扇子の行方「また妙な物を欲しがるものだ」
扇子が欲しいと洛冰河が言い出した。
少し意外だったが、得心がいかないでもない。
では、揃いで誂えようかと沈清秋が提案すると、それも嬉しいのですが・・・と冰河は少し言い淀んでから、できれば使い古しがよいのです と言う。
「師尊が新しいものを誂える折に、今使われているものをいただければ」などと。
「それでは襤褸ではないか、遠慮はいらぬよ」
師に出費させるのを良しとせずに辞しているのか、と沈清秋は思ったのだが。
「新しいものではなく、師尊が愛用されていたものをご下賜いただきたいのです」と冰河が更に言うので、なるほど形見のようなものかと納得はした。形見とは会えぬ者を偲ぶ物。魔界の統治に絡み遠征を余儀なくされることもあるゆえ、何か師の物を持っておきたいということだろうか・・・・と。
しかし、今使っているものはまだしばらくは保ちそうであるし、やはりボロボロになったものを渡すのは忍びない。
こちらにおいでと弟子を飾棚の前で手招きすると、沈清秋は最上段の引出しを開けて中を見せる。洛冰河が覗き込むと、美しい刺繍の施された敷布の上に幾十本もの扇子がズラリと並んでおり、圧巻の様を見せていた。
「随分、お持ちだったのですね」と目を瞠る冰河に、沈清秋は苦笑交じりに説明をする。
「なに、大半は頂き物なのだ。この師が日常的に扇子を使っていると知って、挨拶や礼の品としてな」
ただ・・・と、それらに視線を落とす師を見て、嗚呼・・・と洛冰河は察する。
「御趣味に合わないものも多いようですね」
沈清秋は口では答えず、苦笑を深めるだけに留めた。
扇子は開いて使うもの。持つ者の顔近くで拡げられ動く様は否が応でも相対する者の目を引き、その素材や意匠から受ける印象は、使用者自身の印象と深く結び付く。持ち主が如何程の人物であるのかを、広げた面が語るのだと言っても過言ではない程に。
沈清秋が普段から愛用しているのは、白い地紙に墨絵で竹葉が描かれたスッキリと品の良いものである。親骨に施された彫り模様と要から下がる淡い翡翠色の房飾りが、閉じている時でも上質な風格を醸し出している。持ち替え用に用意している物も、墨絵のテーマが多少異なる程度で、概ね似たような雰囲気のものであった。
それに比して、目の前に並んだ数々の中には、金と手間ばかりは掛かっているものの品の無いものや、品はあれどこれは女物ではないのかと疑うほど雅に過ぎた物がかなりの割合で紛れている。中には羽根扇などもあったりして、師の好みを把握している洛冰河としては失笑を禁じ得ない。
「この中から好きな物を選ぶというのはどうだ?」と師が悪戯っぽく笑って言うので「ご冗談を」と返しかけて、洛冰河は左側にひっそりと置かれている数本の扇子に気が付いた。皆、親骨には使い込んだ味わいがあるが、綴じられた地紙はピンと張り、真新しい白さを見せている。
沈清秋は微笑みながらその中のひとつを手にすると、慣れた手付きでパサリと広げて見せた。巧みな筆致で竹林と山の峰が描かれているその扇子は、師自身が愛用していた品のひとつで、最近仕立て直したばかりなのだという。
「このあたりは皆そのような物だ。候補にはならないか?」と、閉じた扇子を戻しながら沈清秋が数本を指し示す。が、その先にある物の方に、洛冰河の目は留まった。
それは引出しの左の隅。敷布の下に包むように置かれた古い扇子入れで、中は見えぬものの、やはり扇子であろう物が納められているのはその膨らみ具合から見て取れた。
凝視する弟子の視線の先を追った沈清秋が僅かに息を止めた気配を、洛冰河は鋭く察知する。それだけで、その中身について察しがついてしまった。
「こちらは、御趣味が変わってしまったものなのですね」
洛冰河は、隠すようにそれが置かれていた理由には敢えて触れず、何気無い口調で話題を流すと、師に微笑みかける。そして、沈清秋が無意識に拡げ口許を隠した現在の愛用の扇子を、再度所望した。
「やはり、そちらが不用になってからで。何年先でも構いません」
「・・・また妙な物を欲しがるものだ。これの何がそんなに気に入ったのだ?」
────何が、などと。
貴方が選び、貴方が愛し、貴方の手が触れその息が掛かり、貴方が隠さんとするその素の表情を他者から守り続けてきた物だから。貴方と共に在り続け、慎ましく秘された様々を唯一見届け続けてきたその扇子こそが、俺にとっては妬ましく何にも増して価値がある・・・・・・
「いっそソレに生まれ変わりたいくらいです」
最後の想いだけ、口に出てしまったようだ。
沈清秋は、「また何か妙な事を言い出したぞ」と言わんばかりの胡乱な眼を弟子に向けたが、対して、熱い視線を扇子から師に移してきた洛冰河の顔を凝視すると、赤くなった耳だけを残し、その扇子で深く顔を覆ってしまった。
ほら、今も。
貴方がどんなにお可愛らしい表情をされているか、知ることが許されているのは、その扇子だけでしょう?
