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    hyacinth_v3zzz

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    hyacinth_v3zzz

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    海にいた頃は気にも留めなかったようなことを、陸に来てから悲しいと思うようになった🐬の話(フロジェイ)
    完成したら支部に投げる予定です。とても書きかけ。一通り書き上がってから手直しする予定なので、実際に上がるものとは大分変わるかもしれません。
    ※小動物の死

    #フロジェイ
    frojay

    海では気にも留めなかったようなことを、陸に来てから悲しいと思うようになった🐬の話(フロジェイ)「こんにちは、ミセス・バード」
    「ごきげんよう、坊や。今日も来てくれたのね、嬉しいわ」
    枝からトン、と僕の肩へ軽やかに降り立ったのは、エメラルドグリーンを纏った美しい小鳥。歌うように軽く、けれどもゆっくりと麗しく囀り、彼女は言葉を紡いだ。
    別段苦手ではないけれど、アズールやリドルさん、それからラギーさんほど動物言語に精通していない僕でも特に労せず翻訳出来るのは、彼女が一語一語丁寧に、基本通りの発音で話してくれているからに他ならない。感嘆してしまうほどに、彼女は聡明な生き物だった。
    「少々失礼致しますね」
    小動物とはいえ、相手はレディー。それに鳥という種族は他と比べて成熟が早いと聞くし、彼女が僕に語ってくれた数々の興味深いご経験と膨大で深い知識。自分を基準に年齢を換算すると、確実に僕よりうんとお年を召している。……なんて、それこそ失礼ですね、と心の内で苦笑い。
    気を配りながら、そっと指先で柔らかな羽毛に触れる。チルル、と心地良さそうに鳴いて、彼女のつぶらな瞳が細まった。
    「怪我の具合はいかがですか?」
    深緑のビロードに目立つ人工の白。……それは、僕が巻いた包帯だった。傷の治りを確認したくて解きながら尋ねれば、そうねえ、とのんびりした調子で婦人は返す。
    「坊やのお陰で随分良くなったわ。あと三日もすればきっと、元通り飛べる筈よ」
    「それは良かった。……ですが、こうして貴女とお話できる時間ももうじき終わってしまうのだと思うと、寂しいですね」
    「あら、嬉しいことを言ってくれるわね」
    澄んだ冬空、雲ひとつない晴天。陽射しを遮るカーテンやシャッターのない温帯ゾーンに燦々と光が降り注ぎ、反射で一瞬目が眩む。白に縛られることのない彼女の自由な片翼は煌めきを纏って輝いていて、どこまでも飛んでいけそうだった。



    ──今日から丁度、一週間前の放課後。この頃目を掛けている菌床の様子を見に訪れた植物園で、艶やかな羽毛に獣の爪痕を刻み、血と砂利に塗れながらぐったりと石畳に横たわっていた彼女を見つけたのが出会いだった。
    怪我が治るまで、期限付きの友達未満。お知り合い、で片付けるのはちょっぴり味気ない、そんな関係。フロイドやアズールとの退屈知らずの日々とは違うけれど、僕の知らない世界の話を彼女から聞く穏やかなだけの時間が存外楽しくて。
    それだけに、ミセス・バードなんて呼び方は何とも敬意に欠けているように思えて落ち着かない。だって、僕からしたら『人魚くん』と種族で呼ばれているようなものだ。いえ、決して僕の兄弟が礼儀知らずだと言いたいわけではなく。……でもこれは、彼女たっての希望に他ならなかった。
    「私に決まった名前はないの。バードでもスミスでも好きに呼んでちょうだい。でも、ミセスだけは譲れないわ」
    どうして、固有名詞でもない敬称に拘るのか。想像も出来なくて、瞳を瞬かせた僕は成魚にはまだ程遠かった。
    理由を聞いても?訊ねた僕に、彼女は笑って頷いた。
    「私には番がいるのよ。うんとチャーミングなね。……もう随分と昔に、私を置いて遠くの空へ渡ってしまったのだけれど、私があのひとの妻だってことは変わらないから」
    あのひと、と愛しさを込めた声音で呼んだ相手に、ミセス・バードは二度と会えないのだと分からないほど、僕はもう稚魚ではなくて。
    「それはそれは。大変素敵なお話ですね」
    「ふふ、ありがとう坊や。……あなたが手当てをしてくれたから、もうすぐあのひとを探しに行けるわね」
    こんなに愛らしい私を放って、全くどこにいるのかしら。
    子どもを傷つけないための優しい嘘だ。だけれども、そうですね、と相づちを打ったのは、同情や憐憫などでは決して無かった。

