isgと半ゾンビkrnのゆるゆる世紀末④◇
数日かけて、潔と黒名は僻地を抜けた。
ようやく街中といえる風景に近付いたとき、潔は安心すると同時に警戒を怠らなかった。
人が多い場所では、比例して感染者も増える。
暗闇に紛れられる夜よりも、太陽が照らす昼間は行動するには有利だった。
潔はあの特徴的な足音が聞こえないか常に耳を澄まし、定期的に周囲を見回した。
ここからは、より慎重になる必要があった。
数キロも進むと、段々と潔にとって見慣れた建物が現れはじめた。生まれ育った街を、これほど恋しいと思ったことはない。
気が緩むのを感じながら、角を曲がった潔がピタリと足を止める。つられて、黒名も立ち止まった。二人の視線の先には、こちらに背を向けて棒立ちになっている男性がいた。
両手をだらりと垂らし、上空を見上げている男性からはうめき声が聞こえる。
しばらくぶりに目にする、完全な感染者がわずか数メートル先に存在していた。
幸い、男性はまだこちらに気付いていない。
遠回りをしてでも鉢合わせを避けるべく、引き返そうと潔が靴の向きをくるりと変えた時だった。
グシャ、と潰れる音が響いた。
目を見張った潔は慌てて視線を落とし、音の正体に顔を歪める。
足元には、大量のソヨゴの実が散らばっていた。
赤いその小さな実は木から落ち、人々に踏みつぶされ続けて道の一部を血のように真っ赤に染めていた。いくつか命尽きて枯れ果てたものもあり、潔が踏んだのもその一つだった。
いつか、監獄の統率者である絵心が話していた運の話を思い出す。
不運は予測できるもので、それを避けるべく尽力することはできる、と鳩のフンに例えて語っていた。
ふざけたような例え話だったが、絵心は真剣そのものだった。そして潔にとってそれは目から鱗であり、己の考えを洗い直すきっかけになった。
街に近付いてから、潔はずっと手に持っていたものがあった。
あらかじめリュックから取り出していたのは、サバの缶詰。出発前にコンビニにて拝借したものだった。
缶詰の引きタブに指をかけ、ぷしゅ、と小さな音を立てて開け口を割いていく。
その間にこちらへ目を向けた男性はよだれをこぼしながら、ゆったりと潔たちへ近寄っていた。
こめかみに冷や汗を浮かばせて、潔は完全に開いた缶詰のフタを放り投げた。
カラン、カランと乾いた音が鳴り止む前に、なるべく大きな音を立てて缶詰を地面に落とした。
衝撃で飛び散ったサバの身からは食欲をそそる匂いが出ており、その香りが自身の嗅覚まで届いたとき、潔は黒名の手を引いた。
「逃げるぞっ、黒名!」
走りながら、後ろを振り返る。残された男性は潔たちなど忘れたように地面を凝視しており、缶詰の中身に手を伸ばしていた。
緊張と焦りで荒くなった息のまま、黒名と迂回する。
男性が見えなくなるまで走ると、しゃがみこんだ潔はハァハァと必死に酸素を取り込んだ。
一か八かの賭けだったが、成功した事実に糸が切れたように安堵する。
黒名は逃げてきた方角を見ていた。
いつもの彼なら、すべてを理解したうえで「もったいない、もったいない」と笑っていたかもしれない、と思った。
◇
事の発端は、山道を下りていた最中。黒名が食べ物を咀嚼するのを眺めていた時のことだ。
黒名と合流し、そのあとに一度だけ繋がったラジオの内容を潔は考えていた。
その放送では、感染者には感染前の習慣をくり返す傾向があると言っていた。意識がなく思考も働かないが、身体だけは動くのでおぼろげな記憶をもとにして行動しているのだと。
共通しているのは、食欲だ。腹を空かせた感染者は、今まで食していたものを求める。
米、小麦、野菜。その中でも栄養価が高く、馴染みのある肉が彼らの前にフラフラと歩くと、どうなるだろうか。
感染者が人を襲う理由の仮説として、そう語る何かの専門家の話を思い出しながら、目の前にいる黒名を見た。
