3月七灰原稿進捗①1.
木製の引き違い戸を開けると、青々とした稜線とどこまでも高く広がる初夏の空が目に飛び込んでくる。庇の向こう側は眩しいくらいの日差しに照らされていて、今日は暑くなりそうだと思いながら、灰原は少し固い玄関の鍵をゆっくりと回した。
群馬県某群。その中でも、周囲を高い山々に囲まれた高原地帯の小さな村。
人口は約三千人。主な産業は農業で、寒暖差の大きさを活かして様々な野菜やくだものを栽培している。他には四季折々に装いを変える高原でのハイキングにキャンプ、降り注ぐような星空が観測できる高台や道の駅に併設した日帰り温泉施設など、観光業にもそれなりに力を入れている。
村内に駅はなく、隣接する町にある在来線の駅までは車で三十分。ただ、もう少し車を走らせると新幹線の停車駅もあるので、都心までのアクセス自体は案外悪くない。
日常の買い物は村の個人商店や生鮮食品の直売所で事足りる。日用品などは大型のショッピングモールへ行った時にまとめ買い。一応、村内にも一つだけコンビニはあるが、二十四時間営業ではないので深夜に小腹を満たしフラッと、なんて使い方はできないから、必然的に数種類のアイスや肉まんや焼きおにぎりなんかの冷凍食品をストックするようになった。
この地域は標高が高いこともあって、夏でも結構過ごしやすい。日向は太陽のジリジリとした日差しを感じても、日陰に入るとカラッとした風が心地よく頬をなぞっていく。車移動でも村内を移動する程度なら窓を開けていれば十分だ。
納屋の前に置いてある軽トラックに乗り込み、エンジンをかける。都内に住んでいた時はオートマ車にしか乗っていなかったからマニュアル車の扱いに少し戸惑ったものだが、流石に一年も乗り続けているともう自然に身体が動くようになった。舗装されていない私道を抜けて、稲の苗がスクスク育ってきている田んぼを横目に村道を走っていく。すると案の定、全開にした運転席に窓からは爽やかな風が吹き込んできて、自然と言葉がこぼれた。
「きもちー」
右腕を窓の縁に置き、片手でハンドルを操作しながら、今日の予定を整理する。
「えーっと、とりあえず萩原さんとこ寄ってからこの前回れなかった場所回って、今日はちょっと奥の方まで見に行ってみよっかなー。昼からは田島さんちと大塚さんちと、あ、そうだ、中里さんち、廊下の電気切れそうって言ってたっけ。あー、じゃあ関さんちは明日でいっか」
電球を替えるなんて大したことではないが、伴侶に先立たれたおばあちゃんは兎にも角にも話し相手を求めている。ご近所(と言ってもお互いの家は徒歩十五分以上離れている)のご婦人方も集まっていることが多々あるから、電球を替えたあとの方が長く時間がかかる。ただ、お礼と言う名の野菜や果物をいつも抱えきれないくらい頂くので、正直助かっている部分もあるのだが。
頭の中で少々予定を組みなおし、田んぼの間を抜けて少し山手の方へ向かう。しばらく走ると道の両端に灯籠が等間隔に並びだし、次第にその向こうに佇んでいる立派な石の鳥居が見えてきた。
その手前で車を停め、鳥居を潜って石段を登っていく。生い茂る木々に囲まれた長い石段は、高専の敷地へと続く階段とよく似ている。あそこを往復していた日々はもう二十年近く前のことだ。そんなことを思いながら石段を踏みしめていると、自然と小さな笑いがこぼれた。
──ほんと、人生どんなことが起こるか、わからないもんだよねぇ。
灰原が七海と共にこの村へ越してきたのは、ちょうど一年前。今日のような、爽やかな初夏の日ことだった。
*
しっかり包まっていたはずの布団の中に入り込んできた空気の冷たさで意識が浮上する。薄っすら瞼を開けると、自分と色違いのパジャマを着た七海が、もぞもぞと布団へ潜り込んでいるところだった。
「おかえり」
寝起きの回らない舌でそう呟くと、枕の位置を直していた七海が薄闇の向こうで少し申し訳なさそうに眉を下げるのが分かった。
「すまない、起こしてしまったな」
「ううん、いいよ」
布団の中の温まった空気が逃げることも気にせずに、片腕を大きく広げて七海のスペースを作る。すると、嬉しそうにはにかんだ七海は「ただいま」と額へ触れるだけのキスをして、息が苦しくなるくらい抱きついてくるのだ。
しばらく抱き締め合ってから、少し腕の力を緩めた。ベッドボードに置いていたスマホを確認すると、夜というよりも早朝と言った方がいい時間帯だった。
「遅かったね」
