Recent Search
    You can send more Emoji when you create an account.
    Sign Up, Sign In

    ms_teftef

    @ms_teftef

    ☆quiet follow Yell with Emoji 💖 👍 🎉 😍
    POIPOI 10

    ms_teftef

    ☆quiet follow

    フィガファウ/ファンタジーになる予定だったもの
    ▼あるもの
    ・意識はしていないけど、見ようによってはアレファウかも
    ・革命if
    ・フィやウサギなど死の描写(ぬるめ)
    ・捏造のファの家族

    月に追われて退場 その年の冬は、例年よりも早くやってきていた。

     ガタガタと揺れる列車の二等車の窓側で、ファウスト・ラウィーニアは、はらはらと空から降りはじめた今年初めての雪を眺めていた。
     ファウストの手荷物は少なかった。膝に抱えたボストンバッグ一つのみ。
     街を離れていく列車に、人はさほど乗り込んでおらず、数少ない乗り合わせた乗客は、皆どこか後ろめたい雰囲気で、誰とも目を合わせようとはしない。気休め程度の暖房では、窓から入る隙間風に負けてしまい、車内はさほど温かくもなく、乗客たちは着込んだゴワゴワしたほつれ気味のコートの襟を合わせ、背中を丸めて静かにじっと座っている。その中でファウストだけが、しっかりと背筋を伸ばし、どんなに揺れても美しい姿勢を保っていた。着ている服の質は、そのあたりの苦学生同様、着古してくたびれてはいたものの、出来る限りの手入れを施して身綺麗にしているのが分かる。真っすぐな紫色の瞳は澄んでいた。美しい青年は、この中で奇妙に浮いて見えた。
     長閑というには、うら寂しい田園の風景が、街を出てから果てしなく続いているようだった。農地には人影も見当たらない。冬になると昼間でも薄暗く、耕す大地は枯れて、やることもないのであまり家から出ようとしない者が多い。人々は、やがて大地が綻ぶ春まで、じっとうずくまるようにして粗末な家の中で耐え忍ぶのだ。
     だんだんと白く塗られていく世界に、黒い列車だけが悪戯に線を引いている。
     列車が警笛を大きく鳴らしたすぐあとで、世界がこの先の終わりを告げるかのような轟音と同時に車内が真っ暗になった。トンネルに入った。このトンネルを抜けて、もうひと山超えた先が、ファウストの目的地、故郷、帰る場所だった。
     先日、街の学生寮でファウスト・ラウィーニアが郷里の妹から受け取った手紙には、秋の紅葉もそこそこに、もう山の頭に鈍色の雲がかかり、気付けば山頂は白く化粧をしていたということが書かれていた。そろそろ麓の村にも雪が降るかもしれない。日に日に冷えて、天から、空中の全てを沈めて清めていくような、どこか湿気を孕みつつも澄んだ、故郷の冬になっていく空気が懐かしいと思った。手紙の中で、このところ祖母が「腰が痛い、腰が痛い」と頻繁に言うようになったというのが引っかかった。ファウストの祖母は、歳を取ると、天気が悪くなると時折骨が痛むようになるのだと言っていたが、どちらかといえば彼女は周囲を気遣い、よほどでなければ痛みを訴えるような人ではなかった。
     郷里を離れたファウストは、数か月に一回程度の頻度で家族からの手紙を受け取っている。
     ファウストの家族は、幼い頃に父が蒸発し、祖父が亡くなって以降、祖母と母と妹のみで、慎ましく暮らしていた。決して裕福な家庭ではないながら、それでもファウストが田舎を出て都会の大学に通っているのは、幼馴染のアレク・グランヴェルがファウストを外の世界へ誘ったからだった。
    ――なあ、ファウスト。せっかくなら広い世界を見て見たくないか。
     キラキラと星のように輝くアレクの瞳に、ファウストは思わず魅入って、そのまま条件反射で頷いてしまっていた。
     厳格な祖父から、家族を守って謙虚に生きるように言いつけられていたファウストは、その時、村の外にも世界というものが存在することに初めて気が付いた。生まれたての赤ん坊の目が開いたような、そんな感覚だった。
    「この村だけが世界ではないだろう。世界をここに持ち帰るつもりで、俺たちが立派になって帰ってくればいいさ」とアレクは、近所の川に釣りにでも行くかのような気軽さで言ってのけるものだから、ファウストも気が抜けて、それもいいかもしれないと答えた。しかし、その後「学校の成績だって、お互い申し分ないはずだ」と続けられても、半分くらいはアレクの一時の冗談、もしくは将来について、漠然とした不安を抱いたファウストへのちょっとした慰めだと思っていた。
     ある日、アレクは突然ファウストの家にやってきて、「ファウストと共に街の大学へ行くことを許してください。必ず、一緒に帰ってきます」とファウストの祖母と母に勢いよく頭を下げた。ファウストはぎょっとして「そんな冗談……」と言いかけて、友人の呆れるほど、どこまでも真っすぐな態度に、ファウストは自分の自分に嘘をつく不誠実な姿が恥ずかしくなった。
     ファウストの家族は、二人の姿を見て、否定することなく進学に頷いた。
     結局のところ、ファウストも、家族も、幸福な未来を体現するかのような男に絆されたのだ。
     極力家計に負担をかけず、大学の奨学金を得る努力をし、常に優秀な成績を修め、家族のために立派な仕事を得て帰ると決めたからには、アレクよりもファウストの方が頑固だった。決してそれまで家に帰らないと決めていたわけではなかった。しかし村へ帰るのにも金がかかる。日々の学業の傍ら、新聞配達など出来る限りの仕事もして自力で生活費を賄う。食費はなるべく切り詰め、代わりに紙やペン、古本を買う。奨学金を得ていたとしても、生活に余裕はなかった。
     それでも、今回の手紙を受け取った今、ファウストには無理してでも帰らなくては後悔するという予感めいたものがあった。
    「おまえが手紙を書いて出すより、いっそもう列車に乗って行ってしまった方が早いな」
    「おい、ひとの手紙を勝手に読むな」
    「悪かった、悪かった。でも最初にどうかしたのかと声はかけたさ。返事をしなかっただろう。それで、深刻そうな顔して手紙を読んでるから、つい。お詫びに、ちょっと待っててくれ」
     少し散歩をしてくるといった体でふらりと学生寮の狭い相部屋から出て行ったアレクは、しばらくの後、郷里へ向かう列車の切符を一枚手にして部屋に戻り、ファウストへ押し付けた。
    「会いたいときに、会いたい人には会うべきだ」
     どうしてだか、アレクの瞳には後悔の念のようなものが浮かんでいた。誰かに会えずに一生後悔し続けているかのような重たさがあった。ファウストが知る限り、アレクには死別した身内や近しい存在などいないはずだった。
     その様子を見て、ファウストは腹の底から呆れた溜息をついた。長年の付き合いで、アレクは自分が故郷に帰ると頷くまで、このまま諦めずに頑固に説得をし続け、自分の主張を曲げないことがはっきりと分かっていた。
    「さすがに僕が行くんだ。払うよ。いくらだった?」
    「よせよ、これくらい、出世払いにしておくよ」
    「いいわけないだろう」
    「じゃあ帰ってきてからでいいさ。いいから早く支度しろ」
    「でも……」
    「くどいぞ。おまえが俺を裏切らない、ちゃんとしたやつだって俺がよく知っている。いいから、今は家族のこと以外は気にするな」
     アレクはファウストを力強く抱きしめた。ファウストは、突然の抱擁に戸惑いながらも親友を軽く抱きかえした。
     今となっては、ファウストはアレクになんだかいいように流されてしまったように思えた。
     手紙を受け取った翌早朝、駅まで見送りに来たアレクとは、一度もハグをしなかった。言葉もほとんど交わすことなく列車に乗り込んだファウストに、アレクは「いってらっしゃい」と声をかけたが、ちょうど出発の合図が鳴り、列車の車輪が動き出す大きな音で、何を言っているのかファウストは聞き取ることができなかった。
     窓から身を乗り出して、「なんて?」と聞いても、アレクは肩を竦める仕草をしただけだった。動き出した列車は止まらない。アレクがファウストから離れていく。逆だった。ファウストはアレクからどんどん離れていく。そして次第にアレクの姿は見えなくなった。
     トンネルに入り、真っ暗な闇を切り取る車窓は、車内にいる人間の様子をそのまま反射していた。ファウストは窓越しに映る自分の顔をぼんやりと眺めながら、まるで幻覚のようにこれまでのアレクを思い浮かべていた。
     列車はガタガタと大きく揺れながら、前方から徐々に白く眩しい光が迫ってくる。光が闇を飲み込み、長いトンネルの終わりを迎えた。
     驚いたことに山を越えた先の景色は、すでに眩しいくらいの白銀の世界になっていた。ここは、もうとうに冬は始まっていたのだ。
     また列車の汽笛が鳴らされた。停車駅が近い。次の駅で降りる人々は、それまでの退屈そうな緩慢な態度を一変させ、そわそわと落ち着きのなさを見せ始めた。
     やがて、列車が駅に着くと、ファウスト以外の乗客たちが一斉に我先にと言わんばかりの勢いで降りていく。
     この停車駅では、出迎える人も、荷物を降ろす作業員も少なく、降車した人も一瞬でどこかへ消えてしまったように、人がまばらだった。予定通り、十分も経たずにまた列車は出発するだろうとファウストは踏んでいた。しかし、駅から働く人以外の人の姿が完全に見えなくなり、人の声も聞こえなくなって、急にしんと静まり返った。いつまでも出発する気配がない。
     訝しんだファウストは、車掌を掴まえて話を聞こうと席から腰を浮かせた。
     どしどしと人が近づいてくる足音に、ファウストは少しだけほっとした。ようやく話を聞ける人が来たと思ったのもつかの間、現れた無骨で無愛想な車掌は、
    「お客さん、悪いがあんたもここで降りてくれ」
    と言った。
    「なぜですか。僕はこの先までの切符を持っています」
    「この先で、雪崩が起こったんだ。この列車は先へは進めないんだよ」
    「そんな季節でもないだろう。まだ冬といっても……。この先は既にそんなに積もっているのか?」
    「確かに、いつもならまだそんなに積もったりする季節でも、雪崩が起こるような天候でもないはずなんだが、今年は違うらしい。自然なんて読めやしねぇ。我々としても不測の事態だし、どうしようもないだろう。我が儘を言うなら、このまま摘まみだすぞ」
     この列車は都心へ戻るのかと聞けば、雪の影響で街に戻るにも支障が出そうでしばらく――ひょっとしたら数日はかかるかもしれない――様子見するというので、ファウストは途方に暮れた。邪魔くさそうにファウストを押しのけて、車掌は他にも残っている乗客がいないか確認しに、ファウストを置いて行ってしまった。
     致し方なくホームに降りると、ファウストは灰色の世界に、たったひとりぽつんと放りだされてしまったかのうようだった。明日には列車が動くという話であれば、一晩手伝いを何でもするからと屋根のあるところに入れてもらって凌げばいい。しかし、いつ動くとも分からない列車を雪の中で待つことはできない。一体どこでやりすごしたらいいのだろう。
     使い込んで指先が擦り切れそうになった手袋をはめた両手をこすり合わせ、ファウストは寒さに身を震わせた。色褪せ気味のマフラーに顔を埋めても、さほど温かくはない。
     ぼんやりとしていたファウストが、はたと気付くと、すぐ近くにぬっと大きな人影があった。そちらに目を見やると、ずいぶんと大きな男が近づいていた。ファウストが男の顔を見上げると、男の真っ赤な目と目が合った。ファウストは、その大男に、ふいに旧友に久しぶりに出くわしたかのような、どうにも不思議な親しみやすさを覚えた。男の瞳は、暖炉の炎のような穏やかな温かさを湛えているようで、ファウストの心は少し落ち着いたように思えた。
    「この付近に、大きな屋敷があります。懐の深い方が住んでいらっしゃいます。あなたに、必要な宿を提供してくれるはずです」
     普通であれば、警戒するはずのあまりにも楽観的で嘘のようなおいしい話も、この男の低く、安定した声音は、嘘を付いているとは思わせなかった。
    「きみは?」
    「え?」
    「きみは、どうするんだ。こんな雪の中で。ここで働いている人たちは、ちゃんと寝泊まりできる宿舎が用意されているのか?」
    「心配してくださるんですか、ファウスト様。相変わらず、お気遣いありがとうございます。ええ、俺は大丈夫です」
    「なぜ僕の名を?」
    「乗車券に名前が書いてあったでしょう。どうぞ俺のことは気にせずに行ってください。あなたには、行くべきところがあるのでしょう」
     果たして、この男は、いつの間にファウストの乗車券を確認したのだろう。そんな疑問さえ、ファウストには思い浮かばなかった。寒さで凍り付いた思考では、そもそも乗車券には記名などないことも思い出せなかった。
    「ありがとう。ええと……」
    「レノックスです。レノックス・ラム。どうぞレノと」
    「レノ、本当にありがとう。きみに、幸運がありますように」
     レノックスと名乗った男はファウストに深々とお辞儀をした。

