条を連れ帰ってくれたので、静かになった部屋の中で、こたつに入ったまま穏やかな寝息を立てている灰原をしばらくの間眺めることもよくあった。
「七海によく起こされたなー」
「でも、きみは一回寝るとなかなか起きなかっただろう」
「だね!けどさ、七海ちゃんとこたつ消して上から毛布掛けてくれてたよね」
「風邪でもひかれたら困るからな」
冷えないように首元までしっかりと毛布を掛けたあと、幸せそうに眠る灰原の髪をそっと撫でていたことは気づかれていなかっただろう。同級生の心地よい関係に浸っていたい気持ちと、それ以上の関係へ一歩踏み込みたい気持ちがずっと心の中でせめぎ合っていたことも、きっと灰原は知らない。
「懐かしいね」
「そうだな」
一度は失われたはずの灰原との時間を、こうして再び過ごせていることが嬉しくて仕方ない。雪の夜特有の静けさも、じんわりと温もっているこたつも、少しひそまっている灰原の声も、心地よさをだけを連れてきてくれる。
「眠たい?」
瞼が少し重たくなってきたことを自覚したと同時に、灰原からそう問われた。
「少し」
どうしてすぐに気づかれるのだろうと思いながら目元をこすっていると、灰原の手のひらにやんわりと髪を梳かされた。子ども扱いされているような気恥しさがじわじわとにじんでくるが、それよりも眠気の方が助長されてただ灰原の手のひらに身を任せてしまう。
「ベッド使っていいよ」
「いや、いい」
そう返した七海は、あの頃の灰原のようにこたつに入ったままごろりと寝転がった。灰原を蹴らないように端に寄ってみるが、十年前よりも大きくなった身体は思い出の中のこたつには上手く収まりきらず反対側から足がはみ出てしまう。
「風邪ひいちゃうよ」
「そんな心配、私たちには不要じゃないか」
「まあそうだけど、そうじゃなくてさぁ」
呆れたように小さく笑った灰原は、ベッドの隅でぐちゃぐちゃに丸まっていた毛布を引っ張り下ろした。
もう少し上にずれるよう促され、言われるがまま位置を修正する。はみ出ていた足元はなんとかこたつ布団の下に収まり、上半身には口元が隠れるまできっちり毛布が掛けられた。
こたつの電源は消されてしまったが、温もりは十分残っている。七海が降りてくる瞼に抗うことをやめようとした時、不意に足が小突かれた。
「あ、ごめん」
そう言って少し場所をずれた灰原は、七海と同じようにころりと寝転がった。しばらくもぞもぞと動いていたが、ちょうど良い場所を見つけたのか灰原は毛布の端を自分の肩に掛けている。こたつの足があるから身体が密着することはないが、横向きに寝転がった灰原の顔はすぐそばにあって、七海の脈は小さく跳ねた。
「きみはベッドを使えばいいだろう」
「いいの」
簡潔に言葉を返して鼻の上まで毛布にうずまった灰原は、楽しげに目尻を下げている。
あの頃、眠たげな灰原を眺めることはよくあっても、眠りかけている自分をこうして見られることはなかったせいかどうも落ち着かない。トクトクと早まっていく鼓動に気を取られていた時、毛布の下で指先同士が微かに触れた。偶然かと思ったが離れていく気配はなく、むしろ触れる面積は徐々に増えていった。
最初は小指がやんわりと絡まってきて、そのままでいると薬指も中指も人差し指も順に交わっていく。七海からも軽く握り返すと灰原の瞳はさらに細まり、目元もほんのりと赤く染まった。
見えない場所でゆるく繋がっている手のひらの感触は、思い出の中を巡りながらぎゅっと手を繋いでいた時とは少し違っていた。あの頃は同じくらいだった指の太さも今は少し細く感じて、同じくらいマメを作っていたはずの皮膚も十年以上獲物を握ってきた自分と比べると随分と柔らかい。
灰原の存在をより鮮明に感じとれる嬉しさが、じわじわと胸の中に広がっていく。
あの頃、灰原も同じ想いを抱いていたのかもしれない。あの頃、こうして触れ合うことは不可能ではなかったかもしれない。
どこか照れながら瞼を閉じた灰原を見つめていると、そんな自惚れたことを思ってしまう。だが、灰原をより鮮明に感じることは自分たちの生きてした時間の差を改めて実感することにもなり、喜びの中に悔しさや切なさも入り混じった。
