月夜の迷いごと 「今まで苦労をかけたな」
師は穏やかな口調で、口許に笑みまで浮かべてこれまでの働きを労ってくれた。
普段であればどれほど誇らしく、喜ばしく思ったことだろう。
けれど今、それは絶望感を伴い明帆の胸を押し潰した。
お払い箱になったのだ・・・・・・
明帆の師への敬愛は崇拝に近いものがあった。
昇山し、拝師の礼を行った時から、端麗な容姿をもつその人の優美な所作に強い憧憬の念を抱いた。表情を抑えた怜悧な面は俗人とは一線を画す不可侵な崇高さとして映り、ただひたすらに敬った。師の命には何の疑念も差し挟むことなく、盲目的に従った。
そうしていつしか、師の望むことを察し、先回りしてご機嫌取りを行うようになっていった。そんな明帆を、師は傍へと取りたて、重用した。
師の身の回りを任されることは、明帆にとってこの上ない栄誉であり、誇りであったのだ。
それなのに────
洛冰河・・・・・・あのクソガキ。
隙無く整った顔で無害な若輩を装い、殊勝な態度と姑息な手段で師の懐に潜り込んだ。恐れ多くも師の寝起きされる竹舎の隣の空き部屋を与えられ、これから師の身の回りの世話はすべて奴に任せるという。
「すまぬな、明帆。しばらくの間はまだ、こまごまとした事をそなたから冰河に引き継いでもらうことになるが」
頼めるか? と、それでも敬愛してやまない師に願われてしまえば、否やも何もなくなるではないか。
「お任せください」と、形だけは素直に、明帆は言った。
その心の内側は、悲しさと悔しさで荒れ狂ってはいたけれど。
──────── 2 ────────
予想していたより穏やかな引き継ぎとなり、洛冰河はホッと胸を撫で下ろした。
明帆が師に心酔しているのは誰の目にも明らかだっただけに、此度の引き継ぎの際にはもっと酷く荒れるだろうと覚悟していたのだ。
しかし、明帆は細々とした内容を淡々と伝えると、特に感情的になることもなく、極めて事務的にその役目を終えた。本来ならば数日をかけて諸々の手ほどきを行うべきところを1日で終わらせるあたり、後進への配慮が欠けていると言えなくもないが、それはお互いに必要としない部分であったため、洛冰河にとっては何ら問題ではなかった。
わからないことがあれば、直接師に聞けばいいのだ。話しかける切っ掛けにもなる。
けれど、意外にも明帆の引き継ぎは的を得たものであり、初日から洛冰河の務めは順調に流れていった。己に課せられた修練以外のほとんどの時間を師のために費やすこの役目は、洛冰河にとってこの上ない幸甚であった。
「師尊、湯の支度が整いました」
竹舎には峰主専用の浴室があり、師は毎日夕餉の後に沐浴をされてからお休みになるとのことだった。
洛冰河から声を掛けられた師は、目を通していた木簡を卓に置くと、ゆっくりと振り返り、初日の仕事も終盤に差し掛かった弟子に労いの言葉をかける。
「ご苦労であったな。今日は一日、慣れぬ務めで気が張ったことだろう」
「いいえ、師尊のお傍近くにお仕えできるのはこの上ない喜びにて・・・」
何も労苦と思いません。そう答えると、先は長いのだからそう畏まらずともよい、と師が微笑む。
先は長い・・・さしたる意味もないであろうその言葉に、甘い疼きを覚えてしまう心をひた隠し、洛冰河は黙って拱手をする。師は扇子を閉じて頷いた。
「それでは、折角の湯が冷めぬうちにいただくとしよう」
「はい、お支度は浴室の入口に用意してございます。この弟子は下がらせていただきますので、どうぞごゆるりと」
貴人が湯浴みをする際には付き人が介添えを行うことが常ではあるが、師は静寂を好むため手伝いは不要と聞いていた。実際、洛冰河が場を下がる際にも怪訝な様子も見せず、穏やかに見送られた。
あとは一柱香ほど経った後に、湯加減を確認に行くだけだ。寝所を整えてから向かえば丁度良い頃合いだろう。
なんと充実した一日であったことか。
洛冰河は身に余る歓びにただ、ふわふわと心を浮き立たせていた。
*:*:*:*:*
明帆は、ひとつだけ嘘をついた。
師は湯浴みの間、他人が浴室に近付くのを許さなかった。
決して、だ。
明帆が昇山して間もない頃、師から散々折檻された挙句に下山を余儀無くされた兄弟子がいたという話を聞いたことがあった。
その理由については誰も正確な処を知らなかったが、噂の一つに、師の湯浴みを覗いたが故・・・というものがあった。
あの弟子は、恐れ多くも師父に対して懸想をしていたのではなかったかと。師父に言い寄り不敬を働いたが故、罰せられたのではないのか、と。
当の゙師が明かさない以上、噂は噂でしか無く、やがて人の口にも上らなくなった。けれど、側仕えを任されるようになってから、それはかなり真相に近いものであったように明帆には思えた。
師は美しく、相対した多くの者が魂を抜かれたように一瞬呆ける姿を、明帆は幾度も目にしてきた。その内の何割かは、正気に返った途端、ねっとりとした不躾な視線を師へと向け、師はそれを扇子で絶ち避けながら蔑んだ表情を以て返礼としていた。
