生き残った者がみなもらう ①アレク・グランヴェルについて振り返る
ひとりの背が高く体躯の良い目つきの鋭い男が、中央と東の国の境の町をふらりと歩いていた。大きな荷物を背負い、きょろきょろと辺りを見回している仕草を見るに、どうやら旅人らしかった。
この町の中心には、齢数百年を超える大樹が、今もなお、豊かに緑の葉を茂らせている。旅人はその木を見止めて、懐かしいものを見るように目を細めた。
空は橙色の光が割合を占め、カラスが一羽、二羽、カアカアと飛び去って行く。
町の教会の鐘が六つ鳴った。東の国に近く、王都よりはやや雨量の多くじめっとした空気の町では、鐘の音はやや鈍くぼやりと広がるように男は感じた。
彼が腰を据えて過ごした南の国の乾燥した山の上では、音は澄んだまま、どこまでも突き抜けていったものだった。
もう間もなく日は沈み、夜が訪れる。母親に連れられて子どもたちは広場から家に帰っていく。その代わりに一日の労働を終えた汗や埃にまみれた者たちが、次々にどこからか現れて、町に一つきりの安い酒場に、麦酒で一日を労い合おうと自然と集まっていく。
穏やかで賑やかな一日の終わり。本当に平和な国になった、と旅の男レノックス・ラムは、平穏を噛み締めた途端に、一日中歩き続けた空腹を急に思い出し、導かれるようにして賑やかな場所へ入り込んだ。
「いらっしゃい! お兄さん、見ない顔だね。旅の人?」
「ああ」
愛想のよい恰幅のよい女将がすかさず声をかける。
「東の国に用事かい? それとも帰るところ? 最近は中央と東の国の交易も盛んだし、うちみたいな小さな町にも立ち寄る人が増えてね。ああ、お喋りが過ぎていけない。好きなとこ座っていいからね。注文が決まったら声をかけて」
「ありがとう」
人好きのする笑顔を向けながら、忙しい女将は早口で喋るだけ喋ると、レノックスに口を挟ませる隙もなく、メニューを渡して、慌ただしく出来上がった料理を運ぶためにキッチンに戻った。
どこのテーブルも、戦争を知らぬ本物の賑やかさで笑顔に溢れていた。明るい顔で無邪気に酒を飲む様子に、今生の別れかもしれぬと覚悟してその日の食卓を囲む痛々しい明るさは微塵もない。
ここは、五、六百年以上前にレノックスが訪れたことのある町だった。広場にある古い木をよく覚えている。あの頃は、ここは町というほどのものでもなかった。小さな集落。陰鬱な顔をした住人たちが、細々と生活を営んでいるだけ。当然宿はなく、レノックスは大きな木の下で寝転んだ。まだ戦争の跡が残る町で、ひとりの浮浪者が蹲っていても、誰一人、気にはしない。むしろ触れるものではないと、誰もがレノックスを積極的に無視した。致し方のないことで、当時の人々に罪はない。
のそりと起き上がって誰構わずに「人を探しているんです」と声をかければ、皆、ああと納得した顔をした。しかし誰もが首を横に振る。優しい人だけが「かわいそうに、戦争で生き別れになった恋人を探しているんだろう」と同情の声をかけてくれた。不幸な人間も魔法使いも大勢いた。レノックスだけが、悲劇の人ではない。
この町だけでなく、革命戦争後のまだ戦の名残りが残り、負傷者も多数、建物もあちらこちら崩壊している落ち着きのない中、暗い顔をして、レノックスは当て所なく主を探し回っていた。そのうちの一つがこの町だった。
まずは冷たい麦酒とソーセージ、パンを頼んで待つと、ざわざわと町の人間が他愛もない会話をしているのが聞こえる。
見慣れない新しい顔に、好奇心を隠さずにちらちらと見やる人々も、まだ酒の量が足りていないのか、積極的に話しかけてはこない。
「さあ、召し上がれ」
オーダーしてから幾分も待たないうちに、温かい素朴な夕飯が提供された。
「いただきます」と小さく呟いて、レノックスは冷えた麦酒で喉を潤す。
「いただきます」というのは、今では口に馴染んだ言葉だった。いつか出会った人が、食事の前の祈りように手を合わせていた。「元の世界では、こうやって、作ってくれた人に感謝して食事をするんです」と言っていた、もう名前も思い出せない誠実な人。その人のおかげで、レノックスは四百年探し求めていた人に再び会うことができた。レノックスはその人と大切な約束をした。約束を破ることなく役目を終えて、そうまでしたのに忘れてしまった名前。けれど、一緒に過ごして、かけられた言葉もかけた言葉も覚えている。過去の全てが消えたわけではない。レノックスの心に残り続ける。
今のレノックスは、一人で旅をしているようで、心は一人ではない。土産話を聞かせる相手が確かに存在する。
もくもくと食事をし、追加の麦酒とラクレットを頼んで、手持ち無沙汰になったレノックスは、行儀が悪いと知りながらこっそり周囲の会話に耳を傾けた。
「なあ、おい、聞いたかい」
「なんだよ?」
「東の国の魔法使いの話だよ」
「は? 誰のことだ? そんなのいくらでもいるだろうよ」
「なんだ、知らないのか」
「俺、知ってるかも。嵐の谷の話だよな?」
「最近、天使がひとり降り立って話だろ? 」
「なんだ、大方、魔法使いに幻覚でも見させられたんだろうよ」
「ひとりは黒づくめで、悪っぽい見た目らしいんだ。でもその横に飛び切りの美人がいるってぇ話でさ」
そうか、とうとう……とレノックスは、くすりと笑いを零し、初夏の青空のおうに澄んだ目をした、若く美しい青年の顔を思い出した。
見舞いと称して嵐の谷で鉢合わせた日。百年も前――。
家の主は、未だにわんぱくな教え子のひとりに振り回され、外の空気を吸いに連れていかれてしまっていたわずかな時間のこと。
「先生にとって、故アレク初代国王は、どんな方だったんですか」
形のよい唇から零れた言葉に、言った本人自身が一番驚いたらしかった。咄嗟に、ヒースクリフは自分の手で口を抑えた。
「あ、ごめん、そんなつもりではなかったんだ。こんな、こそこそと人の言いたくない秘密を嗅ぎまわるような真似なんて。俺、最低だ……」
レノックスも、決してフィガロとファウストの間のことを聞かなかった青年が、うっかりと口を滑らせたことに対して、さらには彼が何か自分に尋ねるならば、フィガロのことだろうと漠然とレノックスは思っていた予測が外れ、咄嗟にフォローが遅れてしまった。
「いや、なにも、そこまで言わなくても」
「でも……」
「好きな人のことは、何でも知りたいと思うのは、自然なことだろう」
「好きな人って……。先生は、その、俺の恩人で……だから、今度は俺が……いや、それも烏滸がましいか」
ヒースクリフはレノックスの台詞に顔を真っ赤にして、もごもごと口ごもった。「レノックスって、案外はっきりとものを言うよね」
小さな声で何事かを喋るヒースクリフの様子には気付かず、若人に口下手なレノックスは、何と言うべきか、しばらく考えあぐねた。
ファウストをよろしく頼む、と言った中央国初代国王アレク・グランヴェル――当時は、何者でもないアレク・グランヴェルだった――を、レノックスは何百年経っても昨日のことのように思い出すことができる。
アレクに託されたにも関わらず、レノックスは主人であるファウストを守り切ることができなかった。
誰に言われたからではなく、レノックスの自身の願いであり、自身の忠誠を捧げたからこそ一生お傍にと誓っていたが、そこにはレノックスの人生だけではなく、無意識にアレクの人生をも載せていたからこそ、自身の不甲斐なさが一層身に堪えた。鉛のような後悔が腹の奥底に沈んだ。
アレクにファウストは切っても切り離されず、逆も然り、ファウストにアレクは切っても切り離されることはないとレノックスは無意識のうちに感じていた。
レノックスの後悔の奥底は、特に彷徨の果てレノックスに一時的な安寧の住処を与えてくれたフィガロには、告白することのできないことだった。あまりにも愚鈍であるとレノックス自身も思う。よろしく頼むと言った男自身が、相手に暴虐の限りを尽くし、貶めてたのだから。
どこで変わってしまったのか。それでも、ファウストを頼んだアレクに嘘はなかったと、レノックスには根拠のない確信があった。
「魔法使いは長寿だというが、生に果てが見えないのは、疲れることだろうな。
俺には到底分からないことだけど」
ある日、ファウストとフィガロの背中を見ながら、アレクがぽつりと言った。レノックスは、細かなシチュエーションをもう思い出すことができないが、会話だけならば、未だに思い出すことができる。それに、レノックスは大抵彼らの隣に並び立つことはなかった。だいたい一歩下がって控えていて、表情を見る機会は、実のところそう多くはなかった。
「あいつも、あんなに生きるのかな」
その声音は、どんなものだっただろうか。「羨ましいですか」と一言でも聞けばよかったのかもしれなかった。けれど、レノックスも魔法使いだった。下手な相槌は、この人を傷付け、余計なことを言わせてしまうだろうと思ったのだ。
「あれはさ、人生を〈そういうもの〉だって思いがちだからさ、苦しくはないかもしれないけど、ずっとひとりは孤独だろう。だからさ、寂しい思いをさせるなと思うんだ」
兄のような、もしくは長年生活を共にしてきた夫婦のような、相手を知り尽くしているというような、かすかな優越をもってアレクが言った。
「だから、レノ。あいつをよろしく頼むよ」
