五月の新緑が、昼中の風に揺らされて涼し気に香る。
学園長自慢の林檎の木には、白いいくつもの小さな花が今を盛りと蕾を開かせていた。
それに負けじと若さを主張するのは、生徒たちの楽しげな歓声。ランチタイムの中庭は、いかにも男子校らしい喧騒と陽気に満ちている。
しかし今はそこに、落ち着いた――というよりはやや疲労の滲んだ声が、ひそやかに紛れ込んでいた。
「こうして見ると素直で健やかな若者たちにしか見えないんですけどねえ。ほら、あんな風に肩を寄せ合って仲良さそうにしてますし」
「学園長、あれは肩を寄せ合っているというよりは胸倉を掴んでいるのでは?」
クルーウェルの言葉に、隣のサムが笑い声をあげた。
三人はこれから始まる打ち合わせのため、学園長室へ向かうところだ。
午前中の仕事で強張った体に、初夏の日差しが心地よい。
「元気がいいのはいいんですけどねえ。今日こそはトラブルの報告がゼロであることを祈りますよ」
ため息とともにこぼされた愚痴にサムは笑って、学園長の肩を叩く。
「何か精のつくドリンクでも届けさせようか?」
「そうですねえ……」
学園長の返事は力ない。
それを聞きながら、サムは校舎を見上げた。視界の端で何かが動いた気がしたのだ。丁度真上に昇った太陽が眩しくて、目を細める。大方、誰かが教室でふざけているのだろう。視線を走らせれば予想通り、上階の開いた窓から実験着を着た学生が見えた。数人が、じゃれ合っているようだ。貴重な薬品が多数置いてある実験室であんな風に遊んでいるのがわかれば、クルーウェルがどんな仕置きをするか――。
サムは二人に見えないように肩をすくめて、そのまま通り過ぎようとした。しかし――。
学生たちのおふざけは、かなり盛り上がってしまったようだ。ガラスが割れるような音と、叫び声がした。瓶をいくつか倒したに違いない。そしてそのうちの一つが、窓から転げ落ちるように飛び出したのが見えた。
学園長とクルーウェルもこれには気づき、同時に目を向ける。そして鋭い声が、響いた。
「――仔犬! 避けろ!」
◇◇◇
昼食は、中庭で食べる。これは監督生の日課だ。
今日は外に出ている生徒がいつもより多くて、少し騒がしい。先に来ているはずのグリムを探しながら、監督生はゆっくりと歩を進めた。
来週までに、レポートをまとめなければならない。今日の放課後、図書館に寄った方がいいだろう。
頭の中は、先の授業で出た課題でいっぱいだった。
だから、背後からクルーウェルの大声が聞こえた時も、一瞬反応が遅れてしまったのだ。
突然大きな足音が近づいて、振り向けばいきなり体に衝撃が走った。誰かに飛び掛かられたのだと、直後に気づく。思わず目をつぶった次の瞬間には背中を強く地面に打って、息が止まった。同時に何かが割れるような大きな音が、すぐ近くで響く。
その後に訪れたのは、しばしの静寂。
何が起こったのかわからず混乱しながらも、監督生はおずおずと目を開けた。
下が芝生だったせいか、そんなに痛みはひどくなかった。それよりも、一緒に地べたに倒れこんだ人がいる。ぎゅうぎゅうに抱きしめられているせいで、前が見えない。忘れていた息を吸い込めば、どこか蒸留酒のような、ミステリアスな香りが鼻をかすめた。乱れた呼吸が、髪にかかるのを感じる。
「あ、の――」
戸惑いながらも声をかければ、すぐに腕の力は緩められた。相手は素早く上半身を起こすと、監督生の顔を、慌てたように覗き込む。
「大丈夫かい!?」
「は――」
はい。そう言おうとしたのに、監督生は言葉を続けることができなかった。
正午の太陽が、丁度目の前の顔の、真後ろにある。
逆光で顔が影になったその人は、いつもの笑顔を忘れてしまったように真剣な表情をした、サムだった。
彼は焦ったように、答えを促す。
「怪我は? 痛いところはない?」
