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    フィガファウになる予定
    幽霊(暫定)フィちゃん×学生ファちの謎パロ
    ファンタジー

     其の年の冬は、例年よりも早くやってきた。
     ガタガタと揺れる列車の二等車の窓側で、ファウスト・ラウィーニアは、はらはらと空から降りはじめた今年初めての雪を眺めていた。
     ファウストの手荷物は少なかった。膝に抱えたボストンバッグ一つのみ。
     街を離れていく列車には、さほど人は乗り込んでおらず、数少ない乗り合わせた乗客は、皆どこか後ろめたい雰囲気で、誰とも目を合わせようとはしない。気休め程度の暖房では、窓から入る隙間風に負けてしまい、社内はさほど温かくもなく、着込んだゴワゴワしたほつれ気味のコートの襟を合わせ、背中を丸めて静かにじっと座っている。その中でファウストだけが、しっかりと背筋を伸ばし、どんなに揺れても美しい姿勢を保っていた。着ている服の質は、そのあたりの苦学生同様、着古してくたびれてはいたものの、出来る限りの手入れを施して身綺麗にしているのが分かる。真っすぐな紫色の瞳は澄んでいた。美しい青年は、この車両の中で浮いて見えた。
     長閑というのにはうら寂しい田園風景が、街を出てから果てしなく続いているようだった。農地には人影も見当たらない。冬は昼間でも薄暗く、人々あまり家から出ようとしないものが多い。やがて大地が綻ぶ春まで、じっとうずくまるようにして粗末な家の中で耐え忍ぶのだ。
     だんだんと白く塗られていく世界に、黒い列車だけが悪戯に線を引いている。
     列車が警笛を大きく鳴らしたすぐあとで、世界がこの先の終わりを告げるかのような轟音と同時に車内が真っ暗になった。トンネルに入った。このトンネルを抜けて、もうひと山超えた先が、ファウストの目的地、帰る場所だった。
     先日、街の学生寮でファウスト・ラウィーニアが郷里の妹から受け取った手紙には、秋の紅葉もそこそこに、もう山の頭が白くなり、雪が降ったということが書かれていた。そろそろ麓にも雪が降るかもしれない。このところ日に日に冷えて、天から空中の全てを沈めて、清めていくような、どこか湿気を孕みつつも澄んだような、故郷の冬になっていく空気が懐かしいと思った。手紙の中で、このところ祖母が腰が痛い腰が痛いと頻繁に言うようになったというのが引っかかった。歳を取ってから、天気が悪いと時折骨が痛むとはいっていたが、
     数か月に一回、ファウストは家族からの手紙を受け取っている。
     ファウストの家族は、祖母と母と妹のみで、裕福な家庭ではないながら、田舎を出て都会の大学に通っているのは、ファウストの幼馴染のアレク・グランヴェルがファウストを誘ったからだった。
    ――広い世界を見て見たくないか。
     キラキラと星のように輝く瞳に、ファウストは思わず魅入って、条件反射のように頷いていた。
     父が蒸発し、厳格な祖父から家族を守って慎ましく暮らすように言いつけられていたファウストは、その時、外の世界というものが存在することに初めて気付いた。生まれたての赤ん坊の目が開いたようなそんな感覚だった。
     故郷だけが世界ではない。世界を故郷に持って帰るつもりで、立派になって帰ってくればいいさ、とアレクは、近所の川に釣りにでも行くかのような気軽さで言ってのけるものだから、ファウストも気が抜けて、それもいいかもしれないと答えた。学校の成績だって、お互い申し分ないはずだと続けられても、半分くらいは冗談のつもりだと思っていた。
     ある日、アレクは突然ファウストの家にやってきて、ファウストの祖母と母に勢いよく頭を下げた。「ファウストと共に街の大学へ行くことを許してください。必ず、一緒に帰ってきます」とファウストの友人は、呆れ来るくらい、どこまでも真っすぐだった。
     結局のところ、ファウストも、家族も、幸福な未来の幻覚を体現するかのような男に絆されたのだ。
