isgと半ゾンビkrnのゆるゆる世紀末①◇
山奥にひっそりと建つ、青い箱。
監獄とも言われるその建物には、将来有望なフォワードの選手が集められており、世界一というひとつしかない座を巡って一意攻苦していた。
多くの者がふるいにかけられ、過酷な環境を生き残った選手たちは現在、このプロジェクトの第二段階であるネオ・エゴイストリーグと呼ばれる総当たりのリーグ戦を行っていた。
選手たちにとって他者はすべて敵手と言えたが、状況により手を組むこともあり、一概に憎き相手というわけでもなかった。
現在、時刻は正午を指しており、食堂に向かう選手たちの足取りは軽い。数少ない娯楽のうち、食事時間は多くの者の心の支えとなっていた。
例に漏れず、浮き出った声音で会話をしながら、並んで歩く五十嵐栗夢と、黒名蘭世もそうだ。監獄内では比較的小柄な部類に入る二人は、妙に波長が合い連れ歩くことが多かった。
数ヶ月、毎日のように顔を合わせると気を使うこともなくなる。それは選手だけでなく、施設を管理する従業員も同じだった。
「おー!おっちゃん久しぶりじゃん!」
五十嵐が明るく大きな声を出しながら手を振る。
声をかけられたのは七十近い、気さくな雰囲気を持つ年配の男性。彼は監獄の清掃員をしており、小休止によく選手と談笑していた。
「やぁ、五十嵐くん。今日も元気だねぇ」
選手たちの祖父の年齢にあたる男性は、朗らかな笑顔で手を振り返した。シワの刻まれたその指に絆創膏が巻かれていることに気付き、五十嵐が疑問を投げる。
「あれ、おっちゃん手ぇ怪我したのか?」
濃く血が滲む指を心配そうに見やる五十嵐に、まいったなと男性が白髪の混ざるグレーヘアを掻く仕草をする。
「はは、さすが目ざといね。……ここだけの話なんだけど、この建物の周辺に猫がいて可愛がっててね。いつもは大人しいんだけど今日は機嫌が悪かったのか、ガブっとやられてしまったよ」
うへー、とその光景を想像して五十嵐が痛ましく顔を歪める。男性と五十嵐のやり取りを隣で見ていた黒名も、口を曲げて痛みを想像しているようだ。
「なんかヤバいインフルみたいなのも流行ってるらしいし、おっちゃんも気を付けろよ。もう歳なんだからな」
「手洗い、うがい。基本が大事、大事」
そうやって心配する少年二人に、「分かった、分かった」と男性は苦笑した。孫のような子供らが精いっぱい労わろうとする気持ちだけで、指の痛みなど吹き飛んでしまう。
男性と別れ、空腹音を鳴らして食堂に足を踏み入れた数十分後。聞いたことのないような、けたたましいサイレン音が監獄中に轟いた。
それは非日常を知らせる、最初の合図だった。
◇
警告音が鳴り続けている。
監獄内にアナウンスが響き、建物内すべての人間に避難を促していた。慌てず、落ち着いて正面入口へと向かうように告げる声に選手たちは重い腰を上げる。
「なにこれ?」
「避難訓練だろ。事前に言わないのが絵心って感じー」
「まだ飯食ってるっつーの。時間考えろよな」
のんびりと文句を言い合い、午後の練習が多少免除されることを期待しながら青い集団が動き始める。
だが、遠くから獣のような咆哮が聞こえると、一同は水を打たれたようにしん、と静まり返った。
避難指示をくり返すアナウンスは、「不審者の侵入」という言葉を放っている。全員の目が唸り声の上がった方へ向くと、勢いよく開けられたドアから数名の従業員が姿を見せた。全員が揃って青ざめた顔をしており、視線を浴びていることに構いもせず、避難する選手たちの列に素早く混ざった。トロトロと危機感のない足取りの選手たちを掻い潜り、一秒でも早くこの場から切り抜けたいような様子だった。
