1月七灰原稿② 連絡を受けて駆けつけた担当医と家入に灰原が目覚めてからの流れを説明した七海は、二人が灰原に話を聞き始めるとそのまま黙って部屋を出た。
灰原の力になりたい。いつもそう思っていたはずなのに、自分も現状を把握できていない状況で灰原を安心させる言葉はなかなか出てこず、結局沈黙ばかりが流れてしまった。それに、一度は素の笑顔を見せてくれたものの、灰原から見知らぬ人間へ向ける視線を受け続けることはどうもにも居心地が悪かった。
このまま高専へ戻った方がいいだろうか。だが、散々待たせた担当教諭の説教を聞いてから一人で授業を受けるなんて、そんな気分には到底ならない。手持ち無沙汰になった七海はとりあえず選んだホットコーヒーを片手に、自販機横のソファでぼんやりと時間が過ぎるのを待った。
「なんだ」
タブも開けていなかった缶コーヒーがぬるくなった頃、よく知った声が七海の耳へ届いた。
「帰ったのかと思った」
顔を上げると、財布を手にした家入が自販機の前に立っていた。
「家入さん、灰原は」
ソファへ腰かけた家入は、同じ銘柄のコーヒーを一口啜ってから、小さく息を吐いた。
「この半年間のことを何も覚えていない」
「半年……」
正直、想像していた通りではあった。しかし、半年という決して短くはない期間の全てが灰原の中から消えたかもしれないと思うと、重苦しいものが腹の底へ溜まっていく。
「自分が灰原雄であることはちゃんとわかってるし、家族のことや物心ついてからの記憶も特に問題なさそうだった。もちろん自分が呪いを祓える人間であることも、高専からスカウトを受けたことも覚えてる。ただ、灰原の中で今はまだ中学を卒業して数日、ってことらしい」
気だるげにソファへ持たれてコーヒーの缶を傾ける家入の姿は、普段とさほど変わらない。ただ、いつも淡々としている目元に、少し力がこもっているように思えた。
「元に戻るんでしょうか?」
「今の段階では何とも言えないな。さっきも言ったけど、現状で何かしらの術式を受けているわけじゃないし、呪詛師の残穢もほとんど消えかけてる。たぶん、灰原が呪符の結界内へ入った時、脳の記憶野に何かしら術式の影響を受けたんだと思う。でも、記憶を抜かれたのか、真っ白な状態に記憶を上書きされたのかは今の段階ではわからない」
家入の話を聞いているうちに、昨日意識を失う直前の灰原の様子が蘇ってきた。
──きみを、助けに……きたのに……ごめん、なさい。
あの時点で、灰原の記憶は何かしらの影響を受けていたのかもしれない。混濁した意識のなか自分の身に起こった状況を懸命に判断し、謝罪の言葉を口にしたのかもしれない。
──ぼく……もっと、がんばるんだ、って。
中学卒業直後。まだ一人で呪いと対峙していた時の、灰原の心の声。
頑張る、は灰原の口癖だった。得意な実技に取り組む時、苦手な座学を前にした時、任務へ赴く時、任務のあと反省会をしている時。いつも前向きで一生懸命で。けれど、どこか楽観的なところもあって。だから、あんなに悔し気で必死で、そのくせあそこまで弱々しい頑張るを聞いたのは初めてのことだ。
「灰原はどんな様子でしたか?」
「記憶が無くなってるって言われた時は流石の灰原も半信半疑っぽかったけど、私は高専関係者だって説明して反転術式も使って見せたらこれは冗談じゃないんだって顔してた」
「そう、ですか」
当然の反応だろう。目が覚めたら急に半年後になっていて、見知らぬ場所で見知らぬ人間から当然のように名前を呼ばれて。記憶が無くなっていると、信じられないような話を聞かされて。驚くなという方が無理な話だ。
この半年の間、ほとんどの時間を灰原と二人で過ごした。残酷な現実も些細な幸せも灰原と共有してきた。
