「おはようございます。昨日はありがとうございました。それから、「ん……」
「起きちゃったぁ? まだ真夜中だし、寝てな」
深海の底から引き上げられていくように、ずるずると意識が浮上する。……あつい。身体に籠る熱と纏わりつく汗が不快で身を捩れば、すぐに柔らかなきょうだいの声がして、錨みたく重たい首をそちらに向けた。
頭の下、まだ固い氷たちがカランコロンと音を立てる。眠りに落ちる直前に、この冷たい枕の中身を替えてもらった覚えがあるのだけれど、溶けるより先に僕が起きてしまったのか、再度彼が作り直してくれたのかは分からない。普段は周囲と比較しても正確だと自負している僕の体内時計は、すっかり当てにならなくなっていた。
火照る頬を冷やしながら、ぼう、と涼しげな合唱に耳を傾けていれば、不意にフロイドの骨張った手のひらが伸びてきて、僕の目元を覆い隠した。ひんやりしていて心地が良い。
「ほぉら、目ぇ瞑って。おやすみ、ジェイド」
瞼を下ろした拍子に、目尻から水分が落ちる。決して悲しいとか苦しいとかそういう類いのものではない。単にこの忌々しい高い熱のせいだった。目頭がジンと痛み、勝手に瞳が潤んで涙が出てしまう。
寝ちゃえば楽になるから頑張ろ。アズールも保健室のせんせぇも言ってたし。
耳を揺らした言葉に、はい、と頷こうとしたはずなのに。……乾いた唇が紡いだ台詞はまるで別物で。
「……眠れない、です。フロイド……」
ぽろり。転がり落ちたそれを、しまった、と思った頃には遅かった。こんなことを言ったって、彼を困らせるだけだ。
けれどもフロイドは機嫌を損ねることもせずに、そっかぁ、なんてただ一言口にして、僕の頭を緩く撫でたのだった。
──事の始まりは、今朝まで遡る。……もしかしたら、目が回って尾ビレが絡まるような昨日までの日々を振り返る必要もあるのかもしれないけれど。兎に角、不調を自覚をしたという点においては、今日の朝が発端だったのだ。
「あ、やっと起きた。ジェイド、よく寝てたねぇ」
「……おはようございます……」
「アハ、おはよぉ」
ケラケラと笑ったきょうだいは既に着替えを終えていて。部活動もシフトも入っていないお休みの日に彼が僕より先に起きているなんて、あまりに珍しい。
一体今は何時なのでしょうか。枕元のスマートフォンで時間を確認すれば、実に普段の休日の起床時刻より三つほど先の数字を短針が示していて、目を見張った。
ああ、今日は早起きをして久しぶりに植物園にでも行こうと思っていたのに、勿体ないことをした。……何はともあれ、そろそろ起きなくては。
思うのに、身体がベッドから出たがらない。陸の重力に慣れていなかった頃みたいに怠くて、頭がふわふわする。
挨拶だけを返して肩がすっぽり埋まるよう毛布に包まり、再び瞳を閉じた。寝たいのではなく、起きたくない。それから、何だか凄く寒かった。ここは故郷みたく冷たい水に覆われている訳でもないのに、皮膚が沸々と粟立っている気さえする。
暖を取ろうと身体を丸め、シーツの海でフジツボのように動かなくなった僕にフロイドが眉を潜めた。
「……ジェイド、顔赤くね?」
「そう、でしょうか……?」
横になったまま、こてん、と首を軽く傾げてみせれば、きょうだいが頷いた。
「ウン。何か具合悪そーだし、熱あんじゃねぇの?」
一応、測ってみなよ。
随分と前に一度使ったきり出番のなかったそれは、一体どこへやったのだったか。フロイドが部屋をあちこち探して、結局僕のペン立てから見つかった体温計を大人しく口に含む。咥えた金属の温度が気持ち良くて、なるほど確かに熱があるのかもしれない、と思った頃には既に、水銀の位置は平熱を超えていた。
午前中ならまだ先生いるから急ご、なんてパジャマにコートを羽織らされただけのだらしのない格好で、バタバタと学園の保健室へと連れていかれて。
道中、寮の廊下ですれ違ったアズールに、「寮内を走るんじゃない」だとか「そんな格好で外に行く気ですか?」だとか咎められると思ったのだけれど、まるでそんなことは無く。彼は目を丸くした後に瞬きをして、大丈夫ですか、と顔を顰めて尋ねただけだった。
「変なビョーキじゃなくて良かったねぇ。ジェイドが熱出すなんて珍しいから、ちょっと焦っちゃった」
「ふふ、ご心配をお掛けしました」
発熱以外の症状も見られないし、恐らく感冒の類ではなく疲労によるものだろう。
学園に常駐している魔法医術士はそう診断を下して、これをやるから帰って寝なさい、と先ほど中から一枚取り出して、僕の額にぺたり貼り付けた冷却シートを箱ごとフロイドに渡した。