斯様な振る舞いをするのは決まって男であり、それ故、師は殊更に男の前にその姿を晒すのを嫌った。
洛冰河など、再び師に疎まれ、遠避けられればいい。
ただの一度であろうと、その失態は重罪となる筈だった。
──────── 3 ────────
師の居室と寝台を整えた洛冰河は、彼の人の気配が残るその場所に自分ひとりが佇んでいる事実に陶酔していた。
「師尊のお部屋・・・・・・」
つい先日まで洛冰河は、ここに入ることが許される日が来ることなど一生無いだろうと思っていた。
理由もわからぬまま退けられていた日々が一転して、師兄達からの扱いに配慮してもらえるようになった。特別な指南書を授けられ、何度も命を救われた。茶杯どころか食事を任せてもらえるまでになり、今、ここに居ることを許されている。
師の好む香の薫り。師の触れた様々な文具や調度品。普段書き物をしている卓。先程まで目を通していた数々の木簡。師の寝起きされている寝台。その身を包む寝具・・・・・・。
数え上げる一つひとつに胸が高鳴って、息が止まってしまいそうだった。
師が居た先程までは、彼にばかり目が向いて、とても部屋を見渡すことなどできていなかった。けれど、こうして一人で居ると、部屋のすべてから彼の人の息遣いが感じられて、何とも言えない高揚感で満たされていく。
薄ぼんやりとした灯火が、先程整えたばかりの寝台をほの明るく照らし出す。師が居ないのをいい事に、洛冰河はその寝台の脇に跪き、上半身を整えたばかりの寝具に預けると深く大きく深呼吸をした。
「師尊の・・・香り」
全身に甘い痺れが走る。やがてそれが降りていくのを散らすように、思春期真っ只中の洛冰河は、敬愛以上の念を自認する師父の寝具を掻き抱く。その敷布に残る師の香りを堪能しながらぐりぐりと頬を擦り付け、再び大きく残り香を吸い込むと、名残惜しそうにそれを手放し、以後は真面目な面持ちで寝台周りを整え直した。
師を湯殿へと送り出してから、もうすぐ一柱香。
沐浴中の師へ湯加減を伺いに行く頃合いだった。
あらかじめ火にかけていた足し湯の樽を手に、洛冰河は月明かりに照らし出された回廊を急いだ。
浴室の入口まで来ると、胸の鼓動を落ち着かせるために再び深呼吸をしてから、扉の奥に居る筈の師へ向けて控えめに声をかける。
「失礼致します。弟子が湯加減を伺いに参りました」
しかし、返事が無い。
声が小さかったかと、再びもう少しだけ大きな声で呼びかけてみるが、やはり返事は無かった。
(もしや、お倒れになっているのでは・・・・・・)
これまで師を見舞った数々の不調を目撃してきた洛冰河は、不安に駆られて「失礼します!」と叫ぶと、蹴破るような勢いで扉を開け、中へと駆け込む。
その白い肌に濡れ透けた湯浴み着を纏った師が、風呂桶の中でぐったりと瞼を閉じている。師尊、師尊大丈夫ですか? ああすっかり意識を失っていらっしゃる。湯からお出ししなければ。失礼致します。お身体を触らせていただきますね・・・・・・というのが、洛冰河が瞬時に思い浮かべた状況だった。
しかし、そこには、想像したものとは別種の衝撃的な光景が待ち受けていた。
まず洛冰河の目に飛び込んできたのは、髪を高い位置で乱雑にまとめたせいで露わとなった、師のハッとするほど白いうなじだった。
木目の細かいその肌と、そこに張り付く漆黒の後れ毛の艷やかさに目を奪われそうになるが、それなどまだまだ序の口で。程良く筋肉の付いた肩の先から続く白く長い腕は、風呂桶の外にだらんと垂れ落ち、もう片方の腕は風呂桶の縁に片肘を付くように立てられていた。洛冰河の位置からはよく見えなかったが、少なくとも肩周辺に湯浴み着を羽織っているようには・・・・・・。
そのうえ、風呂桶の向こう側から覗いているのは、薄い皮膚を通して膝蓋骨の形が浮き出た白い膝と、細く長い脛、そして引き締まった足首とくるぶし、その先に少し紅を掃き可愛らしく並ぶ足指────
なんという・・・なんという無防備なお姿!
驚きと衝撃のあまり、洛冰河の時間はしばし停止してしまう。
なんとか正気を取り戻せたのは、先程から耳に心地よく響いている低い振動が、師が漏らす鼻唄だと気が付いたから。
耳慣れない音階と節回しではあったが、明るくリズミカルなその曲から、師が非常に上機嫌であることがわかった。
不調でないのは喜ばしいことだったが、これはこれで、本来の務めに立ち戻り邪魔をしてもよいものか、迷うところである。
(急に声を掛けては、気まずく思われないだろうか・・・)
だが、湯は刻一刻と冷めていく。今手にしている足し湯とて同じこと。このままでは師が風邪をひいてしまうかもしれない。
本来、風邪などひかぬ筈の師の修為を失念するほど、洛冰河は動揺していた。
「あの・・・・・・師尊」
そっと近づいて小さく声を掛ける。
チャプリと水音を立てて、上半身を捻った師がこちらを向く。
嗚呼、やはり・・・やはり何も着ていらっしゃらない!