トレードマークの帽子はどこにいってしまったのだろう。乱れたドレッドヘアが顔にかかって、いつもの彼とは違って見えた。ペイントの施された首筋に、うっすらと汗がにじんでいる。監督生はこの学園に来て初めて、サムという人の顔をじっくりと見た。
すっきりと通った鼻梁に、夜を思わせる滑らかな肌。
そして、どこまでも、底の知れない瞳。
――彼は、こんな目の色をしていたのだ。
「だい、じょうぶです」
やっとの思いでそれだけ言うと、サムは軽やかに立ち上がり、監督生に手を差し出した。それに掴まり身を起こせば、すぐそばに散乱したガラスの破片が目に入る。いかにも怪しげな煙が立ち上るそれは、もしかして自分にぶつかるところだったのだろうか。そう気付いて、監督生は目を見開いた。
「それは良かった」
再び監督生がサムを見た時、彼はもういつもの楽し気な空気を取り戻していた。立ち上がり、手を離す。手袋越しだったというのに、彼の体温がいつまでも残っているような気がして、それが監督生には意外だった。
サムの持つ不思議な雰囲気のせいだろうか。どうも自分は、彼のことを少しだけ違う世界の人だと思っていたのかもしれない。だけど、当たり前だがそんなことはないのだ。サムの手のひらは、自分と同じように熱かった。
監督生が言葉を探しているうちに、いくつかの足音がして、憤慨する声が近づいてきた。
「何ですかねもう! 危ないじゃないですか」
「大丈夫か、仔犬」
「は、はい」
駆け付けた学園長とクルーウェルは、落ちたガラス片を見て、ショックを受けたようだった。
「あー! これは! クルーウェル先生!」
「アクロマンチュラの毒ですね……こんな希少品を……」
「あ~何という事でしょう! これひと瓶でいくらすると思ってるんですか!」
学園長はわなわなと震えながらこの世の終わりのような声で嘆き、それから唇を尖らせると、きびきびと指示を出した。
「サム君、上にいる生徒を連れてきてください! 私達はここを片付けますので!」
サムは片手を上げて了解の意を示すと、監督生に背中を向ける。彼が一歩踏み出したところで、監督生は慌てて声をあげた。
「あの、サムさん……!」
彼は振り向くと「どうしたんだい?」というように、眉を上げて見せた。
「……ありがとうございます」
今、自分は彼に命を助けられたのかもしれない。監督生は今になって急に、動悸が速まるのを感じていた。
サムの目が、満足げに目を細められる。
「何度だってお任せあれ――」
その赤みを帯びた紫の瞳は、どこまでも深く、捉えどころがない。彼はからかうように口の端を上げた。
「かわいい小鬼ちゃんに抱きつけるならね」
今度こそサムは振り返り、校舎の方へ足早に向かう。その先に、落ちている彼の帽子が見えた。
今のは、単なるジョークなのだろう。監督生は、速まる鼓動を落ち着かせようと息を吐く。動揺しているのは、単に危険な目にあったせいだ。
学園長とクルーウェルがひそやかに交わす会話が聞こえる。
「しかしサム君、もの凄く速くなかったですか?」
「奴があんなに血相を変えるとは……珍しいものが見れましたね」
「タイムを計れば記録が出たんじゃないですかね? 陸上部の顧問、お願いしちゃいましょうか? ……なあんて、笑ってる場合じゃないですよ、またトラブルです! あああ今時期発注できるでしょうか」
学園長の嘆きも、監督生にはどこか遠くのものに聞こえた。
自分を見つけたグリムが呼ぶ声も、何故だか頭に入ってこない。
「おい、こんなところにいたのか、探したんだゾ」
腹が減ったと騒ぐ相棒を、監督生は上の空でなだめる。
「うん、ごめんね」
「ん? オメーなんか顔赤いんだゾ。病気か?」
「……ううん、何でもないよ」
心地よい風が吹いて、制服の裾を揺らす。
かすかな林檎の花の香りが、甘やかに香った。