     駅を出た途端に、辺りは吹雪になった。そんなことがあるかとファウストは思いながら、不満を言ったところで致し方ない。レノックスと名乗った駅員が言うには、宿を貸してくれる屋敷はここから本当にすぐ近いという。真っ白なのか真っ暗なのか、判別もつかないような天候の中、歩みを進めた。向かい風に煽られて一歩一歩が重たかった。
     右に行くべきか、左に行くべきか、または真っすぐか。道はとうに雪に埋もれて見えないながら、ファウストには今進んでいる道が正しいという妙な確信があった。既視感とでもいうような、ないはずの記憶が蘇って、こんな道を辿ったことがあると、経験したことがあるというような。
     どのくらい歩いたのか、体力が奪われる、まるで行軍のような道のりに時間の感覚はなかった。ファウストの目の前に、突然ふっと大きな屋敷の門が現れたように見えた。
    「御免ください!」
     ファウストは力の限り、大きな声で叫んだ。呼び出しのベルなどは探しても一つもなかった。吹雪はもう止んでいて、しんと静まり返った辺りに、ファウストの凛とした声だけが響く。
    「御免ください、どなたかいらっしゃいませんか!」
     不安を抑えながら、ひょっとすると屋敷が広すぎて、自分の声が聞こえなかったかもしれないと声を張り上げて再び訊ねた。不躾は承知の上だった。ファウストとて、この寒さの中で野宿をして、みすみす命を無駄にするような真似はできない。行くべき場所、帰るべき場所があった。
     すると、硬く閉ざしていた門が、キィと音を立てて開いた。風はない。言葉もなく、不思議な力がファウストを中へ招いているような怪奇的な現象ではあったが、ファウストは大して気に留めなかった。
     ファウストの短い人生のうち、不思議はつきものだった。怪我した猫の治療の方法など誰に習ったわけでもないのに、自然に身体が動いていて、知らないはずのことを知っているような気がしては、そのことを口にし、亡き祖父に厳しく窘められていた。
    ――愚かな振りをするのは良くない。賢しらなのも良くない。謙虚でなければならい。お前は生まれたときから物分かりがよく、可哀想な子どもだ。慎ましく真剣に神に祈り、自分を反省しなさい。
     ファウストの脳裏には、呪いのような祝福のような、知恵とも知識ともつかない、奥底のさらに底に沈んでいる記憶が、ふいに泡のように浮かび上がっては消えていく。
     今さら、勝手に門扉が開くということに怯えることもない。そういうこともあるものだと知っていた。
     さくさくと一人分の足跡を付けながら、玄関扉に辿り着いた。ガチャリと扉を引くと、案の定、鍵は掛かっていなかった。
    「お邪魔します」
     頭や肩に積もった雪を払って、ファウストは律儀に声をかけながら、堂々と知らぬ屋敷に足を踏み入れた。レノックスは嘘を付かない。であれば、宿無しの旅人を放っておく情のない人間が住んでいる屋敷ではないはずだ。もうすでにファウストはレノックスを信用していた。
     ここに着いてから、ファウストの呼吸は、とても楽になった。建物に入った途端に寒さが和らいで、それまで冷たい風や空気が喉を通り肺を通り、凍えた血液が巡っていた身体に、じんわりと温かさを感じた。
    「御免ください」
     ファウストはもう一度、大きな声を出して、どこへ居るとも知れぬ、けれどいるであろう屋敷の主に呼び掛けた。
    「そんなに大きな声を出さなくなって聞こえるよ。いらっしゃい。迷子の旅人かな」
     薄暗い玄関ホールの両階段の上から降ってきた落ち着いた男の声に、ファウストはまたしても懐かしさと、これでもう大丈夫だという途轍もない安堵を自然に覚えた。
    「突然押し掛けてしまい、申し訳ありません。門扉でもお声かけをしたのですが、ご反応がないと思い込み、ここまで勝手に上がり込んでしまったことの非礼をお詫びいたします。わたしはファウスト・ラウィーニア。しがない学生です。実は郷里へ帰る途中の列車が止まってしまい、困っていたところ、レノックスという駅員から、ここの場所をお伺いしました。この玄関の隅でもよいのです。どうか、一晩だけでもわたしに宿を貸していただけないでしょうか?」
     ファウストは勢いよく頭を下げ、己の無作法を謝罪し、屋敷へやってきた目的と、滞在の許しを請うた。
    「そんなに畏まらなくてもいいよ。顔を上げなさい」
     こつこつと靴音をさせて階段を降りてくる男の顔を、ファウストはようやくまじまじと見ることができた。
     すらりと背の高い三十代前半といった風貌の身なりのよい男。その嵐の静けさのような薄灰の中に浮かぶ豊穣の色の瞳が、ファウストを真っすぐに見つめている。何を考えているのか、その思考を読むことはできなかった。
    「あなたは……」
    「俺はフィガロ・ガルシア。よろしく、ファウスト」
     ファウストが聞きたかったのは、彼の名前ではない。いや、名前ではあるが、どんな人間なのか、もっと本質的な何か、けれど正確な言葉が見つからなかった。
    「失礼ですが、どこかでお会いしたことが……?」
    「ひょっとして、俺はきみに口説かれている?」
     フィガロは、くっくっと低く笑った。
    「いえ、そうではなくて、初対面でこんなことを言うなんて、度重なる失礼は承知なのですが、どうにも僕はあなたをどこかで知っているような気がして。でも、きっと気のせいですね。あなたのような方に出会っていたら忘れられるわけがない」
     ファウストはいたって真面目に答える。
    「駅員のレノックスが、懐の深い方だと。あなたは、僕のような不審な若者を追い出さずに、こうしてきちんと話を聞こうとしてくださっている。そんな真摯な態度で他者に向き合ってくださっている慈悲深い方にお会いしていたら、忘れられないと思います」
    「そう」
     フィガロは少し考えこんだ風だった。
    「何か気に障ることでも?」
    「いや。きみとは今生一度も会ったことはないけれど、そう言われるのは悪い気はしないと思ってね。まあ、ここまで大変だったろう。空いているゲストルームならいくらでもあるからね。列車が動くまでここにいたらいいよ」
    「ああ、本当に、ありがとうございます」
     ここにきて、ファウストはようやくほっと胸を撫でおろした。まだ日も昇りきらず、夜がぐずつく暗い朝早くに親友と別れてから、ずっと自分が気を張っていたことに気が付いた。
    「どうお礼をしたらいいか。必要があれば、雑用でもなんでもいたします」
    「きみは俺の客人だ。そんなことはしなくていい。それに、小間使いなら間に合っているよ」
    「でも……」
    「おいで。部屋を案内しよう。客人をいつまでもこんなところに留めておくわけにはいかないからね」
     フィガロは有無を言わさず、くるりとファウストに背を向け、付いてくるように促した。
     どういう仕掛けになっているのか、フィガロが階段を上り、薄暗い館を進むたびに、備えられた蝋燭が次々に灯っていった。
     ファウストは驚きの声を飲み込み、大人しくフィガロに付いていく。
    「そうだった、忘れていた。お腹は減っていない?お酒もあるよ」
     急にぴたりと立ち止まって、フィガロは聞いた。
    「いえ、そんな。そこまでお世話になるには……」
     ぐぅうと、ファウストの口からよりもよほど素直に、彼の腹からは盛大な返事があった。それもそのはずで、ファウストは起きてから、列車の中で自ら包んできた黒い粗末な硬いパンにチーズ一切れ、水筒の水を飲んだきり、何も口にしていなかった。
    「正直なのはいいことだよ。先になにか食べられるものを用意しよう」
    「施しはいりません」
    「修行僧でもないんだから。本当に強情だね。今日明日で果たして鉄道が動くかな。きみはいつ動くとも知れない鉄道の再会を待つ間に、餓死でもするつもり?」
     フィガロの言葉に、立ち止まってファウストは黙り込む。
    「……では、頂いた分、せめてお金を払います」
    「払えるだけの金を、きみは本当に持っている?言っておくけれど、そんなに安いものではないと思うよ。なぜそう頑なになる?」
     フィガロはファウストを振り返って、苛立つというよりも、分からず屋の子どもに言い聞かせるように言った。冷たく突き放したような台詞に聞こえて、きちんとファウストを案じているのが、ファウストにも分かった。
     ファウストは、自分の頭が石のように固いことは、昔から幼馴染に散々言われて知っていた。けれど、他人の厚意をこんなにも跳ねのける失礼さを持ち合わせていることまでは知らなかった。ただ、どうしてもこの人に甘えてしまいたい自分と、果たして、このまま甘えてしまっていいのかと懐疑的になる自分がいて、その手を掴んでいいものか、躊躇っていた。フィガロに対する不信ではない。自分に対して、果たしてしがない貧乏学生に過ぎない身で、こんな格別の厚意を受けることを許されるのか、自信がなかった。
    「はあ」
     フィガロは、戸惑ったように眉を下げて困った顔をしているファウストに、あからさまな溜息を吐く。ファウストは、ぎゅっと持っていたカバンを握りなおした。
    「念押ししておくけど、これは詐欺でもないよ。きみが気にするのなら、今から俺の晩酌に付き合ってよ。それならいいでしょう。ずっとひとりで退屈していたんだ。きみが話し相手になって、俺を愉しませて」
    「そんなことで?」
    「そんなことかどうかは、俺が決めるよ。さあ、俺を退屈させないで」
     フィガロは気障ったらしくウィンクをしてみせた。それまでのしっかりした大人の態度から一変、途端に軽薄な雰囲気を纏い、この人はよく分からない人だとファウストは思いながら、目を瞬かせた。
    「えっ、わっ?」
     フィガロは婦人をエスコートするかのようにファウストの細い腰に手を回し、踵を返すと、階下のダイニングルームへ向かった。
     ふと、ふわりと消毒液のようなつんとした香りがファウストの鼻をかすめた。
    「あなたは、ひょっとしてお医者様ですか?」
    「さあ、どうだろうね。そう思う?俺が何だか当ててごらん」
     ファウストは、妙な言い方だと首を傾げた。ここに来てからの短い時間で、考えなくてはいけないことが、たくさんあるような気がして、ファウストの思考はひとつにまとまらない。
     そんなファウストにお構いなしに、フィガロはやたらと饒舌だった。
    「美味しいワインがいいかな。ウィスキーやブランデーもあるよ。珍しい薬草酒も。きっと、きみも気に入ると思うよ。とっておきがあるんだ。お酒、好きだろう。ついでにいいチョコレートもある」
    「はあ、僕は確かに飲める歳ではあるのですが、その、安い酒しか飲んだことなくて、あまりおいしいものだと感じたことはなく……。あなたのような方にお酌をすることも……」
     フィガロは、出会った時からなぜかファウストを知っているような口ぶりで話す。しかし、フィガロが話しているファウストは、目の前のファウストではないような気がした。
     ダイニングルームには、暖炉の火が灯され、橙色のほの明かりが差していた。
    「暖かい」
     ファウストは、ほぅと息を吐いた。ぱちぱちと薪が爆ぜる音も、ゆらゆらと揺れる炎も、昔からファウストの心に落ち着きを与えるものだった。
    「外套は適当に空いている椅子にでも掛けていいよ。さあ座って」
     暖炉の傍の椅子を指示され、今度こそファウストは素直に従い、腰をかけた。
     前のテーブルには、既に酒瓶にグラス、こんな季節にも関わらず、つややかな葡萄や林檎、オレンジなどの果物がいくつも入ったバスケットや、見るからに洒落たチョコレート、レーズンやチーズも置かれていた。いつの間にフィガロは用意したのか、それともそのまま出しっぱなしにしてあったのか。
     ファウストは、これまで何度かなにがしかの疑問を口に出そうとして、しかし結局それを声に出すことはしなかった。
    「沈黙は金なり。俺は賢い子が好きだよ」
     フィガロはワインのコルクを抜きながら、さらりとファウストに言った。
     ファウストの目の前のグラスに、赤い液体がとぷとぷと注がれる。
    「あ、あなたの分は、僕に注がせてください」
    「そう?」
     フィガロは、不慣れな手付きでワインを注ぐファウストを、頬杖をついて眺めた。
    「義理堅いね。ああ、ワインはグラスになみなみと入れ過ぎないで。そのくらい。そう、上手。乾杯しよう」
     長い指でグラスの優美で細いステムを掴むと、フィガロはファウストの方へグラスを少し傾けて「乾杯」と言った。
    「か、乾杯」
     ファウストはぎこちない仕草でフィガロに倣った。
     口に含んだワインは、熟した果実のようにふくよかな味がして、ファストは目を丸くした。アルコールが喉を焼いて刺激するどころか、花のような香りの余韻を残していく。
    「……美味い」
     ファウストの反応を見て、フィガロは嬉しそうに笑った。
    「そうでしょう。お酒だけだと酔いやすいよ」
     フィガロはローズピンクにデコレーションされたハート形のチョコレートをひとつ摘まんで差し出す。
    「じ、自分で食べます……」
    「そう?俺だけでは食べきれないし、ここで遠慮するようなら食べさせてあげようかと思って」
     ファウストは大人しくチョコレートを受け取って、口にした。口内に入れただけで溶けていくチョコレートの上品な甘さが、これまでの疲労を癒していくような気がした。好きなものをどうぞ、と渡されたボックスに宝石のように並べられている綺麗なチョコレートは、どれも普段のファウストには縁のない高級品である。家族や友達を差し置いて、贅沢をしていいものだろうかと、手を伸ばすことを躊躇った。
    「これはひとつの勉強だと思ったらいいよ」
    「え?」
    「俺が今きみにしているのは、なんてことはない、ただの個人的な晩酌だけれど、将来、きみが何かを成すのなら、そのうち上等なものを手に入れる。相応の振る舞いを求められる。粗末なものを高級なものだと偽り騙す人間だって現れるだろう。……教えてあげようか?」
     フィガロの誘いに、ファウストはどきりとした。ファウストには、社交というものが得意ではないという自覚がある。学生寮内では、まるで聖職者のような清貧な態度と揶揄されることまである。
    「きみには才能があると思うよ。一般的なマナーは兎も角、所作は田舎の出にしては美しい」
    「僕は……」
    「なんてね。まあ、でも、俺ひとりだけが食べていても気まずいと思わない?」
    「……はい」
     ファウストはおずおずとテーブルの上の葡萄に手を付けた。
    「甘いものは嫌い?」
    「いいえ。でも、僕には、果物の方が馴染みがあります。それでも、こんなに甘い上等なものは口にしたことはないのですが」
     グラスが空けば、フィガロもファウストも自然に互いに注ぎ合った。ボトルが空になれば、新しいボトルが用意される。水のようにするすると飲んでしまえるのがファウストには不思議だった。フィガロはファウストに酌をされるたびに嬉しそうな顔をした。
     会話はあまり必要ではなった。静かな部屋で、ぱちぱちと薪が爆ぜる音を聞きながら、流し込んだアルコールで、ファウストは次第にふわふわした気持ちになっていった。それまで考えていたあれそれが頭の中から出て行ってしまう。
    「あなたは、こんなに僕を酔わせてどうするの?」
     眠そうな顔でぼんやりとファウストは聞いた。
    「きみのそれは無意識なんだよね?」
    「なんのこと?」
     とろりとろりとファウストの瞼が次第に下がってくる。ああ、こんなところでいけないと思いながら、襲ってくる眠気に強く抗うことができない。
    「疲れが出たんだろうね。いいからおやすみ」
     頭がゆらゆらとゆりかごに揺られているような感覚に逆らえず、ファウストはとうとうそのまま眠りの底へ落ちていった。