    ミセス・バードはその後に、僕にたくさんたくさん、番のお話を聞かせてくれた。どれほど格好良くて、お茶目で、素晴らしいひとだったのか。いいや、ひとなのか。
    「坊やもきっと、覚えていてね。私とあのひとのことを。……そうしたら、もしもあなたがあのひとに会ったとき、伝えてくれるでしょう?」
    「ええ、もちろん」
    彼女は傷が癒えたらすぐに、彼を探す旅に出るのだろう。彼を生かす旅に出るのだろう。
    一年生の頃、歴史の授業で習った一節を思い出す。本当の死とは、すべての存在の記憶から消えたときに訪れるのだ、と。深海では聞いたことのなかったそれに、寿命の短い種族は面白いことを考える、と当時は首を捻ったものだけれど、成程、ストンと腑に落ちた。
    彼女のこれからの旅路が、満ち足りたものになれば良い。願いながら、緩めた白を巻き直す。
    旅立ちの日は、もう目の前に。



    それを目にした時、不思議と声は出なかった。ただ、喉がひゅう、と風を切って、陸に来て自由に動かせるようになったはずの足が止まった。ゆっくり膝を折り曲げて……折れ曲がって、力が抜けてしゃがみ込む。
    腕を伸ばし、両の手のひらで小さなからだを掬い上げた。
    頭を巡るのは、ほんの一週間ほど前のまだ新しく鮮明な記憶。……同じように彼女を包み込んだあの時はグローブ越しでも分かるくらい、温かくて、柔らかくて、命の感触がしたというのに。
    今はどうだ。迷う必要なんて無いほどに、冷たくて、硬い。意味もなく確かめるように手袋を外して触ってみたけれど、何も変わらなかった。彼女が生を失ってもう、随分が過ぎたのだろう。それは僕が巻いた包帯の下、血液が乾ききって黒く色を変え、羽にこびりついていることからも明らかだった。
    ──これでは、飛べないじゃないですか。あのひとに会いに行けませんよ。
    運の無いひとだった。治りきる前に、また襲われてしまうなんて。しかし、ふと冷静な脳が、怪我をして逃げる術を失った鳥など格好の餌だ、と訴える。……ああ、そうだった。弱者は淘汰されるものだと、僕は故郷で嫌というほど教わった。
    自然の摂理だ。それ以上でも、以下でもない。胸につっかえていた何かがコトン、と落ちて、いつの間にか詰めていた息を吐く。ヒトや一部の獣人といった、すっかり平和を享受して生きることに慣れてしまった陸の生き物は、こういう別れに際して涙を流すものらしいけれど、僕はやっぱり人魚だった。
    さて、ミセス・バードをどうしましょう。陸には、大きな水流も無ければ鮫もいない。きっと海と違って、死体は腐り果てていくだけなのだ。もしかすると、清掃をしてくれているゴーストが見つけてくれるかもしれないけれど、そうしたら行き先が焼却炉になって、朽ちることが早まるだけだろう。
    腐敗を待つか、小ぶりなローストチキンになるか。知らない仲じゃない。どちらにせよ、可哀想に思えてしまって、ここから動けなくなってしまう。こういうとき、陸ではどうやって弔うのだろう。
    「困りましたね……」
    うーん。独りごち、首を捻っていれば知った声が背後から掛かり、振り返る。
    「おや、ムシュー・計画犯。どうしたんだい?そんなところにしゃがみこんで」
    「ジェイド、どうかしたのか?」
    気分でも悪いのかい?体調が優れないのか?
    口々に掛けられた声の主は、ルークさんとトレイさんだった。首にゴーグルを下げ、実験着を纏っている。サイエンス部の活動に来たのだろう。植物園でお会いすることは珍しくなかったし、最近は何でも作物の改良に勤しんでいるそうで、この場所でよく顔を合わせていた。
    いいえ。首を振って、何でもありません、と笑みを象る。だって、本当に何もありませんので。
    けれどお二人は僕の顔を見て、……視線を僕の手に落として、揃って怪訝そうな表情をした。そして膝に手をつき、僕の目の前で足を折り曲げ腰を下ろす。目線の高さが合わさって、四つの瞳に真っ直ぐに射抜かれて、責められているわけでもないのに何故だか心地が悪かった。
    ルークさんとトレイさんは悲しそうな、心配そうな、そういう優しさを滲ませながら、僕に告げる。
    「ジェイドくん、どうか気を落とさずに。オワズレだって、君という光が翳ってしまうことを望みはしないはずだよ」
    「お前たち、仲が良さそうにしていたから辛いよな。……その子、埋めてあげようか」
    「いえ、僕は別に落ち込んでいるわけでは……」
    嗚呼、とんだ勘違い。そうだ、彼らはヒトだった。すぐに真摯な訂正を口にしたけれど、お二人はまるで聞いてはくれなくて。肩を叩かれ、有難い慰めの言葉たちを頂いてしまえば、曖昧に微笑んでお礼を述べることしか出来なかった。