選手たちは顔を見合わせ、それから無言で出口へと向かった。大勢の人間が移動しているのに、静寂に包まれている異様な雰囲気だった。
監獄の正面には大型のバスが数台停まっており、乗せられるだけ人を乗せると、次々とその場から離れて山を降りた。訓練でここまでするだろうか、と選手たちがようやく緊張を覚える。
残りわずかになったバスに乗り込む途中、五十嵐がふと「黒名がいない!」と声を上げた。一緒に食堂に入ったが、黒名は手短に食事を済ませるといつの間にか姿を消していたのだ。
その悲痛な叫びを聞いた瞬間、乗り込む影があった。
青い監獄の申し子、潔世一だった。
潔は五十嵐と目を合わせると、「確かか?」と問う。五十嵐は動揺しながら、言葉を淀ませて返答する。
「た、たぶん……。なあ、黒名見たやついるか?」
五十嵐が周囲を見回す。偶然にも、プロジェクトの初期から行動を共にした仲間たちが固まっていたが、残念ながらどこからも黒名の所在が確認できるような情報は得られなかった。
「おっ、おい、潔………!」
五十嵐が裏返った声で潔を呼ぶ。ドアが閉まる寸前、潔は勢いよく外へと飛び出した。
「ごめん、先に行ってて!」
このバスを乗り過ごしたら最後の一台しか残っていない。残された青い車体に潔が目を配らせながらそう叫び返した声を最後に、バスは無情にも扉を閉じて出発した。
選手の数名が待ってくれと頼み込んだが、運転手は苦虫を噛み潰したような顔で「ダメだ」と断り、次のバスに乗ってもらうと告げた。
いつも、一番に走り出すのは潔だった。
五十嵐はバスの最後席から、建物内に引き返す潔の後ろ姿を眺めるしかできない。
もしも、黒名が別のバスにすでに乗り込んでいたら。自分の発言の深刻さを思い直し、罪悪感に心臓がドクンと怯える。
周囲への目配りに長けている潔が、同チームで、さらに腹心として抱える黒名の不在に気付かないはずがない。五十嵐が声を上げずとも潔はきっと同じ行動をしただろう。
頭では分かっているが、手の震えが止まらず、息を乱す五十嵐の肩を、白い手がガシッと力強く掴んだ。
「アイツ、凄ぇよな。悔しいけど」
五十嵐が隣を見る。
絵画のごとく整った顔に燃えるような赤髪を垂らして、千切豹馬がその目を真っ直ぐに潔へと向けていた。歯をギリ、と噛み鳴らす千切は言葉通りの表情をしており、五十嵐はその迫力に圧倒されて静かに唾を飲み込んだ。
「心配すんな。潔なら大丈夫だろ」
五十嵐と千切、その他の関わりのある選手たちに見守られながら潔は建物へと姿を消した。その背中を見届けて、千切が掴んでいた五十嵐の肩を豪快に叩く。
根拠のない励ましだったが、不明瞭な心配事で神経を削るのはムダなことだと千切の眼差しは語っていた。
「お前が暗いのはダメだろ。どうすんだよ、この雰囲気」
そう言われ、五十嵐が後ろを振り返ると数名と目が合った。不安げに眉を寄せた選手たちは、携帯電話すら持ち出す暇もなく、頼るものが何もない状態だった。
その光景にしばらく言葉に詰まっていた五十嵐は、覚悟するようにグイッと眉を寄せた。
「ほ、……放送席、放送席〜!潔選手、今日は大活躍でしたね。ご感想は?」
手で拳を作り、擬似マイクを持った五十嵐が近くにいた蜂楽廻に話しかける。蜂楽は急な振りに大きな目を驚いたようにぱちくりさせて、五十嵐と視線を交じり合わせるとニパ、と明るく笑った。
「あはっ!そうですねぇ、黒にゃんがいない!と思ったら体が勝手に動いちゃってました」
「なるほど、まさしくヒーローですね。素晴らしい活躍でした」