    「起きてください、ファウスト様」
     ファウストがぼんやりと目を開けると、既に軍服をきっちりと着こなしたレノックスが、そっと傍に侍っていた。
     さんさんと光が差し込む明るい部屋に、ファウストは眩しくて目を瞬かせた。
    「おはようございます」
    「……おはよう、レノ」
    「昨晩は、遅くまでフィガロ様のところにいらっしゃたようなので、お早い時間に起こすのは躊躇われたのですが、本日はアレク様の見舞いの予定が……」
     レノックスの言葉にはかすかな棘があるように聞こえた。レノックスは誠実で忠実なファウストの従者であり、もし彼の言葉に引っかかるようであれば、それはファウスト自身に疚しさがあるからに過ぎない。ファウストは、どきりとした。しかし、それより、なによりも引っかかったのは――。
    「あいつ、そんな歳だったか……?」
    「珍しいですね、あなたがそんなに寝ぼけていらっしゃるなんて」
     ファウストは目をこすって、自分の記憶を辿る。どうにも頭が霞かかったようにはっきりしない。それでも、アレクやレノックス、フィガロといった大切な人々のことや、自分の勤め、役割だけは理解していた。朝起きて、塔の上から国民に姿を見せ、国中に祝福をおくる。そしてアレクの建てた聖堂に行って、日が暮れるまで国の平和と安寧を祈り続ける。人間と魔法使いが共存する社会の鏡となり、未来を明るく照らし続けること。
     人間と魔法使いの共存できる国を作ろうと共に革命を起こしたファウストの友人は、今、その命が尽きようとしている。
     革命がなされたのは、もう何十年も前の話だった。人間のアレク・グランヴェルと魔法使いのファウスト・ラウィーニアが中央の国を建国してから、数年の間は小さな反乱や小競り合いも起こりつつ、現在では、ほとんどそういった争いもなくなった。
     アレクはこの国の王となり、革命軍に最初に協力した豪族の美しい娘を妃とし、子どもを成した。今では、その子が王子として立派に国を治めている。さらにその子どもが妻を娶り、新たな小さな命が誕生し、王宮ですくすくと育っている。
    ――すべてが終わったら、故郷に帰ろう。俺は絵を描いてのんびり暮らすんだ。おまえは?何をしたい?
    ――なんでもいいよ。平和に暮らせるなら。
     革命を起こすために、村を出る前にアレクの言ったことは、ついぞ実現しなかった。