「分かりました」
レノックスは二つ返事で引き受けた。
なぜ俺なんですか、とはレノックスは聞かなかった。ファウストに師匠が出来たとしても、レノックスは、それであれば「彼ら」に付いていくのみ。
広い大地に沈みゆく真っ赤な夕日は、実際にあった光景だったのか、レノックスが記憶を別の時分と混同させ、いささか劇的な出来事として思い込んでいるだけかもしれない。ファウストの火刑以降、レノックスの脳は、常に赤々と燃える炎で焼やかれていた。
憎くはないのか、と問い質す生き残りの同志の信じられないといった顔を真正面から見た。
レノックスの逞しい肩に、爪が食い込むほど力を入れて全身で憤怒していた仲間の魔法使いと、自らの感情の温度差。「あいつが裏切らなければ」「畜生、畜生」と半狂乱といった様子で、火傷して爛れ、血の滲んだ手でレノックスを叩く。 抵抗することなく、降ろしっぱなしのレノックスの掌も黒く焦げて引き攣っている。
もうこの怪我を癒すことのできる魔法使いはいない。
その時、レノックスが考えていたのは、魔法使いを裏切った人間の長、アレク・グランヴェルではなく、魔法使いを率いたレノックスの唯一の主、ファウスト・ラウィーニアのことのみだった。 どうして、というのは、どうしてアレク様はファウスト様は火刑にしたのか、ではなく、どうしてファウスト様は逃げられたのだろうという喪失の理由だった。忽然と姿を消した主の安否だけが、レノックスの頭を占め、それ以外を気に掛ける余裕はない。レノックスを責めた魔法使いは、自棄になって人間に一人で歯向かい、多勢に無勢、無惨にも殺されるのを、眺めていた。正確には、助けに入ろうと我に返った頃には、すでに手遅れだった。
レノックスは、他の同胞から「人でなし」と誹りを受けたが、気にはならなかった。レノックスを指して「化け物だ」という言葉は、戦地や、そこから生きて帰還するたびに耳にしていた。他人よりも恵まれた体躯、忍耐力、微力ながら使える魔法があればこそ、人一倍以上戦うことができる。化け物だという言葉は、事実かもしれないと無感情にその言葉を受け入れていた。
レノックスは、確かに化け物だった。
おまえが無事でよかったと優しく抱きしめてくれた二人の温もりだけが、レノックスをただの人へ戻している。人に戻れたからこそ、レノックスはここにいる。
それだけで、信じるには充分だったのだ。レノックスは自分の勘には相当の自信がある。当時、そうはっきりと認識していたわけではない。思い出までもが嘘であったわけではないのだ。
今よりも人は少なく、大地は荒れていたからこそ、星の輝きは天鵞絨の夜を彩る宝石のごとく、そんな夜に火を焚いて、レノックスは朗々と歌い、二人の若き革命の獅子が手を取り合って踊っていた。情熱的に身体を近づけたかと思うと、パッと身体を離して各々リズムを取り、そうしてまた軽やかに手を繋ぐ。恋も愛も知らないような、溌溂とした潔い関係を表す適切な言葉が見つからない。
――例えば、アレク・グランヴェルとファウスト・ラウィーニアが深い仲であったか。
「これは、俺がそうではないかと思っているだけだ。ファウスト様はお認めにはならないだろう。ただ、ファウスト様が生きていらっしゃる限り、あの方はきっと消えない存在だろうと、俺は思う。ファウスト様が望まざるとしても、影響の大きい方だ。おまえには、シノがいる。ファウスト様には、アレク様がいた。それだけ大きな存在だった。過去については、ファウスト様がお話しにならない限り、俺の口から答えることはできないが。だからこそ、それでこそ、ファウスト様であるとも」
そう思わないか?
レノックスは、ヒースクリフを見て、ふっと笑んだ。若く眩しい光だと思った。きっと、アレクもフィガロも、レノックスも、この子の敵わないという予感がした。
ヒースクリフの瞳は、真剣そのものだったが、嫉妬のような感情は浮かんでいなかった。レノックスの言葉を噛みしめるように、ゆっくりと頷いた。覚悟が見えた。嫉妬も憐憫も後悔もない、若い心の真っすぐさは、未来への救いである。
「ただ、頑固な方ではあるから、長期戦になるかもしれないぞ」
「そうだね。でも、そこじゃなくて、俺は、レノックスは、ずっとフィガロ先生の味方かと思っていた」
はははっ。レノックスは、声に出して笑った。
レノックスは、誰の味方をしたつもりもない。ただ、レノックスに光をくれた人が、人たちが、幸せであれば、それが一番良いことだったと思うだけだった。
「なあ、俺は、実はこれから東の国へ行くんだが、その噂話を詳しく聞かせてくれないか」
「おっ、旅の兄ちゃん、いいぞいいぞ。酒は足りてるか? おーい! 酒をもっと持ってきてくれ」
気のいい人々は、突然話しかけたレノックスにも嫌な顔をせず、一番情報を知っているのは自分だと競うように、我先にと話を聞かせる。
相槌を打ちながら、レノックスは、祝いの品を持って嵐の谷を訪れようと考えていた。
――なあ、ファウスト。永遠ってどう思う?
――は? また馬鹿なことを。どう思うって。そもそもがおかしくないか?
どう思うも何も、今を大切にしていれば、いつか永遠になっているものなんじゃないか。
顔を横に動かせば、かち合っていた瞳が、自分よりも一段も下になったとアレクが気付いたとき、ふと脳裏に浮かんだのは、千年以上も生き、諦念と、いささかの品定めするような表情には期待も浮かび、その感情の複雑さを巧みに隠した魔法使いの顔だった。百年の生すら想像もつかない十代のアレクには、その一生は羨むものではなく、どちらかと言えば終わることのない虚しさに、憐れみを感じていた。
幼馴染のファウストよりも先に人間である自分が死んでしまう。アレクは、彼を残していってしまうことに罪悪感すらあったような気がした。
ファウストの答えは、アレクの知っているファウストと変わりがない。ファウストは真面目だから、こつこつ生活をしていれば、きっと百年をあっという間に超えて、何千年と孤独を漠と過ごせるかもしれない。きっと猫さえいたら慰めになる。ただ、あの師匠はどうだろうな、とアレクは口にはしなかった。
年齢でいえば、遠い遠い祖先と子ども。「フィガロ様」と素直に教えを乞う幼馴染の年上の男に頼り切った姿。フィガロの腕にそっと触れる様は、毒のように甘い。それを諫めるどころか、当然といった体で甘受する師匠であるフィガロのファウストへの妙な執心も、師弟の並び立つ姿の危うさを、誰にもきちんと伝えることができなかった。アレクには、唯一、レノックスが頼りだ。
「なんだか、ファウスト様は以前にも増して、お強くなられましたが、どうにも、アレク様や他の者たちと並ぶと、生娘のような潔癖さを磨かれたような気がしますね」とアレクの側近が零した。言い得て妙だと思う。集団においてどんどん指導者だけが純白の汚れのない姿になり、戦士たちの勇ましさと反対に小さくなりゆく。
アレクは行く末に不安を感じていたのだ。彼らが浮遊する存在になればなるほど、この世界から遠ざかる。
これ以上、大切な人に、人でない道を歩ませたくはなかったのだ。
アレクは齢百近くなり、建てた城のただ広い一室のベッドで横になっていると、走馬灯のように過去を思い出した。魔法使いは、死ぬと石になる。朽ちていくばかりの肉体よりも、いっそ城を飾れる欠片になれればよかったと思う。
アレクはそっと起き上がり、近くの机の一番上の引き出しを開ける。研磨された紫色のガラスの欠片を、皺だらけの手で撫で、ふうとため息を吐いた。
既に故人となった男は、ファウストが生きている限りの永遠の男と成り果てた先の先を知る由もない。
②フィガロ・ガルシアについて振り返る
振り返れば、あの人は本当に優しい人だったのだと、ヒースクリフは思う。当時、まだ十八歳の子どもの時分には、気付けないことがたくさんあったのだと、自分の歳が三桁を過ぎたあたりから、ようやく実感することができた。
大人、というよりも長寿の魔法使いの生き方には、真っすぐにはいかないということを理解するまでに、ヒースクリフは百年ほど時間がかかったのだ。
優しくないと思っていたわけではない。けれどヒースクリフは、魔法舎で出会った南のお医者さん魔法使いフィガロ・ガルシアに、どこか若干の苦手意識を感じていた。
時折覗く、深淵のような深い灰と緑の瞳が、ぞっとするほど怖かったのかもしれない。場を和ませるために放たれるジョークは、思いやりの精神のはずが、和むよりもフィガロの心の奥の冷たさが突如ふつりと一泡浮き上がってくるかのようで、むしろ痛ましさを感じていた。
冷たいとは違うだろう。底の知れなさが、彼の穏やかさを打ち抜く瞬間とでもいうのだろうか。自称三十二歳というのは、実際に違ったわけではあるが、ルチルの「先生はそういうけどね、私は絶対にレノさんと同じ歳だと思うんだ。母様もあんまり年齢のことは言うもんじゃないっておっしゃってたから、そうですかって言ってるんだけど」 という予測をはるかに超えていた。
雷が鳴り響く日。魔法舎は暗く静まり返っていた。二十一人と賢者の魔法使いが住まう館に、あらゆる気配がする。誰もが部屋から出ずに、ひっそりと息を沈めていた。何かに見つからないように、とでもいうように。それは、ヒースクリフの記憶違いかもしれない。
