今ここに居る奇跡 この日バーンと二度目の対談に臨んだクロムは、ほんの数秒、会議室で白昼夢を見た。
空想の中で、彼は黒雲が垂れ込める荒野に独りで立っている。上空では数多の稲光が雷鳴を響かせ、不穏な雰囲気を醸していた。先刻まで目の前に座っていたバーンの姿はどこにも見えず、クロムは驚きと共に辺りを見回す。何事かと空を仰ぐと、ちょうどそのとき漆黒の龍が雷雲から出現した。
魔性の生物は凶暴な目を光らせ急降下し、地上に居るクロムへと迫った。
飢えた獣の如き瞳と、触れたものすべてを引き裂く爪牙。魔龍の凄まじい形相が空を見上げるクロムに肉薄した。‟はっ”と目口を開きクロムは息を止める。己を丸呑みにするであろう龍を前に、彼は微動だに出来ずそして。
龍の口が彼の目に闇を見せつけたとき、
「どうしたんだい? 龍宮クロム」
バーンが柔らかな声で、微笑をたたえながら問うた。
「……!」
クロムが我に返るとそこは円卓の会議室で、黒雲も龍も存在しない。クロムを脅かすものは何一つなく、龍宮クロムはようやっと、己が幻を見たのだと思い至った。心の中で‟はあ”と深い溜息をつき、何事もなかったかのように取り繕う。彼等が身を置く場所は前回対談した場所で、時刻は午前十時半。空は梅雨明けの快晴であり、窓から射し込む光は眩しく、現実の空は白昼夢とは真逆の様相だった。
クロムは軽く双眸を伏せ、‟何でもない”と短く答える。実際は彼の中では事件があったのだが、クロムはそれを語らず己の胸に留めた。バーンは甘い笑みをそのままに軽く首を傾げる。優美な顔は白昼夢の直前と何ら変わりなく、クロムはこのときようやく胸を撫で下ろした。
たとえ自分が白昼夢にて龍に喰われようと、それはただの妄想に過ぎない。現実は不穏とはかけ離れた日常だ――クロムは恐ろしい幻を脳内から振り払った。
対談の場には二人以外に司会者の姿もあって、前回と同じ男性は落ち着いた声で口を開く。男はあの日の重苦しい空気を知っていたが、つとめて冷静に、何も知らないふうを装っていた。
「本日の対談のテーマは前回と同じく‟ベイブレードの未来”です」
司会者は当時の再現を覚悟していたが、この日はかつてと打って変わり二人とも穏やかである。まずはバーンが持論を聞かせ、クロムが応じる展開となった。
「私の志は変わらない」
美青年が自信に満ちた顔で告げる。
「ベイブレードの未来は速さ――そして私は最速を極めるため、ベイブレードの研究を進める。速さこそが私の歩む道で、ノブレスオブリージュだ」
青年は不変の信念を胸に宿し、確固たる信念の下歩んでいく。その姿にクロムもまた口元を綻ばせ、己が思うところを言葉にした。
「オレは修練こそ、ベイブレードを更なるステージに上げるのだと思っている。ただ修練を積み、強さを追い求め……その先にベイブレードの未来がある、と」
過酷なトレーニングを重ね肉体を追い詰め、クロムはベイの腕を更に高めている。たとえ仮面Xに敗れようとペンドラゴンは未だ頂上に在り、彼もまたチャンピオンチームのリーダーとして活動していた。強敵を迎え撃ち、頂上の座を守り続ける。彼は強さを極め、その先に己が目指す道があると信じていた。
‟オレにとってのベイは道――最強への道です”
アマチュア時代から変わらぬ信念を抱き、己の道を邁進する。頂上決戦から刺激を受けベイブレードが進化を遂げる中、二人は昔と同じ心を今も保っていた。もっともクロムは黒須エクスに執着するあまり一度道を見失ったが……紆余曲折を経て、彼はあの日の彼に精神を戻していた。
対談は穏やかな雰囲気で終わり、司会者は満足そうな表情で‟ありがとうございました”と締めくくる。クロムは軽く息を吐き、満足そうに口元に笑みを乗せた。かつて殺伐とした空気をもって対談を終えた二人は、このときはまるで旧知の友人と顔を合わせるようであった。二人とも外見はさして変わらなかったが心はあの日から大きく変化している。どちらも成熟し、相手に敬意を抱いていた。
「顔を合わせるのも久しぶりだな」
「本当にね」
クロムの言葉にバーンも同意する。昔の彼は胡散臭かったが今は違った。緋色の目がクロムの翠眼を見つめ、感慨深そうな感情を宿す。時は流れ、彼等の取り巻く環境も変化し、また彼等自身も経験を積み――バーンは胸に沁み渡る微笑と共にこう言った。
