3月七灰原稿進捗④*
目を覚ますと、視界に入ったのは少し日に焼けた殺風景な天井だった。
初めて見る天井だが、よく似た光景は今までも何度か目にしている。
ああ、ここは。
安堵したのも束の間、全身の至るところから熱を持った痛みに襲われ、灰原は小さく声を漏らした。
「雄?」
反射的に閉じてしまった瞼をおずおずと開く。すると、微かに眉を寄せた七海がこちらを覗き込んでいた。
「ゆう」
「……けんと」
もう一度、さっきよりもゆっくりと名前を呼ばれる。痛みを紛らわすように深呼吸をしてから同じようにゆっくり名前を呼ぶと、七海の表情が和らいだ。
「ここ、病院?」
「そうだよ。痛みはどうだ?」
「痛いけど、まあ大丈夫」
「そうか」
少し無理をして笑ってみせたが、何もかもお見通しなのか七海は困ったようなため息をこぼすだけだ。それでも、頬を包み込む手のひらから伝わる七海の温もりは、ただ優しかった。
「どこまで覚えてる?」
「……崖から降りて、建人に電話かけたところかな」
「落ちた、の間違いだろ」
「えー、違うよ。二人を庇いながら降りたの」
「十メートル以上の崖は、降りる、とは言わない」
こんなふうに冗談を交えることができるのは、大事に至らなくてよかった、というふたりの間だけの暗黙のコミュニケーションの一つだ。もちろん、若い頃はそんな余裕はなかったが、必要以上に心配を口にしてもお互いに心労が重なるだけだと、少しずつ経験を積み重ねた結果のやりとりだ。
「女の子は?」
「掠り傷程度だそうだ。犬も元気だし、治療が終わって少し前にご家族と一緒に家へ帰ったらしいよ」
「よかった」
せっかく助けたというのに意識を失ってしまうなんて。見知らぬ大人が動かなくなる様子を目の当たりにさせられて、まだ小さな身に余計な負担をかけてしまった。
「まあ分かっているとは思うが、きみはそこそこ重症だからな」
右腕が折れたことは自覚していたが、それ以外にも右肋骨下部にヒビ、左足関節は酷い捻挫で、その他全身に多数の打撲があって、何なら頭も数針縫ったようだ。
「頭部のCTも撮ったが異常はなかったらしい。念のため数日は入院して経過を見るそうだ」
「そっか。わかった」
呪力で肉体を強化していたからこの程度で済んだのだろうが、それでもここ数年の内で結構酷い受傷具合だ。しかも、その原因が呪霊ではないのだから、本当に人生なにが起こるか分からない。
そんな心境が伝わったのか、やんわり包まれていた左手がぎゅっ、と握られた。
「着信があった時、てっきり今から帰る連絡なのかと思って、夕飯のおかずのリクエストを聞こうと思ったんだ」
「うん」
「でも、きみの声はよく聞こえなくて、そうしたらスマホが落ちた音と子どもの泣く声がしたから、これは何かあったんだとすぐ家を出たよ」
「だからエプロンつけたままなんだね」
「そうだよ」
七海は苦笑したが、浮かぶ笑みはどこかぎこちない。
「通話を切れないからとりあえず萩原さんのところへ行って、正確な位置情報を伝えて救急車を手配してもらったんだ。スマートウォッチが役に立ったな」
「ほんとだね」
出向が決まったあと、ほとんどの任務が単独で回ることになるからと、万が一の事態を想定して緊急通報や位置情報が自動的に共有できるスマートウォッチを買った。まさか初めてその真価を発揮することになったのが、任務ではなく人助けとは思ってもみなかったが。
「……倒れているきみを見つけた時、本当に、血の気が引いたよ」
そう絞り出すように言った七海が、ぐっ、と唇を結んだ。
おそらく七海は、救急車の手配を頼んでから位置情報を頼りにそのままこっちへ来てくれたのだろう。
呪術師になってから二十年余り。入院が必要な負傷は何度もあったが、現場で意識を失うような負傷は数えられる程度だった。それに、二十代半ばで準一級に昇進したあとはそんなことほぼなかったと言っていいし、大抵の任務に補助監督が同行していたから、七海へ連絡がいく時には傷の具合もはっきりしていることが多かった。
だから、一体どんな経緯で怪我をして、一体今どんな状態なのか。そんな何も分からない状況を突き付けられて、七海がどれほど不安だったのか想像すると胸の奥が苦しくなる。
「ごめんね」
「ああ」
七海が少し眉を下げて微笑む。それは泣くのを我慢しているような表情で、今すぐ思いきり抱き締めてあげられないことがひどくもどかしい。
なんとか力を出して、左手を包む七海の手をぎゅっ、と握る。そこでようやく、七海は安心したように少し目元を緩めた。