    「……うん。ここなら踏まれたりもしないし、掘り起こされることもまずないだろう」
    「一応、目印として近くに小石でも並べておくか。……よし、と」
    温帯ゾーンの奥へと進んで、レンガに囲われた草花たちが途切れた更にその先へ。芝生というには雑多、原っぱや野原と言った方が正しそうな地面のうち、花や野菜の植えられていない箇所を選んで、彼らはスコップで小さな穴を掘った。
    僕はミセス・バードを手のひらに乗せているから、お手伝いすることも出来なくて。おいで、とルークさんに呼ばれるまで、黙ってその光景を眺めていた。
    「さあ、彼女をここに眠らせてあげてくれるかい?」
    促されるまま頷いて、彼女を横たえる。……癒す意味などない亡骸に、包帯は酷く不釣り合いだった。無視できない違和感に、羽を縛っていたそれを解いてミセス・バードの隣に畳んで添える。傷口付近の緑は赤黒く色を変えていて、鋭利な形で固まった尖端が露になった。手触りの良い彼女の羽が失われてしまったことは、何だか残念に思えた。
    「埋めてあげるのは、ジェイドがやるか?」
    「ええ、では」
    手渡されたスコップで、土を被せていく。ルークさんとトレイさんの故郷のやり方であって、必ずしも普遍的な陸の作法ではないのかもしれないけれど、彼らは埋葬という弔い方を僕に勧めた。こうして地面の下に埋めることで年月と共に分解され、自然に還るらしい。彼女の身体が無くなるとき、僕はきっと卒業しているはずなので、確かめようはないのだけれど。
    興味深そうに埋葬の仕方を伺った僕に初めこそ彼らは驚いていたが、「では、あなた方は海で僕たちがどのように死骸を処理しているのか、ご存知ですか?」と尋ねれば、合点がいったようだった。
    ザッ、ザッ、と冷たいそれを掛けてやる度、少しずつ彼女が隠れていった。つい、怪我に染みて痛くないでしょうか、なんて考えてしまって頭を振る。無用な心配にも程がある。
    ミセス・バードが見えなくなって、穴が塞がって。不自然に盛り上がった大地をスコップの背で均した。辺りに広がる緑に無骨な茶色は浮いていて、さて、どうしたものかと首を捻る。……と、ルークさんがトントンと僕の肩を叩き、マジカルペンの先をそこに向けた。すると、たちまち剥き出しの土は色を変え、隣と同じ緑に包まれる。まさか死骸が埋まっているなんて思いもしない程に、トレイさんの置いた目印が無ければ分からなくなってしまいそうな程に馴染んでいた。
    三年生になったら習うのか、はたまた彼が独自に身に付けたものなのか。知らない魔法に好奇心が疼いたが、心の内に留めておく。

    「ルークさん、トレイさん。本日はありがとうございました」
    「ノン、礼には及ばないさ」
    「ああ、大したことはしてないよ」
    お辞儀をして感謝を述べれば、お二人は眉尻を下げて笑った。彼らにもう一度頭を下げて、植物園を後にする。
    寮への帰路を歩む傍ら、あ、と気がついた。今日は光がキノコの成長にどの程度影響を与えるのか、実験をしようと植物園に行ったんでしたね。すっかり忘れていました。
    見上げれば青の遠くに茜色が透けた空。今から引き返せば十分時間は確保できる。立ち止まり、思考。
    「…………いえ、今日は帰りましょう」
    しかし、僕の足は前へと進んだのだった。