(俺は貴方の素の顔が欲しいんです)
────いつでも、どの瞬間も・・・・・・
──────── 2 ─────────
そこに隠すようにして置いたことなど、すっかりと忘れてしまっていた。
(冰河が目にすることにならずに済んで、良かった・・・)
その古い扇子入れの中に納められていたのは、かつての沈清秋・・・沈九が愛用していた扇子だった。沈垣が沈清秋として転生し、最初に目を醒ました折に、枕元に寄せられた台の上に飲み水と一緒に置かれていたのだから、そういうことなのだろう。
趣味は悪くないものの、沈垣からすると男子が持つにはいささか雅びに過ぎるように感じられるその意匠は、彼の好みには合わず、すぐに扇子入れに仕舞われて引出しの隅へ、いつしか敷布の下へと見えなくなっていった。
数年が経ち、安定峰主と茶飲み友達となるほど関係が改善した頃、あの扇子はまだ持っているのかと尚清華から尋ねられた。まだあるのなら、どうかそのまま置いておいて欲しい・・・と。
意外に思ったが、聞けばそれを見繕って清静峰に持ち込んだのは尚清華本人だったのだと云う。
※:※:※:※:※
それは、代替わりにより、現峰主陣が就任して間も無い頃のこと。
物資調達も担う安定峰の峰主に、清静峰主から内々に要請があったのだ。いくつか扇子を見繕って持って来て欲しいと。
尚清華は沈九が詮索や街の喧騒を嫌うことを知っていたので余計な事は言わなかったが、ひとつだけ、誰が使う物なのかを確認した。扇子にも格があり、持ち主に分不相応な物を用意する訳にはいかないので・・・と。沈九は一瞬だけ眉根を寄せたが、格については学んでいたと見え、一理あるとして己が使う物だと答えた。
数日後に尚清華が持ち込んだ数点の扇子を目にした沈九は、常になく素直に驚きの表情を見せたのだと、後に尚清華は得意気に沈清秋に語った。
賤民上がりを自認していた沈九は、他者から値踏みされたり見下されることを殊更に嫌った。そのため、血の滲むような努力を重ね、知識を付けセンスを磨き、果ては誰からも物申させぬ不可侵な存在感を纏うべく、戦略的に自己演出を行おうという考えに至ったのだ。そのひとつが、扇子を常用し他者に己の表情を読ませないこと だった。
かつてこの世界の創造主であった向天打飛機こと尚清華は、沈九のその思惑を察していた。ヘラヘラとした笑みを絶やさず軽薄な印象を持たれがちな尚清華であったが、いつ誰が何を必要とするかを予め識っている彼は、それがどこで調達できるかも把握しており、交渉術にも長けていた。敢えて表立たないように振舞っていたため、日頃から注目されることは皆無に等しかったが、実はこの男ほど安定峰主に適した人物も居ないに違いない。
沈九のために用意された扇子は、どれも峰主たる者が持つに相応しい風格を備えた品々だった。
感嘆した表情でそれぞれの意匠を確認していた沈九に、尚清華はその中の一本を強く勧めた。それは荒々しさを感じる枝ぶりに天を仰ぐ白い花が咲き誇る様を描いたもので、樹種は白木蓮のようであったが、雄壮な枝ぶりからそうであるとも決めつけがたく、男性的とも女性的とも言えぬ風雅で神秘的な雰囲気を醸し出していた。
「これはなかなかに持つ者を選ぶ柄行なんですよ」
まずは思い付く他の誰ぞと組み合わせて、持った姿を想像してみてください。どうです? と尚清華が楽しい事を提案するように微笑みかけてくるので、顔ではむっとした表情を作りながらも、沈九は、まず目の前の尚清華とその扇子を見比べてみる。
(・・・コイツにはもっと凡俗で活気のある意匠の方が合うだろう。淡くとも色が付いている方がいいかもしれない)
そして、今度は他峰の面々についても思い浮かべてみる。男くさい連中には全くそぐわず、人柄はともかくその顔立ちについては評価せざるを得ない百戦峰主についても、纏う雰囲気とは全く合わず、いっそ気持ちの悪ささえ感じる。
意外にも似合うように思えたのは、男勝りだが凛とした華やかさを持つ仙姝峰主の斉清萋と、日頃は穏やかだが医師として厳しい面も垣間見せる千草峰主の木清芳だった。それを尚清華に告げると「でしょでしょ、私も同じ見解です」と人好きのする笑顔が返る。
でも・・・・と尚清華は続ける。
「斉師妹には、もそっと艶やかな花を添えてあげたい感じがしますね」
この柄行は、彼女の豪胆さとスッキリと背筋の伸びた壮麗さを表すかのようで、とても似合うと思うけれど、彼女、姐御肌で気風が良い印象が強いでしょう? 添え物は逆に、女性らしい艶やかさや艷やかさを引き立たせるものがいいんじゃないかと思うんですよね。
「添え物・・・・・・」と沈九が呟く。
そうそう、と尚清華が頷く。
「木師弟については? 沈師兄的にはどんな印象があります?」と問われ、沈九は医術の発展を使命と志す千草峰主の佇まいを思い起こす。尚清華の言い方を倣うならば、苦界に怯むことなく人を救わんと道を求めるその清玄な姿に、天に手を伸ばすかのように咲く白い花の姿が尊しと重なる・・・といったところか。
「だが、恐らくおまえは少しつまらないとでも言うのだろう? あまりにもハマりすぎて」
「お見事!」
コイツ、この俺に講釈を垂れているつもりかと、忌々しく思わないでもないが、確かに何か掴めてきた気がする。
「さぁそこで沈師兄、次はあなたの番ですよ」と、尚清華が銅鏡を携えて近付いてくる。件の扇子を手にした沈九がパサリと己の顔の前でその扇面を拡げると、ほうっと尚清華が嘆息する音が竹舎に響いた。
────これは
「・・・これは、詐欺れるな」と、沈九本人も満更でもない様子である。
その意匠は、沈九の生まれ持った優美な面差しを殊更に引き立て、匂い立つが如き麗しさを纏わせた。彼自身の生き様により染み付いた険と毒気を綺麗に中和し、男性的とも女性的とも言えぬ捉えどころのない神秘性へと昇華させている。
「こんなものひとつで、これほど化けられるとはな」
膝を組み、悪どい表情を浮かべて嗤うその顔から目が離せない。恐らく今後、沈九を見下すことのできる者は居なくなるだろう。彼を見た者はことごとくその独特の風情に圧倒され、気付かぬうちに魂の何割かを抜かれることになるだろうから。
「気に入っていただけたなら何よりです。また何かあったらお声がけを」
そう言って、尚清華は静かに竹舎を後にした。
※:※:※:※:※
木蓮の花言葉を知ってる、瓜兄?