「どうもどうも〜」
明るく振る舞う二人の横にいた千切は呆れつつ、その顔はどこか安心したようだった。バスの空気はリセットされたように淀みが消えたが、この先に不安があるのはみな同じだった。
◇
監獄に戻った潔は少し迷って、トレーニングルームへと足を運ぶ。昼食を中座したという黒名が向かう先はあそこだろうと、直感に頼った。
長い廊下を走っていると、鈍い足音が聞こえて思わず潔は動きを止めた。黒名を探し出すことに夢中で、不気味なほど静まり返っている施設内にようやく異質さを感じる。
ずり、と一定の間隔で聞こえる音は、なにか重量感のあるモノが引きずられているようだった。音は段々と近くなり、角を曲がった目先にその発信者がいることが分かる。
先ほど、館内放送で「不審者」と何度も繰り返されていた言葉を思い出す。潔は素早く周囲を見回し、死角になりそうな柱にしゃがんで身を隠した。小さく、深い息を吸って鼓動を落ち着かせる。何者かは分からないが、その姿が現れるのを陰からじっと覗く。
しかし廊下への角を曲がり、登場した人物に潔は目を丸くする。
選手から「おっちゃん」と呼ばれ、親しまれている年配の清掃員の顔は見覚えがある。潔は挨拶を何度か交わす程度だったが、よく労わるような言葉を掛けてくれ、選手みなを応援していると話していたのを聞いたことがある。親戚に励まされているような親しみの深い印象だった。
その男性が、足を引きずりながら、項垂れて歩いていたのだ。
「だっ、大丈夫ですか……?」
勢いよく立ち上がった潔は、足早に男性のもとへ駆けつけた。よく見ると顔面に打撃痕があり、謎の不審者に襲われたのだろうと、そう思った。
男性は問いかけには答えず、だが潔の声に反応するようにピタッと動きを止めた。ゆっくりと顔を上げ、瞳孔の開ききった意思のない目を向ける。いつもと違う様子に違和感を覚えながらも、最も警告を鳴らしている確信的な箇所があった。
昼前に廊下で五十嵐と黒名と、微笑ましく会話をする三名の横を潔は通りかかっていた。
わざわざ途中から割り込むこともないとそっと横を過ぎただけだったが、目に入った男性の髪色は微かな白が混ざっただけの、穏やかなグレーカラーだ。しかし今はまっさらな見事な白髪。
それが何を意味するかは分からないが、再度声をかけても返事のない男性に潔は後ずさる。
不審者の侵入、というワードには最初から嫌に引っかかっていた。選手をこき下ろしながらも、その裏では施設に莫大な資金をかけて一つ一つの才能を育ててきた、青の監獄。
ここが、そんなにあっさりと見知らぬ人物の侵入を許すだろうか。
潔がゾッと顔を青くしたのと同時に、男性は潔の腕を掴んだ。びくりと肩を揺らした哀れな少年に構わず、男性は大きく口を開く。
あ――。殺されてしまう。本能的に恐れても、身体はショックで硬直している。脳が働いているのに何をすればいいのか分からなかった。腕を乱暴に掴まれたまま、呆然と立ち尽くしていると目の前の男性が大きく傾いた。後ろに尻もちをついた男性に、呆気に取られて眺めるだけの潔の腕が、何者かにギュッ、と掴まれる。横を見た瞬間、目当てのものが飛び込んできて潔は声を弾ませた。
「く、……黒名!良かった、無事だったんだな」
「今はな。潔、まだ逃げてなかったのか」
男性を潔から離すように振りほどいた黒名が、潔の腕を掴んだまま誘導するように引っ張って距離を取らせる。
「お前が避難してないって聞いて戻ってきたんだよ。無駄足にならずに済んだ」
そう言った潔に、黒名は目を見開かせる。わずかに動揺したように眉を寄せ、苦言をこぼした。