    「そういえば、ジェイド最近土クサくないね。何?飽きたぁ?」
    オレは大歓迎だけど。ベッドにうつ伏せに寝転んで肘をマットレスにつけ、ゲーム機を操作しながらフロイドが言った。少しして彼の手元から、不協和音が流れる。
    ──夕食を終えて、消灯までの自由時間。僕とフロイドのどちらもシフトが入っていない日は、こうして本を読んだりゲームをしたり各々好きなことをしながら、何でもないお喋りをして笑い合うのが日課だった。
    陸に上がってクラスも分かれて、一緒にいられないことも増えたから、彼と時間を共有できるこのひとときが僕は好きだった。それは多分、フロイドも同じ。気分屋で飽き性の彼が一年も前からこの日課を続けているのがその証拠だった。
    「あ~あ、死んじゃったぁ~」
    口にしながらも、ちっとも機嫌を損ねた様子はなく。小さな画面から顔を上げ、こちらに向けた。ニコニコとしていて、寧ろ気分が良いみたいだった。どうやら、僕から土の匂いがしないことが、大変お気に召しているらしい。
    「ジェイド?話聞いてる?」
    「……ええ、もちろん」
    ぼうっとしてしまった。ハッとして返せば、フロイドは一瞬だけ眉を寄せたけれど、それ以上追及はしなかった。といっても、追及されて困るようなこともないが。
    「土、というと……、この頃は植物園に行けていないからかもしれませんね」
    顎に手を当て、ぽつり返す。机の上、閉じられた草花の図鑑がパタンと鳴った。ニイ、と愉快そうにフロイドの瞳が三日月を描く。
    「やっぱ土いじりツマンネってジェイドもやっと気付いたぁ?良い機会だし、訳わかんねえ同好会なんてやめてバスケ部来いよ」
    「…………」
    「え、ウッソ、怒った?ごめんって、ジョーダン。土いじりはつまんねぇし、訳わかんねえ同好会だなって思ってんのはホントだけど……」
    「別に怒ってはいませんよ。……いえ、いませんでしたよ」
    「ごめんってぇ……」
    「ふふ、冗談です」
    にっこり。目を細めれば、フロイドが大きく息を吐いた。真顔で黙るから、マジで怒ったかと思って焦ったじゃん。はて、僕はそんなに怖い顔をしていたのでしょうか。ちょっと考え事をしていただけ、無意識だった。
    「それで、飽きたんじゃねえなら何で行くのやめたの?」
    それは、まさに今考えを巡らせていたことだった。何故、と問われてすぐに返せる答えがなくて、言葉に詰まる。
    忙しかったんでしたっけ、と思い返してみても、季節のフェアを実施している訳でも、需要の高まる試験前でもないラウンジは比較的落ち着いていたし、シフトも大して入っていなかった。ならば学業は、と首を捻ったが特に課題が多いと感じた覚えもない。
    ……ああいえ、でも、そうでした。はた、と思い出す。量にすれば普段と変わらなくとも、他言語の文献を参照しなくては書けないレポートがあって、放課後は辞書を片手に図書館に赴いていたのでした。それに確か、一昨日は日直で職員室に日誌を提出しに行ったり、黒板消しを綺麗にしたりと何だかんだとやることがあって……。
    「いや、日直の仕事なんてそんな時間掛かんねえし、オレのとこも同じの出てたけど、あんなレポートなんて2日もあれば楽勝だったでしょ」
    「…………そう、ですね……」
    フロイドの言う通り、どれも理由としては物足りなかった。振り返ってみれば、行こうと思えば行けたのだけれど、何だか自然と足が遠のいていた、というのが正しい気がする。
    「まあ、何でもいいけどさぁ……」
    彼が下を向いて、再びピコピコと電子音が流れ出す。興味を無くしたらしい。どうしてか、そのことにホッとする僕がいた。……しかし。
    「そういや、小鳥ちゃんはもういーの?」
    「え、」
    「植物園でお会いして仲良くなったんですよー、って嬉しそうに話してたじゃん」
    「ああ……」
    フロイドの台詞に、心臓がきゅうと絞られたような錯覚に襲われる。彼女は、と口を動かそうとして、はくはくと空気だけが漏れ、結局、押し黙ってしまう。喉の奥で、言葉が塞き止められているような感覚。不思議だった。
    そうしているうち、眉を寄せ、こてんと首を傾けた兄弟が続けた。
    「ジェイド、何かヤなことあった?」
    「いえ、特にありませんよ」
    「そぉ?」
    良かった。自然に声が出た。これは、本心だった。……彼女の死に、力を持たない種族はなんて哀れなのだろうと憐憫を抱きこそすれ、イヤなことと捉えるにはあまりにありふれた出来事だった。か弱きものの死など、海で何度も経験している。それこそ、目の前で散っていった稚魚だっていた。
    今度こそ、彼は関心を失ったようだった。



    冷たく暗い深海で暮らしてきた僕には強すぎる日光に手のひらで庇を作り、天を仰いだ。今日も空はとても高い。ほんの少しでも空の方がこちらに降りてきて下されば、飛ばなくてはならない高さが減って、僕を睨むバルガス先生の目も鱗一枚分くらいは優しくなるに違いないのに。
    このときばかりは、羽のある種族の方々が羨ましく思えてしまう。
    「次はもうちょっと前を向くようにしてみようか。下を見てるとバランスを崩しやすくなる」
    「……善処いたします」
    「はは、そんなに嫌そうな顔をするなよジェイド」
    頬を掻いて笑うトレイさんが憎らしい。ご自身が出来るからって簡単に言わないで頂きたい。出来るならとっくにやっています。……彼に向かって毒づかなかったのは、せめてもの理性だ。
    二年生と三年生の2学年合同飛行術集中訓練。クラス毎割り当てられた一日を丸ごと使い、半期に一回、年に二回という頻度で行われるそれは、指導役の上級生と生徒役の下級生のペアで実施される。習熟度で振り分けられる──言ってしまえば、上手い三年生と下手な二年生が優先的に組まされる──から、貧乏くじを引かされた三年生が、さてどう教えたものかと出来の悪い二年生を前に頭を抱える光景が恒例となっていた。言うまでもなく、なんて自分で悲しくなってくるけれど、トレイさんは僕という貧乏くじを手にした可哀想な先輩だった。
    「まあ、そろそろ疲れてきた頃だろうし一度休憩にするか。10分間な」
    「かしこまりました。30分ほどお休みでも、僕は構いませんよ」
    「10分間な」
    「…………はぁ」
    ため息を吐いて、じとりと見つめてみても効果はない。どころか校舎の時計に目を向けて、1分経ったからあと9分だな、なんて言ってくるのだから本当に良い性格をしていらっしゃる。