色々あるんだよ。
崇高、高潔、忍耐、威厳、慈悲、恩恵、自然への愛・・・ありのままへの愛・・・そして持続性。
俺はさ。結局何もできなくって・・・・ほんと見届けるだけしかできなくってさ。でも、せめてあいつが自由に・・・運命に呑まれるまでは、せめてこれまで受けてきた偏見の目から解かれてもっと自由にやれるようになればいいって・・・・・・そう思ったんだよ。
俺はあいつ、嫌いじゃなかったよ。
負けず嫌いで意地っぱりで自分に正直で、でもそんな自分を持て余して必死に足掻いてた。
もしさ、あの扇子がまだ残ってるなら、そのまま清静峰に置いておいてくれないかな。
瓜兄や冰河の目に付かないところでいいんだ。
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そんな話を聞いてしまってから、一度だけ、沈清秋はその扇子を取り出して自分に合わせて見たことがある。
銅鏡に映った姿は、まったく似合わないという訳でもないが、劇的に雰囲気が変わるということも特に無く、やはりしっくりとはこなかった。
表情を消してみたり、敢えてキツい顔を作ってみたりと一通り色々試したが、結局何ということもなかった。
そういえば・・・・・・と、沈清秋は以前に柳清歌から言われたことを思い出す。
あれは不治毒に斃れた沈清秋を見舞いに、岳清源が木清芳と柳清歌を伴って竹舎を訪れた時のこと。様子見と診察を終えた二人が帰り、一人残った柳清歌が、人格の変わった沈清秋に奪舎を疑っただのなんだのとまだ探りめいた話をしてきた為、話を洛冰河の将来性にうまくすり替えて誤魔化し抜いた後のことだ。
「おまえ、あの薄気味悪い扇子を使うのはやめたのか?」
枕元に寄せられた台の上に飲み水と一緒に置かれていた扇子を見て、柳清歌が言ったのだ。
その頃の沈清秋は既に、今現在も使っている扇子を愛用していたため、柳清歌が目にしたのも扇面に墨絵で竹葉が描かれたこの扇子だった。
使わない持ち物に対して頓着していなかった沈清秋は、急に何を言われたのかわからず聞き返す。
「扇子が何だって?」
瞬間、柳清歌は盛大に怪訝な表情を見せた。
柳清歌からすれば、あれは手にくっついて離れない呪いでもかかっているのかと疑う程、常に清静峰主と対で存在していた物であり、おそらく他峰の峰主達も皆同様に感じていた筈だった。それなのに、当の本人の、指摘を受けてもピンとも来ない様子には益々違和感を感じざるを得ない。しかし、今の沈清秋は熱によって記憶の一部が曖昧になったままらしいと噂されていた事を思い出し、なるほど・・・と一人納得する。
「花の絵のついたやつのことだ。使っていないならそれでいい」
「あー・・・・・・」
アレか! と、やっと思い至った様子の沈清秋は、好みが変わったのだと事も無げに言う。
花というのもちょっとな、と。
まったくだ、と百戦峰主も頷く。
「男子が、美しいだの何だのと持ち上げられて浮かれるものではない」
(浮かれてたんかよ! オリジナルさんよぉ)
当時の沈清秋は沈九のことを小説通りの人渣としか認識していなかったため、柳清歌が沈九と犬猿の仲だったことも忘れてその言葉を鵜呑みにし、沈九の人物像に更にマイナスを加点した。
「アレの影からこちらを睨み据えてくる姿は、花を隠れ蓑に牙を剥く毒蛇のようで不快極まりなかったが・・・・好みが変わったならそれがよかろう」
ふむ、顔つきも変わったな。いいことだ、と何故か上から目線で告げて来る柳様に、私はそんなに変わったか?と尋ねると、だからさっきからそう言っているだろう、と冷えた応えが返ってくる。
(えー、随分頑張って『沈清秋』演ってたつもりだったんだけどなぁ)
顔つきと言われても、どこをどう寄せるべきだったのか自分で見えるものではない以上見当もつかない。そもそも『沈清秋』を知る万人がそう思っているのか、直感と反射で生きている百戦峰主の野生の勘がそう告げているだけなのかもわからない。
(まぁ、いいことだって言ってくれてるんだし、いいか)
この頃には既にOOC機能がアンロックされていたため、別人だのらしくないだのと言われても、さほど慌てる必要も無くなっていた。
要するに、用心するに越したことはないって程度に構えておけばいいってとこだよな と内心で結論づけて、沈清秋はその話題を流したのだった。
後日、診察に訪れた木清芳にさり気なく「柳師弟に、最近顔つきが変わったと言われたのだが」と話を振ってみると、木医師は脈を測りながら「ああ、そうかもしれませんね」と返してきた。以前より穏やかになられたように思います、と。
そして彼もまた言ったのだ。扇子を変えられたのですね、と。
「師弟も扇子の事を気にするのだな」と沈清秋が呟くと、「おそらく皆が気にしていることでしょう」と微笑まれる。
皆もと言われて、沈清秋は、先日見舞いに押し寄せて来た他峰の峰主達の様子を思い出す。
魔族の急襲に於いて、虹橋の破壊と結界により他峰からは加勢に向かえず、一人で対応することとなった沈清秋が場を収めるも深刻な負傷を負った。そのことに対する謝意を表す訪問だったが、たしかに皆一様に沈清秋の手元を意識していたように思う。
怪訝な顔を見せた清静峰主に、千草峰主もまた一瞬怪訝な表情を浮かべた。当の沈清秋本人が無自覚な筈はないだろうという目だったが、すぐに熱で斃れた後の様子から曖昧になってしまった部分なのかもしれないと推察し、彼の疑問について解説する。
「あの扇子を使っていた貴方は何とも言い難い特別な雰囲気を纏っていたのですよ。神々しいとも魔的とも・・・何とも捉え難い特殊な空気を。それは受け手次第で抗い難い魅力にも、底知れぬ恐ろしさにも姿を変えたようですが、どちらにせよ、その頃の貴方は誰の目にも『人』ならざる者のように見えていたと思います」
やっぱり暴力に生きる男は言葉が足りない。木清芳の説明で、ようやく沈清秋は扇子の意味を知ることができた。