湯のため上気した頬にキョトリと丸く見開かれた瞳、その面に落ち掛かる乱れた髪筋は、日頃に於いては清玄な師を常より若く幼く親しく見せる。長い首から下にも纏う衣は見当たらず、ほわほわ立ち昇りその輪郭をぼやけさせる湯煙の存在を以てしても、もう洛冰河の内心は決壊寸前である。
「おや、冰河ではないか」
どうしたのだ?と、師が不思議そうに問うてくる。
「た・・・足し湯に参りましたッ!」
動揺のあまり声がひっくり返ってしまった冰河を師は一瞬怪訝な顔で見つめたが、弟子の手にした大きな湯樽に気付くと、それは大儀であったなぁと労いの声を掛けてきた。
「ひとりで重かったであろう」
「いえッ! この弟子は力持ちにてッ!」
「嘘を言うでないよ。満杯の湯樽を二つも抱えて重くないなどあるものか」
師は苦笑しながら洛冰河を手招いた。
「折角苦労して持ってきてくれたのだ。湯足しはお願いしよう」
そう言って、入れる分程度の湯を風呂桶から流し出す。
洛冰河は風呂桶の傍まで行くと、ゆっくりと丁寧に、そして師の方を極力見ないようにしながら、持って来た湯を足していった。
「そなた、この師に湯の世話は要らぬと明帆から聞かされなんだか?」
「いえ、足し湯だけは忘れぬようにと」
なるほど、と師が呟く。
「では、今日はこの師がひとつ良い事を教えよう」
お願い致します と、微妙に目を逸らしながら洛冰河は応える。
師は一度体勢を戻すと、身体を傾けて風呂桶の底を漁り、何やら黒い物体を取り出してきた。
「これは溶岩石というものだ。見たことは?」
「ありません」
「確かにこの辺りには火山が無い故、溶岩石自体はあまり目にする事は無いだろう。では、あれが何かは?」
師が指差したのは、湯道具の一角に置かれた身近な物だった。踵や剣たこなどを削るときに使う物だ。
「軽石、でしょうか」
うむ、と師は頷く。
「その軽石とこの溶岩石は、元は同じ火山の中に滞留していた岩漿から生じた物だ。岩漿の中に溶け込んでいた揮発性の成分が噴火の際の爆発的な力によって発泡し、冷えて固まることでたくさんの小さな穴が形成されたのがその軽石で、名前の通り軽く、水にも浮く」
対して・・・と言いながら、師は手にした黒々とした石を「持ってみなさい」と弟子に差し出す。ゴツゴツとした表面に指を這わせながら、洛冰河は「思ったよりも重いのですね」と感想を述べた。うむ、と再び師は頷く。
「その溶岩石は、火山の中の岩漿が地表に流れ出た事でゆっくりと冷え固まったものだ。軽石では放出されて失われた成分が、溶岩石の中には残っている」
両手を添えて、炎を思い起こしながら霊力を込めてみなさい。そう、それでいい。
師の言う通りにすると、やがてその黒い石の内側から赤い色付きと共に少しずつ熱が伝わって来る。飲み込みが早い、やはりそなたは筋が良いな、と師は微笑む。
「噴火の際の巨大な熱の力を、未だその石は憶えているのだ。そうやって切欠を与えれば、少しの間だが良質な熱源となる」
それをいくつか風呂桶に沈めれば、湯を保温しておけるのだ と師は説明した。
「それゆえ、今後この師については足し湯の心配は無用であるよ。湯浴みに使うほどの量の水を沸かす力は無い故、支度の方はお願いするが」
「そうだったのですね」
ここに至って、洛冰河は明帆に騙されたことを悟ったが、腹は立たなかった。意味の無い労働ではあったが、思いがけず師から教えを受ける事が出来たし、それから────
「え・・・と、師尊は湯浴み着は、その・・・・・・」
もじもじと問うと、ああ、と気付いた師は、普段は人が来ぬように申し付けてある故なぁ・・・と答えた。
「誰も来ぬのであれば着ておく必要も無かろう? 濡れた衣は肌にぺったりと貼り付くゆえ、正直言って気持ちの良いものではないのだ」
さて、では折角湯足しをしてもらったのだし、この師はもう少し月を楽しんでからあがるとしよう。
そう言って微笑んだ師の白い貌と身体の輪郭を、半露天の天井から差し込む月光が淡く浮び上げる。それはまるで月から舞い降りた天人の姿のようで、薄衣などを渡せば月に帰ってしまうのではと夢物語のようなことを洛冰河に思わせた。
「そなたももう休みなさい。明日もまたよろしく頼む」
風呂桶から手をあげて、師が宵の挨拶をくれる。
穏やかな笑みを湛えたその顔に見惚れかけて、ふと、首から下に目を移した洛冰河は、師の薄桃色に色付いた胸が無防備にもすっかり見えてしまっていることに気付いて、挨拶もそこそこに、脱兎の如く、その場から逃げ去ったのだった。
──────── 4 ────────
この時代・・・この世界、と言うべきか。
貴人は何をするにも付き人が世話を行う。
生前の沈垣も裕福な家の子息ではあったが、転生後に峰主というものがここまで尊ばれ世話を受けるものだと知って、驚き戸惑った覚えがある。
朝の支度、着付け、髪結い、脱いだ衣の始末、爪の手入れ等、まるで人形になったかのように感じたものだ。
ただ、それはそれとして奇妙に思ったのは、今まで一切の事を取り仕切っていたのが明帆であっても、沈清秋に直接触れるような世話を行うのは決まって寧嬰嬰だったことだ。