黒名は、空腹で腹の虫を鳴らしても潔を襲わなかった。理性のない猛獣のように変化するなど考えられない。
恐ろしい話だったが、潔にとってはむしろ黒名が他と違う存在であるという思いが強固になった。
そして、その時に思いついたのだ。
感染者が人間という肉を求めるなら、代わりを提供すれば目移りするのではないかと。
コンビニに入った際に準備を始めた。生肉は腐るし、焼き上がっていても日持ちしない。そこで缶詰コーナーでなるべく肉に近いものを手に入れた。
それが今日になって、役に立ったというわけだ。
相手が多いと成立しないだろうが、一人程度なら問題ないようだ。
道中で感染者に出会うという必然に近い偶然を、コントロールして場を収めた潔の勝利だった。
◇
あれから遠回りをして、潔の最寄り駅まで着いた。
もう一時間もない距離に自宅がある。
ようやく、ここまで来たのか。
見晴らしの良い河川敷を、潔が感慨深く見つめる。
監獄に来る前に、試合に負けてここで泣いた。
U-20日本代表との試合でゴールを決めた潔に、同級生が的外れな発言をして溝を感じたのも、ここだった。
場所ひとつをとっても、故郷というのは思い出が溢れていて、そして昔との成長を感じずにはいられない。だからこそ哀愁があり、懐かしくもある。
目を細めて、予想外の形となった帰省に複雑な心境でいると、黒名がジッと河川を見下ろしていることに気付いた。
「黒名?」
その視線の先を見ようと潔が隣に立つが、黒名はスタスタと高水敷に向かって歩き始めた。
急斜面を安定しない足取りで下りようとする黒名の腕を、潔が慌てて掴む。
「危ねぇって。絶対コケるぞ、賭けてもいい」
止められたと思ったのか、黒名がむっと潔を見る。潔は弁解して、黒名を支えるように一緒に下りた。
川を目の前に何をするかと思えば、黒名は子供が放り出したであろう玩具の山を見ていた。不可解な行動に眉をしかめていた潔は、黒名が手に取った球体を見てハッと息をのんだ。
白地にスカイブルーの五角形が張り巡らされた、人工皮革の球形。
子供用の一回り小さいサッカーボールを持って、黒名は黙って手元を見つめていた。
「は、……はは。それどころじゃねぇよ」
黒名に近付きながら、潔から乾いた笑い声が出る。
そう言いつつ動きのない黒名からボールをひょいと奪い、距離を取って黒名へ軽く蹴った。
潔から受けたパスボールは黒名の足先にコツンとぶつかると、スピードを失って斜めに転がった。
直立不動でボールを目で追う黒名に、潔は言葉が出なかった。
黒名は潔よりドリブルもパスも長けていて、スピードに至っては一級品だった。身体が動かずに何をすべきか分からないような状態でも、サッカーに関心のある素振りを見せる黒名は痛々しく、それでいて眩しかった。
お前はすごい選手だったと、己の潜在能力を知らない黒名の肩を揺すって説き伏せたい気になる。それでも、黒名がサッカーに反応した事実はたまらなく嬉しいものだった。
食にすら執着をあまり見せなかった黒名が求めた、サッカーボール。
〝感染前の習慣をくり返す傾向があり……〟
そう話すアナウンサーの記憶上の声は、以前より明るく聞こえた。
◇
潔宅には、誰もいなかった。
両親の無事を一目見ようと庭をのぞき込み、リビングをしばらく観察するが母の姿はない。
父は仕事だろうか。曜日の感覚はもはや無いに等しく、指折り数えて平日であると知った。
意を決して正面のドアを開けると鍵が開いており、潔は不用心さを呆れるより異常事態を悟った。
両親、特に母は心配性で外出の際は施錠を何度も確認する性格だった。
玄関に靴はない。潔はドアの前で待機していた黒名を招くと、土足のまま家に上がった。
急いで二階の父の書斎にある棚を開けると、三つあった非常用のカバンが二つ消えていた。
それを見た潔は安堵したように深く息を吐き、ほかに異変がないか家の中を見回す。