辺鄙な土地にあるために医療機関へのアクセスがよろしくないこの学園では、保健室が小さな診療所の役割を担っていた。本来ならば麓の街まで赴かなければならない所を、人魚であっても診察は勿論、必要であれば薬の処方まで全て学内で受けられるのだから有難い。
戻ってきた自室、ベッドに横になればすぐに抗いがたい眠気に襲われる。存外体力が奪われているらしい。
「おやすみ、ジェイド」
「おやすみなさい、フロイド」
そうして、僕は微睡みに飲まれていって。……そう、発熱しているとはいえ、この頃は良かったのだ。何といっても、ぐっすり眠れていたのだから。
本格的に辛くなったのは、陽が落ちてからだった。
「大丈夫? 寝れねぇの?」
「はい……」
短くて一時間、長くても数時間。どうしても長く眠るということが出来ずに、目が覚めてしまう。上がったから眠れないのか、眠れないから上がるのか。分からないけれど、気付けば体温は高熱と呼んで差し支えのない値となっていた。
菌やウイルスが原因ではないから解熱剤の効きも悪いし、休養するしかないことは僕自身も分かっている。午前中に診ていただいた先生も、午後に様子を見に来たアズールも言っていた。
「ん~……。お腹トントンしたら眠くなったりするかなぁ。……どぉ?」
彼の匂いのする毛布を重ねた布団越し、その手のひらが僕のお腹の上を優しく跳ねる。安心感はあるけれど、やっぱり眠くはならなくて。それでも僕は、眠れそうです、と嘯いた。
フロイドの瞳が満足そうに細まって、……何だか悪いことをしているような気分になって、胸がしくしく痛くなる。
「んふふ、稚魚みたいでカワイーねぇ。ジェイドがおねんねできるまで、こうしてたげる~」
「……ごめんなさい、フロイド」
「え? なぁに?」
「……いえ、何でも」
寝なければならない、彼のためにも。眠気なんてないのに、きつく瞼を閉じる。僕が眠れないと、フロイドも休めないから。
もう片手の指では足りなくなりそうなくらいに浅い睡眠と目覚めを繰り返しているというのに、フロイドは僕の意識が覚醒するその度に、飽きずに傍にいてくれるのだ。
「しんどいよなぁ。してほしいこととかあったら言えよ」「喉乾いてねぇ? 何か飲む?」「寂しいなら手でも握ってあげよっかぁ?」……。きょうだいのくれる言葉たちを少し嬉しいと思ってしまう自分がいることに、罪悪感。
彼も僕同様昨日まで駆け回っていたし、疲れているに決まっている。申し訳ないと思う気持ちが膨らんで、身体を蝕む熱と同じくらいに苦しかった。
「……あ、氷溶けてんな。ちょっとごめんね、ジェイド」
小さく囁く声がしてそっと頭を持ち上げられ、すぐにまた下ろされる。ふかふかで冷たくないいつもの枕だ。パタン、と微かに鼓膜を揺らしたのは静かに扉を閉める音。
足でガン!とけたたましくドアを鳴らすことも珍しくないのに、随分と気を遣わせている。……早く寝なくては、治さなくては。
しかし、ここで冒頭へと戻る。やっぱり起きてしまった。起こしてしまった。しかも、余計なことを口走った。
上手く行かない。儘ならない。──寝なければ。意識するほど、裏腹に目は冴えていく。
「そっかぁ、眠れないかぁ」
「……すみません……」
「なんで謝んの?」
「だって……」
だというのに、彼の声音も表情もどこまでも柔らかい。泣きたいような気持ちになって、堪えたくて、ズ、と鼻を啜った。細長い指先が穏やかに僕の髪を梳く。
「別に謝ることじゃないでしょ。こんだけ熱あったら仕方ないって。そりゃあ寝苦しいだろうなぁ、ってオレも思うし」
「でも……」
「ん、なぁに?」
「いえ……」
「え~、気になるじゃんねぇ?」
熱というのはきっと、思考までもを馬鹿にする。……本当に失言ばかりで嫌になる。ニンマリと色違いの三日月を浮かべ、興味を惹かれてしまったらしいフロイドから逃げるなんてできないことは、僕が一番知っていた。もう、どうにでもなってしまえ、と唇が動いていく。
「僕が眠れないと、あなたまで起きてしまうでしょう? 僕のせいで、何度も……。今だって、真夜中なのに……」
ぽつぽつと紡がれた戯言に、きょうだいの垂れた瞳が大きく見開かれる。……言ってしまった。戸惑わせるだけだとは、理解していたのに。
部屋に妙な沈黙が落ちて、心臓が痛かった。……フロイドは何を口にするのだろう。気にしないで? ジェイドのせいじゃないよ?