独りになってから『もし』という言葉が浮かびそうになるたび、必死に頭の中から打ち消していた。考えても、何も意味がなかったからだ。
けれど、いま灰原はすぐそばにいる。一緒に狭いこたつにもぐっている。お互い何の意味づけもしないまま、ただ指を絡めあっている。
何度も打ち消した数え切れないほどの『もしも』。そのいくつもが実際に起きている。
ここは思うことが全てだと、灰原は言った。
十五の春に出会った時に生まれ、踏み込むことを怖がって心の奥底に仕舞っていた灰原への想い。それをきちんと言葉にして伝えよう。
一度は失ってしまった灰原の存在を確かめながら、七海はそう強く思った。
*
目覚めてから「行きたい場所があるんだけど」と灰原が言った。
「わかった」
「七海は?行きたいとこ」
「あるけど、先に灰原の方へ行こう。別に急ぐ必要はないから」
そう返すと灰原は嬉しそうにふにゃりと微笑み、七海の頬も緩んでいた。
どのくらい寝たのかはわからないが気分はスッキリしている。合わせたように外は朝を迎えており、真っ白な地面は太陽の光を反射してキラキラと輝いていた。
こんな綺麗な光景を見たことがあると、七海の脳裏に遠い日の記憶が蘇る。
寒い冬の朝。任務へ向かうため、寮の前で補助監督を待っていた時のこと。
最初は暖かい室内で待っていたが、先に外へ出ていた灰原に呼ばれて渋々扉を開けた。それなりに都会に住んでいたからか一面雪に覆われた光景はあまり見たことがなく、細かい宝石を散りばめたように輝く真っ白な世界はとても綺麗だった。そして、すぐ隣で鼻の頭を赤くさせながら「きれいだね」と笑う灰原も、同じくらい綺麗だと思った。
「綺麗だな」
「そうだね」
いま、あの頃と同じ景色の中を、灰原と手を繋いで歩いている。
*
冬空の青が見えなくなり、どこを向いても真っ白な光景が広がり始めた。
境目は時間の流れない四季の場所を繋いでいる空間ということは、秋と冬の場所を巡ったことで一応は理解できた。しかし、初めてここを通った時、このままどこにも辿り着けなかったらと内心少し不安に思っていたことを、灰原には黙ったままでいた。
ふと、灰原は最初どうだったのだろうと、そんな疑問が七海の頭に浮かぶ。自分は灰原と一緒だったおかげで、迷うことなく境目の中を進んで思い出をイメージした場所へ行くことができた。だが、灰原は一人きりだったはずだ。
すぐ隣を歩く灰原の横顔をそっと見つめていると、気配に気づいたのか灰原は顔を上げた。
「どうしたの?」
「いや……境目も不思議な場所だなと思って」
「あー、まあそうだよね」
「灰原は、どうやって境目を見つけたんだ?」
七海がそう問うと、微笑んでいた灰原の瞳が一瞬大きくなる。
「気がついたら移動してた感じかなぁ」
だが、すぐにスッと目を細めた灰原は微笑みながらそう言った。
「そうか」
「うん」
正直、死んでから最初に気がついたあの夏の場所から、もう動けないと思った。灰原を失ったあの夏に、自分はずっといるのだと心のどこかで悟ったつもりだった。
灰原もそうであったらと想像すると辛くなる。微笑む灰原は何かを隠しているようにも感じたが、七海が口を開く前に灰原は前を向いて静かに言葉をこぼした。
「ほんと、こんな感じ」
繋がっていた手を軽く握られ、七海も灰原の視線の先へと目を向けた。境目の真っ白な空間に少しずつ色が混ざっていく。その色は春を象徴する色で、一歩進むたびに辺りは優しく色づいていった。
足元が土の地面に変わり、頭上には穏やかな春空が広がる。そして、右も左も桜の木々が並び、それはずっと遠くまで続いていた。
「ここは、高専のそばの」
「せいかーい!」
七海が辺りを見渡していると、灰原が軽やかな声を上げた。辿り着いた場所は高専近くを通る国道で、春になると有名な桜の並木道として地元ではそれなりに有名だった。灰原が高専での春を過ごしたのは、二度。そのうち、二人でここを歩いた思い出があるのは二年に進級したばかり頃のはず。七海が記憶の中を探っていると、灰原は手を離してその場にしゃがみ込んだ。
何かを拾った灰原が、立ち上がってふわりと笑う。灰原の手のひらの上に乗っていたものは、思い出の中と同じものだった。
「覚えてる?」
「当たり前だろう」