    「アレク様、万歳!」
    「ファウスト様、万歳!」
    「人間と、魔法使いに万歳!」
     人々を暴力で抑えつけ、人間も魔法使いも搾取し続けていた、性根の腐敗した豪族が支配していた城の上から、アレクとファウストが姿を現したとき、大地が割れそうなほどの歓声が起こった。人々は武器を捨て、隣人と抱き合い、涙を流し、友愛のキスを送り合った。
     後から、そのとき、花火が打ち上がったという者もいれば、どこからか革命の歌が聞こえ、みんなで歌い合ったという者もいた。どれも本当で、どれも本当ではないのかもしれない。真実は定かではない。それほど、皆、喜び浮かれ、記憶が定かではなかったのだった。
     雲一つない青空の下、肩を組んだ二人の若者を、ひとりの怜悧な魔法使いが見下ろしていたことに、気が付くものはいなかった。
    「王様なんていらなくてさ、みんなで協議して、民衆そのものがより良い方へ国を動かしていくべきだと思うんだ」
     勝利の宣言の後で、アレクがこっそりファウストに耳打ちをした。考えたこともなかった、そんなことが可能なのかとファウストは友人の顔をまじまじと見つめたが、アレク・グランヴェルならば、困難とはいえ、きっと不可能なことではないのだろう。昔からそう思わせるだけの強さがあった。協力してくれと言われれば、ファウストはそのまま頷いた。しかし、アレクはファウストに次の言葉を続けなかった。
    「早く絵を存分に描ける日々を味わいたいな。おまえも好きに生きるといい」
     この時、アレクが一緒に帰ろうと言わなかったことに、ファウストは気が付かなかった。革命がなされた後のことを、ファウストはあまり考えてはいなかった。本当に夢見た革命はなされたのだろうか。事実が嘘のような、実感がないまま、ぼんやりとしていた。
    「僕は……」
    「引退にはまだ早い。彼らには導きが必要だ。きみたちの仕事はまだ終わらない」
     有事の際に役立てるよう、誰よりも高いところから見守っていた魔法使いが、音もなくアレクとファウストのもとに降り立った。
    「フィガロ様」
    「フィガロ様、分かっています。でも、だから目指すんです。目指さなくちゃ、実現しない。そうでしょう?」
     アレクは屈託のない笑顔でフィガロに向かう。
    「あなただっているし」
    「おい、フィガロ様になんて物言いを」
     まあまあとファウストを制して、アレクはフィガロに改まって礼を述べた。
    「ありがとうございます。この革命の成功は、あなたのお陰でもある」
    「いや」
     フィガロは、ファウストの方をちらりと見やった。
    「僕はもう、大丈夫です。フィガロ様」
    「……そう」