     とはいえ、一度やると決めたからにはファウストの方が頑固だった。立派になるまで帰らないと決めていたわけではなかった。帰るのにも金がかかる。日々学業の傍ら、新聞配達など出来る限りの仕事もして生活費を賄う。食費はなるべく切り詰めて、紙やペン、古本を買う。奨学金を得ていたとしても、生活に余裕はなかった。
     それでも、手紙を受け取った今、ファウストには無理してでも帰って祖母に会わなくては後悔するという予感めいたものがあった。
    「おまえが手紙を書いて出すより、いっそもう列車に乗って行ってしまった方が早いな」
    「おい、ひとの手紙を勝手に読むな」
    「悪かった、悪かった。でも最初にどうかしたのかと声はかけたさ。返事をしなかっただろう。深刻そうな顔して手紙を読んでるから。お詫びに、ちょっと待っててくれ」
     少し散歩をしてくるといった体でふらりと学生寮の狭い相部屋から出て行ったアレクはしばらくの後、郷里へ向かう列車の切符を一枚手にして部屋に戻り、ファウストへ押し付けた。
    「会いたいときに、会いたい人には会うべきだ」
     どうしてだか、アレクの瞳には後悔の念のようなものが浮かんでいた。誰かに会えずに一生後悔し続けているかのような重たさがあった。ファウストが知る限り、アレクには死別した身内などいないはずだった。
     ファウストは腹の底から呆れた溜息をついた。長年の付き合いで、アレクは自分が故郷に帰ると言うまで、諦めずに頑固に説得をし続け、自分の主張を曲げないことがはっきりと理解できた。
    「さすがに僕が行くんだ。払うよ。いくらだった?」
    「これくらい、出世払いにしておくよ」
    「いいわけないだろう」
    「帰ってきてからでいいさ。いいから早く支度しろ」
    「でも……」
    「くどいぞ。おまえが俺を裏切らないちゃんとしたやつだって俺がよく知ってる。いいから、今は家族のこと以外は気にするな」
     アレクはファウストを力強く抱きしめた。ファウストは、戸惑いながらも親友を軽く抱きかえした。
     今では、ファウストはアレクになんだかいいように流されてしまったように思った。
     翌早朝、駅まで見送りに来たアレクとは一度も抱擁はしなかった。言葉もほとんど交わすことなく汽車に乗り込んだファウストに、アレクは
    「ちゃんと戻って来いよ」
     と言った気がする。気がするというのも、出発の合図が鳴り、列車の車輪が動き出す大きな音で、正確に何を言っているのかをファウストは聞き取ることができなかった。
     窓から身を乗り出して、「なんて?」と聞いても、アレクは肩を竦める仕草をしただけだった。動き出した列車は止まらない。ファウストからアレクは離れていく。逆だった。ファウストはアレクからどんどん離れていく。次第にアレクの姿は見えなくなった。
     真っ暗な闇を切り取る車窓は、社内にいる人間の様子をそのまま反射していた。ファウストは窓越しに映る自分の顔をぼんやりと眺めながら、まるで幻覚のようにこれまでのアレクを思い浮かべていた。
     列車はガタガタと大きく揺れながら、前方から徐々に白く眩しい光が迫ってくる。長いトンネルが、終わりを迎えた。
     驚いたことに山を越えた先の景色は、すでに眩しいくらいの白銀の世界になっていた。ここは、もうとうに冬は始まっていたのだ。
     また列車の汽笛が鳴らされた。停車駅が近い。次の駅で降りる人々は、それまでの退屈な態度を一変させ、そわそわと落ち着きのなさを見せ始めた。
     やがて、列車が駅に着くと、ファウスト以外の車両の人たちは一斉に我先にと言わんばかりの勢いで降りていく。
     停車駅には、出迎えの人、降りた人、荷物を降ろす人は少なく、まばらだった。予定通り、十分も経たずに出発するだろうとファウストは踏んでいた。しかし、駅から働く人以外の人の姿が見えなくなり、人の声も聞こえなくなって、きゅうにしんと静まり返った。いつまでも出発する気配がない。
     訝しんだファウストは、車掌を掴まえて話を聞こうと席から腰を浮かせた。
     どしどしと人が近づいてくる足音に、ファウストは少しだけほっとした。ようやく話を聞ける人が来たと思ったのもつかの間、現れた無骨で無愛想な車掌は、