恐ろしくなったヒースクリフは、こわごわと自分の部屋の扉を開けた。誰も歩いていない廊下は、ひやりと冷えていた。ふるりと身体を震わせながら、ヒースクリフは、一歩踏み出した。先生のところへ、この異常さの理由を聞きに行こう。そんなことを考えたのかもしれなかった。
談話室の前を通りかかった時、窓からカッと白く稲妻が光った。その一瞬で、抱き合う巻き毛の魔法使い二人が見えたような気がした。
空が大きく轟き、地面が震えるのに怯え、思わずしゃがみ込んで、もう一度こわごわとヒースクリフが目を開くと、もう談話室には誰もいなかった。
あれは夢だったのだろうか。しかしヒースクリフは、そこで見た二人を間違えたりはしないだろう。記憶は朧気で、不確かだ。
とはいえ、ヒースクリフの先生と、フィガロには何やら深い関係があると知った時に受けた衝撃は、大きかった。
気付けば目で追う東の国と南の国の先生の、さりげなく互いの身体に触れる親密さに妙な居心地の悪さと特にフィガロへのちょっとした嫌悪を感じていた。
しかしヒースクリフは、今では我ながら自分勝手だったと当時の自分の潔癖さを今更ながら恥じている。
魔法舎を出て、ブランシェットの家を継ぎ、後継ぎとしての役目を果たすときも、ヒースクリフは、先生と慕う嵐の谷のファウストを訪れた。
人のいない精霊の溢れる谷は、呼吸がしやすい。変わらない姿でそこにいる歳上の魔法使いは、ヒースクリフにとっての救いのようなものだったのだ。
そんなヒースクリフが尋ねる数回に一回は、嵐の谷にフィガロがいるようになった。その頃には「そういう仲」であるということは、周知の事実となっていた。
ヒースクリフは礼儀正しく、本人の口から自ずと発せられるまでは聞かないでいたが、いつまでも二人の関係は二人の口からはっきりと伝えられることはなかった。
ヒースクリフは娶った妻が寿命で亡くなったことを機に、ブランシェット家の家督を息子に譲り、シャーウッドの森に小さな家を建てて隠居するようになっていた。
「なんていうか、シュウマツコン? とかいうものだったらしいぜ」
「何それ? 先生がそう言ったの?」
シノがどこで覚えたのかよく分からない単語を言った。
背丈は伸びたが、ヒースクリフを超すことのなかった気の置けない従者が、ヒースへの土産だと持って帰ってきたネロの作ったレモンパイを半分以上自分で平らげながら、
「いや。ファウストは自分からそんなこと言わないだろ。でもいろんな話を聞いていたらそうだとしか思えない。なんでも、普段は別々の家に住んで生活して、休みになると夫婦で過ごす? とか? ヒースもそう思うだろ」
と言った。
「だから、そんな言葉どこで聞いたの?」
ヒースクリフは、シノへの同意を避けた。
「忘れた。でも、たぶん賢者に教えてもらったんだろう」
指に付いたパイの皮を舐め、首を傾げながらも、シノは堂々と言い張った。かつて賢者には名前と顔がきちんとあった。思い出だけを残して、消え去ってしまった人。ヒースクリフは、ふとした瞬間に、その存在の大きさを認識し、忘れてしまった悲しみと心に残った温かさの不思議な気持ちに、しばしば囚われる。
ごくりと、大きな一口を飲み込んで、シノははっきりと問い質した。
「なあ、ヒース。おまえは今後どうするんだ」
「どうするって、何を……」
シノの赤い瞳は、言い逃れを赦さない。
「ファウストを狙うなら今が絶好のチャンスだろう」
「おい、なんて言い方をするんだ」
いつものように嵐の谷を訪れたある日、ふと、フィガロの影が薄くなっていることに気付いた。初めのうちは嵐の谷の精霊たちに魔力が馴染んで、そう錯覚しているのだと思っていた。二度目までは、自分の感覚に自信が持てずにいた。三回目くらいで聡いヒースクリフには、フィガロの肉体、存在自体が些か浮遊し始めて、精霊に同化しはじめているのだと、はっきり分かった。日に日に、存在が薄くなる。
フィガロを見てから、谷の木々を見ると、それらは魔法使いの栄養を吸って繁茂しているように思えた。ころりと転がってくる猫の形をした精霊が、フィガロに懐くのを見るたびに、フィガロの所属の不明さが際立っていく。
「ひと段落したばかりの君には悪いかもしれないけど、あの子をよろしく頼むよ」
ヒースクリフが、様々な問題を片付け、落ち着いた頃合いにブランシェットの領主を降りた報告をしに嵐の谷に訪れた際に、フィガロが言った。
ファウストは、お茶を淹れるために席を外していた。
色々と言いたいことがあったにも関わらず、ヒースクリフの口からは、率直な疑問だった。
「どうしてですか?」
「どうしてだと思う?」
「はぐらかさないで」
「きみは、もう気付いているはずだ」
ヒースクリフの沈黙は、肯定を意味した。
「レノックスではなく?」
ようやく絞り出した声は、急に口が乾いて掠れ気味だった。レノックスでもなく、ネロでもなく、シノでもなく、フィガロはヒースクリフに言った。その意味は。
「レノはまあ、俺が何も言わなくてもよろしくしてくれるだろうからね」
「俺には言わないといけないんですか」
ヒースクリフはわずかに眦を吊り上げて、険しい表情をした。
ヒースクリフがフィガロと出会ったばかりの若い頃には、ここまではっきりと言えなかっただろう。後からフィガロの言葉に落ち込んでいたかもしれない。
「ああ。言い方が悪かったね。そういう意味じゃないんだ。だって、君が、俺とファウストの関係を一等気にしているだろう」
ヒースクリフは途端に頬を赤く染めた。ヒースクリフの表情を見て、フィガロはそうと悟られないように笑った。彼の若さが眩しい。
ここ最近は、嵐の谷も麗らかで、家には陽の光がたっぷりと入る。精霊たちが、フィガロを歓迎しはじめているのは、喜ばしいことでもあり、家主のファウストにとっては、複雑なことだろう。
ずっとフィガロとファウストの二人きりでは、煮詰まっていく。新しい風が必要だとフィガロは思った。このところ、谷に吹く風はぬるくて穏やかすぎた。
「無理にとは言わないよ。でも、気にかけてやってほしいな。あの子には、きっと君みたいな子が必要だ」
「俺は、あなたに頼まれて、ファウスト先生を慕っているわけではありません」
相手にもされていないとヒースクリフは、無性に腹が立った。
「うん、いい心意気だ」
ヒースクリフに噛みつかれても満足そうなフィガロには、叶うことはないかもしれないと、ヒースクリフは悔しい気持ちになった。
「あの子にはさ、本当にいろんなことあったから。俺とファウストのこと、君には聞かせておいた方がいい気もするし、そうでない気もする。どう? ついでに俺個人のことも、知りたい?」
冗談なのか冗談ではないのか、それなりに政治的な交渉の経験を積んだにも関わらず、ヒースクリフはフィガロの正確な心情を掴みかねた。フィガロすらも分かっていないのかもしれない。ただ、ヒースクリフは自分勝手な都合で立ち入るべきではないと思った。
「いいえ。ファウスト先生のためでなく、あなたのために、ということならば俺は喜んでお伺いします。ファウスト先生のことは、ちゃんと先生から聞きたい」
「厳しいな」
「二人のお話は、それまで待ちます」
それはヒースクリフの決意だった。
フィガロは思わず目を見開いた。
「ありがとう。さすがだね、ヒースクリフ」
「それよりも、ルチルやミチルは」
あなたのことを知っているんですか。ヒースクリフは、それは、あまりにもお節介が過ぎると飲み込んで、さも、ただ近況を聞いただけのように言った。
フィガロは何か隠したい時ほど、何でもない顔をしようとする。ヒースクリフでさえ、もう理解しているのだから、近しい間柄であれば、気付いているはずだった。
「何の話をしているんだ?」
ヒースクリフが持ってきた、ふわりと林檎のような香りのするお茶を淹れてファウストが戻ってくる。
ヒースクリフは、この頃のファウストの表情の差す翳りに、言いようもなく胸が締め付けられた。癒しの効果のあるお茶は、何もファウストだけのために持ってきたわけではない。
「うん? ヒースお疲れ様だったねって話と、ルチルとミチルたちの近況についてだよ」
フィガロはしれっと嘘を付いた。ファウストは、痙攣のように一度だけ瞼をぴくりと動かし、この嘘に気が付いた様子だったが「そう」と一言だけ言って、教え子の人生の一区切りを丁寧にねぎらい、これからの長い旅路の幸福を祈った。
ルチルはあらゆる辺鄙な土地を自慢の箒に乗って転々とし、教育を必要としている人々の先生となり、ミチルは南の国には欠かせない重要な魔法使いになりつつあり、時折リケと研鑽しているという。
ヒースクリフはフィガロが主に話をし、ファウストが合いの手を入れる話の流れをずっとぼんやりと聞き、ファウストの口からも語られる南の国の話に、二人で共有する時間というものに思いを馳せた。
自分の父と母の間には、蜂蜜を溶かし込んだような甘い時間が流れていた。それでも、離別を選ばないことが、二人の答えのようだった。
――愛の形は様々ありますもの。わたしは、幸せでした、いいえ過去形ではなく、今も。しいて言うなら、あなたを置いて行くことだけが、心残りです。