「貴方にとってアレは良い隠れ蓑だったのでしょう。たしかに、それまで貴方が差別的な扱いを受けてきたことは私も気付いていました。アレのおかげで貴方を見下す者は居なくなった。けれど、『人』として対等に扱われることも無くなった」
転機だったのでしょうね、と木清芳は言った。
何が、とは言わない。医師である彼は、『沈清秋』の中身が秘かに入れ替わったあの発熱の件を、主語として、良いこととしては伝えない。
けれど。
「今の貴方には今のその扇子がよく似合っています。人として、十二峰の師兄弟として、対等に話ができるようになった。皆、それに気付いて喜んでいるのだと思いますよ」
健やかに居られるようくれぐれもご自愛を、と言い残し、木清芳は自峰に戻って行った。
え? アレってそんなチートアイテムだったの と、その時は驚いた沈清秋だったが、その後すぐに洛冰河を竹舎の隣にある空き部屋に引越させたり、こっそり夢魔の指導を受け始めた弟子の様子を監視したりしているうちに、沈九の扇子のことなどすっかり意識から抜け落ちていったのだった。
──────── 4 ─────────
そんなこんなを思い起こしながら。
沈清秋は温くなったお茶を飲み干すと静かに腰をあげ、再び飾棚の前に立つと、その引出しに手を掛けた。
洛冰河は少し前に、夕餉の支度をするため退出して行った。
部屋の中にひとり佇み、沈清秋はその古い扇子入れの紐をゆっくりと解く。
確かめるようにじっくりと、その意匠の細部までを鑑賞した。経年による劣化は見て取れたがやはり美しい扇子だった。ただ、感想はそれだけで、何か特別な感慨が湧くことは無かった。
それで、いい。
それを確かめたかった。
尚清華には申し訳ないが、洛冰河がこの先再びこれを目にすることがあってはならない。
明日彼を訪ねて返すことにしよう。後悔は無い。
扇子を再び扇子入れに納め、紐を適当にぐるぐる巻きにすると、沈清秋はそれを無造作に引出しの中に戻したのだった。
その夜、沈清秋は夢をみた。
暗闇の中で誰かが泣いている。
痛ましく悲愴な声が辺り一帯に反響していた。
(・・・・・・誰だ?)
しかし、迷ったのは一瞬だけで、沈清秋はすぐに、それが洛冰河の声であると気が付いた。
迷った理由は、耳慣れてしまった彼の涙声とはかなり異なった趣きであったためだ。いつもの、すんすんぐずぐずとした鼻声ではなく、それは悲鳴にも似た号泣だった。声自体のトーンも少し高い。まるで声変わり前の子どものようだ。
招かれた夢ではなく、巻き込まれた夢だとわかった。
────何があった?
闇は深かったが、沈清秋は足元の危うさを気にも留めず、歩調を早めて幼い姿になっているであろう弟子を探す。
目が慣れてくると、そこは周囲を高い壁のようなものに囲まれた空間であることわかった。泣き声が壁に反射して沈清秋の頭の中にキーンとした残響をもたらす。耳鳴りを起こしそうな苦痛に耐えながら辺りを見渡すと、空間の中央付近に薄ぼんやりとした光が見えたので、歩調を緩め、そちらに近付いていく。
────居た。
転生して初めて目にした14歳の洛冰河よりも、もう少しだけ幼い姿で、彼はそこにうずくまって泣いていた。
両腕で何やら淡く発光する薄絹のようなものを抱えているが、それは引き裂かれたようにボロボロで、冰河の周りには花びらなのか羽なのか判別のつかない白い破片が散乱している。周囲を取り巻く岩壁には獰猛な巨獣が暴れた痕のような引っかき傷が幾つも付けられていてなかなかに凄惨だ。
どうした? と声を掛けようとして伸ばした手が、一瞬止まる。
喉を裂かんばかりの慟哭をあげる幼い洛冰河と背中合わせに、影のように押し黙り膝を抱え俯く、大人の姿の洛冰河が居た。
小冰河の意味を成さない叫びの中に、時折「しずん」と聞き取れる音が混じる。その音が耳に入るたびに、大人の冰河の肩がビクリと震え、瞳に虚ろを宿したその顔がますます俯く。
(やっぱり、『俺』か・・・・・・)
今度は、『俺』の何がそんなにおまえを傷付けた?
沈清秋は唇を噛む。
小冰河の抱えた薄絹の燐光が、徐々に弱まり、消えていく。親しい者と死に別れるかのような悲痛な声をあげると、小冰河の身体からくったりと力が抜け落ちてゆく。気絶したように前のめりに身体を倒し、動かなくなるのとは対照的に、大人の冰河がゆっくり顔をあげて天を仰ぎながら静かにポロポロと涙を流す。
綺麗な顔だった。何か吹っ切れたような穏やかで澄んだ表情だった。
これは洛冰河の心象風景だ。
おそらく沈清秋がその場に居ることに、冰河は気付いていない。だから、何をしてもしなくても、結局は何にもならない。それが分かっていても・・・・・・沈清秋はその腕に、二人の洛冰河を抱き寄せずにはいられなかった。
──────── 5 ─────────
沈清秋が目を覚ますと、寝台の脇で洛冰河が正座をしていた。
師が起き上がった気配にハッと顔をあげた彼の、その形の良い眼が真っ赤に腫れていてちょっと・・・いやかなり怖い。泣いてはいなかったが、最早涙も涸れ果てたといった風情だった。
「おはよう冰河。そなた何故そんなところで畏まっているのだ?」
すると、洛冰河は大きな身体を平伏させて「おはようございます師尊。お目覚めの直後に見苦しいさまをお見せして大変恐縮ですが、弟子は今から罪を告白したく・・・」などと言い出す。
下げられた頭と寝台との間に、見るも無惨に破壊された例の扇子が置かれているのが見えた。
(あー・・・やっちまったかぁ)
まぁ、そんなことだろうとは思っていた。つまりこれは、土下座というやつだ。
何と声を掛けたものか考えているうちに、沈黙に耐えきれなくなった冰河が告白とやらを始める。
「この弟子は、昨夜師尊の棚を勝手に漁り、持ち物を盗み出し、このように二度と使えぬまでに壊してしまいました。ですが、まったく後悔も反省もしておりませんので、厳しい罰をお与え下さい」
────────何それ?