    「お客さん、悪いがあんたもここで降りてくれ」
    と言った。
    「なぜですか。僕はこの先までの切符を買っています」
    「この先で、雪崩が起こったんだ。この列車は先へは進めないんだよ」
    「そんな季節でもないだろう。まだ冬といっても……。この先は既にそんなに積もっているのか?」
    「確かに、いつもならまだそんなに積もったりする季節でも、雪崩が起こるような天候でもないはずなんだが、今年は違うらしい。自然なんて読めやしねぇ。我々としても不測の事態だし、どうしようもない」
     この列車は都心へ戻るのかと聞けば、雪の影響で街に戻るにも支障が出そうでしばらく――ひょっとしたら数日はかかるかもしれない――様子見をするというので、ファウストは途方に暮れた。邪魔くさそうにファウストを押しのけて、車掌は他にも残っている乗客がいないか確認しに歩みを進めた。
     致し方なく、ホームに降りると、ファウストは灰色の世界に、たったひとりぽつんと放りだされてしまったかのうようだった。明日には列車が動くという話であれば、一晩手伝いであれば何でもするからと屋根のあるところに入れてもらって凌げばいい。しかし、いつ動くとも分からない列車を雪の中で待つことはできない。一体どこでやりすごしたらいいのだろう。
     使い込んで指先が擦り切れそうになった手袋をはめた両手をこすり合わせて、ファウストは寒さに身を震わせた。色褪せ気味のマフラーに顔を埋めても、温かくはない。
     ファウストがはたと気付くと、すぐ近くにぬっと大きな人影があった。ずいぶんと大きな男だった。ファウストが男の顔を見上げると、男の真っ赤な目と目が合った。ファウストは、その男に、旧友に久しぶりに出くわしたかのような、どうにも不思議な親しみやすさを覚えた。男の赤い瞳は、暖炉の炎のような穏やかな温かさを湛えているようで、ファウストの心は少し落ち着いたように思えた。
    「この付近に、大きな屋敷があります。懐の深い方が住んでいらっしゃいます。あなたに、必要な宿を貸してくれるはずです」
     普段であれば、警戒するはずのあまりにも楽観的で嘘のようなおいしい話も、この男の低く、安定した声音が嘘を付いているとは思わせなかった。
    「きみは?」
    「え?」
    「きみは、どうするんだ。こんな雪の中で。ちゃんとここで働いている人たちみなが寝泊まりできる宿舎があるのか?」
    「心配してくださるんですか、ファウスト様。ありがとうございます。ええ、大丈夫です。それに、俺にはまだ仕事がありますから」
    「なぜ僕の名を?」
    「乗車券に名前が書いてあったでしょう。どうぞ俺のことは気にせずに行ってください。あなたには、行くべきところがあるのでしょう」
     果たして、この男は、いつの間にファウストの乗車券を確認したのだろう。そんな疑問さえ、ファウストには思い浮かばなかった。
    「ありがとう。ええと」
    「レノックスです。レノックス・ラム。どうぞレノと」
    「レノ、本当にありがとう。きみに、幸運がありますように」
     レノックスと名乗った男はファウストに深々とお辞儀をした。

     駅を出た途端に、吹雪になった。そんなことがあるかとファウストは思いながら、不満を言ったところで致し方ない。レノックスと名乗った駅員が言うには、ここから本当にすぐ近いという。真っ白なのか真っ暗なのか、判別もつかないような天候の中、あてもなく歩みを進める。向かい風に煽られて一歩一歩が重たい。
     右に行くべきか、左に行くべきか、または真っすぐか。道はとうに雪に埋もれて見えないながら、ファウストには今進んでいる道が妙に正しいという予感めいたものがあった。既視感とでもいうような、ないはずの記憶が蘇って、こんな道を辿ったことがあると、経験したことがあるというような。
     どのくらい歩いたのか、体力が奪われる、まるで行軍のような道のりに時間の感覚はなかった。ただ、いつの間にか、目の前には大きな屋敷の門が現れていた。
    「御免ください」