「な……なんでそうなる……。俺に構わず、逃げてればよかったのに」
「いや俺の台詞な。お前が俺につくんなら、俺もお前についてるってことだろ」
黒名のかつての台詞を重く受け止める潔に、言葉が出なかった。黒名に会えて嬉しいと心から笑顔を見せる潔の底知れぬ器は、想像していたより深いものかもしれない。
情を投じる対象にいつのまにか己も入っていたのだと、いまさら黒名は知った。一度、懐に入れたものに対して甘いとは思っていたが、面と向かって大切だと伝えられると、状況も顧みずに満たされるものがあった。
潔を良い奴だと、素直にそう思った。
そして目の前の男性に気を取られ、のそりと近付くもうひとつの影へ反応が遅れた。
小柄で小さいそれは、ネームプレートを下げたスーツ姿の女性事務員。顔は若く見えるが、艶やかな真っ白な髪が不気味に生えていた。
立ち上がった男性清掃員と、廊下から真っすぐにこちらへと歩いてくる女性事務員に板挟みされた状態で、潔は黒名と背中を合わせて冷や汗をかいていた。視線の先にいる、瞳をあらぬ方向へとぐりんと向け、開けっ放しの口からよだれを垂らしている女性事務員は男性同様、どう見ても正気とは思えなかった。
相手は女性と年配男性だ。また不意を突いて全力でぶつかれば逃げきれるかもしれない。潔がほかに案がないか思考を巡らせていると、シャツをグイッと強く引っ張られた。
グラリと足元をふらつかせた潔は、引っ張った張本人の黒名を訝しげに見つめた。シャツをパッと離し、今度は胸ぐらを力強く掴み上げた黒名に、潔はしびれを切らしたように声を張り上げた。
「おい、何すんだっ……!」
その手を振り払おうと、黒名の拳に掴みかかった潔がピタ、と動きを止めた。自身の胸元から顔を上げて、潔が黒名を見つめる。黒名は目を細めて、寂しげにかすかに微笑んだ。
「鍵、ちゃんと閉めとけ」
そう言って近くの開けっぱなしのドアに潔を勢いよく放り込んだ。床に倒れた潔は受け身を取れず、頭を強く打ち付ける。
その衝撃でかすれていく潔の視界にはゆっくりと閉まるドア、そしてキュッ、と廊下を鋭く蹴った黒名のシューズ音が聞こえた。力が入らず、放り出された自分の手を眺めながら、潔はさきほどの黒名の熱い拳を思い出していた。
潔の胸元を掴んだ黒名の手は、これからの行動を決心したように震えていた。
◇
ハッっと、潔は息を吹き返したように勢いよく起きた。
過呼吸のように酸素を吸い続け、苦しくなった肺を解放する。
ドク、ドクと激しく胸を打つ脈拍はなかなか落ち着かず、悪夢のような状況を瞬時に理解した頭の回転を今ばかりは呪った。
事務所らしき部屋に、潔は横たわっていた。
天井を向いた瞳に蛍光灯が眩しく刺さり、眉をしかめる。
起き上がることさえ躊躇するように、潔は音を立てずにゆっくりと上半身を起こした。
部屋には、一般的な白い長テーブルと、対向式にオフィス席が数個か配置されていた。椅子が深い青色であること以外は、何の変哲もない事務用の部屋だった。
がらんとした部屋には人の気配はなく、乱雑に散った椅子は人々が慌てて離席したのだと分かる。
潔は警戒するように立ち上がって、一つしかないドアに近寄った。白い壁に耳をくっつけるが何も聞こえない。
辺りは恐ろしいほど静かで、深呼吸した潔は時間をかけて慎重にドアノブを下ろしたが、「ガチャ」という開口音は消しきれなかった。
ドアから恐る恐る首だけ出して左右をちらりと見渡すが、さきほどの出来事が夢だと思えるほどにいつもと変わらない廊下が続くだけだった。
しかし、日中の監獄で全く音がしないというのは、それだけで異常事態だった。