(普通こういう時に云う言葉って「反省してるから赦してください」じゃないの? え、え、真逆じゃん)
内容はアレだが、洛冰河の口調と表情は、不貞腐れているようにも開き直っているようにも見えない。むしろ真剣そのものだ。
沈清秋とて、実のところ後悔やら反省やらをしてほしい訳では無い。口先だけでも詫びてくれれば、すぐに「赦す」と言ってやりたいのに、何故わざわざ指導せざるを得ないような事を言って自ら厳罰を望むのか・・・・・・。
とりあえず、土下座はいただけない。
「立ちなさい、冰河」
穏やかな声で促すも、弟子は頑なに平伏を続ける。
(あーそう。欲しいのはコレじゃないわけね)
はぁ・・・と思わず沈清秋の口から溜息が漏れる。まったく仕方がない子だ。
沈清秋は勢いよく布団を跳ね除けると、出来るだけ荒々しい仕種で寝台から降り、床に額づく弟子の頭の前で仁王立ちのポーズを作った。
「立て、洛冰河!」
可能な限り厳しく聞こえるように声を張り上げる。
再びハッと顔を上げた冰河の瞳が、キラキラと輝いているのを目にして、沈清秋はげんなりと肩を落とした。
(やだもう、何その顔。俺ほんっとにおまえのそういうとこ分かんないんだけど!)
何処にも喜べる要素が見当たらないこの場に於いて、何故そんなにも陶酔したような目でこちらを見上げてくるのだろうか。
「このようなことになった理由について、きちんと説明されねば納まるものも納まらぬ!」
「納めなくてよいのです! 気が済むまでこの愚かな弟子を打ち据えてください! 是非とも厳しい罰を!」
納めなくていいってどういうことよ? ていうか何? このままSMごっこに突入させたいの? しないよ、俺。
「そなた、この師を怒らせたいのか?」
「はい!」
「・・・・・・・・・・・・」
おなかすいたな・・・うん。あ〜逃げちゃダメだ。俺、しっかり!
てか冰河、てめぇ元気に「はい!」じゃねぇよ、このすっとこどっこいが。いいよ、こうなったら奥の手出してやんよ。後悔しても知らねーからな。
「おまえは・・・私に嫌われたいのか?」
途端に、冰河の顔から血の気が引く。
「き・・・・・・嫌わないで下さい!」
ハイ、軌道修正。
ここからは普通に、いいか、普通に話し合おうじゃないか。
ほら、泣くなよ。顔、凄いことになってるぞ。本当にばかな子だなぁ。
泣くことなんて、最初から何も無いんだからさ。
「申し訳ありませんでした。嬉しくなって・・・・・・」
つい、調子に乗ってしまった と、少し落ち着いた冰河が項垂れる。
「そなたは自分の感情だけで突っ走るところがあるが、相手とうまくやっていきたいのであれば、振り返って様子を見ることも大切なのだ。先程この師は完全に置き去りにされていたぞ」
溜め息混じりにそう言ってから、沈清秋はまだ座り込んでいる洛冰河の前に屈み、ゆっくりその頭を撫でる。
「そなたにも色々と想うところがあったろうことは、この師も察してはおるよ。ただ、私のつけた見当が、そなたの真実の何割程度なのかも分からぬし、ましてやこの状況で嬉しがる理由など見当すらつかない」
撫でた掌を外すと、両手を床に着いて身体を支え、弟子の前に正座をする。
「い、いけません師尊! そんな・・・・・・」
慌てた冰河が顔を上げる。目の高さが合い、フッと沈清秋が笑う。
「師尊?」
目を合わせたまま、沈清秋は少し脚を開き身体を左側に傾けると、その膝の上に片肘を着き、軽く握った手に頬を乗せた。そうして洛冰河の顔より低い位置から首を傾げるような姿勢で、見上げるように瞳を覗き込む。
「私は、おまえが何を考えてどんな気持ちになったのかを知りたいのだ」
瞳を潤ませ頬を染める可愛い弟子の顔に右手を伸ばすと、触れて貰おうと冰河が頭を近付けてくる。沈清秋はその後頭部に腕を回すと、ぐいっと斜めに引き寄せた。ドサリと音をたて、二人して床に倒れる。寝転んだ姿勢のまま体を伸ばした沈清秋は、弟子の身体を引き、その胸元に抱き寄せた。
「し・・・師尊! 汚れて・・・汚れてしまいます」
焦り慌てる洛冰河に、よいのだ、と声が落とされる。
「汚れたことのない『人』などおらぬよ。このまま力を抜いて、この師にありのままを話してはくれぬか?」
そなたの気持ちは、言葉にしないと正しく伝わらぬ。
耳許に響く低い穏やかな声と、冷えた身体を包み込む温かな体温。洛冰河は、その大事な人の胸元に顔を埋めて、すんっと小さく鼻を鳴らす。
「師尊はいつでも・・・最後はご自分を抑えて、俺を赦してくださいます」
そうだっけ?
「師尊はいつも落ち着いていて、取り乱したり感情的な部分をあまりお見せにならないけれど、この弟子はそういった時こそ師尊の本音が垣間見えた気がして嬉しいのです」
歓びに満ちた時も、怒りに震える時も、いつでも貴方が隠そうとするその顔こそが知りたいのです。
だから。
だから────
──────── 6 ─────────
「この中から好きな物を選ぶというのはどうだ?」
機嫌良くそう言った沈清秋が、引出しの隅に隠されていたソレを目にした途端、息を呑んだ。もう長らく、師はそこに仕舞ったことを忘れていたのだろう。
それはほんの僅かな気配だったけれど、敏感な洛冰河はそれだけでその中身について察しがついてしまった。
その時は当たり障りの無い言葉を口にして話題を逸らしたものの、ソレは洛冰河にとっても表現しがたい劇物だった。
ソレのことは、よく憶えている。
初めて沈清秋を目にした時から、師はソレを手にしていた。この上なく美しく清廉な方だと思った。袖を引き、話し掛けた少女に優しい眼差しを向けていた。
こんな方にお仕えすることができたなら、どんなに・・・どんなにか・・・・・・
師は美しかったが、優しくはなかった。
常に蔑んだ眼を向けてくるその意味が洛冰河にはわからなかった。口元を覆う彼の扇子が、その真意をも覆い隠しているかのようだった。
名を呼んでもらったことなどあっただろうか?