     ファウストは力の限り、大きな声で叫んだ。呼び出しのベルなどは一つもなかった。吹雪はもう止んでいて、しんと静まり返った辺りに、ファウストの凛とした声だけが響く。
    「御免ください、どなたかいらっしゃいませんか」
     不安を抑えながら、ひょっとすると屋敷が広すぎて、自分の声が聞こえなかったかもしれないと声を張り上げて再び訊ねた。不躾は承知の上だった。ファウストとて、この寒さの中で野宿をしてみすみす死ぬような真似はできない。
     すると、硬く閉ざしていた門が、キィと音を立てて開いた。風はない。言葉なく、ファウストを招待しているようで不思議な現象ではあったが、ファウストは大して気に留めなかった。
     ファウストの短い人生のうち、不思議はつきものだった。怪我した猫の治癒の方法など誰に習ったわけでもないのに、自然に身体が動いていて、知らないはずのことを知っているような気がしては、そのことを口にし、今は亡き祖父に厳しく窘められていた。愚かな振りをするのは良くない。賢しらなのも良くない。謙虚でなければならい。お前は生まれたときから物分かりがよく、可哀想な子どもだ。慎ましく神に祈りなさい。呪いのような祝福のような、知恵とも知識ともつかない、奥底のさらに底に沈むような記憶がふいに泡のように浮かび上がっては消えていく。
     今さら、勝手に門扉が開くということに怯えることもない。そういうこともあるものだと知っている。
     さくさくと一人分の足跡を残し、玄関扉に辿り着いた。案の定、扉には鍵が掛かっていなかった。
    「お邪魔します」
     頭や肩に積もった雪を払って、ファウストは律儀に空虚に声をかけながら、堂々と知らぬ屋敷に足を踏み入れた。レノックスは嘘を付かない。であれば、宿無しの旅人を放っておく情のない人間が住んでいる屋敷ではないはずだ。もうすでにファウストはレノックスを信用していた。何よりも、ここに着いてから、ファウストの呼吸は、とても楽になった。建物に入った途端に寒さが和らいで、それまで冷たい風や空気が喉を通り肺を通り、凍えた血液が巡っていた身体に、じんわりと温かさを感じた。
    「御免ください」
     ファウストはもう一度、大きな声を出して、どこへ居るとも知れぬ、けれどいるであろう屋敷の主に呼び掛けた。
    「そんなに大きな声を出さなくなって聞こえるよ。いらっしゃい。迷子の旅人かな」
     薄暗い玄関ホールの両階段から降ってきた落ち着いた男の声に、ファウストは妙な懐かしさと、これでもう大丈夫だという途轍もない安堵を自然に覚えた。
    「突然押し掛けてしまい、申し訳ありません。門扉でもお声かけをしたのですが、ご反応がないと思い込み、ここまで勝手に入り込んでしまったことの非礼をお詫びいたします。わたしはファウスト・ラウィーニア。しがない学生です。実は郷里へ帰る途中の汽車が止まってしまい、困っていたところ、レノックスという駅員から、ここの場所をお伺いしました。この玄関の隅でもよいのです。どうか、一晩だけでもわたしに宿を貸していただけないでしょうか?」
     ファウストは勢いよく頭を下げ、己の無作法を謝罪し、屋敷へやってきた目的と、許しを請うた。
    「そんなに畏まらなくてもいいよ。顔を上げなさい」
     こつこつと靴音をさせて階段を降りてくる男の顔を、ファウストはようやくまじまじと見ることができた。
     すらりと背の高い三十代前半といった風貌の身なりのよい男。その嵐の静けさのような薄灰の中に浮かぶ豊穣の色の瞳が、ファウストを真っすぐに見つめている。何を考えているのか、その思考を読むことはできなかった。
    「あなたは……」
    「俺はフィガロ・ガルシア。よろしく、ファウスト」
     ファウストが聞きたかったのは、彼の名前ではない。いや、名前ではあるが、どんな人間なのか、もっと本質的な何か、けれど正確な言葉が見つからなかった。
    「失礼ですが、どこかでお会いしたことが……?」
    「ひょっとして、俺はきみに口説かれている?」
     フィガロは、くっくっと低く笑った。