差し出された手のひらの上に乗っている、春を象徴する淡いピンク色。それを見つめていると、頬が自然に綻んでいく。
二年の春。任務の帰りに後ろを歩いている灰原が、ゴソゴソと何かをしていることは気がついていた。些細な悪戯を企んでいることも、薄々わかっていた。
だが、別に構わなかった。むしろ、灰原に構われることが嬉しかった。灰原の無邪気さに甘えていたのだ。
「僕、春好きなんだ」
「夏じゃないのか?」
「もちろん夏も好きだよ。秋も冬も、全部好き。でも、一番は春なんだ」
そう言った灰原は、手のひらの上の小さな花をそっと摘まんだ。七海が慎重に受け取ると灰原は嬉しそうに微笑み、咲き誇っている桜を見上げた。
「東京駅から何時間もかかる小さな駅、すっごく広くて迷いそうな学校の敷地、二つしか机の並んでない教室、けっこう古くてボロイ寮、僕専用に作ってもらった新しい制服」
ここへやって来た時のことを思い返すように灰原は一つずつ指折りながら言葉を続けていき、遠い日の記憶が七海の頭の中にも蘇っていく。
「それから、初めて会った同い年の呪いが見える子」
黒い瞳に真っ直ぐに見つめられて、ぎゅっと胸の奥が苦しくなる。自分はもう何度この瞳に心を奪われたのかと、早まる鼓動を感じながら七海はただ灰原を見つめた。
「呪術師になるって決めて家を出て、頑張るぞって気持ちだったけど、ちょっとだけ不安な気持ちもあった。でも、七海と会えた。七海と一緒なら大丈夫って、思えるようになったんだ」
十五の春に出会い十七の夏で離別するまでの一年と少し、七海は灰原と多くの時間を共有し、誰よりも灰原のことを知っているつもりでいた。だが、灰原からそんなことを言われたのは初めてで、七海は内心動揺した。
「そうか」
「うん。七海と一緒だったからできたこと、たくさんあったんだよ」
「知らなかったよ」
「初めて言ったもん」
はにかんだ笑みを浮かべた灰原に、七海の心臓は馬鹿みたいに煩くなった。自分の方が灰原に支えられてばかりだと思っていた。けれど、灰原も自分のことを支えにしてくれていたのだと、舞い上がりそうになる。
ゆっくりと桜並木を進み始めた灰原の隣に慌てて並ぶと、少し頬を赤くしていた灰原は「そういえば夏油さんたちと初めて会った時ね!」と照れ隠しのように口を開いた。
自分の煩い心臓の音をなんとか抑え、心地良い灰原の声に耳を傾ける。それからしばらくの間、どこまでも続く桜並木の下を歩きながら、あの頃のなんでもない日々を話す灰原に七海はぽつぽつと相槌を返した。
「──でさ、春休みは宿題もないしどっか遊びに行こうって言ってたでしょ?」
「そうだったな」
「でも結局どこにも行けなかったから残念だったなぁ」
「まあ、等級が上がったから仕方ないと言えばそうなんだが……」
本格的な春が訪れる少し前。二年の進級が決まったと同時に七海も灰原も二級へと昇級した。二級になると補助監督を出さないことも多く、結局春休み関係なく任務に行かされたのだ。
あの頃からも変わらないこの業界の人使いの荒さを思い返し、うんざりとしたため息が口から漏れる。だが「でもね、」と灰原が続けた言葉に七海の頬は自然と緩んでいた。
「だんだん咲いてくここの桜を七海と見れたのは、すごく楽しかったよ」
「ああ、そうだな」
十年前に失ったはずの穏やかなときが再び訪れていることに、じんわりと胸が熱くなる。隣を見るとちょうど灰原もこちらを向いて、お互いに小さく笑った。
「毎日忙しかったけど、毎日楽しかった。七海と、一緒だったから」
「私も同じだ。灰原が、隣にいてくれたから」
言葉とともにそっと灰原の手を握る。すると、灰原は同じように握り返してくれて、七海は最初よりも強く手のひらの中の温もりを包み込んだ。
「春の場所には、何回も行ってたんだ」
しばらくそのまま進んでいると、灰原がぽつりと言葉をこぼした。
「でもね、ここをイメージしたのは初めてなんだよ」
歩みを止めた灰原が視線を頭上へと向ける。灰原の顔に浮かんでいるのは微笑みだったが、七海の脳裏には冬の場所で寮を訪れた時の灰原の姿が蘇った。
「どうしてだ?」
灰原がどんな気持ちでそう言ったのか、少しは想像できるつもりでいた。だが、灰原は笑顔の下に気持ちを隠す。きちんと問いかけることでもっと灰原に素直になってもらいたい、自分を頼りにしてほしいと七海は思っていた。