尽くそうとしても受け入れられず、手酷い罰を与えられた。思いつくがままに責め苛ませるくせに、自身では手を出さず、ただ離れた場所からこちらを見据えていた。
気高く天を仰ぐ木蓮の花々と、その上から覗く鋭く冷たい視線。目眩がするほどのアンバランスさに情緒が掻き乱されて、初めて反抗を露わにしたその日・・・・・・沈清秋は高熱に斃れ意識を失った。
回復した師は別人のように変わった。
愛情深く、誰からも好かれる存在になった。洛冰河を気にかけ、導いてくれるようになった。その手元から、あの扇子は消えていた。
洛冰河は怖かった。
再びその扇子を手に取った沈清秋が、過去に引き戻されてしまうのではないかと。
ソレを手にした師を目にしたとき、自分は何を感じるのだろうかと。
今のこの幸せを忘れて、師が自分の手からすり抜けて行ってしまったら。
追いかける、追いかけるけれど、足掻いたその手が師を傷付けてしまったら・・・壊してしまったら。
何度も目にした、瞼を開けることのない師の顔がフラッシュバックする。次から次へと湧き上がる悲痛な妄想が止まらない。
眠ることなど、到底できなかった。
フラフラした足取りで飾棚の前に立った時には、すでに判断力の何割かが麻痺していたかもしれない。
引き出しを開けた途端、敷布の下に仕舞われていた筈の扇子入れが無造作に手前に置かれ、その紐に解かれた痕があるのを目の当たりにして、洛冰河の心臓は凍り付いた。
(────ご覧になってしまったのですね・・・)
妄想の虜となった洛冰河は、乱暴に扇子入れを掴むと竹舎を飛び出し、適当な所まで走ると、それを地面に叩き付けた。
踵に力を入れて踏みにじると、袋の中で扇子の骨がボキボキと折れる感触が伝わってくる。土まみれになったそれを拾い上げ、引き裂くと、件の扇子が現れた。折れた親骨の端を片手で持って振ると、要の部分も壊れたそれはパタパタと音を立てて下に向かい地紙を拡げてゆく。場違いに優雅なその動きは、まるで反物を拡げたかのようだった。
十年以上の年月を経て再び洛冰河の前に姿を現した白木蓮は、月の光によって燐光を放つが如く淡く浮かび上がり、破れ汚れてもなお美しく、魔王の背筋を凍らせた。
狂ったように引き千切り、引き裂いた。破れた紙片が辺りに散乱し、その一つ一つが羽のように見えた。まるで暴れもがく鳥をくびき殺した後のようだった。
美しかったソレは、洛冰河自身の手によって、ただの残骸となった。
美しかった師を、殺してしまったような錯覚に陥った。
喉が締め付けられる。嗚咽が止まらない。
洛冰河はその場にへたり込み、泣き崩れた。
後悔は無い。師を惑わすかもしれないソレを放置しておくことなど出来なかった。
だが。
果たして師は惑わされただろうか?
すべてを赦し受け容れてくれた、あの師が?
わからない。
本当に、わからない。
無邪気に・・・手放しに信じたくとも、洛冰河は師に裏切られ過ぎた。良い意味でも、そして悪い意味でも。
激しい情緒の乱れに疲弊した洛冰河は、膝を抱えたままいつしか眠りに落ちていた。
このようなことをした自分を、師はどう思うだろうか。
衝動に任せ狼藉を繰返す自分に嫌気がさすだろうか。
信用されていなかったと詰るだろうか。
それとも、扇子を憐れみ嘆くだろうか。
嗚呼、どんな風に思われても構わない。ただ、去って行かれるのだけは耐えられなかった。
師尊。
師尊・・・師尊、師尊。
師尊師尊・・・・・・
「・・・・・・しずん・・・」
いかないで下さい。
俺を置いて行かないで。
姿を消してしまわないで。
抜け殻になってしまわないで。
「・・・し・・・・・・しずんっ・・・・・・」
────────そうか。
そうだ、そうだな。
きっと師尊は、すぐに怒り出したりはなさらない。
一旦静かに場を収めてから、ゆっくりと色々な事を考えて結論を出されるだろう。だったら、色々と考えさせてはダメだ。静かに胸の内に納めさせてはいけない。
失望やら幻滅やらを感じる前に、怒りを覚えて、それをぶつけて貰えれば。怒鳴られても詰られても打ち据えられて足蹴にされても構わない。嘆かれるより、悲しまれるよりよっぽどいい。怒って、ぶつけて、思う存分ぶつけていただいて・・・・・・そして気が済んだら、赦してくださる。きっと赦してくださる。あの方は、そういったサッパリしたところがおありだから。
だからそれまでは、決して赦されてはいけない。中途半端には赦さないでいただかなければ。
覚醒した洛冰河は、辺りに散らばった扇子の残骸を丁寧に拾い集めた。
(しっかりと、怒っていただくのだ)
ゆっくりと竹舎に向けて歩を勧めながら、洛冰河の胸には小さな灯りがともるようだった。
(お怒りになった師尊は、どんな顔を見せてくださるのだろう・・・・・・)
思えば、これまで師から純粋な怒りというものをぶつけられたことはなかった。
新しい師を知る事ができるは、洛冰河にとって望外の悦びであったのだ。
──────── 7 ─────────
「・・・・・・すまぬが、最後の部分だけはよくわからぬ」
「そうでしょうね」
困惑気味の面持ちで師が呟くのを、洛冰河は微苦笑で応える。この弟子の拘りですゆえ、わからずともよいのです。
ただ・・・・・・
「ただ、どうした?」
「結局、師尊に怒っていただけなかったのが残念で」
顔を近付けた位置のままで、ほうっと洛冰河が溜め息をつく。伏せた瞼から伸びた長い睫毛が、濃い影を落とす。