    「いえ、そうではなくて、初対面でこんなことを言うなんて、度重なる失礼は承知なのですが、どうにも僕はあなたをどこかで知っているような気がして。でも、きっと気のせいですね。あなたのような方に出会っていたら忘れられるわけがない」
     ファウストはいたって真面目に答える。
    「駅員のレノックスが、懐の深い方だと。あなたは、僕のような不審な若者を追い出さずに、こうしてきちんと話を聞こうとしてくださっている。そんな真摯な態度で他者に向き合ってくださっている慈悲深い方にお会いしていたら、忘れられないと思います」
    「そう」
     フィガロは少し考えこんだ風だった。
    「何か気に障ることでも?」
    「いや。きみとは今生一度も会ったことはないけれど、そう言われるのは悪い気はしないと思ってね。まあ、ここまで大変だったろう。空いているゲストルームならいくらでもあるからね。列車が動くまでここにいたらいいよ」
    「ああ、本当に、ありがとうございます」
     ようやく、ここにきてファウストはほっと胸を撫でおろした。まだ日も昇りきらず、夜がぐずつく暗い朝早くに親友と別れてから、ずっと自分が気を張っていたことに気が付いた。
    「どうお礼をしたらいいか。必要があれば、雑用でもなんでもいたします」
    「きみは俺の客人だ。そんなことはしなくていい。それに、小間使いなら間に合っているよ」
    「でも……」
    「おいで。部屋を案内しよう。客人をいつまでもこんなところに留めておくわけにはいかないからね」
     フィガロは有無を言わさず、くるりとファウストに背を向け、付いてくるように促した。
     どういう仕掛けになっているのか、フィガロが階段を上り、薄暗い館を進むたびに、備えられた蝋燭が次々に灯っていった。
     ファウストは驚きの声を飲み込み、大人しくフィガロに付いていく。
    「そうだった、忘れていた。お腹は減っていない? お酒もあるよ」
     急にぴたりと立ち止まって、フィガロは聞いた。
    「いえ、そこまでお世話になるには……」
     ぐぅうと、ファウストの口からよりもよほど素直に、彼の腹からは盛大な返事があった。それもそのはずで、ファウストは起きてから、列車の中で自ら包んできた黒い粗末な硬いパンにチーズ一切れに、水筒の水を飲んだきり、何も口にしていなかった。
    「正直なのはいいことだよ。先になにか食べられるものを用意しよう」
    「施しはいりません」
    「修行僧でもないんだから。本当に強情だね。今日明日で果たして鉄道が動くかな。きみはいつ動くとも知れない鉄道の再会を待つ間に、餓死でもするつもり?」
     フィガロの言葉に、立ち止まってファウストは黙り込む。
    「……では、頂いた分、せめてお金を払います」
    「払えるだけの金を、きみは本当に持っているのかな。なぜそう頑なになる?」
     フィガロはファウストを振り返って、苛立つというよりも、分からず屋の子どもに言い聞かせるように言った。冷たく突き放したような台詞に聞こえて、きちんとファウストを案じているのが、ファウストにも分かった。
     ファウストは、自分の頭が石のように固いことは、昔から幼馴染に散々言われて知っていた。けれど、人の厚意をこんなにも跳ねのける失礼さを持ち合わせていることまでは知らなかった。ただ、どうしてもこの人に甘えてしまいたい自分と、果たして、このまま甘えてしまっていいのかと懐疑的になる自分がいて、その手を掴んでいいものか、躊躇っていた。フィガロに対する不信ではない。自分に対して、果たしてしがない貧乏学生に過ぎない身で、こんな格別の厚意を受けることを許されるのか、自信がなかった。
    「はあ」
     フィガロは、戸惑ったように眉を下げて困った顔をしているファウストに、あからさまな溜息を吐く。ファウストは、ぎゅっと持っていたカバンを握りなおした。
    「一応言っておくけど、これは詐欺でもないよ。きみが気にするのなら、今から俺の晩酌に付き合ってよ。それならいいでしょう。ずっとひとりで退屈していたんだ。きみが話し相手になって、俺を愉しませて」