    大きな木陰に覆われた芝生の上、僕は腰を下ろし両手を地面についた。冬の間、草の下の土から伝わっていた底冷えするような寒さはもうそこにない。春が近づいてきている証だった。……しかし、今はあまり嬉しくはない。
    「ふぅ……」
    運動したからだろうか、顔が火照っていた。パタパタと手で仰げば、くらりと軽いめまいを感じて目を閉じる。暫くそうしていればやがて治まりを見せたそれに、瞼をゆっくり持ち上げた。……元々、暑さは苦手なのだ。去年の夏場は酷い目にあった。
    暑い、と言ったって、まだまだ冬に片足を残している季節。大半の生き物は寒いと感じるのだろうけれど、僕たちのようなずっと低い水温で暮らしてきたものからすれば十分厳しい。
    「……大丈夫か?」
    「ええ、お気になさらず」
    答えて、しまった、ととても素直で正直な自分に嘆息する。……肯定しなければ、なら今日の練習はもう切り上げるか、だなんて仰ってくれる可能性もあったかもしれないのに。ええ、爪の先くらいは。

    「……そういえば、ジェイド」
    「はい、何でしょう?」
    僕の隣に座ったトレイさんが、取り繕ったような笑みで僕を呼んだ。この人がこんなぎこちない表情を浮かべるのは珍しい。
    ……何かお取引でもご所望なのでしょうか。ハーツラビュルの副寮長。一見無害な雰囲気を纏っているが、あのリドルさんをコントロールできる手腕を持っている。油断大敵。
    切り返せるカードを頭の中で数えながら、言葉の続きを待った。しかし、降ってきた台詞は予想外に嬉しいもので。
    「キノコの水やりについて聞きたいんだが」
    「おや、トレイさんご興味がおありで?流石、良い趣味をお持ちでいらっしゃる。キノコと一口に言っても種類や栽培方法によって最適な頻度が変わるのでもう少し詳しくお話を、」
    思わず、彼の方に身を乗り出した僕にトレイさんがブンブンと両手を振った。おや?このジェスチャーは何でしょう。
    「ああ、いや、スマン!言葉足らずだったな!お前の!お前が植物園で育てていたキノコだよ。……一応調べはしたんだが、本当に1日2回の霧吹きだけで良いのか確認したくてな」
    「…………ええ、そちらで問題ありませんが何故?」
    残念。彼が関心を持ってくれた訳ではないらしい。それにしたってどうして僕の所有物のお世話の仕方を、トレイさんが気にするのか。首を捻れば、あー、と彼は言い淀む。
    「何、大したことじゃないさ。ただ、お前あれにかなり手を掛けていただろう?駄目になるのも勿体ないし、少しの間俺とルークで見ておこうと思ったんだ」
    「……ありがとうございます」
    「いや、寧ろ勝手をして悪いな」
    今のところは順調に育ってるぞ、と彼が歯を見せて会話は途切れた。もう僕は、何故とは尋ねなかった。尋ねて、彼が隠してくれているその答えを聞きたくなかったのだ。
    「……ああ、あとな。この前フロイドが」
    「フロイドが?」
    「あ、いや、そうか……」
    思い出したようにトレイさんの口から兄弟の名前が放たれて、思わず聞き返す。フロイドとトレイさん。珍しい組み合わせだった。
    「僕の兄弟が、何かご迷惑でもお掛けしてしまいましたか?」
    声を窄ませ、口を閉ざしてしまったトレイさんに痺れを切らせて問い掛ける。そうじゃないから安心してくれ。どこか困ったように彼は言った。……でも、やはりそれきり何も情報は得られなくなってしまって。
    さて、再開しようか。運動着の裾を軽く払ってトレイさんが立ち上がる。
    気付けば時計の長針は、ふたつ数字を進めていた。


    「大丈夫か?」
    「ダメです……」
    「うん、俺から見てもダメそうだ。保健室行こうか。……バルガス先生に言ってくるから、ちょっと待ってろよ」
    そう僕の髪を軽くぽん、と叩いてトレイさんはグラウンドの方へと駆け足で向かっていった。小さく頷き、薄目でそれを見送ってから、立てた膝に頭を埋め瞼を下ろす。
    「う……」
    目を瞑っているのに、ぐるぐると視界が回っている錯覚がして気持ち悪い。喉奥に苦さを感じて、咥内に溜まった唾液を飲んでやり過ごす。
    ──酷い飛行酔いだった。海では馴染みが無かったから、どうしても浮遊感に身体が付いていかなくて、箒で空を飛んでいると酔ってしまうことはままあった。しかし、それも大概は地面に足をつけて、何度か深呼吸をすればすぐに治まるくらいの軽いもの。
    だが今回は、胸元を満たす嘔吐感に深く息を吸い込むことも出来なくて。却って逆効果になりそうだった。
    「待たせたな。許可は貰ったから行こう。立てるか?」
    「すみません、少々厳しいかと……」
    「まあ、だよなあ……。もう少し落ち着いてからにするか」
    「申し訳ありません……」
    立ち上がったら、絶対にここで出してはならないものが溢れてしまいそうだった。箒を下降させた僕の顔色が優れないことに気付いた彼が、グラウンドの隅の木陰へとすぐに連れていってくれたから、周りにはトレイさんしかいないけれどそういう問題ではない。プライドの問題だった。
    トサリ。隣の芝生にトレイさんが腰を下ろした音がして、柔らかな声音が鼓膜に届く。
    「……さっきの話の続きだけどな」
    吐き気のせいで相槌を打つことも億劫で、黙って耳を傾けることしか出来なかったけれど、彼は気にした様子もなく続けた。
    「フロイドはお前のことを心配してたよ。……なあ、ジェイド。気が向いたら、あいつにもあのことを話してやったらどうだ?」
    その声はどこまでも穏やかだというのに、どうしてか胸の奥に突き刺さってじくりと痛かった。