視線を右、左と彷徨わせ、どちらに行くのが正解なのか考える。ドアを掴む手は、力を込めないと迷いを見せてしまいそうだった。
黒名のことが気になっていた。
潔を逃がせて、二人を相手にどうしたのだろうか。足の速い黒名のことだ、誰にも追いつかれるはずがない。
きっと大丈夫だろうと、そう自己暗示しないと罪悪感で潰れてしまいそうだった。
何が「無駄足にならずに済んだ」、だ。自分さえ来なければ黒名は上手く隠れてやり過ごせたかもしれないのに。
余計なことをしてしまった。黒名の無事だけが、潔の願いだった。
右だ、右にしよう。潔が運命の選択肢を決めた瞬間、遠くで足音が聞こえた。
向かう先のないような、意思の感じられないゆっくりとした足取りには嫌というほど聞き覚えがある。
この状況で音を立てることに抵抗がなく、急ぎもしてない足音は確実にクロだ。
潔は開いたときよりさらに慎重に、ドアを静かに閉じて部屋の電気を消し、室内の奥へと下がった。
隠れられるような空間といえば、長テーブルくらいしか無かった。身を隠すように素早く台の下に潜り込み、散らばった椅子に手を伸ばした。こちらへと引っ張った青い椅子がカラ、カラと小さなタイヤを鳴らす。
それさえも聞こえてしまわないか、潔は心臓を縮こませながら目先へと椅子を引き寄せた。裸の自分に、少しだけ鎧をまとえたような安心感があった。
ほっ、と息を吐くと部屋の隅から砂嵐が聞こえて潔がビクッと肩を揺らす。
ザー、ザーと不愉快な電波のノイズを数回流し、人の声が微かに聞こえる。なんだか久しぶりに他者の声を聞いた気がした。
世界に一人、取り残されたような気分だった潔は職員が流しっぱなしにしていたラジオに感謝した。だがこの音は危険性を帯びていて、潔を脅かしかねなかった。椅子を横にずらし、抜き足でラジオが置かれている席まで近寄る。
手に取ったラジオのボリュームのつまみを何とか見つけ出し、音を切ろうとして、手を止めた。
〝発症者に意識はなく、狂暴化する傾向が見られます〟
〝専門家は血液感染の可能性が高いと見て、各医療機関と協力して原因追及に尽力―――〟
大規模なパンデミックに各国が緊急避難宣言を発令し、感染を防ぐための対策に追われている。余裕のない口調でそう話すアナウンサーの声を聞き、潔は映画でも見ているような気分になり、スクリーン越しの出来事のようであまり現実味がなかった。
音量を最小に下げてラジオを抱え、さきほどの籠城地に戻った。
〝くり返します。感染すると、一時間ほどで意識を完全に失い、無差別に人を襲うようになります〟
〝発症者の特徴として、髪の毛が白髪のようになるという事象が見られ――〟
〝絶対に――〟
肝心な箇所が聞き取れず、潔はイラつきを覚える。ラジオに早戻し機能はない。この緊急事態に、なんて不便なのだろう。ストレスに耐えるように爪を噛みながら、アナウンサーが再び言葉を紡ぐのを待つ。
ようやく最初からくり返され始めたニュースに、潔が聞き耳を立てる。ある程度、具体的な話をしていることに違和感を覚え、壁の時計を見るとすでに夕方の六時だった。サイレンが鳴ったのは昼過ぎで、それから五時間近く潔は気を失っていたことになる。
気絶したのはきっかけで、疲労しきった身体が休息を必要として単に眠っていただけだろう。起床時の妙なスッキリ感に納得し、己の呑気さに腹が立った。
潔が場に似合わない、自己嫌悪を含んだ溜め息をついていると、部屋のドアが無遠慮に開けられた。
「鍵、ちゃんと閉めとけ」と黒名の声が反響する。ミスにミスを重ねる愚行。頭のなかで黒名に謝るが、こればかりは仕方がなかった。