沈垣の感覚からすると、付き合っている訳でもない女子に男の身体を触るような世話をさせるなどとんでもない事だ。これが皇帝やら家格の高い家の者だとかいうのであればまだ話はわからないでもないが、蒼穹山派は由緒正しい仙門であり修行の場である筈なのだ。すべての場に明帆が立ち会っているのだから、どうしても必要ならば明帆にやらせればいい。他峰だって峰主の世話は同性の弟子が行っているのだし。
そう伝えると、明帆も、寧嬰嬰ですら驚き慌てて「師尊、無理はならさないでください」と口を揃えて言うのだ。
無理と言うならば可愛らしい嬰嬰にちょこちょことこそばゆく触られる方が沈垣的に無理なのだが、相手の様子を見るに、あまり追求しても却って可怪しな事になりそうだった。
奇妙と言えば湯浴みにしたって奇妙だった。そもそも金丹中期の仙師なんてろくろく汗もかかないだろうに、毎日毎日湯を運ぶなどという重労働を他人に強いてまでして、一体何の禊なのかと思ってしまう。
人払いをするのは沈九の性分なのだろうが、誰も見ていないのに湯浴み着まで着込むなんて、潔癖症のお嬢様のようでさすがに付き合いきれない。これで湯浴みの世話まで嬰嬰が現れるようだったらシステムにOOCと言われようが本気で生活スタイルを改革してやるところだったが、わざわざ溶岩石を用意していたところを見るに、本当に湯浴み中は誰の世話にもなりたくないようだった。
(わからない奴だよなぁ・・・・・・)
それが常識でありしきたりなのだと言われれば、この世界に迷い込んだ身としては従っておくのが無難だろう。ただ、理屈が立つのであれば、自分にとって居心地が悪くないように変えさせてもらいたいものだ。
ふと、沈九もそうだったのではと沈垣は考えてみる。
沈九については以前にも潔癖症なのではないかと感じたことがあった。一日に何度も手を洗うと聞いていたし、竹舎に出入りする弟子は明帆と寧嬰嬰だけに限定されていたようだった。静寂さを好み、他人との接触を極力避け、やむを得ぬ場合は扇子を以て他者との間に一線を画していたという。
本当は身の回りの世話など誰にもやらせたくはなかったのではないか、と。常識やしきたりを守らざるを得なかったからこそ、せめて可愛がり慕ってきた寧嬰嬰に任せていたのではないかと。
否、なんだかそれも少し違うような・・・・・・
いずれにせよ、沈垣にとっては沈九の生活習慣にも受け入れ難いものがあった。
だから洛冰河を竹舎の隣の空き部屋に住まわせ、それを理由に一切をあの弟子に任せる流れに出来たのは、沈垣にとって僥倖だったのだ。
明帆と寧嬰嬰に染み付いている沈九が敷いた竹舎の常識を、沈九のプライベートとは全く接触の無かった洛冰河と交替させることで一掃できると考えたのだ。
──────── 5 ────────
その頃、明帆は峰の山門の階段にひとり膝を抱えて蹲っていた。
洛冰河など、師に疎まれればいい。
本気でそう思っていた。今でも思っている。
けれど、明帆が仕掛けた嫌がらせは、洛冰河だけに影響を及ぼすものでは無い。敬愛する師をいたく不快にさせるであろうものだった。そのことが、明帆の胸に重苦しくのしかかり続けている。
同じく任を解かれた寧嬰嬰は、元より洛冰河贔屓だったため、少し寂しそうにはしながらも「後を任せるのが阿洛でよかったわ」などと言っていた。「あの子はよく気が付くし、これからはきっと師尊に認められていくわ」などと。
可愛い師妹の言葉ではあるが、全くもって共感することができなかった。寧ろ明帆の心情は真逆だ。
けれど・・・・・・。
結局、気分は師への慚愧に耐えない思いへと還っていく。
明帆は本当に、心から沈清秋という師を慕っていたのだ。
そうやって一人、夜空を眺めながら己の行状を顧みていると、深夜にも関わらず山道を登ってくる人の気配があった。
こんな夜更けに誰だろう と警戒するのと、その人物が「こんな夜更けにそんな処に居るのは誰だ」と問うてくるのは同時だった。
スラリと背の高い細身の肢体に、一切隙の無い身のこなし。
「これは・・・・・・柳師叔」
明帆は慌てて拱手する。
「このような時間に如何なさいましたか?」
「話は峰主とする。奴は竹舎か?」
「恐れながら、今時分は湯浴みをなさっている頃合いかと・・・・・・」
チッ、長風呂だな と、百戦峰主は乱暴に決めつける。
そして、「おまえはここで何をしている?」と改めて明帆に不審な目を向けてきた。
私は・・・と言いかけた明帆の声音に眉を寄せると、柳清歌は明帆の背中をバンと叩く。
「男がこんな場所で、ひとりでベソベソと泣くもんじゃない!」
そう言われて、明帆は、初めて自分が涙を流していたことに気付く。気が付いてしまえば、もうまともな声にならない。
「私は・・・私は師弟に・・・・・・師尊を・・・・・・」
「おまえの話に興味は無いが、俺は今から竹舎に行く」
低く静かな声で柳清歌はそう言うと、もう一度明帆の背をバンバンと叩く。
「軟弱者は峰の周りを10周走ってからクソをして寝ろ」
そう言うと、後も見ずにどんどん歩いて行ってしまった。
明帆はつむじ風のように去って行った百戦峰主の後ろ姿を、呆気にとられてポカンと見送る。
えーと、今なんて? 10周? これから10周?
それから、えーと、何だっけ?