    寝不足に誘発された飛行酔い。養護教諭はそう診断を下して僕に大人しく寝ているよう告げ、これから出張だから、と保健室を出ていった。
    去り際、もし辛いようなら、多少マシになったら寮に帰っても良い、とも仰って頂けたのは、とても有難いお話だった。だってこれ以上空を飛ばなくていいなんて、僥倖としか表しようがないだろう。
    お言葉に甘えて、少し休んでから早退します。
    即答した僕にトレイさんは苦笑していたけれど、お叱りを受けることはなく。じゃあお大事にな、とさっさとグラウンドに戻っていった。
    ……なるほど、睡眠不足。どうしていつもより酷く酔ってしまったのでしょう、と不思議に思っていたが腑に落ちた。思い返してみれば、この頃は消灯時間が訪れても何だか寝ようという気持ちになかなかなれなくて、寮内を散歩してみたりラウンジで悠々と泳ぐ魚たちを鑑賞してみたりして、眠くなるまでふらふらと夜の時間を潰していたのだった。暗くて静かな世界は深海を想起させて落ち着くから好きだったはずなのに、最近はどうも心がざわついて嫌だった。考え事にぴったりで、だからこそ今の僕には受け入れられない。何も考えられなくなるほどの眠気に飲まれるまで、どこかに意識を向けて起き続けなくては寝られなくなっていた。……これではいけないのだと自覚はあった。
    「う……」
    強い強い眠りの波がやってくる。抗えない睡魔に襲われる。瞼が持ち上がらなくなって間もなく、僕の意識は急速に落ちていった。


    聞き慣れたチャイムの音で目を覚ます。
    「……?」
    夢を見ていたのだろうか。分からないけれど、温かくて柔らかい羽に触れていた感触が手に残っていた。悪い夢では無かった、ような気がする。そのまま指先で違和感のある頬をなぞれば、一筋だけ薄らと濡れていて、おや、とぐしぐし擦る。よし、きっとこれで元通り。
    マットレスに手をつきゆっくりと起き上がる。まだ眠たさは完全には抜けきらないが、気分の悪さはすっかり息を潜めていた。……帰寮する前に制服を取りに更衣室に行かなくては。ベッド脇の靴に足先を通したときだった。
    ガラリ。遠慮の欠片も無い音を立て、保健室の扉が開く。
    「あ、ジェイド起きてんじゃん」
    「……フロイド?」
    「お迎え来たよぉ~」
    兄弟だった。肩には、ふたつの鞄。「J」と「F」のキーホルダーがそれぞれに揺れるそれは、僕のと彼のだった。ペタンペタンと靴底を擦るいつもの歩き方で、僕の座るベッドの前へと彼が寄る。
    「ウミガメくんからジェイドが飛行術で保健室送りになった~、って聞いてさぁ。ダッセ~!ってスゲー笑ったんだけど」
    「……気分が乗らなかっただけですよ。飛行術なんかより、お昼寝の方が有意義でしょう?」
    「トド先輩みたいなこと言うじゃん。必死すぎてウケる」
    「……」
    「怒んなってぇ~」
    全く、失礼な兄弟だ。じとりと睨めつければ、フロイドは眉を下げてみせた。それから、膝に手のひらを乗せ、彼は軽く屈み込む。ベッドに腰掛けている僕とフロイドの瞳がパチリと合って、兄弟のそれが柔らかな形を作った。
    「ま、元気そーで良かったわ。ホラ、帰ろ?」
    ……差し出された手を取らなくたって僕は歩き出せたのだけれど、学園内の人影も疎らだったのを良いことに、結局、自室に辿り着くまで繋いだままでいたのだった。