七海にとって灰原は初めてできた支えだった。肩を並べられて、背中を預けられて。目の前を明るく照らしてくれる、優しい光だった。
だが、灰原にとって自分はどうだったのだろう。寄り掛かれるような存在だっただろうか。弱い部分を見せられる存在に、なれていたのだろうか。
もっと詳しい検査をするから灰原の入院は伸びると家入は言った。検査結果や術式の調査結果によって、今後の灰原の処遇を決めるらしい。
「まあ、今の段階で特に術式自体にかかってるわけじゃないから、これ以上記憶が無くなる可能性は低いと思う」
「そうですか」
幸いなことではあるが、今の灰原の不安が全て解消されるわけではない。半年間の空白。そんなものを突然突きつけられることがどれほど恐ろしいのか、想像することも難しい。これからどうなるのかも不透明な状態で、灰原は一体どんな気持ちでいるのだろう。
思わず詰めよってしまったあと、灰原が見せた困ったような笑みが頭の中に蘇る。
今の自分にできることなんて。だが、何もしないまま帰ることもしたくない。ほんの少しでも良いから、灰原の気持ちを楽にしてあげたい。
七海はすっかり冷えた缶コーヒーをポケットへ入れて立ち上がった。
「帰るのか?」
「いえ、すぐに戻ります」
「そう」
家入はいつも通り淡々と返事をしたが、七海の心を見透かしたかのように微かに口角を上げた。
病室の扉をノックすると「はいっ」とよく通る声が返ってきた。
引き戸ゆっくり開くと、窺うような視線を向けていた灰原の表情が少し和らいだように見えた。家入と一緒に来た医師の姿はもうなく、灰原はベッドの上に座ってテレビを見ていたようだ。
「どうしたんですか?七海さん」
まさかさん付けをされるとは想像していなかった。戸惑っていると灰原は不思議そうに首を傾げていく。
「さんはいらない。私たちは同級生だから」
「えっ!?同級生!?」
灰原は元々大きな瞳をさらに大きくしてまじまじと見つめてくる。だが、堪えきれないといった様子でプハッと吹き出した。
「おい、笑いすぎじゃないか」
「でもっ、だって……っ、絶対年上だと思ったから!」
灰原は息をするのも苦しげに笑い続けている。
別に自分が年相応に見られない自覚はあったが、ここまで笑われるのは心外だ。そもそも半年前寮の桜の前で出会った時、灰原はこんな反応はしなかった。一体どうしてと問いただしたいところだが、それが叶わない状況に気落ちしてしまう。だが、これまで何度も目にしてきた楽しげな灰原の姿に、七海の頬も自然と緩んでいた。
「ごめんごめん……ちょっとびっくりしちゃって」
「別にいい」
潤んだ目元を拭った灰原は大きく息を吐いて七海へ向き直った。
「それでどうしたの?」
七海。
ついむすっと返事をしてしまったが、いつものように名前を呼ばれて胸がきゅっと苦しくなった。喜びと切なさが入り混じって表情がこわばりそうになる。それをなんとか堪えた七海は、手にしていた物を灰原へ差し出した。
「よかったら、これ」
七海が持っていたのは、病院の敷地外にあるコンビニの袋。しかも、それなりに大きなサイズが二つも。
一つはコンソメ味のポテトチップとチョコの染み込んだスナック菓子、焼きタラコに五目チャーハンのおにぎりが入っている。もう一つにはペットボトルの麦茶とコーラに紙パックのオレンジジュース、デザートの生クリームが乗った大きなプリンもある。
「昨日から何も食べてないからお腹空いてると思って」
灰原は好き嫌いがなく、いつもなんでも喜んで食べていた。そんな中で、灰原の反応が良かったものを懸命に思い出しながら選んだラインナップのつもりである。
ずっしりと重たいレジ袋を受け取ってから、買い過ぎただろうかと若干後悔したが、足りないよりも多い方がきっと灰原は喜ぶだろうと七海は吹っ切ったのだ。
