博士 過去私は恵まれた方だ、と思うことはよくあった。
実際、私の母、海崎 ミツキは大企業の令嬢、父、海崎ユウは界隈で名の知れた研究者であり、お金に困ることはなかった。人々はそんな私を羨ましいと言うが、私に言わせてみればそちらの方が羨ましいと思う。
私の中のいちばん古い記憶と言えば2歳の頃、母からアルファベットを教わっている時の記憶だろう。母が左に文字を描き、私がそれを真似する、それだけの事で母が喜んでくれ、嬉しかったことを覚えている。しかし、人間の記憶とは曖昧なものだ。その時父が撮っていたビデオには、「流石私の子」「この子はT大に行かせなくちゃ」などといった甲高い母の声が残されていた。今聞くとそこには「都合のいい存在が出来た」などといったような、黒い感情が混ざっているようにしか感じられなかった。ご察しの通り、私の母は所謂「教育ママ」というものであり、私は厳しい指導を受けていた。朝は5時から勉強、学校から帰ると直ぐに塾に行って勉強、塾から帰ると11時まで勉強、といった勉強漬けの日々であり、幼い頃の私はよく涙を流していたものだ。問題を間違えると暴力を振るわれるのは日常茶飯事であったし、帰宅が1秒でも遅れると夕食は取らせてもらえない。しかもそれをするのは父が家に居ない時のみであったためとてもタチが悪い。放課後、遊ぶ時間もなく帰る私を、クラスメイトは変わっているといい、いじめられる、とまではいかなかったが小中は孤独に過ごしていた。勉強以外にも、一人称は私にしなさいだの両親のことは名前にさん付けで呼びなさいだの色々面倒なことがあった。
そんな生活の中にも、楽しみはあった。母がいない土曜日、父が研究室に連れて行ってくれていた。父の研究室には目新しいものが沢山あり、様々なものに興味を惹かれる。父はそんな私に、冗談を交えながら飄々とした態度で色々と教えてくれたのだ。私は、そんな父と過ごせる土曜日が大好きだった。
時は経ち、私は県内でも有数の進学校に通うこととなった。部活動勧誘の声を左右に受け流し、1人廊下を歩いていたところ1枚のポスターが目に入った。お世辞にも格好良いとは言えないフォントででかでかと「ロボット部 入部者求む」と書いてある。ロボットか、父がよく見せてくれていたな、とぼんやりと見ていると突然
「君ロボット部志望かい」
と声をかけられた。大声に顔を顰めつつ驚いて顔を向けるとそこにはロボット部…というよりサッカー部の顧問をしてそうな日に焼けた大柄な先生がいた。
「いやー、今ロボット部には不登校の3年生しかいなくてね、廃部の危機なんだ」
話を聞くとどうやら彼は本当にサッカー部の顧問をしており、ロボット部の顧問も兼ねているそう。しかし廃部の危機か、面白そうなのに残念だと思っていると
「君、うちに入ってくれるんだよねありがたいよ」
「……え」
何故か勝手に入ることにされてしまっている。…まあ良いか、元々興味があったしな、と2つ返事でOKし、私は正式にロボット部に入部したのである。
ところで問題なのが、これが母に知らされたら、ということである。母は「部活なんてしてる暇無い」などと言っていたが……さて、どうしたものか。とりあえず私は「学校で勉強してる」との言い訳で何とか凌いでいた。先生達にもお願いし、部活のことは母には伝えないようにしてもらっていた。感謝しかない。
ロボット部には私一人しかいなかったが、非常に充実した日々を過ごせていた。部費からロボット工学の本を買い、それを読む。私がしていたのはそれだけであったが、興味のある分野であるためか非常に楽しかった。
そんな生活が一変したのは2年生の春、新入生が入学してきた時だった。どうせうちに入部してくる変わり者なんて居ないだろ、と普段通り部室で本を読んでいると部室の扉をコンコンとノックする音が聞こえてきたと思えば返事をする暇もなく扉がバンッと開いた。…話は変わるが、私の苦手なものは、ゴーヤ、辛いもの、虫、そして大きな声である(今後そこに海が加わるのだが、まあそれは別の話だ)。幼い頃から、大きな声と言えば、ヒステリックを起こした母の声、塾の講師の怒鳴る声…などなど怒りを含んだ声であったため大きな声は今でも怖く感じてしまう。話を戻すが、はきはきとして、心地よく響いた声は、どうも今まで聞いてきた大きな声とは違うように感じていた。
「貴方が私の『博士』になってくれる人っすか」
「……」