     まるで走馬灯のようにファウストは自分の記憶を振り返っていた。
    「ファウスト様、お加減が悪いのですか?」
     起きてからベッドの上で微動だにしないファウストを、レノックスはいよいよ不審に思って声をかけた。
    「……。ああ、すまない。僕は大丈夫だ。朝の祈りを済ませたら、アレクのところへ向かうよ」
     レノックスが差し出したコップ一杯の水を一口飲んでから、ぱちんと指先ひとつで着替えを済ませたファウストは、背筋をすっと伸ばし、しなやかな動きで、バルコニーに続く扉を開けて外に出た。
     ファウストが私室として与えられている城の端の塔からは、街全体を見渡すことができる。ちょうど聖堂の朝の鐘がなり、街は活気づき、忙しなく動き回っている市場の人々も、朝食の支度をしている人々も、いい加減起きなさいと揺すられてぼんやりしている子どもたちも、一度手を止めて、中央の国の人々は習慣のように魔法使いの塔に顔を向ける。
     塔の上には、頭を垂れ、手を組んで朝の祈りを捧げる魔法使いがいる。常に彼が身に纏っている白い清楚な長いローブは、清廉潔白な精神を表すかのようだった。彼の茶色い髪の毛までもが、朝の光を受けて、きらきらと金色に輝いて見えた。
     この興ったばかりの真新しい国は、まだまだ西の国ほどの豊かさには遠く、東の古都のような堅牢さもない。けれど、明るく、正しい国になりつつある。ファウストは生まれたばかりの幼子を見るような目つきで街を見下ろし、柔らかく微笑んだ。
     中央の国の朝は、魔法使いの加護から一日が始まる。生まれる命、死んでいく命も、生命の循環を建国の聖なる魔法使いファウストが見守り、その魂を導いていく。
    「まほうつかいさまっ」
     たたたっとファウストの後ろから、小さな足音が軽快な音を立てて近づく。
    「こんなところまで、ひとりで近づいてはいけないと言われなかった?まったく、また護衛を撒いて、誰に似たのか、随分とお転婆に育ったものだ。どうかしたの?」
     ファウストの足元にしがみついたのは、アレクの孫にあたる小さな子どもだった。きらきらと輝く透き通る青い瞳、さらさらと流れるような月の雫を流し込んだような銀の髪の子どもは、アレクの子どもの頃にそっくりだった。ファウストはしゃがんで子どもと目線を合わせて、問いかけた。
    「だって、だれも遊んでくれないんだもの」
     丸い頬を膨らませて、わざと子どもは拗ねた表情を作った。
    「みんなが言っていました、おじいさま、あとちょっとで死んじゃうの?」
    「……。そうだね、近いうちにそうなるだろう。森の植物が芽吹いて花を咲かせ、やがて枯れて散っていくように、生きているものは、いずれ土に帰るんだ。おじいさまは、その時が来たんだよ」
    「まほうつかいさまでも、助けられないの? どうして、まほうつかいさまは、死なないの?」
    「病気ならなんとかなるかもしれない。でも、身体の衰えはどうにもできないんだ。みんなに順番が回ってくる。魔法使いも万能ではないからね。それに僕も、死なないわけではないよ」
    「でも、あのえのまま」
     幼子は、部屋に掛けられていた絵を指さした。ファウストの部屋には、月光に照らされて踊る自身の絵画が掛けられていた。自分の絵なんてと嫌がっても、国王自ら描いた友愛のしるしであると周囲が口々にする手前、おいそれと外してしまうわけにはいかなかった。
    「そうだね。僕の身体は、時が止まったままなんだ」
    「どうして?」
    「魔法使いだからだよ」
    「おじいさまもまほうつかいならよかったのに」
     無邪気な願望に、ファウストは曖昧に笑んだまま答えなかった。
    「さあ、みんながきみを心配しているよ。せっかくだから、おじいさまのところへ、一緒に行こう」
    「うん」
     小さな温かい手を握って、ファウストは自室を後にした。それまで何も言わず背後に控えていたレノックスも、後に続いた。
     国王となった男の私室は、警護の人間や魔法使いで溢れており、それが建国の聖魔法使いファウストでも、気軽に近づけるものではなかった。
     手を繋いで他愛もないお喋りをしていた幼子は、途中で彼を必死に探していた乳母に見つかり、名残惜しそうにしながらファウストのもとから連れられて行ってしまった。
    「こら、ファウスト様は、そんなに気軽に話しても良い方ではありませんよ」
    「僕は、そんな立派なものではないよ。まだ子どもなんだ、好きにさせてやりなさい」
    「いいえ。そんな、そんな。ファウスト様、それは恐れ多いことですわ」
     伏し目がちにファウストを見ていた乳母は、深々とお辞儀をすると、幼児の手を強引に引いて、そのまま去っていく。
     ファウストが歩んでいくと、次々と頭を垂れていく知らない顔の若い衛兵たちに、ファウストは一向に慣れなかった。何年も前に、いちいち頭を下げなくてもいいと伝えたところ、礼を失するわけにはいきませんと頑なにあらゆる衛兵、国の警護の騎士たちに固辞され、アレクにも無茶を言ってやるなと注意される始末だった。昔は誰構わずに肩を組んではにぎやかに会話するような男だったのが、嘘のような台詞だと、ファウストは思った。
    「もうそういう歳でもないしな」
     そういう歳ではないというのは、どういうことだろう。目元に刻まれた皺という年齢を重ねた証に、急激に置いて行かれたような気分になった。この頃、ファウストは誰の顔も満足に分からず、誰の名前も知らなかった。人々はファウストを見るが、ファウストを見ていない。目が合うことがない。願い事があるという時だけ、真剣にファウストの足にしがみつき、顔を見て懇願する。けれど、目に映っているのは、果たして本当にファウスト自身だろうか。
     考え事をしながらアレクの私室へ歩くファウストの姿は、まるで実体のない亡霊にでもなったかのようだった。
    「アレク様はこのところ、起きていらっしゃる時間よりもお眠りになっていることが多いので、なるべく負担のないようにお過ごしくださいませ」
     部屋に入ると、アレクの従事がファウストに一言釘を刺して去っていった。埃や血にまみれて剣を握っていた手は、力なくだらりと下がり、骨と皮だけの姿になっている。目を閉じて、胸を上下させ、ただ静かに呼吸をしている。こんな姿になっても、アレクは、ファウストが来たら二人きりにせよとの強い命令を出していた。
    「おまえ、帰って絵を描くんじゃなかったのか」
    「赦せよ」
     眠っていると思いながらも声をかけたアレクが返事をしたので、ファウストの肩はびくりと大きく跳ねた。
     アレクの声は、思いの外強かった。
    「どうして?僕がおまえを?」
    「違うよ。おまえ自身をってこと」
    「どういうことだ?」
    「フィガロ様にでも聞いたら」
     アレクは苦く零した。閉じていた目を開いて、真っすぐに親友を見る。
    「俺が死んだら、遺体は聖堂には移すなよな」
    「なぜ?」
    「なぜって、俺にはふさわしい場所じゃないだろ。フィガロ様だってそう言うさ。適当にその辺に墓でも作っておいてくれ」
    「そういうわけにはいかないだろう。それに、なんでフィガロ様が?」
    「そういうところだぞ」
    「どういうことだ」
    「そういうことだよ。とにかく、よろしく頼んだぞ」
    「約束はできない」
    「知ってるさ」
     アレクはそこまで喋ってから、ふうと息を吐きだすと、また目を閉じた。
    「帰してやれなくて、すまなかったな」
    「お互い様だろう」
     くっくと喉で笑ったアレクは、ひと眠りすると言って、部屋はしんと静かになった。
     ファウストはしばらくアレクの寝顔を眺めていた。アレクの表情には、後悔も苦しみも浮かんでいない。ただ穏やかに微笑んでいる。
     今の祈りすら必要としていないアレクに、ファウストができることはひとつもない。自分を赦すということが、どういうことかも分からなかった。