「すごい」
袋の中を見た灰原が小さく言葉をこぼした。
「僕の好きなものばっかりだ」
「それならよかった」
灰原はぱちぱちと瞬きをしながら袋の中身を順番に取り出していく。結局全ての物がベッドの上に並び、それを眺めていた灰原はじんわりと目尻を下げていった。
「ありがとう、七海」
「どういたしまして」
コーラのペットボトルを手にした灰原が「じゃあいただきます!」と元気よく栓を開けた。ゴクゴクと美味しそうに喉を鳴らしてコーラを飲む姿も何を食べようか楽しそうに悩んでいる姿も、今まで七海が何度も目にしていたものだった。
灰原の身に起こったことはまだ何も解決していない。解決するのかも、今の段階ではわからない。ただ、こうしてなるべく灰原が笑顔で過ごせるように、自分にできることをしていきたいと、そう思った。
「灰原」
「なに?」
「待ってるから」
二種類のおにぎりを見比べていた灰原が、パチリと大きく瞬いた。
「私にとって、きみと二人で過ごした半年間はとても大切なものだ。きみと一緒だから感じられたことも乗り越えられたことも、たくさんある。それはこれからも変わらない。それに、これからまたきみと二人で過ごす時間も、きっと大切なものになると私は思っている。だから」
自分らしくない物言いをしたせいか頬がじわじわと熱を持っていく。だが、黒い瞳にじっと捉えられてもう視線を逸らすことはできなかった。
「待ってるよ。私は、灰原のこと待ってるから」
こんなの、気持ちを伝えているようなものではないか。頭の片隅でもう一人の自分がため息混じりに投げかけてくる。それに、記憶が半年前まで戻っている灰原がこれからどんな選択をするのかも、わからないというのに。
「もちろん無理はしな、」
「うん!」
しかし、七海の心配をよそに灰原は弾けた声で返事をした。
「僕頑張って思い出すね!もし思い出せなくても、また七海と一緒に頑張るからねっ!」
そう言った灰原の顔に浮かんだのは、初めて出会った時と同じ眩しいくらいの笑みだった。
*
灰原が高専へ戻ってきたのはあれから一週間後のことだった。
「あ!おはよう七海!」
いつものように教室の扉を開けると、窓際の席に灰原が座っていた。
「……おはよう、灰原」
何も聞いていなかったせいか、少し返事が遅れてしまった。
「昨日何も言ってなかったじゃないか」
この一週間、七海は時間を見つけては灰原の病室へ顔を出していた。詳細な医学的検査を一通り終えたが、灰原の脳神経系は全く傷付いていなかった。呪力の流れも最初の家入の見立て通り正常で、灰原が術式にかかった瞬間を誰も目撃していなかったら、記憶喪失の原因は本当の闇の中だっただろう。
「決まったの夜だったからさ」
「メールしてくれたらよかったのに」
「七海のこと驚かせたくて」
結局、一週間経っても灰原の記憶を戻す手がかりは何も掴めていない。しかし、灰原は「大成功だね!」と悪戯っぽい笑みを浮かべている。
可愛いな、と反射的に浮かんだ気持ちを表に出さないよう、七海は咄嗟に話題を変えた。
「どっちが自分の席か、先生から聞いてたのか?」
机は二つしかないが教科書やノートは置いておらず、誰の席かはわからないはずだ。しかし、灰原はいつものように、窓から注ぐ陽の光を背にして身体ごとこちらを向いている。
「あ、ごめん!ここ七海の席だった?」
「いや、私はこっちだよ」
慌てて立ち上がろうとする灰原を制すると、灰原は安心したように息を吐いた。
「よかったぁ」
机は二つしかないのだから半分の確率で自分の席に座ることになるし、そもそも今の灰原が席を間違っていても咎めたりしない。ただ、灰原がなんだか嬉しそうに頬を綻ばせていることが気になった。
そんな疑問が顔に出ていたのか、灰原はへへっとはにかんで口を開いた。