ハグの欲求は満たされて今度は睡眠の欲求が襲ってきたのか、七海は返事なのか欠伸なのか分からない声をこぼした。そのくせ、まだ眠りたくないと主張するように、目元をゴシゴシ擦っている。擦っちゃダメと、七海の手のひらを避けて、目元からこめかみまでを自分の手のひらで包み込む。すると、七海は嬉しそうに手のひらへ擦り寄ってきた。
お互いもうオジサンと呼ばれてもおかしくない歳だというのに、小さな子どものように甘えてくる恋人の姿には、いつもついときめいてしまう。普段スーツをきっちり纏い、頼りがいのある大人としてみんなから尊敬されている七海が、自分の前でだけ見せる緩みきった姿。それに愛おしさを感じない方が無理な話だと思う。
よしよしと、声には出さずに唱えながら指先で髪を梳くと、七海は気持ちよさそうに顔を綻ばせた。
「実は、帰る途中に緊急で一件入って」
「そうだったんだ」
「内容自体はたいしたものではなかったんだが、依頼主の要望が多くて。祓うのにかかった時間よりも、確認事項の説明の方に時間を食われてしまったんだ」
「たまにあるよね、そういうの」
「本当に、困ったものだよ」
はぁ、と七海が小さなため息を吐く。だが、眉間に皺は寄っておらず、瞼はほとんど落ちかけている。
「ゆう」
「んー?」
寝かしつけるようにやわやわと頬をマッサージしていると、舌足らずな声で名前を呼ばれた。
「そろそろ隠居しないか」
「んん~、そうだねぇ」
隠居、というのは疲れた時の七海の口癖だ。
二十代の頃は「労働はクソ」とよくこぼしていたのが、三十代に入ると「三ヶ月くらい休みたい」「いっそのこと一年くらい休んで世界を周遊しようか」と口にするようになった。それが三十代半ばを越えた辺りからは、仕事を辞めた後のことを具体的に考えるようになり、四十も目前になってくると「隠居」という言葉を使うようになったのだ。
「前は海辺がいいかと思っていたけど、最近は山もいいなと思い始めていて」
「へぇ、そうなんだぁ」
「庭の広い一軒家で、ああ、二人だから平屋でもよさそうだな、縁側があったらそこで飲みたいな……いや、うん、それで、庭で家庭菜園なんかもできたらいいなと。採れたての野菜ってきっと美味しいと思うんだ」
「じゃあ、建人のご飯もっと美味しくなっちゃうね」
「かもしれないな」
こんな会話を交わすのは初めてではない。仕事を辞めて自由に暮らすのなら、という空想のは誰だって一度はしたことがあるだろう。
とはいえ、社会人はそう簡単に自由になれるものではない。理想を夢見ながら眠りにつき、朝起きてからも夢が頭に残っていれば、今度の休みは山の方へ行ってみようかと相談したり、マンションのベランダでも家庭菜園はできるのか調べてみたりと、夢の一部分を叶えるため少し行動を起こすくらいだ。
しかし、今日は少し違っていた。
腰に回っていた七海の腕に力がこもる。緩みきってきた目元が少し険しくなったと思えば、しがみつくように首筋へ顔を埋めてきた。
「建人……?」
七海は何も言わないままぎゅうぎゅうと抱き締めてくる。落ち着かせるように広い背中をゆっくりトントンと叩いていると、七海はぽつりと言葉をこぼした。
「人生、なにが起こるかわからないだろう」
「うん」
「こんな仕事をしていたら、余計に」
「うん、そうだね」
七海が言葉の奥に隠した意味については、ちゃんと分かっている。必死に抱きついてくる七海の大きな手のひらが触れる場所。腹を裂いただけでなく、胴体をも分離しかけた、大きくて深い傷の痕。
「だから、自分はどんなふうに生きていきたいのか、自分は何をやりたいんだろうか、とか最近改めて考えてしまって……」
「そっかぁ」
「歳だな」
「かもね」
話しているうちに落ち着いてきたのか、小さく笑う七海の吐息が首筋を掠めた。
「もちろん、さっきの話とか今まで話したことは、雄がよければのことだよ」
「うん」
「当たり前だけど、無理強いするつもりもないし」
「わかってるよ」
お互い人生の半分以上を一緒にいるのだ。この世界の誰よりも──もちろん七海の両親にも負けないくらい、七海建人というひとのことを知っている。そんなふうに自惚れてしまうくらい、二人で過ごした時間は長くて、濃くて、深いものだと、確信しているのだ。
「それに、やりたいことを一人で叶えようとは全く思わないんだ」
「そうなんだ」
「ああ。やっぱり、私にとって一番大切なのは、雄と一緒にいられることだから……雄がいないと、意味がないから」
