彼の香りは 石山タクミが不死原バーンと会う約束をしたその日、バーンは珍しく遅刻してきた。
「すまない。待たせてしまったね」
いつもは早い時間に二人とも待ち合わせ場所に到着しているか、あるいはバーンの方が早いくらいだ。石山は“珍しいな”と意外に思うものの、相手に怒りや苛立ちを覚えはしなかった。バーンはベイバトルの時間には度々遅れていたが、石山との約束の時間を破ったことは今日以外に一度もない。そもそもほんの数分の遅れであってバーンが謝るほどでもないのだ。石山は謝罪をさらりと受け入れ相手が向かいに座るのを見つめる。優美な男性の所作は美しかった。
二人はバーンがマウンテンラーメンを買収して以来定期的に顔を合わせ、互いの近況を報告し合う間柄となっている。彼等の関係は実に良好で、石山のまとう空気も彼が出せるものの中では穏やかである。彼は引退の窮地を救われたがゆえバーンに少なくない恩義を感じている。たかが数分の遅刻で文句を言う気は毛頭なかった。
この日の待ち合わせ場所はXタワー近辺の喫茶店だ。落ち着いた雰囲気の店はバーンのお気に入りらしく、石山は既に三度ここで対面を果たしていた。
「大して待っていない」
石山はいつものように素っ気なく答え、眉間に皺を寄せたまま相向かいの席についた青年に視線を遣る。“相変わらず忙しそうだな”と呟けば、気遣いをありがたく感じたのだろう、バーンは微笑んだ。無骨な中男とは正反対の美男子が後光が射すような微笑をたたえる。白皙の肌と緋の目が美しく、女性ならばなびかぬ者は居ないだろうと石山はふと思った。
石山の胸中を知らず、バーンは相手への好意が滲む笑みを石山に向ける。見る者を惚れ惚れさせる笑みをもって彼は、
「30階、おめでとう」
と、ソリダスタワーで戦う者を祝福した。
現在Xシティではスラッシュとソリダスの二つのタワーが活況を極め、石山率いるファランクスは移籍先のソリダスで活躍している。長きにわたり一階に甘んじ、一時は引退の危機に陥ったチームは、戦場を移して以降破竹の勢いでタワーを上っていった。決断には相当の勇気を要したが石山達は結果的に成功を収めた――もっとも彼はまだ行ける、と、現状に満足しているわけではなかった。
自分達がどこまでやれるか、どれほど強くなれるのか。彼等もまたまだ見ぬモノを見るために日夜鍛錬に励んでいた。
「もっと上を目指す」
「君達ならばやれるさ」
バーンの言葉に石山は頷き、己の手をじっと見つめる。日々のトレーニングでたくましくなった手は大きく、長い年月の積み重ねを感じさせた。拳を作り、ぐっと力を込める。男が険しい面持ちで己が手を凝視するとき、従業員がオーダーを取りに来た。
バーンも石山も頼む飲み物は決まっている。どちらも紅茶を注文し店員の背中を見送ったとき、石山はバーンに対し違和感を指摘した。
「いつもと違うな」
先ほどから気づいてはいたが言及するタイミングが得られなかった。不死原バーンは視覚的には何ら普段と変わらない。だが、嗅覚的には明らかに異なっていて、石山は触れずにはいられなかった。首を傾げるバーンに彼は、
「香りが、いつものあんたじゃない」
と、眉間に皺を寄せた顔で言う。バーンはきょとんとしたが、数秒後“ああ”と、合点がいった様子で頷いた。
「難波ゆにに勧められてね。香水をつけてみたんだ」
チームユグドラシルの一人であり、モテを信条とする大人気インフルエンサーだ。バーンはこの日彼女とゾナモスと共にチームのプロモーション動画を撮影していて、その影響で待ち合わせに遅刻した。動画の撮影を終えた後ゆには現在流行のフレグランスを勧めてきたのだ。
――今大人気のフレグランスなんです! バーン様にぴったりですよ!