「こっちに座ったのはほんとなんとなくだったんだけどさ、もしかしたら無意識のところでは記憶が戻ってるのかなって思ったらなんか嬉しくなっちゃって」
いじらしい、とはきっとこういうことを言うのだろう。向けられる微笑みに、ぎゅうっと胸を鷲掴みにされたような気がした。
「頑張って思い出すからね」
「別に焦らなくていいんだからな」
「わかってる!」
灰原の状態を考慮したのか、七海もしばらく任務が入らないことになった。常に人手不足な呪術師という業界でこの扱いは良すぎる気もしたが、理由はあとから判明した。
二人揃ったのなら授業は続きから再開される。とはいえ、灰原はごっそり半年分の内容が抜けている。一般科目は外部から講師を雇っているからなんとかなるが、専門科目を担当している教師は現場にも出る呪術師で一度やった内容をまた一から教える時間は流石に取れない。そんな灰原のフォローに、七海の空いた任務時間を充てることが目的だったらしい。
授業終わりに灰原へ渡される、その日の課題とは別のプリントの束。七海にとって一度解いたことのある問題だが、中学卒業したての知識に戻ってしまった灰原にとっては理解不能な問題ばかりだろう。放課後は教室で机をくっ付けて、夕食のあとはどちらかの部屋で七海は灰原の勉強を見た。校外での呪術実習も控えているのか、午後は丸々体術や武具術に取り組み、日が暮れるまで道場にいることも多かった。
「そろそろ終わりにしよう。もう夕食の時間だ」
「えー!もう一回!さっきの動きの確認だけ!」
灰原は元々なんでも真面目に取り組むタイプだったが、記憶から消えてしまったものを早く取り戻すよう、毎日懸命に取り組んでいた。
「そんなに詰め込んだらしんどいだろう」
「全然大丈夫だよ!七海の教え方上手いから!」
よくわからない根拠だとは思ったが、褒められることに悪い気は起きない。好きな相手からならなおのことだ。灰原の記憶が無くなる前よりも、二人で過ごす時間は増えている。しかも、今の灰原は自分のことを一番に頼りにしてくれている。それがたまらなく嬉しかった。
しかし。
「やあ、お疲れ様」
「あ!夏油さん!お疲れ様ですっ!」
やはり、と言うべきか半年前と同じように灰原は夏油によく懐いた。
「硝子から聞いていたけど心配したよ。でも、思っていたより元気そうでよかった。困ったことがあったら遠慮せず私たちも頼ってくれ」
灰原が高専へ戻ってきたその日。夏油はわざわざ一年教室を訪ねてきて、灰原へそう言葉をかけた。
「夏油さんっていい先輩だね!」
二人きりになったあと、灰原は半年前と同じように瞳をきらきらと輝かせていたが、七海の胸の中は半年前とは違ってモヤモヤと燻っていた。
「熱心だね。昨日も遅くまでしていたんだろう?」
「はい!全部一からやり直しなんで、動きだけでも一通り知っておきたくて」
「ちょっと見てたけど、灰原、身体の使い方がスムーズになってるよ」
「本当ですか!今朝の夏油さんのアドバイスを意識してやってみてたんです!」
「そうか。あの時は口頭でしか説明できなかったけど、伝わってたみたいでよかったよ」
こんなやりとりは今までの半年でもよくあった。それを側で聞いていることも、また然り。灰原への気持ちを自覚したのはいつのことだったか、正確には覚えていない。ただ、思い返すと夏油と灰原が楽しげに話していると何故か面白くなく、話が終わって灰原が自分の方を向くとどこかホッとしていた記憶は、気持ちを自覚する随分前からあったような気もする。
灰原が夏油に対して憧れ以上の気持ちを持っているのかどうかはわからない。ただ、この半年の間で灰原と一番時間を共にしているのは自分であり、灰原のことを一番知っているのも自分であるとは思っている。それが自惚れだということも頭の片隅で自覚しているし、そう思い込まなければ不安になってしまう自分の弱さにはうんざりする。