     革命のための戦いも終盤になると、油断はできないとはいえ、有力な協力者もますます増えて、拠点となる場所がいくつかできると、軍の野営の数は減っていった。
     夜明けが近いと誰もが感じていた。革命軍の死傷者の数は、最初の頃と比べると圧倒的に少なくなり、広げた地図には、落とすべき場所の印が目立たなくなり、敵を味方で囲い込んで、ほとんど革命軍側の有利な状況となっていた。
     それでも、いまだ陥落できていない場所を攻め入るには、これまで以上に戦略が必要だった。アレクは勿論、ファウストや途中からファウストが連れてきた偉大な魔法使いフィガロをはじめ、軍の中でもとりわけ能力のある上層部のものたちが、次の手を打つ会議をしていたのは、なかなか和平条約に首を縦に振らなかったものの、魔法使いたちの戦力ではなく、治癒や街の立て直しなどに尽力する姿を見せ、仲間になれると武力による突破ではなく、柔らかい力による努力が実を結んだ地域の屋敷だった。
     ほとんど血を流すことなく、革命軍への協力の交渉ができたことは、革命軍史上、この上ない成果で、みながそうと分かるほど浮かれていた。今日だけはにぎやかに過ごそう、同じ釜の飯を食い、お互いの顔を、声を、思い出を分かち合おう、この先どうなるのか分からないから、という無理やり作ったカラの明るさとは違う。全てを忘れるためだけに浴びるように飲んだ安酒のアルコールのキツさも、わざと先を見ずに愚かに振舞う素振りも必要がなかった。
     無血により地域の住民たちとの距離も近く、会議に参加しないものたちは、ほとんど夜の町、飲み屋に繰り出して、それぞれが過ごしたいように楽しく騒いで過ごしていた。酒を交えるグラスの音、安い煙草のもくもくとした煙、ぽろろぽろろと気分を良くした酒場の亭主が自慢の楽器を引っ張り出し、若い娘たちが肩を組んで足を振り、高い声でさえずるように歌う。歓喜の男たちの下心丸出しの声も、今までにない喜びに溢れていた。
     この会議が終われば、きっとファウストにとっても楽しい夜になるはずだった。ファウストの慕う師であるフィガロは、常に会議で積極的に発言をするわけではない。意見を求められたときのみ、助言をする。だが、どうにも今日は浮かない顔をしているとファウストはずっと気にかかっていた。
     開け放たれた窓から、風に乗って賑やかな声が聞こえる。
     蝋燭がふわりとかき消され、部屋は暗闇になった。
     会議をしていた部屋には、いつの間にか、席に腰かけたままのフィガロと、フィガロの様子を伺っていたファウストのみになっていた。
     ファウストには、フィガロの表情は読めなかった。このところ、ずっとふさぎ込んでいるような気がしていたが、未だに師匠が何を考えているのか分からないことの方が多かった。
     フィガロがおもむろに口を開いた。
    「ファウスト。ここには、謀反の魔法使いがいる。すぐに処しなさい」
    「フィガロ様、なんと……」
     ファウストはさっと青ざめた。これ以上の犠牲を増やさずに、革命を乗り切れる希望が見えてきたときに、どうしてそんな裏切りがあろうかと、信じがたい気持ちだった。
    「聞こえなかったかい?この軍の中に裏切りの魔法使いがいる。彼を野放しにすれば、この革命は失敗に終わる。早々に捕らえて火刑にして、処刑を見せびらかすんだ。魔法使いがきちんと自らの手で魔法使いの不正を自浄できるというのを大衆に見せつけなくては、せっかくここまで魔法使いの善良さを広めてきたことが水泡に帰す。人間は魔法使いに対してまた不審を抱くだろう」
     ファウストは小刻みに震えていた。二人の間に耳が痛いほどの沈黙が降りる。
     フィガロは冷静にファウストの様子を眺めて言った。
    「きみができないのならば、俺がやってもいいよ」
    「どうして」
    「さっきも言っただろう。この軍の中には裏切り者がいる」
    「そんな馬鹿な。どうしてフィガロ様は分かったのですか? 誰かは分かりませんが、せめてその魔法使いと話をさせてください。きっと何かの間違いです。もしくは、なにか、誰かに弱みを握られているとか、致し方ない事情があるのかもしれません」
    「ファウスト」
     フィガロは首を振った。
    「彼と話しても無駄だ。これは、事実だ。更生の余地はない」
    「僕たちが目指しているのは、人間と魔法使いが共に手を取り合って生きていく未来です。人間でも魔法使いでも、誰であっても、正当な裁きをきちんと受けさせるべきです。僕たちは、革命軍は、公正で、あるべき姿を示すべきではないでしょうか」
    「きみのそういう真っすぐなところが、みなから慕われる所以だろう。しかし、きみはひとの心の暗いところを知らない。改悛することのないものもいる。根っからの愉快犯というものが存在する。そんなものと和解など到底できない。何よりも、それが魔法使いということが、きみたちにとっての最大の弱点となる。大きな理想を求めるのであれば、現実を理解しなさい」
    「それでも、やってみなくては」
     ファウストはフィガロに縋りつくように、師匠の両腕を掴んだ。
    「話し合う時間など無駄だ。話し合ってどうにかなるようであれば、こんな提案などしないよ」
     かつてないほど厳しい声をフィガロは出した。
    「ここまで魔法使いに理解を得られたのは、特にきみが潔白であったからだ。きみが同胞を庇うならば、まず間違いなく、ファウスト、きみまで火にくべられてしまう」
     フィガロは自分を掴んでいるファウストの手をそっと外すと、そのまま自分に引き寄せ、成人になりきらない中途半端な柔らかさの身体を抱いて「分かるね?」とファウストの耳元で囁いた。
    「大義を思い出しなさい。今きみが足を掬われれば、大勢の魔法使いの犠牲が生じる。きみ一人の命の問題ではない」
     ファウストはフィガロの腕の中で身じろぎもせずに、じっと黙ったままでいた。
     外ではお祭り騒ぎはとうに終わり、夜半をすぎて既にみな寝静まっていた。夜に鳴く鳥だけが闇の中で笑うかのように囀っていた。
    「聞き分けなさい」
     フィガロは、未だに首を縦にも横にも降らない強情なファウストの、日に焼けて幾分ぱさぱさした巻き毛をそっとひと撫でした。
    「今日のフィガロ様は、久しぶりにたくさん喋ってくださいますね」
     ようやく口を開いたファウストに対して、フィガロは話は終わったとばかりに、密接していた身体を開放し「おやすみ、ファウスト」と告げると、もうファウストを一瞥することもなく、部屋から出て行った。
     ファウストは、握りしめた己の拳を時間をかけてゆっくり開く。爪の食い込んだ掌に痛みは感じない。
    「まるで僕の知らないフィガロ様だ……」
     師匠が、ここまで分かりやすく自分に話をしてくれたことがあっただろうか。彼がファウストに与えるのは、回答ではなく、そこに行き着くまでの理路整然とした道筋、考え方であり、理を説いた。その心のうちを知れたこともない。
     会話の中で、フィガロは誰が軍を裏切ったのか、ファウストには伝えなかった。ファウストは、明日の朝にでも自ら突き止め、話をしようと心に決めた。例え処刑を行うとしても、自らの目で確かめ、話をすることが、せめてもの自分に課せられている義務だと信じて疑わなかった。
     ファウストは、ざわつく心を抑えるため、硬い石の床の上にそのまま跪くと、魔道具の鏡を取り出し、その場で神に祈った。