────クソは朝しました。
──────── 6 ────────
もう誰もが忘れてしまったほど昔のことになるが、柳家御子息誘拐事件という騒ぎがあった。
地元の名家であった柳家の幼い御子息が誘拐されかかったという未遂事件だ。未遂であるのにまるで誘拐されてしまったかのような言い方だが、これは誘拐未遂が事件なのではなく、誘拐に伴う事件というのが正しい。だが、厳密なところを表現すると長くなるので、その話題が出た際には諸々の騒ぎをまとめて「柳家御子息誘拐事件」と呼び慣わされていたのだった。
ザッと話すとこんな内容だ。
裕福な柳家に幼い兄妹が居た。柳家の血筋の者は皆一様に容姿に恵まれてはいたが、この兄妹の容貌は更に格別のものだった。
ある日、兄がひとりで遊んでいると、その美しい容姿に妙な気を起こした男が子どもを連れ去ろうとした。子どもは見た目に似合わず気の荒い性分で、散々暴れて抵抗したが、大人の男には敵わない。血を吐く勢いで悔しがった子どもは、無意識のうちに霊力を発動すると、不埒者を半殺しの目にあわせてしまった。
男は捕縛のうえ役人に引き渡され、兄は仙師の見込みありと嘱望され、名門の仙山へと昇山することになった。旅立つ前に、兄は父にこう言った。妹は今でも相当な美童であるが、これからは益々美しく育ち危険な目にもあうだろう。いっそお面でも被せて顔を隠してしまったらどうか。
かなり乱暴な論ではあったが、話を真摯に受け止めた父は、さすがにお面は被せなかったものの、面紗を与え、その日から外さぬよう幼い妹に言い含めた。
こうして不届きな一人の男によって、街人たちは美しい兄妹を目にする至福を失った。
やがて妹にも優れた霊力が認められると、俗世よりも安全な修真界へと華々しく送り出されたという。
その柳家の御子息こそが、他峰の弟子にクソをして寝ろなどと言い放つ現百戦峰主、柳清歌その人であった。
しかし、そんな話は逸話のひとつに過ぎない。
柳清歌はそれ以後にも、その麗しい容貌により勝手に懸想をした不届き者から何度も不快な気分を味あわされてきた。
彼にとって自身のその顔は厄介の種でしかなく、色恋の他にも顔のおかげで武芸の実力を見くびられたりと腹立たしいことこの上なかった。そのような輩はすべて拳で落とし前をつけてきたが、見た目だけで勝手な思いを押し付けてくる者に対する憎悪の念は、日々否が応にも増していくばかりであった。
*:*:*:*:*
柳清歌と沈九は事ある毎に対立する犬猿の仲だった。
柳清歌は沈九に対し見下した発言を繰り返し、沈九はその都度「殺してやる!」と威嚇した。
拗れに拗れた間柄の二人であったが、実のところその性質はほぼ同質と言っていいのものだった。
互いに優れた容姿と才能を持ち、プライドが高く、とてつもない負けず嫌いだった。他を見下す傲岸さを隠さず、見下されること、侮られることを何よりも嫌った。
二人を分ける大きな違いは、ひとえに生育歴とそれに伴う運不運だっただろう。
名家に生まれ、優れた両親のもとで礼儀作法や教養を身につけ、生まれ持った天賦の才能を惜しみなく伸ばせる環境を享受してきた柳清歌に対し、沈九に用意されたのは、ひたすら奪われ刈り取られ続ける苦難の道だった。
最終的に二人は共に蒼穹山派の峰主となったが、同じ地位に並び立つまでに、柳清歌が当たり前に持ち得ていたものを、沈九は己の気概だけを頼りに血の滲むような努力を重ね、一つ、ひとつと獲得していったのだった。
十六で沈九が昇山してきた時、柳清歌は一目で、彼が狙われやすいタイプであることに気付いた。花のような美貌の中に、周囲への警戒を露わにしたギラギラと輝く獣のような眼が在った。翻れば、慢心した不埒者を惹き付け、その嗜虐心を唆る煌めきが無自覚に放たれていた。
仙師たる資質が在ることはわかったが、修行を始めるには余りにも遅い年齢だった。修真者といえど欲を捨てきれていない師兄という立場の獣達に、双修という大義名分を借りた無体を強いられないとも限らない。禄に修為を収めてもいない身では抵抗すらも難しかろう・・・・・・。
それは妹を持つ兄ゆえの、自身にも覚えのある不快な経験からゆえの、親切心に基づいて発した言葉の筈だった。
ただ、傲慢な物言いは柳清歌の常の倣いであり、言葉足らずは相手に大きな誤解を与えた。結果、沈九は柳清歌から侮られ見下されたと解釈し、誇り高い柳清歌は珍しく気持を傾けた忠告を無碍にされ、話の分からぬ愚か者よ身の程知らずの莫迦者よと沈九を嘲る言葉を口にするようになった。
こうして二人の間の亀裂は、掌門師兄の取り成しも虚しく修復されぬまま広がり続け、ついには顔を合わせただけで一触即発の険悪さと相成った。
何より、沈九の出自に拠る根深いコンプレックスは、柳清歌に集約されることで恨みへと姿を変え、更に状況を悪化させていったのだ。
そんな二人の峰主の関係に、転機は突然やって来た。
霊犀洞で閉関していた柳清歌が走火入魔に陥った際、沈清秋がこれを助けたのだ。
元々、柳清歌は、沈九が己と近い気質であることに気付いていた。
似た者同志であるが故に、ひとたび拗れれば同族嫌悪の泥沼から脱することは難しかったが、ついぞ話がわかるとなれば、却って近しい気持ちにもなる。
霊犀洞の一件以降の沈清秋は、別人のように雰囲気が変わった。
柳清歌にも通ずる強い向上心や切歯扼腕の気質を表に出すことは無くなり、代わりに物事を受け流すしなやかさを垣間見せるようになった。柳清歌の前でも裏表無くよく笑い、驚くほど広い考え方を示すようになった。