七海が悶々としているうちに話が盛り上がったらしく、明日の空いている時間に夏油も灰原の組み手に付き合うことになっていた。
「じゃあ、明日の夕方顔出すよ。二人ともあんまり無理しないようにね」
「はい!ありがとうございますっ!お疲れ様です!」
「お疲れ様です」
ニコニコとしている灰原の隣で七海は小さく形だけ会釈した。別に夏油のことが嫌いなわけではないが、想い人が自分以外へ満面の笑みを向けていることにはどうしても嫉妬の気持ちがまさってしまう。そんな燻ぶった感情が、寮への帰り道でぽろりと口からこぼれていた。
「夏油さんにも教えてもらってたんだな」
「うん!今日の朝たまたま寮の廊下で会って、話してるうちにいろいろ教えてもらったんだ!重心の取り方とか、間合いのつめ方とか!あ、五条さんも今度呪力の練り方教えてやるって言ってた!」
「別にそこまで頑張らなくてもいいんだぞ」
言い方に少し棘があっただろうかと、言い終えてから七海は後悔した。隣を歩く灰原を見ることができない。
「そうだね、わかってる。無理しすぎはよくないよね。でも、なるべく早く記憶がなくなる前みたいになりたいんだ。いまの僕はいろんな人に迷惑かけっぱなしだから」
パッと顔を上げると、灰原は困ったように笑っていた。
自分の言動の浅はかさに心底嫌気が差す。灰原の支えになりたいと思っているのに、どうして些細なことで上手く立ち回れなくなるのだろう。
「迷惑とか!少なくとも私はそんなこと一度だって思ったことないからなっ」
咄嗟に詰め寄ると、普段と違う勢いに驚いたのか、灰原は瞳を丸くしてからふわりと微笑みを浮かべた。
「ありがと、七海」
「……お礼を言われるようなことじゃない」
ああ、また邪険な言葉を返してしまった。本日何度目かわからない後悔の念が込み上げたが、灰原の足の運びはどこか楽しげに見えた。
「あのさ、僕この半年の自分のこと全然わかんないけど、七海と僕がバッチリなコンビだったことはなんかわかるんだよね!」
灰原は出会った時からよく突拍子もないことを言っていた。理にかなわず、根拠もよくわからない。けれど、前向きで真っ直ぐな灰原の言葉に、数えきれないほど心を解きほぐされてきた。
「そうか」
否定も肯定もできず、短い返事になってしまう。ただ、あれだけ燻っていた胸のうちは次第に晴れていった。
「ね、七海と僕ってどんな感じだった?」
なくなってしまった記憶の話をすると灰原にプレッシャーをかけるのではないかと、こちらから話題にあげることは避けていた。灰原も座学や実技に追いつくことで必死だったのか、こんなふうに聞いてきたのも初めてのことだ。
「どんな、って」
灰原の純粋な好奇心になんと答えようか七海は悩んだ。
客観的に見ると、灰原が言うようにコンビとしてよくやっていたと思う。最初は意見がぶつかることも多かった。だが、反発し合うのではなく、お互いの考えを擦り合わせ、お互いが持っていない部分を補いあった。周りからは正反対だからピッタリ噛み合うのだとよく揶揄されたが、実のところ七海は嬉しく思っていた。
「上手くやっていたと思う。役割分担ができていたというか、いい具合にバランスが取れていたというか」
「へぇ、そうなんだぁ」
例えば?と無邪気に聞いてくる灰原に、正直恨めしい気持ちが生まれた。二人がどんな関係だったかなんて、当事者がもう一人の当事者を前にして話すことではない。しかも、相手が想い人で絶賛片想い中の状況では、ちょっとした罰ゲームだ。
「そうだな……」