沈清秋もはぁっと溜め息をつく。
「そなたは根本から思い違いをしておるな」
「そうなのですか?」
「私は別に、その扇子に執着は無いのだ。確かに以前は使っていたが、そなたの言うとおり“趣味が変わって”しまったのだろう。発熱の一件以前のことは、正直言って憶えていないことも多いのだ。」
そなたにとっては虫の良い話に聞こえるかもしれぬが・・・と師が言うのを、いいえと洛冰河は押しとどめる。
「憶えていないのであれば、そのまま沈めておいてよいのです」
そうか? と心許なげに師が口にするので、冰河は強く頷く。そこは揺るぎ無く信じていただきたい。
「この師は、その扇子のことなど昨日まですっかり忘れていたのだ。ただ・・・・・・」
「ただ?」
「ただ、そなたに見せるのが忍びないと思ったゆえ・・・否、以前そなたに辛くあたっていたことを思い出されるのが怖かったゆえ、尚師弟に今日返しに行こうと思って中身を・・・って、えええええ」
今までおとなしく床に並んで寝ていたのに。
洛冰河は素早く師の上にのしかかると、その肩の両脇に手を着き、腰の脇を膝で固め、沈清秋が逃げられないようにロックした。
「俺に思い出されると怖いのですか? どうして?」
「どうしてって・・・・・・おまえ、それが反省している態度なのか?」
「反省はしていません。さっきそう言いました。後悔もしていません。怒ってくれますか?」
「望まれて怒りなどするものか。そもそも怒るような事は何も・・・ああ、窃盗及び器物損壊はよろしくないな。怒りはしないが、後で自白分を差し引いた罰は与える」
「打ち据えてくれますか?」
「暴力は好かぬ。そのような罰ではない」
「では!」
「そのような罰でもない」
「・・・・・・・・・・・・」
「相手が喜ぶ物を与えるは、罰ではなく褒美ではないか。そなたがガッカリするようなきちんとした罰を与えるゆえ、楽しみにしておくのだな。さあ退け」
すっかり興醒めして通常運転に戻ろうとした沈清秋だが、洛冰河は譲らない。
「まだ俺の問いに答えてくださっておりません」
「────」
「どうして、俺に思い出されると怖いのですか?」
「・・・・・・・・・・・・」
「俺も、師尊が何を考えてどんな気持ちでいるのか知りたいのです」
真摯な表情を作りながら、瞳をキラキラさせて顔を近付けてくるのって本当にずるいと思う。
「気持ちは言葉にしないと正しく伝わらないと、師尊が仰ったのです」
言ったね。ああ言ったとも。
沈清秋はそっぽを向き、不貞腐れた口調で答えた。
「・・・・・・おまえに嫌われてしまうではないか」
うっかり洛冰河の弾けるような笑顔を目にしてしまい、沈清秋はますます渋面を作って顔を背ける。
見てはいけない見てはいけないあんなものを見たら最後、奴の思う壺だ。壺はいけない。
「この弟子が好きですか?」
何を今更。
「師尊、この弟子が師尊を嫌う事などありえません」
そうだろうよ。ありがたいことだな。
「師尊、愛してます」
うるさいうるさい。
「師尊、お顔を見せて」
絶対に。ぜーったいに嫌だ!
「師尊・・・・・・」
急に洛冰河が黙ったのでどうしたかと思った沈清秋がうっすら瞼を開けるのと、覆い被さってきた弟子が、無防備に晒されていた師の敏感な首筋に口付けてきたのは同時のことだった。
「ひッひゃあッ!」
全身に痺れが走った沈清秋が、真っ赤な顔のまま、思わず素っ頓狂な嬌声をあげる。
「何をするのだ!この・・・・・・ッ」
「師尊、お可愛いらしいです」
見てしまった・・・うっかり、うっとりと幸福そうに微笑む奴の美貌を。
一瞬、絆されそうになったが、ふと妙な違和感に気付いて硬直する。
────・・・・・・てめぇ。
(当たり前のように天柱当ててきてんじゃねぇよ!)
「おまえはまったく可愛くない」
心配して気遣った分だけ、瞬間的に怒りが湧く。
思わず思いきりぶん殴ってしまったが、洛冰河は当然、嬉しそうにその褒美を受け取ったのだった。
──────── 8 ─────────
ガッカリするようなきちんとした罰がこれですか・・・・・・
洛冰河は今、安定峰の門前で立ちんぼをして師を待っている。
門の内側からは安定峰の師弟たちがビクビクヒソヒソと洛冰河の様子を窺っている。
「魔王だ・・・」
「なんでこんなところに魔王が?」
「え、あれ魔王なの?」
「おまえ知らないのかよ、沈師伯の・・・・・・」
「あー! 春山恨!」
「シーッ バカ、聞こえたらどうするんだよ!」
────しっかり聞こえている。
「今日、沈師伯がうちの師尊のところにみえてるから、お迎えじゃね?」
「珍しいな、沈師伯がうちに来ることなんて今まであった?」
「あんまり聞かないな。うちの師尊はよく遊びに行ってるらしいけど」
「てか魔王、顔すごくね?」
「凄いといえば、沈師伯もお綺麗な方だし・・・・・・」
「そりゃ冰秋吟にもなるわなぁ」
「実物見たら納得だわ」
哈哈哈哈哈・・・・・・って、なんだこのノリは。
あの尚清華が峰主だと、弟子達もここまでお気楽な集団になってしまうものなのか? 口調は皆一様に軽いし、禁書を嗜んでいることを隠そうともしていない。何より、洛冰河についても露骨に噂してはいるが、さしたる悪意は感じられない。
少年時代には安定峰にも何度かお使いに出されたことがあったが、あの頃はここまで全方向に対して開放的な感じでもなかった気がする。
(魔族慣れしている、ということなのか?)