あまりにも唐突でつい固まってしまった。すると
「あ失礼しました自己紹介が遅れたっす」
と、片目を隠した謎の少女は慌ただしく姿勢を正し、ピシッと敬礼のようなポーズを取って自己紹介をした。
「片篠 レナ15歳新しくこの学校に入ってきたっすお噂はかねがね貴方の助手になりたいっす」
…いたな、変わり者。と思いつつ、詳しく話を聞くことにした。どうも彼女が言うには
「研究者の助手って格好良いっすもん」
だそうだ。
悪い子では無さそうだが如何せん単純すぎる。
「君はロボットとか詳しいの」
「いえ全然っす」
元気いっぱいに答えられてしまった。本当に素直な子なのだろうなあと思わずふふっと笑うと
「あ笑ってくれたっす合格ってことっすよね」
そんな仕様では無いのだが…まあいいかと、嬉しそうに飛び跳ねるレナを見てそう思った。
そこからの学校生活は言うなれば人生のピークであった。毎日の様に昼休みに集まりだべったり、時には休日に買い物に行くこともあった。レナの元気な姿を見ているとこちらも元気が貰える。ところで、レナの夢は「ちょーすごいロボットを作ること」らしい。やはり曖昧だ。だがレナらしいと2人で笑い合い、いつか2人で完成させようねなどと話していた。私は部活が生きがいになっていた。そんなある日、事件は起こった。2年生に進学してから目に見えて成績が下がっていたのである。学校で勉強すると言っているのに部活をしているのだから当然と言えば当然なのだが、ついに母にバレてしまった。
しかし、母の様子はどこかおかしい。私からのざっくりとした説明を聞き、鋭い目線をこちらに向けるだけである。振り向きざま、少し母がニヤリとしていたのは、私の勘違いだと思いたい。
私は1週間学校を休まされ、寝る暇もないほど勉強をさせられた。久しぶりに登校し、部室を覗いて見たが誰もいない。おかしいな、普段ならレナがいるのになどと空っぽの部室を見て考えつつ、自分の教室に向かっていると、皆がこちらに目線を向け、コソコソと内緒話をしているようだった。
聞かない方がいい、心の底では分かっていても周りの声は入ってくる。
「1年のあの子、海で見つかったらしいよ」
「しかも首に絞められた跡があったんだって」
「ロボット部とか入ってたし、あいつが関係してんじゃね」
「あいつの親金持ちだよなうわ〜wやりかねね〜w」
ちょっと待て、どういうことだ海絞められた跡理解が追いつかない。呼吸が乱れ、視界が揺れる。こんがらがった頭のまま突っ立っているとトンと肩を叩かれた。顧問の先生だ。
「海崎くん…ちょっといいかな…」
声が出なかった。私にできたのは、ただ首を縦に振るだけだった。聞いたところによると、一昨日、レナの遺体が浜に打ち上げられていたのが発見されたらしい。話を聞いても理解ができない。どうしてレナが何をしたと
考えても話がまとまらない。先生はそんな私を察してくれたのだろう。早退の手続きを取ってくれた。そうして私は家に帰った。信じられなかった。涙も出なかった。
ぼんやりとした頭で家に帰ると、母が出迎えてくれた。やけにニコニコとしていて、とても不気味だった。
「ミツキさん…あの…私…」
「先生から聞いたわよ。同じ部活の子、亡くなっちゃったんだってね。でも良かった〜。これで勉強に専念できるじゃない」
耳を疑った。何を言っているのだろうか。人が亡くなっているのに「良かった」どこか頭がおかしいのでは、と、今日の廊下で聞いた根も葉もない噂が本当なのではないか、と思った。私は何も言い返せず、そのまま部屋に入り鍵をかけた。
その日から私は高校には行かず、部屋にとじこもるようになった。生きる希望を失い、死んでしまおうかと考えたことも幾度となくあった。そこで思い出したのがレナの夢。志半ばで亡くなってしまったレナのためにも私が完成させなければ、といつしか心に思うようになった。そのためにはロボット工学を学ばなければ。そう思い私は志望大学をT大からロボット工学で世界的に有名なK大へ変更したのである。
無論、母には反対された。刃物が出てきた時はさすがに焦ったが、それでも私の心持ちは変わらない。最終的には父からの説得もあり、合格したら家から出ていくといった条件付きで受験することを許された。むしろやっと家から出ていけると嬉しくなったほどだ。もとより頭が悪い訳ではなかった私は余裕をもってK大に合格し、晴れて念願の一人暮らしがかなったわけだ。