流石に子猫は恥ずかしい「――お一人かしら?」
薄暗い照明。町はずれのオーセンティックバーの一席。
ぼんやりとグラスの氷を見つめていた時、かつんと、すぐ隣に似たような色の液体で満たされたグラスが置かれた。
甘えたような声と、鮮やかに彩られた長い爪、そして煌びやかな指輪。視線を向けるまでもなく一目で女の手を分かるそれ。
「……連れが来る」
「あら。そっけないのね」
相手も見ずに、ジルは短く答えた。――無視をしなかっただけ自分も丸くなったものだと思うが、無視をした方がよかったかもしれない。つん、と剥き出しの白い肘が、カウンターへの上に置かれていたジルの腕に当てられた。
あくまで座った際に触れてしまった、と言う絶妙な範囲で。
「――じゃ、お連れの方が来るまででいいわ。……座っても?」
「…………好きにしろ」
拒否しても良かったが、それで問答が増えればそちらの方が面倒な気がしたのでやはり視線は向けないまま、ジルはグラスに口を付ける。――実際に待ち合わせの相手が現れれば消えるだろう、と思ったからだ。
連れがいる、などと言うのはよくある常套句。もし興味を引け、その言葉を撤回できれば女の勝ち。よくある、一夜の相手を物色する際に使い古されたやりとり。
(……早く来い)
とは言え、そんなものからは遠ざかって久しい身。勝手にしゃべり始めた女の声をBGMに、待ち合わせ相手に念を送った。――雰囲気の良いバーを教わったから行ってみたい、と言ったのはリゼルだった。
日中はそれぞれ違う予定を抱えていたから夜に現地で、と打ち合わせ、予定よりも早く着いた事に僅かな後悔を覚える。
「このお店は初めて?」
「…………」
「随分とお酒にお強いみたいね」
「…………」
予定の時刻は僅かに過ぎていた。恐らく気になる本でもあったのだろう。
待ち合わせの相手がジルでなければ、時間に遅れて来る事などありえない男だが、自分に対しては無意識に甘えが出るのかごく稀にこう言ったことがある。――普段は悪くない気分を覚えるそれだが、今は。
「私、普段はこんな風に声をかけたりしないんだけど――貴方にはつい、目が行っちゃって」
嘘を吐け、と思う。――顔すら見ていないが、多分スタイル込みでそれなりの美女だろう。完全に夜の店での物色に手慣れた風情。物怖じしない言動から後腐れはなさそうで、一昔前なら応じていたかもしれないが、今は勘弁被りたい。
「……お連れの方、遅いわね?」
「そうだな」
つい返事をしてしまった。
早く来い、と再び強めに念じた時――からん、と扉の開く音と共に見知った気配が。
(……来たか)
別に目くじらを立てて咎めるほどの遅れではないし、細腕(と思われる)女の一人脅威でも何でもないが、何となく煩わしくはあったので安堵に似た溜息を零す。扉の方へ向き、店員と何やら言葉を交わしているらしいリゼルと視線が合う――早く来い、と言う意思を込めた眼と、左隣にやたらと距離の近い女の存在。それらを見止め、得心がいったとばかりにリゼルが頷いて、こちらへ足を向けた。
「――失礼、レディ」
これでようやく解放される、とジルはグラスへ口を付け。
「俺のハニーに、何か御用でしょうか」
――咽るかと思った。
「……あら。お連れがいる、っていうのは方便じゃなかったのね。……残念だわ」
「すみません。――彼の魅力は俺も重々承知のことですし、共に語り明かしたいくらいですが……ここは、身を引いて頂けると」
「もちろんよ」
あっさりと、軽く諸手を上げる様にして彼女はカウンターから身を離す。――初めて正面から容貌を見たが、笑みを乗せた朱唇へ内緒話のように人差し指を当てる姿は、実に美しくはあった。
「――いくら私が尻軽でも、人様のキティに手を出すほど不自由はしてないから」
「ありがとうございます……では、御武運を」
「どうも」
艶やかに笑い、女性は長いドレスを翻しながら去って行った――その背を見送りながら、リゼルは先ほどからジルが物凄い目でこちらを見ている事に気付いていたが、わざと知らないふりをした。
何事も無かったかのように隣のスツールへ腰を据え、カウンター内の男へ声をかける。
「すみません――ノンアルコールのものを。――……ああ、はい、柑橘系で大丈夫です」
「…………お前な」
「すみません、遅くなって」
「そこじゃねえよ」
「おや。……それ以外に何か、まずい事がありましたか?」
「…………いや、いい」
「はい」
カウンター越しの正面で、バーテンダーがシェイカーを振る軽やかな音が響く。再度、先程の女性が去って行った方を見ると、新たな相手に声をかけているのが見えた。
そちらとはどうやら話が弾みつつあるらしいが、どうやら長身の相手がお好みらしい。
「――まさしく歴戦の猛者、と言う風情ですね」
「……あ?」
「だって――ジルの可愛さに気が付くだなんて、お目が高い」
「アホ」
「いた」
相も変わらず、まるで痛くもない指先が額を弾く。不機嫌そうにしか見えないその表情が逸らされているのは、真に気分を害しているだけではない事をリゼルは知っている。
理由は遅刻をした、それだけではないだろうから。……これは頑張って、機嫌を取らなければならいかもしれない。
「……俺のキティは照れ屋さんですね」
「言ってろ」
――視線はまだしばらく、合わされそうになかった。