七海の問いに一度深く息を吸った灰原は、真っ直ぐにこちらを向いて静かに答えた。
「一人で行くの、怖かったんだ」
こんなふうに灰原が怖いとはっきりと口にしたことは、七海の記憶の中にはなかった。冬の寮で抱えていた気持ちを垣間見せてくれた時も、怖いや寂しいと明確に言葉にはしなかった。だからこそ、いまこうして伝えてくれたことにどれほどの意味が込められているのか考えると、胸が締め付けられる。そして、込み上げる愛おしさで苦しくなった。
「でも、また七海と会えて一緒にいろんな場所行けたから、今ならここに来ても大丈夫かなって思った。実際来てみたらここはやっぱりここはすごく綺麗で、楽しかったこともたくさん思い出せて……だから、ここはイメージの中だけど、あの頃みたいに七海と歩けてるの嬉しいって思っちゃったんだ!」
そう言ってニコリと笑みを浮かべた灰原を、七海は咄嗟に抱きしめていた。ぎゅうっと力を込めると灰原が少し息を詰める。だが、それでも七海は力を緩めることはできなかった。
時間の流れない美しい思い出の世界。仮にイメージする場所が全て色鮮やかなものでも、思い出は思い出のまま変わることはない。変わらない景色は虚構と同じではないかと、そう思った。
灰原を失ってからも、自分は変わる世界の中で十年間生きてきた。空虚ではあったが、流れる時間に身を任せていれば、考えたくないことから目を逸らすことはできた。ただ目の前で起こる事象に、冷静に対処すればよかった。
しかし、灰原は命を落としたあの夏から、時間の流れない思い出の中の世界で過ごしてきた。変わることのない世界の中で、ずっと独りきりだった。
すっぽり腕の中に包めてしまう身体は二十八の年を重ねた自分とは明確に違う子どものもので、灰原と再会してからもう何度も感じていた『流れた時間の差』をまた明確に意識させられる。あの時、何もできなかった子どもの自分は、気がつくと大人になっていた。だが、まだ子どもだった頃に生まれ、突然行き場を失くした灰原への気持ちは、心の奥底へ大切に仕舞い込んだままでいる。
「灰原」
「なに?」
「私の行きたい場所、すぐ近くなんだ」
少し腕の力を緩めると、灰原は「連れてってくれる?」と微かに濡れた瞳を微笑ませてくれた。
しっかりと灰原の手を握って向かったのは、寮のそばに植っている大きな桜の木だった。
「僕らが初めて会った場所だね」
「ああ」
入学式の前日、高専へ足を踏み入れた最初の日。
これから四年間過ごす部屋に段ボールを運びこんだ七海は、荷解きを後回しにして玄関を潜るときに目を奪われた桜の木をぼんやりと見上げていた。
これ以上、普通の世界で生きるのは無理だ。なら、せめて同じような人間がいる場所の方が少しは楽かもしれない。そう思ってここへやって来たが、もちろん誰にも頼るつもりはなかった。だが、新しい環境というものに緊張とほんの少しの不安が生まれることは正直どうしようもない。鬱々とした気持ちをなんとかしようと外に出てみたはいいものの、綺麗な春空と綻び始めている桜の花という穏やかな組み合わせを眺めても気分は晴れない。
これからずっと、呪いの世界で生きていく。それを選択したのは自分自身だが、今までも対峙してきたものより禍々しいものを相手にするのだろうと思うと、どんどん憂鬱になっていった。
『きみ新入生?』
しかし、突然聞こえたよく通る声に七海の意識は引き戻された。咄嗟に振り向くと、寮の玄関近くに高専の制服とは違うラフなパーカー姿の幼さの残る顔立ちの人物が立っている。確か学生は出払っていると聞いていたせいか、思わぬ出会いに内心動揺してしまう。なんとか『そうですけど』と小さく言葉を返すと黒髪の男はパァッと顔を輝かせてこちらへ近づいてきた。
『よかったぁ!制服じゃないから多分そうじゃないかなって思ったんだけどね!あ、僕も新入生だよ!さっき着いたんだ!もう部屋に荷物入れた?寮思ってたよりも古くてびっくりしちゃった!』
こちらが言葉を返す間もなく話続ける男に、ただただ圧倒された。しかし、何故か不快感は生まれてこず、不思議に感じたことはずっと鮮明に覚えていた。