何が原因かはわからない。
柳清歌が閉関している間に起こったという、昏倒するほどの急な発熱が影響したのかもしれない。
いずれにしろ、柳清歌には、沈清秋が一皮剥けたように思えたのだ。
進化できる相手は友と認めるに相応しい。
敬うべきは師父と掌門師兄。
気遣うべきは親きょうだい。
天才肌でプライドが高く、己と同等の存在になど出会ったことが無いと思っていた柳巨巨の中に、初めて、肩を並べるに値する同列の『友』が生まれたのだった。
柔らかくなった分、周囲へのガードも甘くなってしまった沈清秋を、今は純粋に心配している柳清歌だ。
なにせ妙に愛情深くなってしまった沈清秋は、弟子達の心を蕩けさせ、今や清静峰は子犬の群れの如く師尊師尊と奴にまとわりついて甘える輩の巣窟となっている。その中に在って特にあいつ、あの洛冰河とかいう小僧の目付きは、確実に異質で危険な兆候を孕んでいる。
それなのに、当の沈清秋は暢気にも、その洛冰河を傍近くに住まわせ、身の回りの世話役へ取り立てたと言うではないか。
(不埒者には冷水を浴びせておかねばなるまい)
傍仕え初日と聞いた今日この時に、敢えて、柳清歌は清静峰に様子を見に乗り込んで来たのだ。
不埒者は獲物が寝込んでから動くものだ。
万が一現場を押さえるようなことがあろうものならば、容赦無く叩き出してくれるつもりだった。
──────── 7 ────────
前方から猛スピードで接近してくる気配がある。
(出たな────)
年齢よりも小柄で細身の体付き。月明かりに浮かび上がる清静峰の淡い翡翠色の校服。その裾をバサバサと翻して、件の弟子が勢いよく駆けてくる。
前方不注意なその体躯が己に向かって真っ直ぐに突っ込んで来そうになるところをサッと躱した柳清歌は、すかさず足払いをかけ、宙に浮いたその弟子の腕を捻るとドサリと地面へ引き倒した。
「ぐふ・・・・ッ」
うめき声の後に、しばらく咳き込む音が続く。
息を切らして走ってきたところに、息が止まるほどの大きな衝撃を加えられたのだ。地面に突っ伏した状態のまま、洛冰河は背を丸めて胸を押さえ、恨めしい顔で腕を掴んだままの百戦峰主を見上げた。
「どこへ行くつもりだ?」
こんな夜更けに と、冷たく見下ろしてくる双眸に向かい、あなたには関係ないと言いたい気持ちをぐっと堪え、洛冰河は「峰の周囲で走り込みを」と答えた。昼間は時間が取れなかったので、と。
ハッ!と、柳清歌は嘲るように笑う。
「嘘を吐け」
鼻腔が、膝下に屈する少年から微かに残る湯の香りを感じ取る。
(やはりな)
間違い無い。コイツはクロだ。
「大方、師の湯浴みでも覗いたのがバレて逃げてきたのだろう」
「違いますッ!」
なんという事を言うのだろうか
すかさずあげた否定の声は、悲鳴にも似た叫びとなって辺りに大きく響き渡る。
不当な嫌疑をかけてくる師叔に向けて、非難を込めた眼を向けてやろうと、キッと顔を上げた洛冰河だったが。
怒りから来る興奮のためか、はたまた身体にかかった負荷衝撃に端を発したものだったのか。その整った鼻筋の下から、ツッ・・・と赤いものが線を描いて滴り落ちる。
なんという間の悪い鼻血────
「ハッ!」と柳清歌から再びの嘲りを浴びた洛冰河は、片袖で鼻を押さえながら、ギリリと奥歯を食い縛る。
「言い訳は聞かん。釈明できるなら師の前でしてみろ」
そう言うが早く、柳清歌の手が裏衿に伸びてくるのを、洛冰河は空いた方の手で跳ね除ける。百戦峰主は一瞬「ほぅ」と眼を見開き「反射は悪くない」と呟いたが、次の瞬間「だが甘い!」と嗤うと、跳ね除けられた手首を返し、洛冰河の後頭部に向けて容赦無く手刀を叩き込んだ。
ドサリ と、洛冰河の身体が地面に沈む。
柳清歌は再び洛冰河の衿裏に手を伸ばすと、ぐったりと力を失った少年の身体をズルズルと引き摺って歩き出したが、ふと、ここが自峰ではなかったことに思い至り、「チッ」と舌打ちをすると、洛冰河の身体を乱暴に肩へと担ぎ上げた。いわゆる俵担ぎというやつである。
意識を失った洛冰河の両手はだらりと柳清歌の背に沿って垂れ、その顔から伝う血も同じように柳清歌の服と背を濡らしたが、返り血を浴びることに慣れている百戦峰主は、何ら気にした様子もなく、ずんずんと竹舎に向けて歩を進めたのだった。
*:*:*:*:*
突然深夜に現れた血まみれの柳清歌が、寝に戻った筈の弟子の身体を床に乱暴に放り投げる姿を目の当たりにして、沈清秋は内心恐慌状態である。
(何なにナニなに何なにぃいいいいぃ〜ッ)
微かな呻き声を漏らして、床に伏せていた弟子がよろよろと面を上げる。その顔がまたも血塗れで、沈清秋は恥も外聞も無く泡を吹いて倒れたくなる。
(ちょっとコレどういう事 よりにもよって主人公様の顔を殴る暴挙ってぇええ)
「師弟! こんな子どもに暴力を振るうなど」
思わず勢い込んで抗議を口にしたが、しれっと「おまえにだけは言われたくない」と返されてしまうと、児童虐待犯は俺じゃねぇよ!と内心で叫びながらも立場上口に出来ないのが歯痒い沈清秋である。
「し・・・師尊、お見苦しい・・・姿を・・・・・・」
洛冰河の可愛らしい顔が苦しげに歪む。床から起き上がれないほどのダメージを負っているようだ。健気にもまずこちらへの気遣いを口にする弟子の姿に、思わず近付いて膝を折ろうとした途端、柳清歌に阻まれる。
「服装がだらしない」
(カ────ッ)
風呂上がりなんだよ! 今から寝るところだったんだよ! 夜中に予告もなく訪問して来る奴に言われたかねーよ!
