色とりどりの花々が咲く夜の庭を照らすのは、無数の松明。
その灯りが反射して、紳士淑女の身を飾る宝石が星のようにきらめく。
私は落ち着かなくて、右手で左手の先を握ったり、その逆に組み替えたりした。
アジーム家の贅を尽くした宴に参加するのは初めてではないけれど、どうしても緊張をしてしまう。今はカリム先輩がいないので、なおさらだ。それでも代わりにジャミル先輩がつかず離れずの目立たない位置で見守ってくれているので、少しだけ心強い。
私は、今日すでに何度もしたようにジャミル先輩の顔を盗み見る。本当は隣に来てほしいのに、従者の立場でそれはできないのだそうだ。
二階のテラスから、異国情緒あふれる音楽が聞こえてくる。
行きかう招待客たちの間で交わされるのは、事業に関する取引や、流行のファッションの話題。それから遊びのような、恋のかけひき。けれども初めて会う男性二人と私は、庭に置かれた椅子に座って、当たり障りのない映画の話をしていたはずだった。
見るからに身なりの良い彼らは皆、礼儀正しい。ただしそれは、お酒が入りすぎなければ、という条件下に限るようだった。どうも少しばかり飲みすぎたらしい若者が、赤ら顔でへらへらと笑う。
「それでね、今日が何の日か知っているでしょう」
「ええと、すみません。今日、ですか……?」
いきなり話題が変わって戸惑う私の言葉に、壮年の男性が驚いたようだった。こちらも顔色は、似たようなものだ。
「うら若い女性がラブウィークをご存じないのですか」
「ラブウィーク」
なんてことだ、という芝居がかった声を上げ、若者の方がグラスをテーブルに勢いよく置いた。ガラスが割れるんじゃないかとついハラハラしてしまう。多分、グラスも高いだろうから。
「男性が恋人に、愛をささげる一週間ですよ。バレンタインデーはご存じでしょう」
その言葉で、私はやっと合点がいった。
どうりでここ数日、カリム先輩がいつも以上に花やらぬいぐるみやらをくれたわけだ。熱砂の国版、バレンタインということなのだろう。ちゃんと説明してくれたらいいのに。時々彼は、言葉が足りない。
それでもカリム先輩の気持ちが嬉しくて、無意識のうちに笑みを浮かべてしまったらしい。若者とおじさん――名前が覚えられないのだ――は、私を見て苦笑した。
「どうやら、お心当たりがあったようですね」
「それは勿論、アジーム家のご子息ならば豪勢な贈り物をされているでしょう」
「ええと、まあ」
ついはにかんでしまう私を見て、彼らは何を思ったのだろうか。どうも、酔っ払いの何かに火をつけてしまったらしい。若者は身を乗り出してこう言った。
「それで今日がキスの日なのですが!」
「は、はい」
「ぜひ貴女に敬愛の口づけを捧げる栄誉を授かりたいのです」
「……く、くちづけ」
この人は今、口づけと言ったのだろうか。とんでもないことに聞こえたけれど、あまり強く否定はできない。なにせ、この酔っ払い坊ちゃんは確か、たいそうお偉いナントカ家のナントカ様なのだ。
私は困ってしまって、おじさんの方に助けを求める視線を送った。ちなみにこのおじさんも、もの凄くお金持ちである。彼はかしこまった表情で、重々しく述べた。
「それは聞き捨てなりませんな」
若者を制止してくれたおじさんに思わず感謝の念を送りそうになったけれど、その気持ちは一瞬で消えた。彼は負けじと、張り合うように言ったのだ。
「その権利は、ぜひ私にお授けを」
「は、いや、それはあまり、いい考えではないような、気がします」
慌てて断ろうとしたけれど、お上品な言い方がわからなくて下手くそな通訳みたいになってしまう。しかしそれも大した問題ではないようだった。彼らは勝手に話を進める。
「もちろん、唇にするわけではありませんよ。そんなことをすれば――」
若者の方が、おどけたように肩をすくめる。
「彼に殺されてしまいそうだ」
最初、カリム先輩のことかと思ったけれど、若者の視線から察するに、どうやら彼とは少し離れたところに控えつつ殺気を振りまいているジャミル先輩のことのようだった。こちらを凝視しているけど、確かに顔が怖い。
「カリム殿は、随分と忠実な従者をお持ちだ」
おじさんは大げさに目を見開いてみせたけど、ジャミル先輩の場合、忠実とかそういうのではないと思う。つい引きつりそうになる笑顔をなんとか取り繕っているうちに、おじさんが再び話題を元に戻そうとした。彼はうやうやしく手のひらを差し出すと、もったいぶって言う。
「ではレディ、是非その白魚のごときお手に口づけを」
「……ええと、それくらいなら」
私は内心、ほっとした。手にキスするくらいなら、きっとこういう場では普通のことのような気がする。映画とかでも見たことがあるし。
「いや、それではつまらない!」
「え」
安心したのもつかの間、次はどこにキスをするかという事で、議論は白熱しだした。彼らは場所ごとにキスの意味があるとかなんとかと言い争い、ついでにどれだけ私が美しいかを語りつくし、最終的に馬鹿げた結論を導き出した。
「ふむ、足というのも乙なものですな」
よく知らない私に彼らが語った話によると、足へのキスには隷属の意味があるということだった。