それをヒースクリフに教えてくれたのは、彼の亡妻だ。ヒースクリフが娶った娘は、歳を取ってなお、くしゃりと笑う顔が愛らしかった。中央の国の辺境の貴族の娘との婚姻は、父母のようなロマンチックな話もなく、確かに政治を帯びていた。それでも魔法使いであるヒースクリフに怯えることもなく、乙女らしいはにかみで、ヒースクリフに挨拶した初対面の女性を、ヒースクリフは好ましく感じた。
よくある恋物語のように、激しい情があったかと言えば、ないだろう。彼女は何に例えようもない。ヒースクリフなりに、自分に嫁いでくれた人が心細くないよう、心を込めて情を注いできたつもりだったが、だが、ひょっとすると、彼女には不満や我慢があったのかもしれない。いつだって、不安だった。
歳を取らず皺のない手に重ねられた、かさついた手。「怖がらないで、そのままのあなたでいて」と隣に立っていた女性は、勇敢だった。
皺だらけのか細い手を握り、最後に何か望むことあるならば、何でも叶えてやりたい、言い残したことがあるならば、聞いてやりたい。そんな一心で声をかけたヒースクリフの妻は、あなたは俺と結ばれて幸せでしたか、というヒースクリフの口に出していない問いを見透かしたように言った。
愛の形に他人が口を出すことはできない。
これが、ファウストとフィガロの選択の結果であるならば。
「俺が、ここへ来るのはご迷惑ではないでしょうか」
帰り際に、ヒースクリフはファウストに聞いた。ファウストの性格では、生徒であるヒースクリフにきっぱりと否とは言えないだろう。ただ、ヒースクリフとて、ファウストの表情のから心の機微を多少は読み取れるようになっていた。
ヒースクリフは、もしファウストが何か迷うようなことがあるならば、しばらく顔を見せるのをやめようと思った。二人だけで惜しむように時間を過ごすことを望むのならば。
力ないながら「きみが来てくれると、嬉しいよ」と春の陽を溶かし込んだように笑って、ファウストは「いつでもおいで」とヒースクリフを送り出した。
いいところの貴族が、呪い屋に足繁く通うなんてと、お決まりの言葉はもうない。
隣に寄り添って立つフィガロとファウストは、どちらがどちらを支えているのか、傍目にはよく分からなかった。
何だかんだと大人の言うことに丸め込まれてしまった子どもの頃と、今のヒースクリフは違う。ようやく自分の足で真っすぐに立ち、大人と対等に渡れる。
ヒースクリフはヒースクリフなりの立ち回り方で、ファウストを、フィガロを支えようと思った。
「ありがとうございます。では、また来させてください。お元気で」
フィガロへの宣戦布告とも、フィガロへの気遣いとも、ファウストへの親愛とも取れるような挨拶だった。それを感じ取ったのはフィガロだけだろう。
ファウストは、きょとんとした顔で、二人の男たちを見比べていた。
嵐の谷の日を思い出しながら、ヒースクリフは言った。
「俺は……。俺は、先生に笑っていてほしい。ただそれだけだよ」
ヒースクリフの出した答えに、シノは「そうか」と言った。それ以上は、何も言わなかった。
実のところ、フィガロとファウストの二人でいた頃のヒースクリフに、正確に自分の心はよく見えていなかった。堂々と言い切ったフィガロも誤解している。誰ひとりとして、ヒースクリフの正しい気持ちを察しているものはいなかった。
フィガロの白い顔が、陽に透かされると透明になっていくように見えて、ファウストはぎょっとした。
ファウストは懸命にフィガロの寿命に怯えている自分を隠そうとしている。フィガロは、その健気さに、気付かない振りをすることもできたはずだったが、あえてその強がりを抱きしめて慰めることにしていた。死んでから愛撫はできない。
大きく柔らかな手が、ファウストの癖毛を優しく撫でる。
ファウストの可愛い生徒が帰った後、まだ明るいうちに、二人して互いの生きている生暖かな体温を分かち合うために、裸でベッドに横たわる。
フィガロの肉体は、この一年、もはや男性としての機能を失っていた。ファウストとて、過去の大火傷で大して肉体の機能はしていない。
初めてのときから、まだ百年なのか、もう百年なのか。
フィガロの性欲は、もともと二千年も生きていれば飽いてくるという範囲で薄いながらも、刺激を与えられると肉体は正常に反応した。ファウストの焼け爛れてた皮膚は外側からの刺激に反応しにくく、それゆえに自ずとフィガロがファウストを抱いた。満たされる欲は、肉欲というよりも、互いが特別であるという心の充足感の方だった。
それが突然、フィガロは肉体の虚脱感を覚えるようになり、血が巡らないような感覚が訪れ、ぱたりと勃たなくなってしまった。
大きくうろたえたのは、ファウストの方だった。「歳ってやつかなぁ」と暢気に大したことないと返したフィガロは、身体の内側から濡れた愛撫をする代わりに、いつでも彫刻を作れるかのようにファウストを掌で執拗に撫で、ファウストにも自分の存在を型取るように同じようにさせた。
ゆっくりと穏やかに二人の体温が一つに融け合っていくような感覚に、二人はこれまでのどんな行為よりも驚くほど恍惚となった。
別れまでのカウントダウンを、歪な交わりで誤魔化していると、ファウストに自覚がないわけではない。ただ、この行為を拒めば、ファウストには差し出せるものが他にはもう何もないように思えた。
「こんなの、最低だ……」
行為の後で、のろのろと重たい黒い服を着ながら、ファウストが自己嫌悪にまみれていた。フィガロとの行為は幼児返りにも似ている。
「ちょっと、そんな言い方ないでしょう」
「僕は、おまえに無理をさせているんじゃないかと」
ファウストの泣きそうな顔を見て、フィガロは、この子に対してはどこまでも正解が分からないなと思った。
「そんなことはないよ」
感覚は残しておくに越したことはない。きみにはきっと若い子がいるからね。皆まで言うべきではないことくらい、フィガロにも判断はついた。最初はそういうつもりではなかった。純粋にファウストを慰めたい一心だった。ファウストがフィガロの形を空でなぞれるくらい覚えておいてほしいという、しょうもない欲がないといえば、嘘となる。だが、今は、置いて行くならばバトンを次に渡したいとも。いつだって、誰からも置いて行かれてしまうファウストにしてやれること。
ファウストの身体がわなわなと震え出すのを見て、フィガロは慌てた。
「ほ、本当だよ」
確かにフィガロは嘘は言っていない。
顔を上げたファウストの紫の菫のような色の瞳は、揺らぎながら、燃えていた。
「あなたって、本当に最低だ」
ファウストは、フィガロの本心のような相反する気持ちを察したわけではない。ただ、フィガロがファウストのためにフィガロ自身を蔑ろにするような気がして、怒りの気持ちが沸いた。
「ええ?」
嚙み合っていない心に苛立ったように、ファウストは噛みつくようにして、憎らしい唇に喰らいついた。
「いいや、僕が本当に馬鹿なんだ」
フィガロのフィガロ自身に対する謙虚さの前で、ファウストは自分は強欲の塊のようだと思う。次第に凪いでいく心の前で、自分だけが激流のようで、滑稽だと思う。
小さく言ったファウストの言葉を、フィガロは聞き逃した。最近は、耳まで遠くなり始めていた。
「ねえ、ファウスト。きみはこれからも生きていくんだ。ごめんね。きみにかけた呪いを解こう」
ややあって、ファウストは俯き、無言で頷いた。けれど、呪いは完全には解けないことを知っている。
ファウストは、こんなことをしなくとも、誰のことも忘れることができない。忘れてやることもできない。だから相手を困らせてしまう。
③ヒースクリフ・ブランシェットについて振り返る
シノは、昔に訪ねたことのある南の国の湖のほとりに、忠犬のごとく佇んでいた。
生暖かく湿った風が吹いている。シノは、ぐるりと何もない辺りを見回した。
かつては診療所だった建物は、主の不在でしんと静まり返っている。今は時折、ミチルが掃除するついでに、臨時診療所として近隣住民へ部屋を解放しているが、シノがここに来たときには、誰もいなかった。
湖の近くには、新しく、魔法使いの墓ができていた。そもそも墓と言ってよいのか、シノは疑問だったが、ルチルやミチルの手前、そんなことは言わなかった。
何故なら、この墓には何も埋まっていない。厳密には、故人が身に付けていた白衣だけが埋まっている。せめて、彼の形見を埋めたいと言ったのは、ルチルだった。
石を食べて弔うことに相変わらず強い抵抗を示し、あんまりだと嘆くルチルも、フィガロの価値観を優先するのが大事ではないか、南の国に撒く種としては強すぎて、いずれ争いの種となり、土地を枯らすのはフィガロの望むところではないだろうという、あまりにも古い魔法使いたちにとって勝手な都合に、結局のところは頷かざるを得なかった。死者の尊厳を守ると同時に、生きている弱気ものたちの安全の方が大事だというのは、最もだった。
実際に古臭い魔法使いたちが、フィガロの亡骸である石を食べたのかは、シノは知らない。それどころか、ファウストが彼の石を所持していること、ルチルやミチルも食べないながら、きっと一部を分けてもらっているだろうというある程度の予想は付くものの、正確なところは、誰がどの程度石を所有しているのかも知らなかった。オズは持っているだろうか。ミスラは?