それからニコニコと話を続けた彼は『あ、自己紹介まだだった』と、少し姿勢を正して改まって口を開いた。
『僕、灰原雄です!これからよろしくね!』
誰かの笑顔を目にして、まるで花が咲いたようだという感想を抱いたのはあれが初めてだった。しかしあの時は、灰原が笑ったと同時にまだ蕾だった頭上の桜のいくつかが花開いたように感じたのだ。
「まだ名前も言ってないのに、きみはどんどん喋りかけてくるし」
「だって、新入生と会えて嬉しかったんだもん」
「名乗ったら名乗ったで、すぐに呼び捨てにして」
「僕、いままでくん付けとかしたことなかったからさ。それに、これから二人で頑張っていくんだから、早く仲良くなりたいなぁって思ったんだよ」
新入生が自分を含めて二人であることは知っていたが、相手と慣れあうつもりは全くなかった。四年間の学生生活と、それからの呪術師としての活動に支障をきたさない程度の付き合いをしていればいいくらいに思っていた。
その、はずなのに。
「でもさ、七海もけっこうすぐ本性出してきたじゃん?」
「本性?」
「意外と口悪かったり、だいぶ頑固で聞き分け悪かったり。あと、実は寂しがりやだったり!」
「なんだそれ」
「えー、自覚なかったの?」
灰原に言われたことの前半二つはあの頃から自覚していたが、最後の一つは寝耳に水だった。だが、いまになって考えると、灰原と一緒に過ごす時間が増えるにつれて、一人でいると何かが足りないように感じていたような気もする。あの頃の自分にとって灰原の存在がどれほど大きいものだったのか、再会してから実感するばかりだ。
いま、初めて出会った桜の木の下で、初めて出会った日と同じように灰原と向かい合っている。ただ、あの時とひとつ違うのは、心の中に生まれた気持ちの正体をちゃんとわかっているということだった。
「一目惚れ、だったんだ」
真っ直ぐに向き合ってそう告げると、黒い瞳がパチリと大きく瞬いた。それから、いつも以上に瞳を丸くさせた灰原は、頭上の桜と同じ色に染まった頬をやんわりと緩めた。
「それ、知らなかった」
「初めて言ったからな」
「……もっと早く言ってくれてよかったのに」
「あの頃の私は、意気地なしだったんだよ」
七海がそう言うと、灰原は慌てて首を横に振って、困ったように眉を下げて笑った。
「ごめん、ずるいこと言った。意気地なしなのは僕もおんなじだ」
あの頃の自分にとって、灰原は初めて出会った友人で、仲間で、理解者だった。共に時間を重ね、肩を並べることができ、背中を預けることができ、寄り添いあえる存在になっていった。
それは灰原にとっても同じだったのかもしれないと、いまになってそう思う。
お互いが唯一だった。だからこそ、別の情が混ざって関係が変わることをお互いが恐れた。
誰よりも大切で、特別で、大好きだったから。
だが、別れというものは突然だった。灰原を失い、灰原と出会ってから心の中で育っていた気持ちは行き場を無くした。思い返すと苦しくて、心の奥底に仕舞い込んだら虚しくて。それでも、その気持ちを捨てることはできなかった。
後悔なんていくら重ねても何の意味もない。
本当はこんな機会があること自体がおかしい。
だから、恐れることは、もうしない。
「灰原」
「なに」
思い出の中よりも少し低い位置にある黒い瞳を、真っ直ぐに見つめる。
二人に流れた時間の差は、決して縮まることはない。けれど、また会えた。手を伸ばすことができた。言葉を届けることができた。
そして、気持ちを伝えることもできるのだ。
「私は、初めて出会った時からずっと、いまもずっと、灰原のことが好きなんだ」
こんな場面を頭の中で何度描いたか、覚えてはいなかった。ただ、数えきれないほど思い描いた想像よりも、目の前にある灰原の笑顔はまぶしくて、十五の春の日のようにまた恋をしてしまったと、七海はそう思った。
「僕も、七海のことが好き。ずっと、ずっと好きだったよ」
言い終えると同時に灰原が腕を伸ばしてきて、七海は背中を丸めて力いっぱい灰原を抱きしめていた。
きっと、灰原は苦しいだろう。そう頭の中でわかっていても、身体はいうことを聞こうとしなかった。だが、背中に回った灰原の腕にもぎゅうぎゅうと力がこもっていき、灰原の首筋に顔をうずめた七海は、おあいこだなと小さく笑った。