     フィガロがファウストとの会話を終わらせて部屋を出ると、すぐ向かいの壁にアレクが凭れてフィガロを待ち構えていた。青い瞳がフィガロを映す。睨んでいたわけではない。
     二人の視線が交わると、どちらともなく自然と並び、歩みを進めた。談話室から外へ、誰にも話を聞かれないところへ。フィガロは抜かりなく、二人の会話が漏れないようにさりげなく魔法を使った。
     アレクは、いつフィガロが魔法をかけたのかまでは分からなかったが、そのことに勘づいていた。また、フィガロが話を早く終わらせたそうにしていることにも気付いていた。
    「フィガロ様、あなたは、近くに俺が残っていると知りながら、俺にも聞こえるようにファウストと話していたでしょう」
     フィガロはそれには答えなかった。
    「俺が足を止めなかったらどうするつもりだったんです?」
    「きみは必ず足を止める。実際、そうしただろう」
    「あなたは本当に不思議な方だ。まるで未来が見通せるよう。偉大な魔法使いだというのはファウストから聞いていましたし、なにより、奇跡のような治療もこの目で見ました。この腕だって……」
     アレクは少し前に大きな怪我をした右腕を摩った。本来であれば、アレクの腕は、切り落とされて永遠に失われていただろう。魔法の力が、細胞を、血管を、骨を、皮膚を、ひとつひとつ繋ぎ合わせ、不自由なく動かせるように元通りにした。縫い目一つ見当たらない。アレクは感謝していると同時に、あまりにもこの力は不気味だと思った。ファウストまでもが、こんなのは信じられない、奇跡のようだと言っていた。ほとんど壊死しかけていた細胞を回復する力は、昔のファウストはおろか、今のファウストにもない。自分には未だない力を、唇を噛んで悔しがり、しかし己の師匠の力の強さを目の当たりにして純粋に目を輝かせた、ちぐはぐなファウストの表情をアレクは忘れない。
     アレクに対して無茶をするなと怒って、無事でよかったと安堵して笑む忙しい幼馴染の知らない表情。人間にはない力を持つ魔法使い。人間と変わらない心を持っている。しかしアレクは生まれて初めて、その力を恐ろしいと、脅威になりうると真剣に思った。畏怖とは違う。魔法とは、あくまで自然への手助けであり、心の慰めであると幼馴染の姿や、軍に加わった味方の魔法使いたちを見て、確信していた。だというのに、これは不自然なまでに理を曲げる行為なのではないだろうか。アレクは、腕の一本くらい、失ってもよかった。これから絵を描くのに不便ではあるが、失った同胞を思えば大したことではない。魔法は万能ではないから、ファウストが救えない命があっても致し方ない。ファウストは人を救う努力をよくしてくれていた。最後には苦痛を取り除き、見送ってくれた。これまでは、ファウストは生き物としての営み、摂理の中にいた。
     これからファウストは遠いところに行くつもり、否、フィガロがファウストを遠くまで連れていくつもりだと、アレクは悟った。
    「あなたは時折、俺を冷たい目で見る」
     アレクは苦笑した。
    「あいつがいいなら、いいんです。あいつはちゃんと分かっているんですか?ファウストはあなたを尊敬している。我々の軍に協力して、俺にも良くしてくれる。でも、結局のところあなたはファウストしか見ていない。違いますか?……妬けるな」
     正直なところ、アレクはフィガロは途中まで、彼は早々にいなくなってしまうものと思い込んでいた。時折見せていた表情は、心ここに在らずといった風で、ここにいるのは単なる物見遊山というわけではないが、真剣ではない。生きる場所が違いすぎるゆえに、結局はファウストにもある程度で見切りをつけていくのではないか、と。どうやらそれはアレクの誤算だったらしい。ある時からフィガロは、ファウスト以外への冷たい視線をあまり隠さなくなった。とはいえ、気付いたのはアレクだけだろう。
    「きみたちの仲には及ばないよ」
     フィガロとアレクは、ぴたりと足を止めた。
     少し先の生垣で、がさがさと音がして、鎮まった。ややあって、一組の男女がそそくさと出てきて、二人には気付かずに去っていった。
    「俺が、すぐに処刑の命令を出します。なにも魔法使い自らが仲間を処刑にしなくともよいでしょう」
    「まだ誰とも言っていないが」
    「少し動きが怪しいので探らせていた魔法使いがいます。証拠も掴んでいる」
    「さすがだね。だが、今まで一切ファウストにも相談せず?きみが手を出せば、結局は人間は悪い魔法使いを成敗するという昔からの話に帰結する」
    「自浄作用であれば、これまでの実績で充分でしょう。味方だったものに対して、ファウストは非情になりきれない。むしろ救うための手立てを考える。あれはそういうやつです。それでいい。だからこそファウストでしょう。周囲にどう影響するか、そういうことは二の次だ。そうなったときに考える。でも、ファウストが今処刑を決断できないなら、あなたがやる。けれど、それでは意味がないのです。俺たちが、魔法使いたちが、共に生きるのであれば。俺が責任を持ちます」
     澄んだ青空のような瞳に、迷いはなかった。
    「でも、誤解しないでください。この軍に加わってくださったあなたには、ちゃんと感謝しています」
     嫌味のない真っすぐな言葉に、フィガロは諦めたように少しだけ口角をあげて笑みのようなものを浮かべた。
    「ほんとうに……」
    「え?」
    「いや、なんでもないよ。指揮はきみがするといい。必要なら手を貸そう」
    「それでは、有難く」
     今夜は眠らない。朝日が昇る前に、速やかに刑を決行する。アレクは寝所に戻っていた側近たちを叩き起こし、すぐにかき集めた。