湯上がりの体を冷やそうと寛げていた夜着の袷を、スッと近付いて来た柳清歌が整える。
突然どうした? 世話焼きだな・・・などと思っていると、耳許に顔を寄せた柳清歌が低い声で「あいつの顔を見てみろ」と囁く。
あいつって、洛冰河か?
柳清歌の雰囲気に呑まれて、さり気なく目線を下げると、何だか物凄い形相をした洛冰河が立ち上がりかけているところだった。
睨んでる睨んでる! 誰? 俺じゃないよね? 柳清歌? 柳清歌だな。理解理解、加害者だもんな。
「・・・・・・怒ってるな」
とりあえず見たままの感想を口にすると、システムが【主人公の憤怒ポイント+150】と伝えてくる。結構高いな。
柳清歌は頷くと、またも低い声で「おまえ、狙われてるぞ」と囁いた。
「いや、私ではなく師弟だろう。顔を殴ったんじゃないのか?」
「殴ってはいない。あれは鼻血だ」
あーなるほど、確かによく見ると腫れてはいないな。
洛冰河は完全に立ち上がると、まだ両手で沈清秋の袷を握っている柳清歌に向かってズイっと一歩を踏み出した。
「恐れながら柳師叔。師尊のお世話はこの私の役目にて、手出しはご無用に願えますか」
さっきまで伸びていたというのに、なかなか勇敢だ。片袖で鼻血を止血しながらでなければ、もっとキマった立ち姿だったろう。惜しい!
「ハッ! 世話が聞いて呆れる。師父の湯浴みを覗くのが貴様の世話か?」
「ですから、覗いてなどいないと先程から言っているではありませんか!」
待て待て待て待て、何の話だ?
「師尊。この弟子はやましい事など何一つ行ってはおりません。柳師叔は何か誤解をなさっておいでなのです」
信じてください と、星を宿したような瞳を潤ませて、洛冰河が懇願してくる。
ああ、そうだな と頷くと、沈清秋はまだ袷にかかっていた柳清歌の手をゆっくりと外した。
「師弟、そなたは何か誤解をしているようだ。冰河は足し湯に来てくれただけだ。覗きなどと、妙な事を言わないでやってくれ」
(人のところの弟子を、おっさんの裸見て喜ぶ変態に仕立て上げないでくれよな。一体どんな発想だよ)
柳清歌は一瞬眉を寄せてからハァ・・・と溜息を吐くと、「そうか、まぁ気をつけろ」とだけ言った。
気をつけてるよ!
言われるまでもなく、十分に!
(将来、人棍にされないようにな・・・・・・)
「師弟こそ、あまり人から恨まれぬように」
やんわりと柳清歌に忠告をしてから、洛冰河へと向き直る。
「そなたはどうだ? どこか痛むところは無いか?」
背に手を当てて霊気を送ってやると、はにかんだ表情を浮かべた洛冰河が、目を細めて「大丈夫です」と頷く。
────可愛い。
鼻血を止血しながらなのがまたいじらしく、可愛い。
「そうか、それでは今度こそきちんと休むのだぞ」
もう時刻も遅い。ここの始末は明日になってからで構わぬゆえ、と頭を撫でてやってから、さぁ行きなさいと放す。
洛冰河は床を汚した血を見やり、申し訳なさそうな素振りを見せながらも、今日はもう埒が明かないと判断したのだろう。「師尊に感謝を」とペコリと頭を下げ、それではお休みなさいませ と挨拶を済ませると、自室へと退って行った。
──────── 8 ────────
「血の染みは時間が経つほど厄介だぞ」
床の血のぬめりを靴で均しながら、柳清歌が言う。
(だったらあんたも早く自峰に帰って洗濯でもしとけっつーの!)