潔が気を失っていた長時間、誰も来なかったのは奇跡に近い。普通の事務所には当たり前に装備されているはずだが、この部屋にはそもそもドアに鍵がなかったのだ。
そっとラジオを消音し、潔は息を殺して入室者が部屋を徘徊する気配に身を硬くしていた。足を引きずっている様子は無いが、重い足取りは部屋ひとつ見るのにずいぶん時間がかかっている。まるで、何かを探し回っているように。
足音は潔の潜む壁側の長テーブルへと近寄り、席の前で一席、一席と立ち止まった。奥の方にいる潔にも、まもなく到着するだろう。
見つかる前に、ギリギリまで引き寄せて椅子を思いきりぶつけてやろうと、潔は身を隠してくれている椅子をぎゅ、と強く掴んだ。
隣の席の前でピタッと立ち止まり、勢いよく席下を覗き込むホラー映画のような来訪者の動きに潔は悲鳴を上げかけた。
だが、その人物の揺れる三つ編みを見た潔は目を大きく見開き、喜びに満ちた瞳にはわずかに滴が浮かぶ。
「黒名っ……!!お前、無事だったんだな……!」
椅子をどかしてテーブルの下から這い出た潔は、腕で目元を雑に拭いて黒名に向き合った。電気を消した室内は暗くて黒名の表情が分かりづらいが、恐怖と不安から解放された自分の酷い顔も見られていないと思うとありがたかった。
「ごめん、俺を庇ってあんなこと……。お前かっけぇよ、ありがとな」
暗い中でも分かるほどきょとん、と首をかしげた黒名に潔は苦笑する。
水に流すつもりなのだろう。潔より一つ年下だというのに、見上げた男だと思った。
とりあえず、黒名と合流できて、感染者とやらに侵入されたわけではないと知って潔は安堵の声を漏らす。
再びドアに近寄って聞き耳を立て、音がしないのを確認してドアノブに手を伸ばした。
黒名は潔の後ろで待機しており、そっと部屋から脱出した潔に続いた。
「黒名、どっちから来た?お前の方が詳し……」
蛍光灯が明るく輝く廊下で、潔は背後にいる黒名に声をかけながら絶句した。
直立不動で、無機質に潔を見つめる瞳。元々白い肌が、血の気を失ったようにさらに青白くなっている。
潔の頭にはラジオで聞いた情報が占めていた。
〝専門家は、血液から血液への感染経路の可能性が高いと見て―――〟
だらん、と力なく垂れている黒名の腕を見ると、血の滲んだ布できつく二の腕が巻かれていた。チームのユニフォームであるバスタード・ミュンヘンの黒い袖部分には引き裂いた痕があり、それを使って自らの腕を駆血したのだと分かる。
〝発症者の特徴として、年齢に関わらず髪の毛が白髪のように変化する事象が確認されています〟
黒名を正面から見つめる。彼の鮮やかなはずの桃色の頭部には、何束か白いラインが細く入っていた。
口を開こうとせず、投げられた視線も気にせずにぼうっと地面に視線を落とした黒名に、潔が震える声で話しかける。
「な……なぁ……!冗談きついって、全然笑えねぇよ……」
潔が最初に部屋から廊下へ出ることを断念したのは、足音が聞こえたから。自分でも確信していたではないか、確実にクロだと。
嫌だ、嫌だ!と、頭が結論へたどり着くことを拒否をする。感染者は心臓が止まっており、瞳孔が開いているそうだ。
動いているのが不思議なほどだと。そんなの、まるで死人だ。そんなはずあるわけがない。
〝見かけたらすぐに逃げて、絶対に近寄らないでください!〟
聴取者にどうにか届いてほしいと、アナウンサーの悲痛な警告が耳を鳴らす。
「おい、何か言えって……!頼むから……」