なんでも口に出して物事を整理する灰原の思わぬ一言に助けられたことがある。灰原のシンプルな作戦で突破口が開けたこともある。灰原の社交的すぎる性格のおかげで、地方での任務がスムーズに進むこともよくあった。
「なるほどね、僕っぽい」
「きみの迷いが少ないところは長所でもあるが、もう少し間をおいた方がいいと言ったことは多かったな。まあ、きみは返事はいいけど、結局すぐに飛び出そうとしてたが」
「そこも僕っぽいなぁ」
「でも、私もだんだんきみに感化されてきた気がしてるよ」
「えー!そうは見えないけど!」
任務やそれに関係することならまだ客観的な視点で話ができる。ただ、灰原は聞き足りない様子で問いかけてきた。
「他には?授業とか任務以外の時って、僕らどんなことしてた?」
「別にいまと同じ感じだよ。課題をして、自主トレをして、一緒に食事して」
灰原と過ごした日々は、灰原に惹かれていった日々でもある。おかしな主観が入らないように、同級生として友人として仲間として不自然でない雰囲気を保つように、七海は意識して過ごしてきた事実だけを述べていった。
「部屋遊びに行ったりとかも?七海の部屋の丸いクッション、僕が置いてったやつって言ってたよね?」
「そうだな。大抵きみが私の部屋に来てごろごろしていたよ」
漫画や雑誌を読んだり、借りた映画のDVDを見たり。持ち込んだクッションを枕にしてうたた寝したり。
「一緒にやろうとわざわざゲーム機本体を持ってきたりもしていたな。私がそっちに行くと言ってもなぜか毎回持ってきて」
「たぶん七海の部屋のテレビの方がおっきいからかもね!」
「同じことを言ってたよ」
「やっぱり!」
片想い相手が自分の部屋で無防備な姿を晒していたというのは、喜ばしい反面なかなか辛い状況だった。しかし、思い返すとそんな些細な日常がとても大切なものだったと改めて実感する。
「そういえば、僕の部屋にも七海の部屋にもお茶碗とかお箸とか二人分あるけど、一緒にご飯作ったりもしてたの?」
「ああ。お互い冷蔵庫の中身が心許ない時とか材料持ち寄ったりして」
「そっかー!七海って料理上手だよね!こないだ作ってくれたトマトのスパゲッティめちゃくちゃ美味しかったし!」
「きみだって最近は上手くなってきたじゃないか。この前の生姜焼きとかすごく、」
言い終える前に七海は口をつぐんだ。いくら灰原から話を振られたからといって、この前や最近なんて少し酷だったろうか。だが、灰原は瞳をキラキラと輝かせて口を開いた。
「美味しかった?」
「……ああ。すごく美味しくて、ご飯をおかわりしたよ」
「そうなんだ!中学の時は目玉焼きも上手くできなかったのに僕ってやるなぁ!」
初めて一緒に料理をした時、灰原の包丁の扱い方も卵の割り方も味付けもまあ拙いものだった。それが二人で回数を重ねるうちに少しずつ上達していき、食卓も豪華になっていった。
灰原が生姜焼きを作ってくれたのは、ついこの間のこと。生姜がよく効いた濃いめの味付けではあったが、それが炊き立てのご飯によく合っていた。それを素直に告げると、灰原はこんなことを言っていた。
「じゃあ、また七海に作ってあげるね!」
頭の中に蘇った言葉が実際に聞こえ、七海は内心驚いた。目の前の灰原はニコニコと笑っている。この半年のことを何も覚えていないのに、あの日と同じ笑顔を向けてくれる。
「ありがとう、楽しみにしてる」
「うん!頑張って料理も覚えるね!」
「無理しなくていいからな」
「わかってる!」
灰原に惹かれる気持ちは大きくなるばかりで胸が苦しい。だが、苦しさの中に、ほんの少し切なさが混じっていることに七海が気がついた。
二人だけの時間。二人だけの思い出。
きみがくれた、優しくてあたたかくて大切な気持ち。
無理はさせたくはない。でも、思い出してほしい。
二人だけが知ってる半年間を。
きみに恋した、日々のことを。