そうなのかもしれない。
尚清華が魔界に出入りしていることは皆承知していて、気にしなくなっているのかもしれない。もしかしたら漠北君がここへ現れることもあるのかもしれない。
ふと洛冰河は、あの無表情な魔族大王が安定峰の師弟達に取り囲まれて、魔族大王だ魔族大王だ・・・とやられている姿を想像してしまい、可笑しくなった。
くすりと漏らした洛冰河を目にして、またぞろ暇人達が囀り出す。
「おい、魔王が笑ったぞ」
「なんか笑うことあったか? 立ってただけだぞ」
「思い出し笑いじゃね?」
「やべぇ、なんてスケベな魔王なんだ!」
────おい、おまえら何を言っている。
「さっきから聞こえているぞ」と一瞥をくれると、跳び上がった師弟どもは蜘蛛の子を散らすように逃げ去った。
さすが尚清華の弟子どもだ。反射も逃げっぷりも一流だ。
角を曲がって見えなくなった先頭集団が、「あ!沈師伯、こんちゃーッス!」などと不敬極まりない挨拶をしているのが聞こえてきたので、目を凝らす。ゆっくりと角を曲がって現れた師が、鈍足の後発集団にも穏やかに挨拶を返している姿を、洛冰河は唇を尖らせながら見つめた。やがて弟子に気付いた沈清秋が遠くから手を振ってくれたので、洛冰河の口元も自然と綻ぶ。
「師尊、お疲れ様でした。ご面倒をお掛けしたことを深くお詫び致します」
待たせたな、と笑みかけてくれた師に、弟子は深く頭を垂れる。
「なに、昔のことだと尚師弟も軽く流してくれたゆえ」
もう何も気にする事はないよ と言うと、沈清秋は優しく洛冰河の背に手を掛けた。
さあ、帰ろうか。
夕餉は何を作ってくれるのだ?
※:※:※:※:※
「あ〜、随分な姿になっちゃってまぁ」
尚清華は、目の前の残骸に向かって苦笑交じりに呟いた。
在りし日を偲びようにも、見る影もない。
詫びにと現れた沈清秋の言い分はもっともなものだった。
杜撰な管理の末、沈九の扇子がこんなことになってしまったのは本当に申し訳なかったと。ただ、こうなった以上、自分が優先すべきは冰河の気持ちなのだと。
うん、わかってるよ と、尚清華は答えた。それでいいさ、この扇子は俺が引き取るよ と。
現沈清秋と沈九は、一番関係があるようでいて最も関係が無い。彼と沈九本人は一度も会ったことが無いのだから。
それでも、善良な彼には複雑な想いがあるのだろう。
話題を変えるため、今日は洛冰河はどうしたのかと聞いてみる。竹舎に置いてきたのかと問えば、否、連れてきたと言う。
「え、どこに?」
「門前に立たせてる」
「え、なんで?」
「罰として廊下に立ってなさいってヤツ」
「は? 何その古典的過ぎて絶滅したような罰」
「いや、俺天才かと思ったほど適切な罰だね」
何言ってんだかサッパリなんだけど?と首を傾げる尚清華に、沈清秋が説明する。
当初、沈清秋はここまで洛冰河を連れてきて、一緒に謝らせようと思っていた。しかしよく考えてみたら、沈清秋は尚清華に詫びる理由があるが、洛冰河が詫びるべき相手は沈清秋であって、尚清華ではない。
更に詫びるべき理由も窃盗及び器物損壊な訳だが、洛冰河の心情を聞いた以上、厳しい罰を与える気にもなれない。がしかし、罰を与えると言った以上、何かせねば教育上示しがつかない。結局、洛冰河は詫びなかった訳だし。
「いや理屈はわかったけど、門前に立たせとくのって、そもそも罰になんの?」
なる! と沈清秋は力強く頷く。
「魔王が安定峰の門前で立ってるだけって、皆何事かと思うだろ? 人が集まってくるじゃん。恥ずかしいじゃん」
「・・・・・・・・・・・・」
「いや、ここが敵意剥き出しの百戦峰だったらそんなことさせないよ? だけど、安定峰の弟子達って物見高いだけで皆気のいい連中だろ?」
後方支援や物資運搬という下支え的な役回りに誇りを持って臨んでいるような子達なのだ。何より、何だかんだあったって未だに尚清華を峰主として慕っていることでそれがわかると、沈清秋は言う。
「あーまぁ、そうかな。あはははは」
(ちょっとぉお! やだ、照れるじゃん。もぉおお)
やっぱり瓜兄は危険な人たらしだわ・・・・・・
嬉しい動揺を必死に抑えながら、尚清華は沈清秋を見送ったのだった。
そして、戻った居室の卓の上でひっそりと待つ残骸に、小さく話し掛ける。
「さてと・・・あんたは最期はどこに行きたい?」
※:※:※:※:※
数日後、尚清華は穹頂峰を訪れた。
「尚師弟が私に頼み事とは珍しいね」
穏やかに迎え入れる岳清源に、拱手する。
「これは預かり物だったのですが、不注意で壊してしまいまして。想いの強い物なので、私では手に余り、ぜひ掌門師兄に供養をお願いできたらと」
そう言って、岳清源の前に置いた包みを解き、中身を見せると、ハッと息を呑む音が響いた。
(さすがだな・・・・・・)
こんなに見る影もない程ボロボロになっていても、地紙が裂かれてどんな意匠であったかもわからない状態になってしまっていても。
彼にはそれが何であるか分かったようだった。
「これを・・・・・・私に託してくれるのかい?」
「できることならば、是非に」
そうか・・・うん、そうか。
岳清源はそう独り言のように呟くと、静かに瞼を閉じた。
彼は余計な事は聞かなかった。
尚清華もそれ以上を語らなかった。
「師弟は、いつも皆のことをよく見ていてくれるね」
帰りしな、岳清源にそう声を掛けられた。
ありがたいことだ、としみじみと伝えられる。
ありがたいのは、あなただ・・・・・・と尚清華は思う。
すべてを静かに受け止めて、胸の内に納めてくれるあなただ、と。
────你回来了小九