恐らく、ようやく百を超え始めた歳の魔法使いたちは、全員知らされていないだろう。全ては、有無を言わさずファウストが取り取り仕切り南の魔法使いたちが手伝った。何か遺言があったのかもしれないとシノは思った。
ルチルほどではないが、やはりかつて生きていた同胞を胎に納めるというのは、シノにとっては奇妙な習慣に思えてしまう。森で捕獲した獣の皮を剥いで血を抜き、焼いて食べることとの違い、違和感のもとは何なのか、未だに掴めていない。
もし誰かの石を手に入れたら、食べるよりも、時折掌に転がしてその輝きを眺め、思い出に浸った方が、シノにはよほど良いことのように感じる。
気落ちしているファウストを心配して見舞いに行くと、すぐに何かを隠す動作をしたが、瞬時に隠したものがフィガロの石であることは、シノの動体視力は容易に捉えていた。
その時の嵐の谷は不気味に沈んでいた。滞留した空気がファウストの家を押しつぶすように見えた。人の気配に敏感なファウストが、シノやヒースクリフの来訪を事前に察知しないことなど、これまでなかった。ヒースクリフの制止を振り切って、ノックもせずに堂々と扉を開けたシノに、ファウストは飛び上がって懐に石を仕舞ったのだった。
シノと共にいたヒースクリフも、見えなくとも持ち前の勘の良さで察しただろう。
ファウストの憔悴は誰が見ても、明らかだった。
それでもシノよりも先に気を取り直したヒースクリフが、何食わぬ顔をして「お顔を見に来ました」と挨拶をするものだから、言葉が遅れたシノは次に何も言えなくなって頷いた。
「先生、よろしければ、これを」
ヒースクリフが持参したブーケは、ヒースクリフが手ずから作り、気分が明るくなるように鮮やかな色――薄桃色に白、黄色などの温かみのある色で、青や緑の誰かを思い出すような色を避けている――と、かすかに甘く香る程度の爽やかさで、部屋に飾ると、ファウストの家の辛気臭さを払拭するようだった。
「綺麗だな。こんな呪い屋の家には勿体ないくらいだ」
土産を受け取ったファウストは、いくぶん柔らかい表情となった。それを見て、シノは少しだけほっとした。さすがヒースクリフだと思った。
ヒースクリフは、フィガロについても、ファウストの近況についても、何も訊ねなかった。
シノはシノなりにファウストを案じていたが、ヒースクリフは、無言でシノには何も言わないよう指示していた。
ただいつも通り、お茶とお菓子を食べながら談笑して帰る。
帰り道で、それまで大人しく主人の言うとおりにしていたシノは、爆発したように質問を浴びせた。
「おい、ヒース。こんなんでいいのか。元気出せとか、無理しなくていいですよとか、ファウストにもっと何か言うことがあったんじゃないのか」
「いいんだよ。今は、無理に何かを言わなくても。先生は、いつも慎重に声をかけてくれた。下手な慰めなんか、きっと役に立たないよ。もう少し待とう」
シノは、奥方を亡くしたばかりのヒースクリフを思い出した。
意気消沈したヒースクリフを、本当に珍しく自発的にファウストが尋ねてきたのだった。あまりにも滅多にないことなので、ブランシェット領に季節外れの嵐がやってくるのではないかと、シノはそんな冗談を言っている場合ではないのに、そう思ってしまうほどのことだった。
ファウストは、ブランシェットの先代が亡くなった時には、すぐに手紙を寄越したものの、葬儀が終わり、ひと段落した後でその墓に花を手向けに訪れた。老衰ではあったが、万が一、口さがない人からの、ブランシェット家の当主が、呪い屋などという魔法使いと付き合いがあったからだというような中傷があってはいけないと慮ってのことだった。
ヒースクリフとシノは、いつもの黒く長い重たい服は、呪い屋らしい服というよりも、喪服でもあったのかと、二人はその時初めて気が付いた。誰の喪に服しているのかまでは、聞けなかった。恐らく過去の全てを悼んでいるのだろう。
そんなファウストがすぐに駆けつけたのは、ヒースクリフとの距離の近さだけでなく、ヒースクリフの代では、当主の甲斐あって魔法使いに対する偏見が多少穏やかになっていたからもあるのだろう。
亡き奥様へとファウストが持参した白く可憐で慎ましい花は、偶然にも彼女が生前好んでいた花だった。
花を受け取ったヒースクリフは、胸がいっぱいになって、すぐに喋ることができなかった。
それまで、シノなりにヒースクリフを慰めていた。ヒースクリフの両親であるブランシェットの旦那様や奥様が亡くなったときと同じように、あれこれと昔話をしたり、一緒に散歩していた思い出の庭を散歩しようと提案した。あの時は、シノも大きな悲しみに暮れていて、共に語り合うことで慰め合った。歳上の人間が順番に寿命で亡くなるのは、摂理だと素直に思える頃だった。同じ時間を生きた人間が減っていく寂しさをまだ知らない頃だった。
人間としての時間を分かち合った伴侶を亡くしたヒースクリフの嘆きに必要だったのは、人の時間を逸脱した魔法使いの慰めだったのだ。
ヒースクリフの願いで人払いとした部屋の外、扉に背を預けて、シノは二人の話が終わるのを待っていた。決して盗み聞きをしていたわけではない。
一言二言、何かを話してから、ヒースクリフのすすり泣くような声がかすかに聞こえて、シノはハッとした。彼女が亡くなってから葬式が終わるまで、終わってからも、ヒースクリフは一粒の涙も流していなかった。青白くやつれた顔までが、額に入れられ、飾られた絵画のような美しさだった。その嘆きを疑う者はおらず、意気消沈していたとしても、行うべきことをしっかりと行う気丈さを、周囲の人々は口々に褒め讃えていた。
誰よりも繊細で、誰よりも悲しみに暮れていたのに、時はヒースクリフに完璧な虚勢の張り方を身に付けさせていた。
しばらくして、目を赤くして部屋から出てきたヒースクリフを見て、シノは気まずい顔をした。
そしてシノは誤魔化すように、ついファウストに「おい、ファウスト。ヒースに一体何を言ったんだ」と言った。
「ちょっとシノ! おまえは先生になんてことを言うんだ」
ヒースクリフは、シノを諫める。「だって」と続けようとするヒースクリフとシノを見て、
「きみたちは相変わらずだな。ヒースクリフは弱っているのだから、うんと優しくしてあげなさい」
とファウストは言って、シノの丸い頭を撫でた。あ、とシノは思った。ファウストには、いつもどこかで敵わない気がする。
ヒースクリフが、ファウストを慕っていることは、誰の目にも明らかだった。
それが、単なる生徒としてだけではないことに、本人はしばらく気が付かなかった。シノとて、ファウストのことは好ましく思っている。だが、ヒースクリフのそれは、シノとは異なる。
シノはファウストが誰と良い仲であろうと、それについての特別な関心はなかった。ただ、ファウストが選んだフィガロは、あまり趣味が良くないとは思っていた。ヒースクリフは、ファウストとフィガロがただならぬ仲だと知ってから、随分と衝撃を受けていたようだった。初めて出会った、年上で知識の豊富な魔法使いへの一時の憧れ、淡い初恋みたいなものだったのだろうと、シノはそう思っていた。
淡い浮かれた心を持ちながら、しかしヒースクリフはファウストを手が届かないと勝手に諦めている。手を触れてはいけないと勝手に諦めている。
ファウストは高い酒も飲むがルチルと一緒に安い酒を飲んで陽気になって歌ったり、ネロと仲良くなれるくらいには、泥臭く俗な生き物であるのに、なぜそれを見て見ぬふりをするのだろうと、シノは不思議だった。ファウストは聖者ではない。
同時に、シノには惹かれる気持ちも分かるのだ。ファウストは王冠みたいな人だ。シノには英雄になれると希望をくれた。光に焦がれる虫の気持ちが味わえる。これは綺麗なだけの感情ではない。
ヒースクリフは、気付いていただろうか。ヒースクリフが娶った女性は、少しだけファウストに似ていた。顔形は全く異なるが、強情なところや、出そうと思えば大きな声が出せ、朗らかに笑うところを、知る人が知れば、指摘できただろう。きっと気付いていないはずだった。意識していたら、穏やかに過ごせてはいない。
シノはたった一度だけ、奥様とヒースクリフには内緒の話をした。奥様は緑の手を持っていた。ヒースクリフが機械いじりが得意であったのに対し、夫人は土いじりが得意だった。庭師顔負けの腕前で、ブランシェット家の庭を彩るのが得意だった。自慢の庭、緑の迷路のような道を白い日傘をさしながら歩き、侍女の代わりに連れたシノに小声で話す。
「あの人には、思いを忘れられない方がいらっしゃいますね」
疑問ではなく断定だったが、それにシノは澱みなく答えた。
「いいえ、奥様」
ぱっと振り向いた女性の顔は、逆光で暗く、表情までは伺えなかった。
「まあ、シノはさすがねぇ。違うの、誤解しないで。あの人に何か言いたいわけじゃない。ただ私の勘が合っているか確認したかっただけ」
「いいえ奥様。違うな? はい?」
シノは混乱した。どう返事をすれば、ヒースクリフの本心が伝わるのだろうと、誤解を生まないように伝えることができるのだろうと。
誰かに誤解されるような単純な恋心とは違うのだ。恋と呼ばぬならば、何と呼ぶのか、シノは勿論、ヒースクリフにすら分かっていないだろう。
「でも、ヒースがあんたを愛しているのは嘘じゃない。誰だって、見ればわかる」
「ええ、私もあの人の愛を、ちゃんと感じています」
ヒースクリフの奥方は自信を持って言った。ヒースクリフを微塵も疑っていなかった。
「つまり、じゃあ、どういうことだ?」
「だから言ったでしょう。〈忘れられない人〉って。きっと今もご存命ね。恋とは違うと思うの。もっと、複雑なんでしょうね」
