魔龍と刃 暗い裏路地で着信を受けたクロムは、‟そうか”と答えるのみであった。
シエルの願いを受け入れも退けもせず、無感動な一言を掛けてすぐ通話を切った。シエルの声が聞こえなくなると辺りは静まり返り、無音が耳に痛いほどだ。クロムは嫌な静寂が垂れ込める世界に身を置いている。日の光がまともに射さず、彼の居場所は真昼にもかかわらず薄暗い――力を求めるあまり外道に堕ちた彼は、心のみならず身を潜める場所も闇に支配されていた。
もっともクロムは冷淡に答えるも、彼の胸にはシエルの言葉が突き刺さっている。いじらしい少年はたとえどのような目に遭おうとクロムを慕い、ゆえに彼は少なくない呵責を覚えるのだった。神妙な顔で口を結び、青年は少年の言葉を反芻する。信念に支えられた発言は力強く、青年の帰還を切望する感情に溢れていた。
‟オレとシグルさんで、クロムさんのペンドラゴンは絶対に守り抜きます”
‟だから、……だから、絶対、帰ってきてください”
(シエル……)
自分はどれほど少年を傷つけているのだろう、クロムはそう思いおもてを伏せ、自らの足元をじっと見つめる。彼の両足は裏プロというぬかるみに囚われ、もう二度と戻れないと彼に悟らせる状態だった。すまないと詫びる心は不死原バーンに対するのと同様、シエルにも抱いている。だがそれでも彼が最も求めるのは黒須エクスであり、進むべき道を変える気はなかった。
「――……」
スマホを手に立ち止まっていたクロムは、感傷を絶ち切るよう深く息を吐き、シエルと声を繋げたそれを懐に収める。双眸を閉じしばし胸の痛みに耐える。と、そのとき、前方の物陰から何者かが現れた。
「‟ペンドラゴンに戻るつもりはない”ねェ」
恐ろしいほど耳が良いのか、男は先程の会話を捉えていた。黒いフードを被った男は特徴的な声をもって、クロムの発言をそのまま自らの唇に乗せた。クロムを裏プロに誘った張本人・刃威斗である。刃威斗は両目と口を三日月にし、気味悪い表情で嫌らしく笑った。
「ひどいことを言う。神成シエルはアンタの帰りを待ってるっていうのに。
アンタ……あんなに慕ってる子を見捨てるんだね」
刃威斗の声と顔は相手の神経を逆撫でする何かを持っていたが、クロムは内心穏やかでないものの受け流す。己が酷い真似をしているのは重々承知で、誰かに指摘されたところで今更だった。
「もう決めたことだ」
クロムは冷ややかに言い放つ。よく通る声は低く零下の空気のよう、並の人間ならば背筋を凍らす声音でもって、彼は更に続けた。
「あいつに勝つためならオレはどれほど堕ちようと構わない。
強くなり、今度こそあいつを倒す。それ以外に何も要らない」
「そうかい」
ひりつく空気をぶつけられながらも、刃威斗は余裕の態度を崩さずにいる。彼もまた道を踏み外した男であり、常軌を逸した精神を持っていた。刃威斗は笑みを寸分変えず言い放つ。それは妙にねっとりとして不気味に感じられた。
「じゃあ、あの子はアタシがもらっていいかねェ」
「……」
クロムは答えなかった。
青年は物凄い顔で刃威斗を睨むが、睨まれた当人は意に介さない。沈黙をどう受け取ったか不明だが、刃威斗は不穏かつ何とも言えない――妙にねっとりとした声で言った。
「あの子は光の人間だ。けど裏に通ずる素質がある。
そんなあの子は、これからもっと美味しくなる。あの子がよく育って、頃合いになったとき……楽しみだねェ」
「貴様如きにシエルが屈服するわけがないだろう」
射抜くような双眸は恐ろしく、常人であれば眼光を受ければ一歩も動けなくなるだろう。だが刃威斗は怯まず、むしろ陶然とした。うすら寒い笑みをたたえたまま刃威斗はクロムを見つめ返す。実力はクロムに劣る男だが、精神の歪み具合はクロムに負けはしなかった。
二人は長い時間視線をぶつけ合い、周囲の空気をより一層暗く捻じ曲げていく。だがベイを構えるでも物理で相手にわからせるでもなく、二人はやがて己のまとう空気を幾分マシなそれに戻した。クロムは恐ろしい形相のまま、刃威斗は奇妙な笑みを貼りつけたまま前進する。両者がすれ違う、直後刃威斗が喉を詰まらせた奇怪な笑い声を立てた。
「何がおかしい」
「アンタ、面倒くさい男だねェ」
クロムの心の中に在るのはエクスだけであり、クロムはシエルをエクスの代用品としてスカウトしたに過ぎない。にもかかわらず、いざ他人がシエルに興味を覚えるのは気に入らないらしかった。自覚こそないが、彼は嫉妬深く独占欲が強かった。相手のわかりやすい苛立ちに刃威斗はたまらなくなってほくそ笑む。面倒だと言いながらも男はクロムの反応を心底愉しんでいた。
「まあ、いいさ。自分の道を進んでくれや。アタシはアンタもあの子も、どこまでやれるか見させてもらうだけさ」
クロムの脇を通り抜け、刃威斗もまた己の道を進む。男は響く靴音を小さくし、黒いフードごと闇に溶けていった。クロムが眉をひそめ緩慢に振り返ると、そこにはもう誰の姿もない。暗い裏路地には再びクロムただ独りが居て、周囲に生き物の気配は微塵も存在しなかった。
「……」
クロムはしばらくの間薄闇を見つめ、双眸を険しくしたまま再び前を向く。
光射さぬ路地の奥、凍てついた気配をまといながら。彼は静かに、ゆっくりと歩きだした。