    「そんなことで?」
    「そんなことかどうかは、俺が決めるよ。さあ、俺を退屈させないで」
     フィガロは気障ったらしくウィンクをしてみせた。それまでの途端に軽薄な雰囲気を纏い、この人はよく分からない人だとファウストは思いながら、目を瞬かせた。
    「えっ、わっ?」
     フィガロは婦人をエスコートするかのようにファウストの細い腰に手を回し、踵を返すと、階下のダイニングルームへ向かった。
     ふと、ふわりと消毒液のようなつんとした香りがファウストの鼻をかすめた。
    「あなたは、ひょっとしてお医者様ですか?」
    「さあ、どうだろうね。そう思う? 俺が何だか当ててごらん」
     ファウストは、妙な言い方だと首を傾げた。ここに来てからの短い時間で、考えなくてはいけないことが、たくさんあるような気がして、ファウストの思考はひとつにまとまらない。
     そんなファウストにお構いなしに、フィガロは妙に饒舌だった。
    「美味しいワインがいいかな。ウィスキーやブランデーもあるよ。珍しい薬草酒も。きみも気に入ると思うよ。とっておきがあるんだ。お酒、好きだろう。ついでにいいチョコレートもある」
    「はあ、飲める歳ではあるのですが、その、安い酒しか飲んだことなくて、あまりおいしいものだと感じたことはなく……。あなたのような方にお酌をすることも……」
     フィガロは、出会った時からなぜかファウストを知っているような口ぶりで話す。しかし、フィガロが話しているファウストは、目の前のファウストではないような気がした。
     ダイニングルームには、暖炉の火が灯され、橙色のほの明かりが差していた。
    「暖かい……」
     ファウストは、ほぅと息を吐いた。ぱちぱちと薪が爆ぜる音も、ゆらゆらと揺れる炎も、昔からファウストの心に落ち着きを与えるものだった。
    「外套は適当に空いている椅子にでも掛けていいよ。さあ座って」
     暖炉の傍の椅子を指示され、今度こそファウストは素直に従い、腰をかけた。
     前のテーブルには、既に酒瓶にグラス、こんな季節にも関わらず、つややかな葡萄や林檎、オレンジなどの果物がいくつも入ったバスケットや、見るからに洒落たチョコレート、レーズンやチーズも置かれていた。いつの間にフィガロは用意したのか、それともそのまま出しっぱなしにしてあったのか。
     ファウストは、これまで何度かなにがしかの疑問を口に出そうとして、しかし結局それを声に出すことはしなかった。
    「沈黙は金なり。俺は賢い子が好きだよ」
     フィガロはワインのコルクを抜きながら、さらりとファウストに言った。
     ファウストの目の前のグラスに、赤い液体がとぷとぷと注がれる。
    「あ、あなたの分は、僕に注がせてください」
    「そう?」
     フィガロは、不慣れな手付きでワインを注ぐファウストを、頬杖をついて眺めた。
    「義理堅いね。ああ、ワインはグラスになみなみと入れ過ぎないで。そのくらい。そう、上手。乾杯しよう」
     長い指でグラスの優美で細いステムを掴むと、フィガロはファウストの方へグラスを少し傾けて
    「乾杯」
     と言った。
    「か、乾杯」
     ファウストはぎこちない仕草でフィガロに倣った。
     口に含んだワインは、熟した果実のようにふくよかな味がして、ファストは目を丸くした。アルコールが喉を焼いて刺激するどころか、花のような香りの余韻を残していく。
    「……美味い」
     ファウストの反応を見て、フィガロは嬉しそうに笑った。
    「そうでしょう。お酒だけだと酔いやすいよ」
     フィガロはローズピンクにデコレーションされたハート形のチョコレートをひとつ摘まんで差し出す。
    「じ、自分で食べます……」
    「そう? 俺だけでは食べきれないし、ここで遠慮するようなら食べさせてあげようかと思った」