申し訳ないと伺うようで、その実否定を期待しているのが透けて見えるあんな台詞を投げられたら、本心では迷惑だと思っていても、誰だって気遣いを繕う。病人を笠に着ているようで、浅ましい。
作らせた優しい言葉も、もしかしたら有り得るかもしれない叱責も、何も聞きたくなかった。耳を塞ぎたいけれど、布団の下できゅうと拳を握り、我慢する。
荒い僕の呼吸音だけが浅く響く自室の静寂を破ったのは、恐れ、予期していたそのどちらでもなく。
「アハハ! ジェイド、そんなん気にしてたの~?」
明るい笑い声に、今度は僕が目を見開く番で。
「いっつも寝れねぇからやめて、っつっても遅くまで電気点けて草のスケッチとかしてんのに、意味分かんなすぎてウケんだけどぉ。マジ理解できなくてちょっと時間止まってたわ」
「……すみません」
「それは何に対しての『すみません』なワケ?」
「……夜分の植物観察です」
「ん。なら、受け取ったげる」
おどけたようにフロイドが宙で何かを掴む仕草をして眦を下げた。あのねぇ、ジェイド。上向いた声音のままで、彼が続ける。
「オレは起きたくて起きてるだけだし、何ならジェイドが寝てたってカンケーないから。心配で眠れるわけねーじゃん」
それは結局、僕のせいでフロイドは眠れないということなのでは? 言えなかったのは、彼の表情に慈愛が浮かんでいたからだ。
何でそうなんの? なんて、心からの疑問を返されるのは、容易に想像がついた。そうなると、答えに窮するのは僕の方になってしまう。
したいようにしているだけ。シンプルで真っ直ぐで、フロイドらしい。たったの一度でも自由な彼に気持ちを偽らせることが出来ると思うなんて、烏滸がましいにも程があった。
「……僕、やっぱり熱のせいで少しおかしくなってしまっているみたいです」
「普段がマトモみたいに言うじゃんねぇ?」
「おや、酷い……」
泣き真似をすれば元々目尻に溜まっていた涙が落ち、意図せず名演技になってしまって思わず吹き出す。フロイドは呆れたようにこちらを眺めていたけれど、寝ろとはもう言われなかった。
「眠たいなら寝ちゃっていいかんねぇ」
「いやですフロイド、まだ……お話したい……」
「アハハ、もう落ちそうじゃん~」
──寝れねぇならお喋りしよーよ。そうフロイドが笑ってから、暫く。あれほど眠気が訪れなかったのが嘘のように、瞼が重くて仕方がなかった。
グラスを割ってアズールを怒らせただとか、パルクールの新しい技を覚えただとか、そんな他愛の無い出来事を話す、ゆったりとした彼の声音は正に魔法のようで。
耳を傾けていると安心感に包まれて、思考が穏やかな波にさらわれる。初めのうちは相づちを返していたけれど、次第にそれも出来なくなって。
「おやすみぃ、ジェイド」
頭を柔く撫でられて、大きな欠伸が溢される。……そうですよね、フロイドだって。それでもあなたは文句のひとつも言わなかった。その事実が、堪らなく愛おしい。
朝陽が海にきらめく頃にきっと元気になって目が覚めたら、伝えそびれたとびきりのありがとうと大好きを僕からあなたに贈らせて。あつく苦しい夜の終わりは、すぐそこに。