柳清歌の白い衣も、洛冰河の血があちこちに飛び散って酷いことになっていた。特に背中など柳清歌本人が負傷したのかと思う程ビショビショだ。
「どれだけ出血したんだか・・・」
今頃脳貧血でも起こして倒れていやしないだろうな・・・と心配していると。
「俺に覗きを指摘されて一回目、おまえのそのだらしない姿を見て二回目。最後俺に噛みついて来た時で三回目」
ずっと興奮しっぱなしで御苦労なことだな と嘲る柳清歌が言っているのは、止まることなく出血し続けるに至った原因とタイミングの事だろうか。
「私は関係ないだろう」
女の子じゃあるまいし。だからおっさんの裸を見て・・・と、本日2度目となる同じ内容のツッコミを入れかけて、ふと、俺おっさんで合ってるよな?と己を顧みる。見た目は青年期の容貌を完璧に保っているが、実際の沈九の年齢はもっと上だっただろうし、ミドルティーンの少年にとって、二十歳を超えた男に対する認識はおっさんで合っている筈。うん、合ってる。大丈夫だ。
柳清歌は呆れたように「いつまでもそう言っていられるといいがな」と意味不明な台詞を吐いてから、サッと後ろを振り返ると、今度は柱の影に向けて声を放った。
「おい、そこの奴。いい加減出てきたらどうだ」
すると、暮明の影から項垂れて身体を小さくした明帆が現れる。
「こいつはおまえに詫びたい事があるそうだ」
柳清歌はヨロヨロと前に出る明帆の後ろに回ると、ドンとその背中を叩き、勢いよく前へと押し出した。脚をもつれさせる明帆に「男ならもっとシャッキリとしろ!」と一喝すると、更にバンバンとその背を叩く。
「師弟、乱暴はやめてくれ」
まったく好き勝手しすぎだろう。沈清秋は眉間を揉みながら嗜める。
「明帆も、こんな夜更けにどうしたのだ?」
酷く沈んだ様子の弟子に、できるだけ穏やかに声をかけると、明帆はガクリと膝を落とし、次いで額を床に擦り付けた。
(おいおい、いきなり土下座かよ)
「師尊、お赦しください。この弟子は、つまらぬ・・・つまらぬ己の妬み心から、師尊に大変ご不快な思いを────」
まだ成長しきっていない明帆の肩は小刻みに震え、床にボタボタと零れ落ちた雫がどんどんと繋がり、小さな水溜りを作る。
ああ、と沈清秋は思い当たる。
(洛冰河に、足し湯をと吹き込んだ件についてか・・・)
沈清秋にとって、それは本当にたいした事ではないのだ。
けれど、沈九であれば酷く拘った部分だったのだろう。
そして、そんな沈九の信頼を裏切ったことを、こんなにも明帆は悔いている。
こんなにも、心を寄せ、慕っている・・・・・・。
「・・・・・・すまないな」
それは何に対する詫びの言葉に聞こえただろうか。
言ってから、沈清秋は明帆が不思議そうにこちらを見つめていることに気づき、慌てて言葉を続けた。
「まず、立ちなさい。私の言葉足らずがそなたを追い詰めてしまったようだ」
さぁ、と手を差し伸べると、明帆は顔をぐしゃぐしゃに歪めて更に涙を流した。「そんな・・・もったいないです」と。
そして、おずおずと立ち上がりはしたが、また目線を床に落とすと、項垂れてしまった。根は正直で素直な子なのだ、と思う。
「そなたに、洛冰河に役目を奪われたと思わせてしまったのは私の落ち度だ。実のところ、そなたにはもっと別の役目に力を入れて貰うつもりでこのような采配を行ったのだが、きちんと伝えていなかったのは私の手落ちであったな」
明帆は黙って下を向いたまま聞いている。
「今後そなたには、大師兄として皆をまとめ導くことに専念して欲しいのだ。いつまでも私の世話ばかりに心を砕くのではなく、広く清静峰を導く者として寧嬰嬰と共に、師弟たちを育てて欲しい。そなたにはその力があるとこの師は見ているのだ」
改めて、頼めるか? と声をかけると、師尊の御心にも気付かずに申し訳ありませんでした と、しゃくりあげながらも、明帆は謹んで応えてくれた。
うん、いい子だ。
思わず、頭を撫でてしまいそうになる。
「師尊、あの・・・・・・」
さすがにこのままお赦しいただくのでは、私の気が済みません。せめて、この汚れた床を掃除させてはいただけないでしょうか? と、明帆が申し出る。
(なんという素晴らしい心掛け!)
結局、沈清秋は明帆を褒めながら無意識にその頭を撫で、舞い上がった明帆は、では早速これから償いを!と、張り切って深夜の床掃除を開始したのだった。
柳清歌はと言うと、いつの間にか、挨拶もなしに消えていた。
*:*:*:*:*
満月に照らされ夜風に吹かれ、洛冰河はひとり、竹舎を回り込んだ自分の部屋へと歩いていた。
気持ちはすっかりと落ち着いて、鼻血も今は止まっていた。
思いがけず色々な事に翻弄された一日となってしまったけれど、最後は師に優しく送り出してもらえた。
霊気をあててもらった背が、今も温かい。
柳清歌にあらぬ疑いを掛けられた時、「信じてください」と懇願した洛冰河に、師は即座に「そうだな」と信頼を示してくれた。峰主である柳清歌に向かって「妙な事を言わないでやってくれ」と庇ってくれた。
師尊────
貴方が、眩しいです。
でも、そんな貴方に、私は嘘を吐きました。
確かに、やましい事はしていない。
けれど、やましい気持ちにならなかった訳じゃない。
それは、貴方の信頼に対する裏切りとなるのでしょうか。
闇夜に浮かぶ満月を見つめながら、洛冰河はなかなか部屋に入ることができないでいる。
この隣の竹舎で、やがて師が眠りに就く。
灯りが消えたら、無防備に────
こんな気持ちを貴方が知ったら、どんなお顔をなさるのでしょうか。
お傍近くにお仕えして、気付かれないまま居られるでしょうか。
あの無神経なくせに妙に勘の鋭い柳師叔に、今にも暴かれそうになるのが怖い。
怖い、こわい。
心が凍りそうに・・・・・・恐い。
なのに、貴方に知って欲しい気持ちが少しも無いとも言えないのです。
どうしたいのか、どうしたらいいのか、自分でも本当にわからない。
けれど。
わからないうちはこのままで。
貴方に甘えることが許される、今の貴方と私のままで。
師尊────
お慕いしています。