膝をガクン、と落とした潔が縋るような目で見ても、黒名は感情の読めない瞳で見つめ返すだけだった。そしてふと、黒名が視線を潔から外してその背後を見た。つられて潔が後ろを振り返ると、数時間前までよどみなく言葉を発していたあの男性清掃員が、獣のごとく狙いを定めたように潔たちを睨んでいた。髪は見間違えることもできないほど真っ白だった。
男性とはまだかなり距離があった。視線を黒名に戻した潔は、瞳を揺らしながら立ち上がり、動揺した声を隠しもせずに黒名の意識に訴えかけるように懇願を重ねる。
「なぁって……。頼む、……返事してくれよ……黒名」
掠れた声で名前を呼ばれ、黒名が潔を見上げる。
後に続く言葉を待つように、潔の声掛けに「なんだ?」と答えるように首をこてん、と小さく傾げた。
その様子を見て、潔は苦しげに寄せていた眉を上げた。まだか、と目をパチパチとしばたかせる黒名に、ふっと笑いかける。
「ふは……。いや、なんでもない」
そう言って黒名の手を取り、先ほどいた部屋に転がるように逃げ込んだ。
感染者の動きが遅いのは勉強済みだった。今度はドアが開けられないように、近くにあったホウキを突っ張り棒のように立てかける。ついでに転がっていたドアストッパーを発見し、床との間に滑り込ませた。万が一、突破された場合のために今度は黒名と一緒にデスクの下に潜り込む。
隣にいる黒名を覗き込むとゆっくりと瞬きをしており、その瞳孔はいつもと同じく猫のように細い。おとなしく潔の横で座り込んでいる黒名の手首に潔がそっと触れる。手を引いた時にも心から安堵したが、微弱ながら黒名の脈は動いており、その肌はわずかに温かかった。
一時間だ。おそらく感染者に噛まれてしまった黒名の腕を見て、潔は時計に視線を向ける。
一時間、黒名の側にいよう。それで変化なくこの状態を維持できるなら、黒名はまだ助かるかもしれない。
根拠のない仮説を立て、潔は深く息を吸った。
ラジオで聞いた、原因不明の奇病。
医療機関が治療薬とワクチン開発に向けて発症の追及に努めているらしいが、薬の開発にはどれほどの歳月がかかるのだろうか。それまで黒名はこの姿だと思うと、潔は胸が締め付けられる思いだった。
半感染者の黒名が元に戻るのかも分からないし、想像したくはないが今だって黒名が意識を失って他の感染者のように変わり果ててしまう可能性があるのだ。緊張状態のせいでモヤのかかった頭で考えていると、近くからグゥ、と小さい音が鳴った。
呆気に取られた潔がぽかんと横の黒名に顔を向けると、黒名は視線を落としたまま腹を抱えて、不満げに口を尖らせていた。
五十嵐から聞いた話があった。
黒名は練習試合が近づくと、動きやすさを優先して昼食を半分ほどしか食べないそうだ。そして人知れずトレーニングルームに向かい、マシン相手にパスとスタミナ強化を中心とした練習を重ねる。どうして知っているのかと潔が尋ねれば、五十嵐は気になって跡をつけたことがある、と悪い顔で笑った。
不満や弱音を滅多に吐かず、自分の求められていること、強みを活かすために淡々と練習をする黒名には、潔も感化されることがあった。こうやって裏でさらなる努力をしていたと知り、潔を「すげぇ」と素直に称賛していた黒名を思い返す。
上を目指すために必要なことを静かに積み上げる黒名の心奥を発見したようで、その実、あのポーカーフェイスの中に悔しい気持ちや焦りもあったかもしれないと思った。
勝手な推測だが、黒名の人間味をこのような形で感じるとは思いもしなかった。微笑ましい露呈に、潔はふわりと黒名に向かって微笑んだ。
「絶対大丈夫だ、黒名。今度は俺がお前を助けるからな」
(続く)