    「え、……この時計、合ってます?」
    「?ウン。学園の魔力で動いてんだから、ずれないでしょ」
    「……そう、ですよね……」
    びっくり。先ほどの鐘は一日の授業の終わり、放課後の始まりを告げるものであったらしい。フロイド曰く、『昼にも様子見に行ったけど、グースカ寝てたから起こすのも可哀想だし出直した』だそうで。随分のんびりと保健室で眠ってしまっていたようだった。
    「酔っちゃったの寝不足が原因だって?一応、まだ寝てなね」
    「はい……」
    促されるまま、自分のベッドに横になる。脳が膜で覆われているような薄ぼんやりとした眠気はあったが、瞼を下ろしても眠るまでには至らない。意味も無く二度寝返りを打って、余計に目が冴えてしまい嘆息する。……そんな折、不意に名前を呼ばれて瞳を開けた。
    「ジェイドさあ、眠れないの?」
    「今までずっと寝ていたので……」
    苦笑した僕に、フロイドの垂れた目が側められ、空気がピリと張り詰める。そうじゃねーよ。苛立ちを滲ませた強い声が耳を突く。
    「オレが言ってんのは今だけじゃなくて、最近ずーっと寝れてなくね?って聞いてんの」
    「そんなことは……」
    「あるだろ。じゃなきゃ、こんなダウンしねーって」
    「……」
    紡ごうとした否定はしかし言い切られることはなく、尻すぼみに消えていった。
    「でも、全く眠っていない訳ではありませんし……」
    これは、本当だ。確かにこの頃寝付きが悪くて眠たくなるまで出歩いているせいで、睡眠時間は減ったけれど、それでも徹夜をしたことはない。大体朝、いいや、起床時間が訪れるまでのどこかのタイミングで記憶が途切れる。
    しかし、フロイドは瞳に剣呑さを宿したまま、僕から視線を逸らさない。
    「それでも、足りてないってことでしょ。ね、何が原因?自分で分かる?オレに言える?」
    「原因、と言われても……」
    言葉に詰まる。恐らくきっと、あれだろう。思い当たる節はあった。でも、確証はない。というか、合っているのであれば、自分の弱さを認めなくてはならなくて、否定したい気持ちが強かった。
    何も言わない僕に、いやに確信じみた調子でフロイドが言う。落ち着いた声だった。
    「前に、オレがヤなことあった?って聞いたの覚えてる?」
    「……ええ」
    「そんときジェイド、ないっつってたじゃん」
    「はい」
    言った。だって、現になかったのだから。……ないと思っていたのだから。フロイドは更に言葉を重ねていく。
    「でもさ、あったんだよね本当は。……ん~、ジェイドも『ヤなこと』だって自分で気付かなかったのかもしれないけど……」
    オレだってそんなの別にヤなことって思わね~もん。彼は正しく海を生きる人魚だった。
    「けど、それからじゃん。ジェイドが土クサくなくなったのも、寝なくなったのも」
    フロイドが次に何を言うかなんてもう、分かりきっていた。想像通りの形に彼の唇が動いていく。
    「小鳥ちゃんが死んじゃったの、ヤだったねぇ」
    ポン、と頭の上に水掻きのない温かな手が乗せられて、下手くそな力加減で撫でられて。……じんわりと視界が滲み、ボロボロと落ちるそれを止められなくなって。
    水中のように歪む眼前でも、フロイドがぎょっと目を見開いているのが分かって可笑しかった。
    ああ、もうどうにも儘ならない。水圧が助けてくれない陸の上では、この不合理な液体を誤魔化す術を僕は持っていなかった。


    ウミネコくんから聞いたんだ。そうフロイドは、秘密を打ち明ける子どもの顔で口にした。
    「ジェイドは何もないって言ってたけど、やっぱり急に植物園に行かなくなったのが気になっちゃって。だって、入学してからず~っと、ジェイドのお気に入りの場所だったのに。……それでオレ、植物園で何かあったのかなって思って行ってみたの」
    「……フロイドが植物園に?土の匂いが濃いから、お嫌いだったのでは?」
    「そぉ、きらぁい。でも、ちゃんと行ったよ。ジェイドのこと、知りたかったから」
    どうやら僕は、思っていたより随分とこの片割れに目を掛けられているらしい。笑みが溢れて、また涙が溢れた。ヒトを模したフロイドの指先に、そっとそれを拭われる。
    「それでさ、部活中のウミネコくんに会って。……会ったっつーか、見つかってぇ?『ジェイドくんは元気にしてるかい?』って聞かれたの。……やっぱり何かあったんだな、って思ったよ」
    「……」
    「小鳥ちゃんと楽しそうにしてたこと、小鳥ちゃんが死んじゃったこと、ジェイドが埋めてあげたこと。……そのあとから、植物園にジェイドが来なくなったこと。ぜぇんぶ聞いた」
    イヤだったねぇ、悲しかったねぇ、寂しかったねぇ。
    注がれるその言葉のすべてが、余すことなく暖かくて優しくて。ついには肺呼吸が上手く出来なくなって、ヒッ、と喉が引き攣れた。
    フロイドの腕が伸びてきてゆっくりと身体を抱き起こされ、そのまま背中を緩く摩られる。……暫くそうされていると、次第に息が落ち着いてきた。深呼吸を一度してから、でも、と僕は語り出す。
    「でも、海にいた頃は死なんて当たり前のことでした。目の前で誰が死のうと、特別何か感情を抱いたことはありません」
    「……ウン」
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    hyacinth_v3zzz