とはいえ、七海がここまでストレートに気持ちを伝えてくることは珍しくて、内心動揺した。
「……僕も、建人と一緒がいいよ」
「よかった」
「ていうか、当たり前じゃん」
「そうか」
「そうだよ」
なんとか言葉を返したはいいが、じわじわと上昇する体温に気がついているのか、七海は耳元でクスクスと笑っている。それがなんだか悔しくて、もう寝るよっ、と七海の背中をリズムを付けて叩いた。
「ゆう」
「ん?」
「あいしてる」
もうほとんど夢の世界へ入り込んでいるにもかかわらず、名前を呼んで、愛を囁くなんて。
「僕も、愛してる」
けれど、もし反対の状況になったら自分も同じこと言っているだろうなと心の中で笑い、優しく言葉を返した。
どんなふうに生きる、かぁ。
規則正しくなった七海の呼吸に耳を傾けながら、灰原はぼんやりと思考を巡らせた。
呪術師なんて仕事をしていると、死ぬことと同じくらい生きることについても意識させられる。むしろ、どう生きるのか自分なりにイメージを持てていないと、呪術師なんてやっていけないとも思う。
呪術師として自分なりにどう生きるのか、というイメージは高専へ入学を決めた時から根っこの部分は変わっていない。自分に出来ることを精一杯頑張る。自分が持つ力で誰かを助ける。きっと七海も同じようなこと考えを持っているはずだと、呪術師として七海と過ごした時間からそう思えた。
ただ、七海建人という個人としての『生きる』というイメージの中に自分が欠かせないということを、あんなにもはっきり告げられたのは初めてだった。
七海と出会って二十年余り。
たった二人の同級生、背中を預けられる仲間。友情という感情にいつしか恋というものが混ざり、一生懸命ふたりで恋愛をして、少しずつ愛情の比率が大きくなって。
そして、出会ってから二度目の夏の終わり。死の縁から目覚めたあと。包帯だらけの手を握って涙を流す七海を見て、この先ずっと、文字通り死が二人を別つまで、自分たちは一緒にいるのだろうと、お互いが唯一無二の特別な存在なのだと、不思議とそう確信した。
死ぬことと同時に生きるということを強く意識したあの日から、七海と一緒にいられるだけで嬉しくて、七海が隣で笑っていると幸せで。七海と一緒に生きている、という事実で心は充分に満たされていた。だからだろうか、それ以上どんなことを求めたらいいのか、深く考えたことがなかったのだ。
もちろん、自分のことを欲のない人間だとは思わない。日常の中の小さな願いや望みはたくさんあって、呪術師としての生き方も目標も自分なりに持っている。ただ、灰原雄個人としてどう生きるのかと問われたら「楽しく!」くらいしか答えられないだろう。自分としてはそれでもいいと思ったし、きっと七海も「雄らしいな」と笑って肯定してくれると思う。
けれど、それだけでは、なんだかもったいない気がしてきた。
七海と一緒に、楽しく生きる。じゃあ、どんなふうに生きたらもっと楽しくなるだろう。
海か山かって言われたら、僕は山かな。建人が言ってたみたいに家庭菜園もいいけど、どうせなら米作ってみたいよね。素人にできるのかな?あとはなんだろ……山って言えば……芝刈り?芝刈りってなんだっけ?
自分の想像力の貧困さにうーん、と小さく唸ってしまう。ちょうどそのタイミングで腕の中の七海が微かに身じろぎ、慌てて息を止めた。幸いなことに七海は規則正しい寝息を立てるだけで、ホッと胸を撫でおろす。
すよすよと穏やかに眠る七海を眺めていると、自然と胸の奥があたたかくなる。けれど、今は少し申し訳ない気持ちも滲んできた。
隠居したい、から始まるやりとりは七海のちょっとしたガス抜きだと思っていた。けれど、自分が想像していたよりも、七海はたくさんのことを考えていたのだと気づかされた。
──やっぱり、私にとって一番大切なのは、雄と一緒にいられることだから。
そう言われて、嬉しくないわけない。だが、一番大切なことだけを優先して他の気持ちを簡単に諦めてしまうなんて、こっちからすればなんだか不本意だ。
もっと我儘になっても、欲張りになってもいい。だって、僕は七海のことを愛しているし、七海に愛されていることもちゃんと知っているんだから。
考えても答えが出ないことは結構多い。そんな時は、具体的に行動してみる方が案外上手くいく。行動力には昔から自信があるのだ。
七海が話してくれた、二人での生き方。それを実現するためにはどんなことが必要なのか、調べてみようじゃないか。