     ファウストは大人しくチョコレートを受け取って、口にした。口内に入れただけで溶けていくチョコレートの上品な甘さが、これまでの疲労を癒していくような気がした。好きなものをどうぞ、と渡されたボックスに宝石のように並べられている綺麗なチョコレートは、どれも普段のファウストには縁のない高級品である。家族や友達を差し置いて、贅沢をしていいものだろうかと、手を伸ばすことを躊躇った。
    「これはひとつの勉強だと思ったらいいよ」
    「え?」
    「俺が今きみにしているのは、なんてことはない、ただの個人的な晩酌だけれど、将来、きみが何かを成すのなら、そのうち上等なものを手に入れる。相応の振る舞いを求められる。粗末なものを高級なものだと偽り騙す人間だって現れるだろう。……教えてあげようか?」
     フィガロの誘いに、ファウストはどきりとした。ファウストには、社交というものが得意ではないという自覚がある。まるで聖職者のような清貧な態度と揶揄されることまである。
    「きみには才能があると思うよ。一般的なマナーは兎も角、所作は田舎の出にしては美しい」
    「僕は……」
    「なんてね。まあ、でも、俺ひとりだけが食べていても気まずいと思わない?」
    「……はい」
     ファウストはおずおずとテーブルの上の食べ物に手を付けた。
    「甘いものは嫌い?」
    「いいえ。でも、僕には、果物の方が馴染みがあります。それでも、こんなに甘い上等なものは口にしたことはないのですが」
     グラスが空けば、フィガロもファウストも自然に互いに注ぎ合った。ボトルが空になれば、新しいボトルが用意される。水のようにするすると飲んでしまえるのがファウストには不思議だった。フィガロはファウストに酌をされるたびに嬉しそうな顔をした。
     会話はあまり必要ではなった。静かな部屋で、ぱちぱちと薪が爆ぜる音を聞きながら、流し込んだアルコールで、ファウストは次第にふわふわした気持ちになっていった。それまで考えていたあれそれが急に頭の中から出て行ってしまう。
    「あなた、僕を酔わせてどうするの?」
     眠そうな顔でぼんやりとファウストは聞いた。
    「きみのそれは無意識なんだよね?」
    「なんのこと?」
     とろりとろりとファウストの瞼が次第に下がってくる。ああ、こんなところでいけないと思いながら、襲ってくる眠気に強く抗うことができない。
    「疲れが出たんだろうね。いいからおやすみ」
     誰かの温もりを背中に感じながら、ファウストは、ゆらゆらとゆりかごに揺られているような感覚だけを残して、眠りの底へ、落ちていった。
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    Replies from the creator

    ms_teftef

    PROGRESSn年後のフィガファウ前提ミチファウ
    かなり荒いので、雰囲気で読んでほしい~~
    これは作業進捗なので……
    本にするときは、もっとちゃんと整えて、その他の話ともちゃんと整合性を整えたりします。
    先生 ミチルが大人になってから初めて嵐の谷にやってきたとき、精霊たちの歓迎は散々だった。
     箒に乗って近くまで行くのに、風に乗れず、まるで箒に乗りたてのほやほやの魔法使いみたいに、あちらこちらめちゃくちゃな軌道を描き、箒に乗られているような操縦になった。そこから、谷の入り口で降りると、濃い霧が立ち込めていた。足元はぬかるんだ土と草でぐちゃぐちゃになり、時折木の根に足を取られそうになる。服は目に見えないほどの細かい水の粒が纏わりついて、ぐっしょりと重たくなり、身体が冷えていった。
     風は吹かず、空気が淀んでじっと停滞しているように思えた。教わった通りの道筋を進んでいるのに、先ほどと同じ道に戻ってきているような気がする。もうすぐ大きな瘤のある木が見えるはず。見慣れない細長い草があちらこちら好き放題伸びて、目印を隠蔽している。植物が意志を持って生えるはずもないのに、まるで故意にミチルを迷わせようとしているようだった。
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