シノには、淡々と話す女性の気持ちが、さっぱり分からなかった。
「あんたは、それでもいいのか」
「今は、嘘偽りなく私だけの夫君ですからね」
今のは内緒にしていてね、とウィンクする中年の女性は、皺が増えてもなお、若い頃に劣らぬ愛らしさを持っていた。
シノには、よく分からない感情だった。シノは、自分が妻帯することを微塵も考えたことがない。女性の無邪気な愛らしさを見れば、可愛いと素直に感じたが、自分が孤児のみすぼらしい最悪のシノでなくなったとしても、隣に相応しい誰かがいるというイメージが持てなかったのだ。
それでも他人の恋バナというのは、大抵、面白いものだった。真剣であればあるほど、周りからは浮かれようが滑稽に見える。幸せな熱に浮かされて、周りが見えなくなっているからだ。しかし、ヒースクリフもその隣に立っていた女性も、きわめて理性的すぎた。もう少し馬鹿をしていた方が、分かりやすくて、良かったのではないか。真面目なのは複雑すぎてどうしようもなくて考えものだと、シノは今でも思う。
「先生は何も言っていないよ。俺が、勝手に泣いただけだ」
ヒースクリフが恥じらいながらシノに言った。
「もう大丈夫なのか」
「もう大丈夫」
シノは、ヒースクリフの目を見た。翳りが多少晴れて、嘘はないようだった。
ファウストは、今度は労うようにシノの肩を気安く叩いた。重いとその腕をふんと払い除けて、こういうところがいけないのだとシノは思った。
ファウストにとって、フィガロはどんな魔法使いだったのか。単なる恋人だけではないとシノは踏んでいた。ファウストが話したくないのならば、シノも無理やり聞くことはなかった。暴かれたくない感情を無理やり乱暴にこじ開けても、消えない傷が残るだけだとよく知っていた。
あいつに話せたらいいのに、とシノは昔出会った異世界からやってきた人を思った。思い出だけが鮮明で、彼もしくは彼女だったのか名前も曖昧な存在。その実直の前でなら誰もが友だちになれたのだ。一生懸命に魔法使い一人一人に向き合ってくれたから、仲良くなれた。もう一度会えたら、彼/彼女は何と言うだろう。考えてみてもシノには思いつかない。再会は奇跡でもない限り、起こり得ない。だからその人の思い出を胸に、前に進むしかない。時は止まらない。
ヒースクリフは、シノが思うよりもずっとしたたかで根気強かった。さりげなくありながら、根気強くファウストに劇薬ではなく甘い薬を流し込み、生きる月日を伸ばしていった。
故人に触れないというのは、逆に故人の不在を強めるかのようでもある。しかしヒースクリフは、ファウストと何でもない日常の会話を続ける。普段から口数の多くないヒースクリフだからこそ、会話のぽつりぽつりとした間も、心地よい息継ぎのための沈黙だった。
一年、二年、三年、十年、二十年、何十年、次第にファウストの顔色が少しずつ良くなっていった。
シノは世話が焼けるよな、と軽口を叩いて、ヒースクリフに叱られた。
ヒースクリフの憧れを打ち砕くのにも必要な歳月だったとも言える。悔しいほどに、長寿の魔法使いたちの倦んだ空気が、大人の証であったように思えた十代を忘れる。時間さえあれば、憧れを超えて遠く隣までたどり着ける。
今はフィガロが亡くなってから、百年が経とうとしている。シノは、きちんと覚えていた。
シノが朝、ヒースクリフの住まいに顔を出しに行くと、相変わらず朝の弱いヒースクリフが、既に朝食を終えて、出かける準備をしていた。
「お墓参りに行こうと思うんだ。シノはどうする?」
誰のとは言わなかった。シノは、言われなくともすぐに分かった。
「もちろん、一緒に行くに決まっている」
シノは、とうとう、ようやくヒースクリフが覚悟を決めるのだと悟った。主人の覚悟をしかと見届けるのだと心が躍るような気がした。
シノが好きな主人と、自分が認めた世界一の先生が一緒になるのならば、これほど最強なことはないだろうと思う。
長い時間を生きることのできる魔法使いは、されど永遠ではないのだ。いつか果てがやってくる。シノに実感は未だ沸かない。ヒースクリフとて、理解しているわけではないだろう。だから、ファウストには必要なのだ。
太陽に煌めく黄金の髪がきらりと光り、眩しいほどだった。物思いに沈んでいたシノの意識を光が連れ戻す。
シノを置いて、一人で行きたいと言って墓へ向かったヒースクリフが戻ってきた。
「シノ、ごめん。お待たせ」
「思ったより早かったな」
シノは、意外だと思った。日が暮れるまで、丸一日付き合う気持ちでいたのだった。まだ日は高い。
「そう?」
「ああ。もういいのか?」
「うん」
ヒースクリフの顔は晴れ晴れとしていた。
「ケジメってやつか?」
「そんなんじゃないよ」
ヒースクリフは苦笑した。「ただね、フィガロになんていうか、ちゃんと言えていなかったことを言おうと思って」
「ていうか、あそこにはほとんど何もないだろう」
シノは、フィガロが亡くなってから初めて、ずっと思っていたことを口にした。
「さすがに先生の持っている石に宣言させてくれとは言えないよ」
あれは、先生だけのものだから。
言わずともシノには伝わった。それはそうだと頷いた。
形骸化した墓でも、祈りの場所があるのは救いだ。たった一人だけが祈るわけではないのだから。どこに祈るかの問題なのかもしれないと、シノは気付いて、すぐに忘れた。
ルチルとミチルに挨拶をしてから帰ろう。お腹も減ったから、ついでに馳走になろう。ルチルはきっと察して、何がしかのパーティーのようにしてくれるはずだとシノは思った。オレたちは、これからも生きていくのだから、と。
土産を携えて、ヒースクリフはいつものように嵐の谷を訪れた。
「こんにちは、先生。今日はお茶をお持ちしました。せっかくなので、俺に淹れさせてください」
すでに勝手知ったる家となった場所で、一言断りを入れてヒースクリフは、キッチンに立った。
隠居をはじめて時間ができたヒースクリフは、コーヒーだけでなく、紅茶も上手く淹れられるようになっていた。バニラのような甘い香りにほろ苦いウィスキーを混ぜたようなフレーバーティーは、最近東の国で大人たちに人気のお茶だった。実際にアルコールが入っているわけではないので、どこでも飲むことができる。
「すごくいい香りだな」
香りに釣られてファウストがヒースクリフの後ろから手元を覗いた。
「ええ。先生が好きそうだなと思って」
「うん。そうだな、好きだと思う。ただ、そうだな。これは僕よりも、あの人の方が好きそうだったと思うけれど」
フィガロの話題が自然とファウストの口から零れ、ファウストは、軽く目を見開いて、動きをぴたりと止めた。
じわりと目のあたりが赤くなるも、ファウストは泣いたりはしなかった。
ヒースクリフはファウストの様子に、胸を抑え「もう大丈夫ですね」と心から安堵して言った。
深呼吸を繰り返した後で、
「きみには、いや、きみたちには、かな。変なところを見せてしまったな」
ファウストは頭を下げようとした。
「いいえ、謝らないでください。俺は嬉しいんです。俺でも先生の役に立てることがあるって」
ヒースクリフは、咄嗟にファウストの手に自分の手をそっと重ねた。ファウストの少しだけ冷えた指先に、ヒースクリフの温かい手がじんわりと熱を伝える。
「ヒース?」
ファウストはヒースクリフがとても真剣な目をしていることに、ようやく気が付いた。青く清浄な瞳の奥に燻る熱を正確に読み取り、息を飲んだ。
「先生に、今度、伝えたいことがあるんです」
ファウストが口を開くより先に、ヒースクリフがはっとした顔をした。
「あっ、お茶!」
ファウストの手を離し、慌ててカップに注いだ紅茶は、明らかに蒸らしすぎていた。
「ミルクと砂糖を入れたらいい」
ファウストがシュガーポットを魔法で呼びよせ、ミルクを注いだ。
「すみません、つい……」
ついが何なのか、ファウストはあえて追求しなかった。今はまだ、ヒースクリフへの答えを持ち合わせていない。
「フィガロ先生は、だいたいストレートでしたよね。確かにお酒も好きな方でした」
ヒースクリフは先ほどの真剣さが嘘のように穏やかに話の続きを始めた。
嵐の谷は、緑が濃く、呼吸しているかのように、さわさわと梢が揺れている。地面に斑に落ちる葉の影は定まらず、ちらりちらりと絵を変えていた。精霊たちがいきいきとしている。
④生き残ったものがみなもらう
「なあ、先生」
「もう僕は先生ではないよ」
「じゃあファウスト」
「なんだ、ネロ?」
「いや、これは俺が言うことじゃないかもしれないんだけどさ」
「うん」
「うんじゃなくてさぁ。どうすんの、ヒースクリフをさ」
「きみも損な役回りだな」
ファウストは、軽めの白ワインを一口飲んでから、相変わらず誰かの世話を焼いているネロを笑い、小さなセミドライトマトにシェーブルチーズを乗せた摘まみを口にした。もともとはどちらかといえば、フィガロの好物だったはずだが、ファウストも好んで口にするようになっていた。
ネロの店は、雨の街から、別の辺鄙な場所へ移っていた。冬には雪が降る、東の国でかなり寒い方の地域だった。今日は真冬ではないので、雪ではなく小雨がしとしとと降っている。
ネロは、魔法舎を出てから、俺にはみんなには合わせる顔がないと言い、自ら誰かを訪ねることは頑なにしない。それでも、ネロと、ネロの作る料理が恋しいとやってくる魔法使いたちを無下にしたりはしなかった。馴染みの顔を見ると照れるのだろう。頭を掻いて、しょうがねぇなと少しだらしのない口調でぶつぶつ言いながら、さりげなく相手の嫌いな食べ物を避けて、好みの味に仕上げてくれる優しさは変わらないのだから、訪れる魔法使いたちは後を絶たない。