一階に戻り、リビングのテーブルではためいている白い紙が目に入った。
重鎮代わりに花瓶が乗せられ、じんわりと水気を吸っているそれを手に取る。
潔へ宛てた手紙には、両親は共に無事であること、避難命令が出て二人で指定の場所へ向かったこと、潔の無事を祈っていることが記されていた。
急いでいただろうに、潔を安心させるように焦りのない綺麗な筆跡で書かれている文は、愛する息子が我が家を訪れることを知っていたようだった。
潔は手紙をクシャッっと握り締め、力が抜けたようにその場に座り込んだ。
喉の奥が熱くなり、情けない嗚咽が漏れ出したころ、潔の頭にぎこちなく触れる手があった。
驚いて顔を上げると、いつのまにか隣に立ちすくんでいた黒名が潔に腕を伸ばしていた。
感謝を込めて黒名の名前を呼ぶと黒名は手を離し、リビングの床に座り込む潔の横に腰を下ろしてあぐらを掻いた。
どうして黒名は必要なときにいつも側にいてくれるのだろう。
偶然の重なりで、黒名にとって大した意味がないのは分かる。だが、潔には黒名の存在は大きく、今はそれが本人に伝わらないことが幸運だった。
「とっ、……父さんも、母さんも…………無事だって……」
そう言いながら、黒名の肩を掴む。
普段と様子の違う潔に黒名は戸惑っているようにも見えたが、それこそ人間らしい反応で、喜ぶべきことだった。
「良かった………本当に、良かった………」
ずり、と潔の手が黒名の肩から腰まで落ちる。
しばらくして弱々しい声を出しながら、潔が黒名の腰に腕をまわす。顔をうずめるように己に抱きついた潔を、黒名は再びぎこちなく撫でた。
抵抗せずに、慣れない手つきで潔を慰めようとする黒名に「下の兄弟はいなさそうだな」とか、「そういえば歳ひとつ下だったな」とか色々思うことはあったが、黒名が優しい男であることは十分過ぎるほど知っていた。
◇
あれから、潔はろくに休んでいない疲労のピークと安心感から、黒名の腕で気絶するように眠ってしまった。
起きてからジトッと潔を睨む黒名に潔が謝ると、黒名は土足で汚れた室内の床を指していた。
やはり、きちんとした両親にちゃんと育てられたようだ。
「すみません。掃除します……」
寝起き早々に黒名へ行儀の悪さを謝り、ウェットティッシュを引き抜きながら、潔はしばらくここに滞在するのも悪くないと思い始めた。
黒名が完治するまで誰にも会わせることができない以上、両親とも、友人とも合流はできない。それに自宅にいれば、もし両親が帰ってきたときにすぐ会える。黒名と鉢合わせする可能性があるが、そのときは上手く言って二人で離れよう。
床を綺麗に拭き終わり、潔はリビングのカーテンを開けた。
まだ完全に明るくなる前だったが、潔が夕方には寝てしまったことを考えると、かなりの時間を過ごしたことになる。
夜明け前の、深い藍色の空を眺めながら潔が伸びをしていると、黒名にクイッと服を掴まれた。
拭き足りてないところでもあったのか、なにか言いたげな顔だった。
「なに、黒名?」
昨日の醜態を照れ隠すように、なるべく穏やかに黒名に微笑む。
「……お、…おは、よ……」
そう言って、グーッと黒名の腹が鳴ったときに空が白ばんだ。
考えてみれば、昨日の昼以降から何も食べてない。
そんな状態で一晩中、潔に胸を貸しながら文句といえば家の汚れ、そして食欲より優先させるものが「おはよう」だ。
潔はたまらず、黒名の頭をぐりぐりと撫でて挨拶を返すと、無作法に勢い余って黒名の三つ編みが解けてしまう。
パサっと広がった桃色の横髪にも、感染を知らせる白色の特徴的なラインが入っていた。潔が思わず黒名の髪に手を伸ばすと、今度は自身の腹から音が鳴った。
「朝ごはん、何がいい?」
そう言って広げたリュックは、食料が残り少なくなっていた。
黒名は迷わずパンに手を伸ばし、潔はおにぎりの袋を破った。
(次回、同棲編()に続く)