廟の一夜鏡湖派の襲撃から逃げ延びた私たちは、山の外れの廃れた廟で夜を明かすことになった。
周子舒。
この男は実に面白い。
髪は乱れ、口元には髭が残り、衣は血と泥にまみれているのに、その目の静けさと端整な輪郭は、どこか艶めいてさえ見える。
警戒心を剥き出しにして、常に私を疑い、なのにどこか脆い。
何もしない手はない。
「阿絮、寒くないか?」
「……別に」
短く返されても、構わない。
私の距離の詰め方に、こいつはまだ慣れていない。だが、それもまた良い。
「そうか。だが、そのままでは風邪を引くぞ」
私は阿絮の肩に手を伸ばす。ぐっと掴んで、ゆっくりと胸元の襟を緩めた。
「おい、何を——」
「服を乾かすんだ。ほら、焚き火のそばへ」
「……触るな」
そう言いつつも、抵抗はそれほど強くない。
襟を引いた拍子にあらわになった鎖骨が、ほの赤く火に照らされて艶やかで、思わず目を奪われた。
(……これは、堪らんな)
「……な、何をじろじろと」
「いや、少し思っただけだ。阿絮、おまえ、本当に綺麗な肌をしているな」
「………はあ!?」
嫌そうに顰めた顔も、実に愛おしい。
剣呑で無愛想なくせに、年若い小娘のように動揺する。
思った以上に、こいつ色事に疎いと見える。
私はさらに近づき、自然を装いながら肩に手を置いた。
「冷えてるな。焚き火の傍に寄れ」
「……充分ぬくもっている」
「そうか。私は少々冷えてしまった。もっと近くに寄らせて貰おう」
距離を詰める。
このまま腕を回せば、きっと逃げられない。
だが、阿絮はこの状況に色事の気配など微塵も感じていないのか、ただ呆れたように眉を寄せるだけだ。
「おまえ……寒がりか」
「私の手は、温かいだろう?」
「……」
ほら、否定しない。
(このままなら、唇くらい奪えてしまうのでは)
そう思い、手のひらでそっと頬を撫でた。
「っ……」
き、と私を睨みつけてくる。
だがその睫毛は戸惑うように震えている。
ほんの少し潤んだ瞳が私を映した。
(いい顔だ)
私は指先を耳の裏に滑らせ、顎を掬い上げる。
けれど、阿絮はただ不審そうに瞬くばかりで、自分がどうされようとしているのか分かっていない。
「阿絮」
「なんだ」
「……いや」
(今ここで、無理矢理に奪ってしまうのは、面白くない)
だってこの男は、色事に疎すぎる。
こんな至近距離でも、私が何をしようとしているのか、まるで気付いていないのだ。
「……よし、やめてやろう」
「は?」
唐突に手を離し、私は微笑んだ。
「阿絮のそういうところ、嫌いじゃない。だが、今はやめておく」
「……おまえ、本当に妙な奴だな」
阿絮は顔を顰めながらも、まだ何も理解していない様子で火に手をかざす。
私はただ、その横顔を眺めながら、次の機会を思い描いた。
——いずれ、必ず唇を奪ってやる。
この夜の静けさに、心の中でそう誓った。