「君はあの日から変わった」
と。
「雰囲気が柔らかくなった。まるで古い友人を迎えるような誠実さに溢れている。
何故だろう……ベイバトルを通じ、少しずつ変わっていったのだろうね。とても温かい……魅力的な人になったよ」
「その言葉、そっくりお返しする」
クロムは少々悪戯っぽい、実年齢よりは子供っぽくも見える笑みを作る。ストイックな彼が見せる普段と違う顔に、バーンはもちろん、司会者もまた驚いた。目をまるくする後者に対し、バーンはふうむ、と口元に手を当て考える。‟興味深い”と、彼もまた年齢より若々しい笑みを浮かべた。
今の彼等はあの日とは異なる。二人とも言葉にはせずとも、本能的に理解していた。
不死原バーン。
仮面Xに敗北し、仮面Yを名乗るクロムとベイを交え。彼はクロムをベイタイムシフトに欠かせない存在と見なしている。一方クロムもまたひたむきに研究を進めるバーンを評価し、いずれまた顔を合わせるだろうと考えていた。彼はかつて言葉を交わしたあの日の、斜陽の光が射し込む夕暮れ時を思い出す。あの日バーンが醸した鼻持ちならない傲慢さは今はなかった。
クロムもまた己を見つめ直したためだろう、ベイブレードにまっすぐに向き合っている。黒須エクスへの妄念を捨て、チームメイトを大切に想い。時を経て、彼等は互いの存在を認め合った。
翠の目の青年はふっと笑い、先刻垣間見た白昼夢を振り返る。
(魔龍に呑み込まれる幻は――もしかしたら)
異なる世界の己なのかもしれない、と。
青年は己を顧み、歩んできた道を意識する。頂上決戦で倒れ、シエルの献身に自身の過ちを後悔し。少年の献身に胸を打たれたからこそ今がある、と、彼は‟そうでなかった自分”を頭に思い浮かべる。
「オレはあの日から変わって、そして今、ここに居る。ほんの少しボタンを掛け違っていたらオレはここには居なかった……そんな気がする」
「そうかもしれないね」
バーンは頷き、不意にしみじみとする。自分でもわからない感傷が襲ってきて、彼は胸に強い痛みを覚えた。瞳に涙を溜め、緋の目を潤ませながらクロムを見つめる。彼もまたここに二人存在する瞬間を、とても尊いものに感じていた。
「君とこうして言葉を交わせるのは、もしかしたら奇跡かもしれない、と……。今、ふと思ったよ」
「こうして再び言葉を交わせたこと……感謝する」
クロムは本心から幸せそうに顔をほころばせた。
時々妙に胸がざわつくときがあって、そんなときクロムは考える。くだらない、と、自分を一笑に付したくなる気持ちもあるが、決して笑って済ませられる話ではないのだろうと一方で思った。
(もし、ほんの少し事情が違っていたら。もし、今と違う選択をしていたら)
――オレは、道を踏み外していたかもしれない。
夢や幻は唐突に彼に恐ろしい光景を見せ、そのたびにクロムは驚愕する。夢幻と斬り捨てるにはそれらはあまりにも生々しく、まるで実際に起きたように感じられた。SFには並行世界という概念があるらしい。いつ、どこで知ったかもわからない単語を頭に浮かべ、クロムは己を見つめ返す。
現実世界にはシエルが居て、シグルが居て、己はペンドラゴンのリーダーとしてチームをまとめている。不死原バーンとの関係も今回は良好で、前回とは正反対であった。もしかしたら、と、クロムはバーンに胸中を吐露する。
「オレが今のオレでなかったら。もっと物騒な雰囲気で会っていたかもしれないな、不死原バーン」
「君も……そう思うかい?」
「ああ」
根拠はないが確信はある。
「何故か、そんな気がする。
自分でも不思議だが……オレは、今とはまったく違う道を歩んでいた――そう思うことがたまにある」
異なる世界での出来事は無意識のうちに彼等に影響を与えるのか、二人はこの時間を貴重なものに思い、互いに感謝する。この世界では二人は闇夜ではなく、真昼の明るい世界で対面した。
クロムは窓の外に視線を遣り、よく晴れた空を双眸に映す。快晴の空は青く澄み渡り、黄金の光が二人を祝福するかのようであった。白昼夢の暗雲は一片もなく、空は息を呑むほどに美しい。
この空を見、燦然たる光を浴びられるのは、この上なく幸せなのかもしれない。
クロムは瞳の先に広がる蒼を、神妙な顔でしばらくの時間眺めていた。