    SPUR ME自分の限界が分からないせいで頑張りすぎては熱を出す🐬と、辛そうな🐬を見たくなくて何とかできないかなあ、を考える🦈の話。フロジェイ。

    あと推敲したら完成の話です。しっかり修正して色々整えたら支部に投げる予定。
    重複表現、誤字脱字諸々チェックこれからなので「なるほどね、大体こんな話書きたかったのね理解!」くらいの気持ちで流してください。これは尻叩きです!!!
    無意識に頑張りすぎて熱を出す🐬とどうにかしたい🦈の話あれ、ジェイドもしかして。
    ニコニコしながらトレーを左手に乗せて、オキャクサマへとドリンクやフードをテキパキ運ぶきょうだいは、どう見たっていつも通り。
    それなのにそんなことを思ったのは、いわゆる経験則ってヤツだった。
    「ジェイド。それオレ運んどくから、休憩行ってきていいよぉ」
    「?いえ。休憩なら、もう少し落ち着いてからいただくので大丈夫ですよ」
    「いーから。貸して」
    「あっ、」
    白いグローブからそれを拐って、トントンとフロアの上で踵を鳴らす。7卓と8卓ね、オッケー。
    「お待たせしましたぁ」
    シーフードピザになりまぁす、なんてご注文の品を読み上げながらサーブして。モストロ・ラウンジが開店したばっかりの頃、アズールにネチネチしつこく言われたせいで、意識しなくたって料理に触れないよう、自然とオレの親指は伸びるようになっていた。
    11906

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    hyacinth_v3zzz

    MOURNING警戒心が強くて弱ったところを見せられない🐬の悪癖を直そうと、🦈が甘やかすことをやめたら🐬が体調不良を悪化させた話。書きかけの供養です。
    ⚠️嘔吐
    弱いところを見せられない🐬の話(フロジェイ)ジェイドは昔から、人一倍警戒心が強かった。その個性が、昨日遊んだ兄弟の命日が今日なんてことも珍しくなかった海の底で、彼が悠々と生き残ってみせたことの役に立ったのは間違いない。
    警戒心が強い、というのは何も、臆病だという訳じゃなくて。どころか、彼は好奇心の赴くまま、自身の興味がそそられるまま。誰も行ったことのない沈没船にだって怯える素振りも見せず、僕が一番乗りです、とでも言いたげに、スイスイとひとりで煌めく尾ビレをはためかせていた。
    では、一体どういうことなのか。──一言で表すのなら、ジェイドは己の身に迫る危機に非常に敏感だったのだ。

    もう名前も忘れた兄弟たちと、棲み処よりも少し上の明るい海でくるくる追いかけっこをしていたときのこと、キラリと頭上が小さく光った。どうせ、小魚の鱗か何かが反射しただけ。気に留める者はいなかった。……他よりも獲物を余裕綽々、手にして見せるから半周りほど大きな個体の彼以外は。
    17288

    yo_lu26

    MENU展示①フロジェイ死ネタwebオンリー『フローライトジェミニ』2023年02月26日 00:00 〜 23:50
    謎時空王国パロです。フロジェイ。
    臣下🦈×王様🐬 ※死ネタ
    「真心を込めた死を貴方に」 「王!」
     そう呼びかけられて、ジェイドは物憂げにそちらに視線を送る。ジェイドは最早、そう呼ばれることに心底うんざりしていた。臣下にバレないようにため息をかみ殺し、もたらされる報告に嫌々耳を傾けた。誰か、この退屈を殺してくれないだろうか。そんなことを考えながら、ジェイドは虚しい王座に座り続けていた。
     もともと、ジェイドは妾の子だった。先代の王と身分の低い使用人の間に生まれた彼は「王族」という枠組みの中から除外され、永らく不遇の扱いを受けていたが、王様が死に正妻が死に、その子供も死に王弟も死に、数々の死の上でジェイドが王に担ぎ上げられることとなったのだ。王宮にジェイドが戻る前、貧しい暮らしをしていたころ、産みの親は幼いジェイドに「貴女のお父さんはこの国の王様なのよ」とことあるごとに、それはもうしつこいくらいに語ってきかせた。しかし、その頃の母親は心身の調子が悪く、しょっちゅう泣きながら呻き声をあげ、まともに話せないことも多かったので、周囲の大人が言うように「気の触れた女の戯言」なのだと思ってジェイドは聞き流していた。ジェイドが10歳のときに、母が流行病であっけなく死に、もらわれていった先の家で最低限の衣食住だけを与えられ、彼はそれから6年間奴隷のように働かされた。床に這いつくばって掃除をしているところにお城からの使いがやってきて「貴方を王宮に迎えます」と言われたときに、亡き母の言葉が真実だったのだと初めて知った。
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