美男子を包み込む香りは深紅のバラを連想させる芳香だ。甘く柔らかで、確かにバーンの雰囲気によく合った。さほど強くはなく、近くに居る者ならば気づく程度のさりげなさだ。テーブルを隔てた向こう側から到達する甘美な香りは確かに素晴らしい、が、石山にとっては決して喜ばしい話ではなかった。
難波ゆにの名前を出され、石山の眉間にまた一つ皺が刻まれる。彼とゆにとでは性格もバトルスタイルも真逆だった。
「……。そうか」
先ほどより幾分低い声で相槌を打つ。声音の変化に発した当人は気づいていないようだが、彼は第三者から見れば怖い顔になっていた。率直に言えば石山はゆにが苦手である。シャッフルバトルの際彼女と刺々しいやりとりをした彼は、無意識のうちに不機嫌になっていた。
「ローズ系の香水だそうだ」
香水のメーカーとフレグランス名についてはバーンも記憶していなかった。
「普段香水をつけないのでね。あまり詳しくはないのだが……、」
「普段のあんたの方がいい」
バーンの発言を遮り、石山が断固たる口調で言う。有無を言わせぬ調子は恐ろしいものだったが、石山の無骨な人となりを知り良き関係を築く青年はさして気にならなかった。ふっと目を伏せ穏やかな表情と共に“君がそう言うのなら”と口にする。香水を否定されたにもかかわらず彼は落ち着いたものだった。
「次はつけないでおくよ」
「そうしてくれ」
次の対面が早く来ないものか、と、石山タクミは今会っている最中に次回を希望する。次はどこで会おうか。時々はユグドラシル本社に赴き、ベイの試作品のテストに付き合いたいものだと石山は思う。もっとも場所と日時を提案するのは専らバーンである。大企業の御曹司の方が石山より遥かに多忙だった。
――お待たせしました。
店員が二人分の紅茶を盆に載せ現れ、テーブルにティーカップを置いて去っていく。バーンがまとうバラの香りに紅茶の香しい香りが加わり、ほう、と感嘆したくなるような絶妙な香りとなった。紅茶を一口含みバーンが陶然とする。見る者の胸を高鳴らせる表情だった。
青年のお気に入りの銘柄を石山は記憶に留めている。随分先になるが誕生日プレゼントには茶葉を贈ろう、と彼は密かに考えていた。
「ところで普段の私の香りというのは、どんなものなんだろうね?」
不意に青年が尋ねてきて、石山は言葉に詰まる。人がまとう香りを言語化するのは難しい。無骨な男ならば尚更、だが石山はぽつりぽつりと、言葉少なながらバーンが喜ぶ言葉を紡ぐ。
「もっと、落ち着く香りだ」
香水よりも控え目に香る、おそらくはシャンプーの香り。さりげなく甘く爽やかで、長い髪がなびいたときふわりと香りが広がるのが心地よかった。艶やかな髪はどのメーカーのシャンプーを使っているのだろう、石山は少しだけ気になる。と同時に馬鹿馬鹿しいという感情もまた胸に湧いた。
(くだらん)
香りが違うからといって何なのだ。些末な問題に心を乱す自分自身に石山は苛立ちを覚える。まとう香りが普段と異なる、それだけのことだ。だが石山は妙に気になり精神をざわつかせる。揺れる精神のまま彼は思わず口にした。
「普段の香りの方が、ずっといい」
「そう」
ふふ、と笑った声を聞いて、石山はしまったと思う。何をべらべら喋っているのだ。口を滑らせてしまってから、彼は己の無駄な発言に苦虫を噛み潰す。昔から沈黙は金というではないか。黙っていれば済んだ話だ。苦々しい面持ちで石山は紅茶を煽るようにして飲む。正直言って味わう心境ではなかった。
ティーカップをほとんど空にして、石山は剣呑な顔でもって言う。ただでさえ険しい顔が一層悪人のようになった。
「忘れてくれ」
「憶えておくよ」
凄い顔と低重な声はまるで脅すようだがバーンは意に介さない。
いよいよ顔面が怖いことになった石山を前に、バーンは優美に笑ったまま紅茶を口に含んだ。