ファウストもそのひとりだった。ネロの後ろめたさ、過ぎたことをファウストは責めるつもりはない。むしろネロが赦されたくないと願うなら、ファウストは積極的に赦しを与えただろう。直接口にする男ではないから、ファウストも口にしない。
「じゃなくて、話を逸らすな」
ネロもカウンターの向こうで、適当なグラスに注いだワインをごくりと飲む。今夜はもう店仕舞いをしているので、誰を気にすることなく、店主もだらしなく壁に寄りかかった。
ファウストは眉を下げて困ったような顔をした。酒を飲むと、少し甘えたような仕草をするので、ネロは、こいつは、こういうところだよなぁと少し途方に暮れた。
「ヒース、最近は熱心にあんたのところに通ってるんだろう。まさか、その意味が分からないわけじゃあるまいし」
「あの子は、ずっと僕を誤解しているだけだよ」
ネロはわざと大きな溜息を吐いて、まだたくさん入ったグラスのワインを一気に呷る。
「まったく」
沈黙が降りる。ファウストは、手元のグラスのステムを摘まみ、くるくると液体を回している。
「おいおい、あんたティーンじゃあるまいし」
「なんだ。シェフは、今日は随分饒舌じゃないか」
ファウストはむっとしたように言った。
拗ねる子どものような相手に、ネロは小さな白い器を取り出し、魔法で冷やしていたオレンジのコンポートにミントを盛り付けて、ファウストに差し出した。
「これでもあんたを心配しているんだよ」
ネロの直接的な言葉に、ファウストは少しだけ己を恥じたようだった。少し気まずくなった空気に、やってしまったと、ネロは話題を変えることにした。
「ところで、羊飼い君は元気にやってるか」
ファウストは、話題が変わったことに、あからさまに安堵した。
「あ、ああ。時々手紙が来るよ」
レノックスは、ファウストを探して彷徨った世界を、フィガロが二千年以上も生きた世界を、改めて見つめなおす旅に出ている。勧めたのは、フィガロの死から数年たって、少し落ち着いてきたファウストだった。「僕はもう大丈夫で、ここにいるから。だから、君は君で、好きなことをするといい」
嵐の谷では、何も特別なことは起こらない。
レノックスは、ファウストの言葉に深く考えるように黙り込んだ。以前のレノックスであれば、いいえと否定していたかもしれない。時間をくださいと言って一度提案を持ち帰ったレノックスのその後の決断と実行は早かった。
自分で提案しておいて、実際に「行ってきます」と言われると、ファウストは目を丸くして驚いた。行ってらっしゃいと送り出した背中は、とても広くて自由だったが「あなたに何かあれば、早急に駆けつけます」と念押ししていくのが、レノックスらしかった。
「そうか。元気ならいいんだ」
「きみは本当に優しいな」
「よせよ」
ネロは恥ずかしそうに言った。
ファウストは、コンポートを小さく掬って食べる。少しだけほろ苦いそれは、ファウストの舌にはちょうどいい塩梅だった。
「分かっているんだ。あの子たちは、もう立派な大人だし、僕自身の問題なんだと」
革命に失敗した命を背負い、友を恨み、人間を憎み、呪った。幸福になるつもりもないのに、師匠を慕い通じて、そうしてまた失った。
「僕は、誰も忘れられないよ。僕といても、良いことなんてない」
「俺なんか、先生よりももっと性懲りもないぜ」
ネロが諦めたように言った。何度も何度も自分に言い聞かせて、聞けなかったものの滲み出る友人の哀切に、ファウストは初めてしっかりした手触りで触れたような気がした。
「僕よりずっと器用そうなのに」
「東の国の連中は、みんなこの手の方面には不器用だろ」
「まあ、そうかもな」
「でもファウスト、どちらにせよ、そろそろちゃんと答えを出してやれよ。どっちでもいいけどさ。ヒースはあんたが真剣に出した答えなら、ちゃんと受け止めるだろう。シノも付いているし」
シノは、ヒースクリフがその息子に家督を譲ると引退した時、シノもブランシェット家遣いを辞めようとしたが、シャーウッドの森はシノ以外には任せられるものがいないと子孫らに頼み込まれ、現在でも変わらず森番をしながら、ここは譲れないとしてヒースクリフ唯一の従者として仕えている。
シノは、ファウストに一度も「さっさとヒースクリフと結婚でもしろ」とは言わず、初めて会った頃を思い出す品定めするような目つきでファウストを眺める。
いつか「おい、ファウスト。さっさとヒースクリフの気持ちに応えろ」くらいは言うのではないかと予想していたファウストだったが、実際にシノが言ったのは「ファウストは強いはずだろう」という、いつまで経っても可愛い生徒の言葉だった。
シノは、ファウストを信じている。ファウストは、いつの間に、ずいぶんと頼もしくなったものだと感慨深くなった。
「明日、ヒースクリフが嵐の谷に来るって」
だからファウストは胸がざわついて、いてもいられなくなって、ネロの店にやってきたのだった。急なファウストの顔を見て、ネロは大方のことを察していた。
「ああ。まあそろそろ、いいタイミングだと思うぜ。俺も」
ここに来たのは、ファウストの最後の足掻きなのだ。本当に迷っているならば、ネロに顔を見せることはないだろう。ネロはもうファウストを心配していない。
「そうだな。どうもありがとう」
外していた帽子を目深に被りなおし、ファウストはするりとスツールから降りた。
「おやすみ、ちゃんと寝ろよ」
ネロは、とんとん、と自分の指で目の下を差し、ファウストの目の下の隈を指した。
ファウストが外に出たときには、雨は止んで星が出ていた。肌寒い空気が、ファウストの酔いを醒まし、頭を冷やしていく。ファウストは箒に乗って、暗い夜の星を見ながら、嵐の谷を目指した。
フィガロが寿命を迎えてから、そろそろ百年が経つ。百年は、長寿の魔法使いにとって短いようで長い。
気高い人が次第に弱っていくのを見つめ続けることが、自分の身を切るほどに痛かった。ファウストは、フィガロにとっての正解であり続けることができたのか、ずっと考えあぐねている。
フィガロの家族のような北の魔法使いは、ファウストがフィガロの形見の整理をすることについて、少しの軽蔑の念を含んでいたようにも思えた。
生まれ育った北の国とは異なる、暖かな国で散った弟子に対する恨みとでもいうのだろうか。それは、親愛の情からくるものであり、ファウストにしてみれば、憐れみとは違ったような気がした。長寿になればなるほど、感情は複雑で、ぐちゃぐちゃな線を描いていく。
ファウストは親友の死を恨むことで乗り越えた。というには語弊がある。恨むことで気を紛らわせることができた。和解もできず、じくじくと痛むたびに恨んでしまえば多少は気が楽になる。毒を持って毒を制す。
では、フィガロの死後は、どう生きたらよいのだろうか。
フィガロは、ファウストに望みを伝えなかった。臆病であると同時に、気遣いの人であるからとファウストも理解していた。同時に、望んでくれたらよかったのにとも思った。
答えの出ない問いの海に沈んで、呼吸もできず溺れそうになるたびに、家には来訪者がやってくる。そうすると、律儀なファウストは、水面に浮上するしかなくなる。
ファウストが今後も生きていく限り、ファウストはもう以前のように完全には孤独になりきれなくなってしまった。
魔法使いとも人間とも再びの交流を始めてしまった。ひとりの賢者のおかげで、ファウストの時は進んだ。時はもう止められず、戻ることはない。この出会いに後悔しているかといえば、否である。むしろ感謝すらしているからこそ、ファウストは過去を見つめなおして、立ち向かうしかないのだ。
初めのうちに、ヒースクリフに浮かんでいたのは、ファウストには見合わないほどの感謝と憧憬の念で違いなかっただろう。
ファウストを光だと言うヒースクリフの方が、ファウストにはよほど眩しく映った。教えられることなど何もない。あえて教えるならば、反面教師として、立派な魔法使いになるようにということだった。
――最後まで面倒が見る覚悟がないなら、生き物を拾ってはいけません。
幼いファウストに、言い聞かせた母の言葉を何百年経っても噛み締めているのだから、ファウストは愚かである。
魔法舎での生活が終われば、なるべく縁を切った方が、どう考えても為になるというのに、懐いた子どもたちは頑なに拒絶を拒んだ。
押しに弱くて不安になるよと呆れ顔でいながらも、にやにやと笑う医者の男の顔も思い出す。
ある日の妻と生きていく時間がずれていく恐怖を吐露するヒースクリフに、ファウストは、いつかの自分を見たような気がした。
永遠をどう思うとファウストに聞いた人間の友だちがいた。一日を一日を大切に過ごし続けていたら永遠になっていく。しかし、一日一日と次第に周りに誰もいなくなっていく恐怖が、確かにファウストにも存在した。
ファウストには、一緒に生きていこうと言ってくれた魔法使いがいた。それを支えにしようと思って、見事にどちらも失ったのだから、自分はあまりにも悪い見本すぎると再認識して自嘲しながら、「逃げずに向き合いなさい」と声をかけた。きっと、きみの細君も同時にきみと同じ恐怖を抱えているはずだ、と。
話し合いなさい、と人に言いながら、ファウストは実際には話し合えなかった。向き合えなかったから、自身が薪のごとく燃えたのだ。偉そうなことを言える立場ではない。もちろん、ヒースクリフがファウストと同じ憂き目にあうことはないだろうけれども、ファウストが大事な人を失った同じ轍を踏まないように、踏んでくれるなという祈りも込めていた。
そうして、ヒースクリフが間違えずにいてくれたことに、ファウストは大きく安堵した。
「君はよくやった」
