ヤクザパロ的な ――こんな所で、終わるのか。
人混みの喧噪からそう遠くもない路地裏で、雨雲に黒ずんだ夜空を眺めながらぼんやりとジルは考える。
何せ痛みは全身に広がり、左目の視界は不遼。
失明まではしていないだろうが、警棒のようなもので打たれ裂けた瞼から流れた血と腫れで現状使い物になっていなかった。
一体どれだけの人間とやりあったか、覚えてはいないが周囲に倒れていた人間は20や30ではなかったから相当な無理をした自覚はある。何とか途切れたところでその場から離れ、辛うじて人の眼の薄そうな場所を見つけたがそこで限界が来て、立てなくなって――これ以上、もう身体を動かせそうになかった。
先程から降り始めた雨は全身を濡らし、湿った髪が額に張り付いて不愉快だったがそれを拭う気力すらない。
さて、通行人に通報されるか、追手に発見されるか、どちらが先だろう。
いずれにせよ、結果がそう変わるわけでも無い。警察に一時拘留されたとて寿命が僅かに伸びるだけ、ならもうさっさと終わればいいと、投げやりな気分で目を伏せる。
――自身の人生はどこで歪んだのか。
少なくとも、幼い頃は真っ当なものだった。
父はいなかったけれど、母と祖父に愛されて育まれていたし、子供らしい子供時代を送っていたと思う。
ただ母を亡くし、祖父もまた間もなく鬼籍に入り、負債だけが残された身寄りのない子供が生きて行くにはこの道しか無かった――今となっては、幼少期が何よりも眩い記憶ですらある。
――それに。
『ジル』
思い出す度に、小さく胸に痛みを覚える色がある。
慈愛と喜色に満ちた、あの透き通るように美しいアメジスト。
『……ぜったいに、わたしのこと、わすれないでくださいね……?』
不安げなその瞳に対し、自身は何と返事をしたのかは覚えてない。だが今でも、記憶を呼び起こす度に、忘れるものか、と胸中で思う。
『わたし、大きくなったら、ジルのお嫁さんになってあげます』
それは所詮は子供同士の、稚い口約束。
だが子供ながらに確かな歓喜を覚え、けれど明瞭な言葉で返事をするのが気恥ずかしくて――いつか読んだ絵本を真似て、その小さな手の甲へ唇を寄せた日の記憶。
泣きながら別れを惜しんでくれたあの子供は今頃、幸せになっているだろうか。
ちゃんと、自分のように表社会から外れ非合法の世界で泥水に塗れた人間とは、一番遠いところにいるだろうか。
『ジル』
未練がましく、幼い声が脳内で木霊す。
けれどそれくらい構わないだろうと、何かに対して言い訳をする。血と消炎に彩られた日々の中で、この記憶だけがよすがだったのだから、と。
「――ジル」
唐突にその声が、妙にはっきりと耳朶へ触れた気がした。
記憶にあるものよりも低く、柔らかな声ではあったが、いよいよ幻聴まで聞こえて来たらしいと自嘲で唇が歪む――濡れた衣服が酷く重かった。
季節は冬で、血も相当な量を流したから、このまま体温を失ってこの場でたれ死ぬ可能性もあるか、と他人事のように思う。
どちらにしても、過程が変わるだけで結果は同じだが。
「ジル」
「…………?」
ぱしゃんと、濡れた地面を踏みしめる音が間近に迫る。
同時に幻聴であったはずの声が先ほどよりも鮮明に聞こえて、ジルは訝し気に瞼を持ち上げた。
――糸のような小糠雨の向う側。
辛うじて機能している右目に映ったのは、傘を差した人物がこちらに駆け寄って来る姿だった。
逆光で顔立ちは判然としない。けれどなぜか真っ先に追手と思わなかったのは、朧げな視界にも相手の纏う空気が裏世界のそれとはあまりに隔たっていたからだろう。
「……やっと、見つけた」
間近に迫った人物は拘りもなく傍らへ膝を突く。
慣れて少しづつ鮮明になっていく眼に映るその姿は見るからに仕立ての良いスーツ姿で、それが汚れるのも厭わずにこちらに傘を傾け、手を差し伸べて来た。
「ひどい怪我……」
「…………だ、」
誰だ、と問おうとした。
見たところ20代も半ばの男で、声にも姿にも覚えはない。ゆるりと警戒心が頭をもたげたところで、胸元からハンカチを取り出した相手の顔が上がり――その瞳を真正面から見て、息を飲んだ。
「――ジル」
「……、お前、……」
――記憶に色濃く刻まれた、透き通るように美しいアメジストの瞳。
白金の髪は細く、首を傾ける仕草に合わせて揺れる。
稚さはすっかり失われてはいるが、凛とした花貌には、確かに懐かしい面影が残っていた。
――しかし、それより、何よりも。
「…………つか、……」
「……?どうかしましたか?」
「…………いや、」
お前、男だったのか、と言う言葉は。
上手く声に出来なかった。
※
このあとヒモになります。
多分。
未定。