「名案ですね! これほど魅力的な女性にならば、魔人でさえ喜んで服従するでしょう」
さっきから彼らは何かと持ち上げてくるのだけど、これはカリム先輩へのおべっかと、あとは単にへべれけになっていて何も見えていないのだろう。着ている服は熱砂の国のもので綺麗かもしれないけど、これは勿論、全身借りものだ。
「あの、ちょっと……それは」
「足にする口づけも嫌だと言うのですか」
「もしかすると嫉妬深い恋人をお持ちなのかな」
なにが面白いのかわからないけど、二人は声を上げて笑う。
「ではその美しい靴に、ということで譲歩いたしましょう」
「いいでしょう、飲み比べで勝った方が美姫の靴に口づけをする」
「乗りました!」
勝手に乗らないでほしい、これが、上流階級の戯れというものだろうか。靴にキスして何が楽しいんだろう。多分、彼らは飲む口実が欲しいだけなのだ。こうなっては、もう止まらない。私が何を言っても二人は笑うばかりで聞いてくれないし、次から次へと運ばれてくるグラスはどんどん空になった。
これはいったいどうしたものか。あまり強く言って、カリム先輩の迷惑になってはいけないし……。それにしても、こういう場での気の利いた切り抜け方のひとつも知らないなんて、よく考えたら準備不足にもほどがある。後で調べておいた方がいい。マナー本に載っているかは怪しいけれど――パーティで靴にキスをされそうになった時の対処法――とかそんな項目が。
しかしそれはそれとして今できることといえば、ただひとつ。つまり、ジャミル先輩に視線を送るという、なんとも情けないことだけだった。私は眉根を寄せたり、目を見開いたりして、さりげなく表情でこの窮状を伝えた。どう受け取ったのかはわからないけど、彼は見た者すべてを凍りつかせそうな目で私を睨む。随分と、機嫌が悪いようだ。少し焦ったけれど、それでもジャミル先輩は仕方なし、という顔で足を踏み出した。彼はこういう場ではいつも控えめだけど、それでも本当に私が困れば助けてくれるのだ。
ほっと安心した私の視界が、その時突然目の前に立った誰かの体で遮られた。ジャミル先輩が見えなくなって、代わりに現れたその人を見上げた私は、安堵の声を漏らす。
「カリム先輩」
「いい子にしてたか? 監督生」
熱砂の国らしい華やかな装いをしたカリム先輩は、松明に照らされていつも以上に凛々しく、大人びて見えた。
「これはこれはカリム殿。お久しぶりですな」
「カリム殿、お元気そうで何よりです」
「ああ! 楽しんで――くれてるみたいだな。良かったぜ」
カリム先輩はすっかり出来上がった男性陣を見て、快活に笑った。彼は酔っ払いたちと二言三言会話を交わし、かと思うと椅子に座る私の足元に音もなくかがみこむと、両足の靴を脱がせてしまった。
「あの、先輩?」
カリム先輩は私の呼びかけには答えることなく、その芸術品のように美しい刺繍の入った靴を、テーブルの上に乗せる。
「見てたぜ、これにキスするんだろ」
口の端を上げたカリム先輩を見て、酔っ払い二人は目を見合わせた。
「靴なら二人にやるよ。だけど悪いな――」
不意に彼の腕が伸びてきて、私はあっという間にふわりと抱えあげられてしまう。
「中身はオレのだから」
そう言うと、カリム先輩は私を横抱きにしたまま、その場を後に歩き出した。香水をつけているのだろうか。花のような甘さに混じって、秘密めいた深い男性的な香りが鼻腔をくすぐる。それは腹立たしいほどに、彼の魅力を引き立てていた。
力強いその腕を布越しに感じて、私の胸はどうしようもなく高鳴る。
酔っ払いたちはカリム先輩の振る舞いが大変お気に召したようで、大声を上げて笑っているようだ。彼の肩越しに覗くと、ジャミル先輩が二人に更にお酒を勧めているのが見えた。
「お借りした靴が……」
「ああ、あれお前のだぞ。悪いな、勝手にやっちまって」
「え、てっきり貸していただいたのかと」
「貸す? なんでだ?」
心底わからなそうなカリム先輩に、説明する気は起きなかった。
それよりも、抱かれた肩が熱い。まるで体の中で一万もの小さな羽がはばたいているように、私の心は騒いでいた。それは宴の喧騒から離れても、一向におさまることはない。
家族用のプライベートな棟までくると、そこはひっそりとした静寂で包まれていた。聞こえるのは、カリム先輩の靴がタイルを踏む硬質な音に、どこからか聞こえる流れる水の音。それから時折、夜を震わす虫の鳴き声。
私は、無性に甘えたくなって、小さく彼の服を握った。
「先輩――」
「ん?」
彼の部屋の重厚な扉の前に着いてもまだ、カリム先輩は私を降ろそうとはしなかった。
「今日はキスの日だそうです」
恥ずかしくて、目を見られない。こんなことを言ったら、まるでキスをねだっているみたい。
だけどもちろん、ねだっているのだ。
「なんだ、気づいてなかったのか」
彼は笑った。
「もう日付、変わってるぜ」
そう言うと、彼は私を抱く腕に力を込める。きつく抱きしめられると私たちの距離はいっそう近づき、自然と顔が触れ合った。
「今日は、ハグの日だ」
くすぐったくてくすくすと笑う私に、彼は頬を摺り寄せる。
「まあ、キスもするけどな」
扉が開いて、そして閉まった。