ファウストがかけた言葉に、ヒースクリフの目から静かにつぅと涙が零れた。ヒースクリフのやつれた頬を伝う雫を見たとき、その涙を宝石のように美しいとファウストは思った。ファウストが長いこと忘れていた純粋な涙だった。ハンカチを差し出し、とめどなく溢れる涙を拭ってやると、それは星が燃えるように熱かった。
ヒースクリフは泣き止んだ後で、ファウストを見て、何かに気付いたような顔をした。ファウストには、その時、ヒースクリフが何に気付いたのかは分からない。ただ、長いこと見ていた生徒の顔に浮かんだ一瞬の絶望にも似た衝撃を覚えている。
ファウストはその後で、
「忘れられないと思います」
「忘れなくていいよ」
という会話をしたことを覚えている。
細君の代わりを求めているのであれば、それで慰められるのは一時の情だけだと諭すことができた。ファウストは自分のことを指して言うにはどうかと思いながら、例えば鰥夫同士の慰めの気持ちなのかもしれないと考えて、ヒースクリフほどの矜持の持ち主であれば、そんなことはなかろうと、その考えを打ち消し、自分の生徒を信じていた。
ヒースクリフが細君の思い出を大切にしながらも、ファウストに向ける眼差しは変わらぬ憧憬を帯びたまま、ファウストにさらなる親愛の情を注いでいると気付いたときには、戸惑いというよりも、不思議な心地がしたのだった。
嵐の谷で、手を取られた時、ヒースクリフはファウストの生徒ではなかった。
またファウストは他人に対して、何かを間違えたのだろうか。
しかし子どもだと思っていた生徒の変化に戸惑いながら、ファウストは一線を越えることのない適切な距離の優しさに甘えていた。
レノックスには、何か話していると気付いてはいたが、ヒースクリフもレノックスも、ファウストを裏切る真似はしない。
それだというのに、フィガロを喪ってから、ファウストは何度となく自分の弱さを痛感し、生徒の優しさを慰めに利用しただろう。
ファウストは、もちろん初めのうちは利用しているつもりもなかった。この関係が居心地が良いと泥濘にはまってしまったと気付くまでにうっかり百年近くかかった。
数日前に、ついに業を煮やしてシノは「ファウストは傲慢だ」と文句を言いに来ていた。シノの言葉は、小気味よい。
ふと、ファウストは道標にしている星の近くに、見覚えのない新しい星が瞬いているのを見つけた。
ファウストは、天啓のようなものは信じていない。千年を超えるにはまだほど遠いながら、流れる時間の長さを思う。死んでいった命、残された命、新しい命。時は地上の命など関係なく、ただ泰然とそこにあり、悠々と流れている。
――ああ、シノの言うとおりなのだ。
ファウストの生徒は、もうファウストを飛び越えて、立派にやれている。ファウストがいなくとも、正しくあれるというのに、ファウストがあれこれと正解を考えている。正しい道を歩めるものに、ファウストの正解など不要である。
ファウストは、もう誰の正解を選ぶ必要などないのだと、唐突に理解した。
翌日、手紙に書いてある通りに、お話がありますと、一人でやってきたヒースクリフはいつも通りだった。やたらとめかし込んでいることも、気負った雰囲気もなかったが、ただ、それまでにない大きな花束を持ってやってきた。青や紫、見る人が見れば薬草だと分かる緑色の草花を、合間にクリーム色の小花でバランスを取った美しい花束だった。
「どうぞ。あなたに、これを」
「綺麗だな」
ファウストは素直に受け取り、断りを入れて、お茶を出すよりも先に花瓶を取り出して、窓辺に置いた。近くには、きらきらとプリズムの輝きを放つ石が、大切に飾られていた。
ヒースクリフはこの家に来て、初めてそれを見て、目を見開いた。これまでずっと大事に仕舞われていたはずだった。
「昨日、ネロの店に行ってきたんだ。美味しいチェリーパイをくれたから、それに合うお茶を淹れよう」
ヒースクリフの驚嘆に気付いているはずのファウストは、特にそれについて触れなかった。
大きなポットになみなみと用意されたお茶は、魔法でいつまでも温もりを保たれている。まるで、長い話をしても大丈夫だというように。
テーブルの上に切り分けられたパイと紅茶の湯気が立ち上る。まだ熱いそれらに二人は手を付けず、どちらがどう沈黙を破るか、ちらちらと様子を伺っていた。
そして、先に口を開いたのは、ヒースクリフだった。
「昔、実はフィガロ先生に、先生をよろしく頼むと言われたことがあったんです」
ファウストは、思い切り顔を顰めて、なんて余計なことをと怒りを感じた。
「その時は、フィガロに対して悔しい気持ちで、きちんと答えられなかったんですが、今は俺、ちゃんと言うことがきるようになりました。ずっと考えていたんです」
ヒースクリフは一呼吸おいてから続けて言った。
「ファウスト先生は、誰からよろしくと言われなくても、大丈夫な人です」
本人を前にして、こうにも真っすぐきっぱりと言い切られてしまうと、ファウストはどうにもむず痒い気持ちになった。
「その上で、俺は、先生にお願いがあって」
「言ってみなさい」
ファウストは、つい癖で先生らしく続きを促した。
「アレク初代国王と共にあった先生も、フィガロ先生と共にあった先生も、全てのことが、俺を導いてくれた先生を形作っていると思うから……。そんなあなたのすぐ隣で、俺が生きていくことを許してください」
ファウストは、小さく息を吐いてから言った。
「きみは、知らないうちに僕よりもずいぶんと立派な魔法使いになったんだな」
「あなたのおかげです」
ヒースクリフの言葉は力強かった。ファウストを微塵も疑っていない。
「馬鹿な子だ」
ファウストは、出会った時からきわめて優秀なヒースクリフに対して、心底呆れたように言った。
しかし真剣なヒースクリフの眼差しを、ファウストはしっかりと受け止めた。
「ひとつだけ、聞きたい。どうして僕なんだ?」
「妻のことは、妻として愛しています。恋人といわなくても構いません。むしろ、俺も違和感があるような気がします。そうではなくて、俺にとって太陽のようなあなたが、忘れられないんです。欲張りな自覚はあります。でも、先生。あなたが弱っているなら支えたい。レノックスのような従者としてでも、生徒としてでもなく、ただのヒースクリフとして。ただ、それだけなんです」
「僕は、きみに話さない過去も多くあるだろう。僕は、何度も言うけど、きみが思うほど立派ではないよ」
「百年以上、俺はあなたを見てきたのに、今更ですよ。それに、過去はどうにもなりません。でも、今の、そして未来のあなたのそばにいられるなら」
ようやく恥ずかしくなってきたのか、ヒースクリフの視線が僅かに彷徨った。
ファウストは返事をする前に、だいぶ温くなった紅茶を啜った。
「約束はあげられないよ」
ファウストの言葉に、ヒースクリフははっと顔を上げた。かたりとテーブルの上の食器が音を立てた。
「全部忘れられないんだ」
「忘れないでください。丸ごとのあなたがいい」
「僕はご存じの通り執念深いし、面倒だと思うよ」
「はい」
ヒースクリフは、否定しなかった。ファウストの遠回しな言い方には、慣れている。初めて出会って魔法を教わった時から。
ヒースクリフもほっとして、ネロの作ったパイにフォークを入れた。
「それで、じゃあ、きみはこれからも僕のことを、先生と呼ぶつもりなの?」
カチン。
ヒースクリフには珍しく、カトラリーが高い音を立てた。ファウストは、面白そうにヒースクリフを見ている。
動揺したヒースクリフは、一度膝に両手を置いて、深呼吸をした。
「え、ええと。いえ。し、失礼して……。ふぁ、ファウ……スト」
だんだんと小さくなっていくヒースクリフの声は、それでもきちんど最後までファウストの名を呼んだ。
聞いたファウストは、思わず嵐の谷中に響きそうなほど、大きな声で心から笑った。
嵐の谷に一陣の風が吹いた。
ヒースクリフとファウストが以前よりも親密になって大きく変わったことは、さほどなかった。
相変わらずヒースクリフはシャーウッドの森を住処としている。それまでと異なるのは、嵐の谷を訪れたヒースクリフが、頻度は多くないものの、たまにそのまま泊まるようになったくらいだった。
二人の会話は、実のところ多くない。むしろ、無理に話をする必要もなくなって、それまでよりも沈黙の降りる時間が増えていた。
それでも、山菜を取りにきた人間が、うっかり谷の深いところに迷い込み、二人の魔法使いを見て、仲睦まじいと咄嗟に感じたくらいには、二人でいる空気に馴染んでいた。
噂を聞いたレノックスが、嵐の谷にやってきた。
迷いの谷で、魔力の高くないレノックスが道を外れないのは、ファウストの祝福のおかげだった。
一人分の気配が増えた家の扉の前で、レノックスは来訪を告げる。
扉が開かれ、ファウストが従者を迎えに出た際、ふっと一瞬の風が吹いた。
レノックスには懐かしい香り。すっとした薄荷のような、奥底に拭いきれないアルコールのつんと刺激するような香りは、フィガロの香りだった。
ああ、フィガロ様がきっと一瞬だけ通り過ぎていった。レノックスはそう思った。きっと自分と一緒に来たのだろう。まったく素直ではない人だと、久しぶりのフィガロに、どうしようもない気持ちになった。
久しぶりの再会だというのに、言葉もなく立ち尽くしていることに気付いて、レノックスは視線を下げて、ファウストを見ると、しっかりと目が合った。ファウストは、瞳を零れそうなほど大きく見開いていた。
ファウストもまた、気付いたのだ。
「本当に、どうしようもない」
わずかに顔をくしゃりと歪めて、いつも通りの表情に戻った。
レノックスがファウストの肩越しに見たヒースクリフは、泰然としていて、レノックスが見込んだ通りの強さを手に入れていた。
「いらっしゃい、レノックス」
ゆったりとヒースクリフは、微笑んだ。
生き残ったものが、みなもらう。