     昼日中、捕らえられた一人の銀髪の魔法使いが炎に吞まれていく。処刑の丘は、晴れていてその様子がよく見えた。異例な速さで処刑は進んだ。一人の軍人がさっさと罪状を読み上げると、用意されていた大きな松明を、良く燃えるように油をかけた藁の上に放った。
     罪人は、逃げ出すことができないよう、予め魔法がかけられた縄で括られていた。
     彼は一言も、悲鳴すら上げることなく、とても静かだった。ただ、時折四肢をぴくりぴくりと捩って炙られていく様子が、あまりにも不気味で、突発的な処刑で、刑の予告などしていなかったにもかかわらず、興奮気味に集まった野次馬の聴衆は、次第に気味が悪くなり、ひとり、またひとりとその場を離れていった。
     早朝の騒ぎを聞きつけたファウストが駆け込んだ時には、銀髪の魔法使いは組み伏せられていた。四肢が弛緩する魔法がかかっており、有無を言わさずその場で審問が行われていた。
     一切の動揺を見せず、一切の反抗も反論もないまま、ただ落ち着き払って、「ええ、ええ。その通り」と繰り返す魔法使いに、人間も、捕縛に協力している魔法使いも、苛立ちを隠せない様子だった。
     ファウストが目を瞠り、絶句したままでいると
    「ああ。私のための祈りは結構ですよ、ファウスト様」
     その魔法使いは、ファウストに薄っすら笑んで、傍にいた人間に容赦なく頬を殴られた。
    「おいっ」
    「ファウスト」
     つい庇いたてをしようとするファウストの肩を、後ろから叩いて制止したのはフィガロだった。
     フィガロの顔を見て、ファウストはすべてを悟った。
     アレクは、日が昇る前にすべてを終わらせ、見世物として群衆に晒すつもりはなかった。それがせめてもの慈悲のはずだった。その時間がずれたのは、魔法使い自らが、この罪を晒しものにし、このような裏切りが今後出ないように見せしめにするべきだと主張したからだった。
     もちろん、アレクは反対した。ところが、勢いついた周囲の者たちは、そうだそうするべきだと高らかに自分たちの正義を主張し、アレクの反対を押し切った。
     あぶらのにおい、肉のにおい、人が焼けていくにおいに吐き気を催し、その場で嘔吐するものたちもいた。毒々しく光る紫色の目は、最後まで周囲の人間や魔法使いの顔をじっくりと眺めていた。壮絶なまでに美しい笑みを浮かべながら。
     ファウストは少し離れた場所から、ただひたすらじっと彼の最後を、目を逸らすことなく見届けていた。
    「ファウスト」
     フィガロが慰めるかのように声をかけた。
    「いいえ。フィガロ様、あなたは正しい。けれど、彼を救えなかったのは僕の責任でもあるのです」
    「きみひとりに、罪は背負わせない。一緒に生きていくと言っただろう」
    「……フィガロ様」
     その時、初めてファウストはフィガロによりかかった。額を猫のように広い肩に擦り付け、祈るように目を閉じた。泣いてはいなかった。
     アレクもまた、その光景を離れたところから見ていた。
     死した魔法使いの姿、すなわち光を受けて虹色に輝く石の塊は、いささか通常の量よりも少なかったが、辺りにいる物乞いたちが、さっさとくすねて行ったのだろうと、誰もさほど注意を払わなかった。
     革命は、その後驚くほどとんとん拍子に進んだ。
     やはりあの魔法使いが悪だったのだと、誰もが処刑の正しさを信じていた。
     革命後の混乱を治めるにも、数十年の月日がかかった。新しい国の法典の制定、隣国との国交をはじめるのは勿論、戦争未亡人や孤児、負傷者への援助、ひとつひとつ根気強く向き合っていかなければならない問題が山積みだった。
     誰もかれもが、アレク・グランヴェルの指示を必要としていた。ファウスト・ラウィーニアの祈りと癒しを欲していた。アレク・グランヴェルやファウスト・ラウィーニアのような強烈な光を知ってしまった人々は、彼らから見放されることを何よりも恐れたのだ。
     フィガロは、民衆の心理や動きをよく知っていた。彼が生まれた千年以上も昔から変わりはしない。時折、何かが変わりそうな予感だけを残して、結局のところ輝く星の一つ二つが現れたところで、星は儚く流れ、消えていく。星が悪いわけではない。大半のひとは弱く、意志は脆い。導き手が必要なのだ。先頭に立つものがいなければ、迷子になり、彷徨ってしまう。
    「まずは、これからを皆で話し合おう」
     アレクは、革命戦争の功労者をはじめ、協力者である豪族たち全員での議会を設けたものの、アレクが発言するたびに、右に倣えの意見が生じる。フィガロも末席に座って静観していた。
    「いやいや、おまえたち。俺は忖度のない意見が欲しいのだ。あの頃のように。どうしてそう畏まる? みんなの国だ」
    「いいえ、滅相もない。あなた様が成し得た偉業を見て、どうして、あなたの意見に反論などできましょう」
     へりくだるだけならばまだよかった。虎視眈々と、誰がアレクの一番の臣下であるか、側近たちの中でも薄汚い権力争いが起こっていた。勝利に向かって全員で一丸となっている時分には、大きな問題ではなかったが、今やそもそもの大義はどこへ行ってしまったのだろう。富や権力を初めて手にしたものたちは、これまでの惨めな日々を、これからは贅沢で薔薇色の人生に塗り替えなくてはと、その抗いがたい誘惑に溺れていく。人間も魔法使いも、己の欲望を律し、真に平和に暮らす国になるまでは、アレクは頂点に立ち続け、監視しなくてはいけない。
     現実は思っていたよりも甘くはなかったと、アレクは内心頭を抱えた。それに、議会に呼んでいるはずのファウストも来ない。
    「そういえば、ファウストはどうした?」
    「ファウスト様は、こちらへいらっしゃるまでの間、ずっと皆にせがまれて祝福を授けていますよ」
    「はあ、またか……」
    「ファウスト様が歩くたびに、どこからか入り込んだ下々のものたちが、裾に縋って、恥知らずな無礼者はなんと足首を掴んでまで引き留め、戦が原因とか嘘をついては病や怪我の治癒を願うのです。ファウスト様もファウスト様で、革命戦争の犠牲者には甘く、ひとりひとりに時間をかけるものですから。いっそ、きちんと城を建てて、余所者が入れないように厳重にしたらよろしいでしょう。西の国の貴族社会では、当たり前です。こんな国民全員に開けているのがいけない」
     この頃の革命軍は、そのまま最後に落とした豪族の石でできた堅牢な根城をそのまま使用し、その門扉を民衆にも開いてたのだった。
    「賛成ですな」
    「それはいい考えです」
     誰かが発言した一言に、人々は口々に賛成の意を示した。
    「この硬い椅子では尻も痛くて、到底長時間の議論などは、いやはや」
     この冗談には、どっと笑いが起こった。その時、
    「みんな、遅れてすまなかった」
     従者のレノックスを連れたファウストが入ってくると、一斉に皆その方を向いた。
     土や埃で汚れた人々の手をそのまま握り返し、汚れるのも厭わず膝をついているはずの服も手も、なにもファウストの輝きを損ねはしない。開いた扉から、偶然の光が入り込み、逆光となった。栗色の髪の毛が黄金に輝きを放ち、眩しい。
     故郷の村を出てから、歳を重ね、背が伸びて骨が太くなり、身体つきが逞しくなったアレクと反対に、ファウストの身体の線は思春期の細さのまま、顔もつるりとして髭の一本も存在しない。ひとりだけ時が止まり、現実の存在ではないように見えた。はっきりと、人間とは異質のものであると証明するかのように。
     魔法使いの肉体は、魔力が成熟するとそこで成長が止まるということを、人々はファウストを通して初めて知った。
     まだ青い果実にも見えるほどの若さ。ファウストが意図せず手に入れた――よく考えれば、誰も歩んだことのない道を進む魔法使いが、そのために若くして限界まで自分を成長させるというのは、必然であり、致し方のないことである――結果は、それまで魔法使いであることを隠して生きていた魔法使いたち、魔法の使い方も分からず、ただ老いて一定の年齢で時を止めたものたち、人間に殺された魔法使いたち、年齢を誤魔化しながら生きてきた魔法使いたちにとって、これからは隠れずとも生きて良いという希望にもなった。誰もがファウストのようにはなれないとしても。人間も魔法使いもその神秘性に魅せられる。
     ファウストは、しんと静まり返った屈強な男たちの間を抜けて、空いている席に真っすぐ進む。
     あらゆる視線に気付かず、何事もないようにレノックスが引いた椅子に座り、無邪気にきょろきょろと周りを見回し、アレクを見て、己の師匠を見て、少し笑んだこの男は、とことん自分に無頓着で、そして政治には圧倒的に不向きだった。子どもの頃と何ら中身は変わっていないことをアレクは知っている。だから、アレクでさえ頭を抱える人々を、この男は理解すらできないだろうと、この時アレクははっきりと悟った。ファウストの真っ当さ、正義の美しさは、後ろ暗い感情を抱えたものには毒になる。
    「さっきまですごく楽しそうだったな。中断させて悪い。なんの話をしていたんだ?」
    「せっかくですので、アレク様の城を建てようという話をしておりました。こんな戦跡の残る野蛮な屋敷よりも、もっと立派なお住まいが、アレク様にもファウスト様にもお似合いでございますよ」
    「城?そんな金がどこにある?まずは町の修復や民への支援が先なのではないか?」
    「そうは仰いましても、ファウスト様……」
     ファウストは眉間に皺を寄せて、意見を聞いていた。
     アレクは、全員いっそこの眩しさに目を焼かれてしまえばよかったのにと思い、珍しいことを考えた自分がおかしかった。アレクはファウストほど潔癖にはなれない。ふと視線を感じた方を見ると、フィガロはファウストではなく、アレクを品定めするかのように眺めていた。アレクは盛大な溜息を吐いた。
    「そうだ、せっかくですので、ファウスト様のための聖堂もお作りになったらいかがでしょう?」
    「僕の?」
    「大事な会議のときにまで民衆が押し掛けては、民衆のために話し合おうとしているのに、なかなか話になりません。であれば、いっそファウスト様がいらっしゃるための場所を設け、時間を決めて、そこに集まればいいのではないですか?」
    「いや、僕にそんな場所は……。それに、そんな大層な魔法使いじゃない」
    「何を仰います!ファウスト様がいらっしゃらなければ、うちの倅は死んでいましたよ。なあ」
    「それはいいかもしれないな」
     ぽつりとアレクは呟いた。ファウストは親友の突然の裏切りのような発言に、信じられないような目でアレクを見つめた。その横でフィガロは頷いていた。
    「よく考えろファウスト。人々の心はまだまだ落ち着いていない。お前のためでなく、民衆のために施設が必要だ。それに、俺たちにはこの景色を見ることのできなかった、見させることのできなかった同胞たちを弔う義務がある。違うか?」
     ファウストは毎晩、これまでの散っていった命に祈りを捧げていた。覚えている限りの同胞の名前を小さく呼んだ。アレクでさえ忘れているものもいる。「僕だって全員を覚えているわけじゃない。看取れなかった命だって多くある」と言いながら、魔道具の鏡を見る。ファウストは自分の顔を見ながら、己を断罪し、悔いている。並みならぬ精神力だとアレクは親友に舌を巻いている。普通の精神であれば、とうに壊れているだろう。アレクとて仲間の訃報を聞いて、勿論悔いることはある。そして彼ないし彼女を忘れたくはないと思う気持ちは嘘ではないと断言できる。彼らに未来で報いるために生きている中で、しかし少しずつ彼らの影が薄なり、すでに過去になっていることに気付いて寂しくなるが、しかしファウストの中には、過去も未来も色褪せずに等しく同時に存在している。
    「全ておまえのせいではないだろう」
     アレクは、終戦後、ファウストが部屋でひとり日課の祈りをしている後ろから、そう声をかけたことがある。常ならば、ノックをしろとぷりぷりと怒るはずが、勝手に部屋に入ったことについて、ファウストから一言もなかった。昔から信心深くはあったが、このところの熱心さは異様だと思った。よく磨かれているはずの鏡に映るアレクの姿は、ぼんやりとしてはっきり見えない。ファウストだけが、罪人のようにくっきりと映し出される。
    「いいや。そんなことはない。それに、ひとりだけ、本当にどうしても名前を思い出せないんだ。あんなことをしてしまったのに」
     アレクはそれだけで、誰を指しているかが分かった。火炙りにした銀髪の魔法使い。不思議なことに、誰も名前を憶えていない。罪状を読み上げる時、確かに名前を呼ばれていた。何よりも、共に戦った記憶が薄い。あまりにも薄情ではないかと思いはする。しかし、裏切りの炎は、思い出よりもなお鮮烈であり、思い出もろとも灰にしてしまった。そう考えるしかない。
    「そう根を詰めるな。お前だけのせいじゃない。俺が判決を下した」
    「僕が、おまえに、フィガロ様に、そう判断させたの間違いだろう」
    「頑固だな」
    「昔からだ。悪かったな」
    「……眠れているのか?」
     ファウストの両目の下には、薄っすらと黒い翳ができていた。かさついた指でアレクがなぞった。
    「寝てはいるさ。魔法使いはそんなにたくさん寝なくても生きていられる」
     ファウストは、アレクが疲労のあまり、会議で船を漕いだことを持ち出して笑った。
    「夢見が悪いのか?」
    「別に……」
     ふいと拗ねたように言い捨てて、他方を向いたファウストの態度が答えだった。
    「ちゃんとフィガロ様に相談しろよ」
     長い付き合いで、引き際を心得ているアレクは、それ以上の追及を控えた。この場合の説得なら、フィガロの方が上手くいくだろう。アレクがファウストのもとへ気安く訪れるのは、ファウストの部屋にフィガロは滅多に来ないからだ。二人は常に共にいるようで、フィガロがどこか一線を引いている。尻込みのようにも見える。ファウストを慈しみながら、なぜか同時にファウストをわずかばかり諦めている。この逡巡がある限り、アレクは、間違いは起こらないと踏んで、ファウストにきちんと年長者に話を聞くように促した。フィガロに対して、全幅の信用はしていないが、ファウストに関することは信頼ができる。
     毎日のように、影に接吻をされ、傷付いた人々に直接声をかけられていて、柔らかい心が何も感じないはずはない。千年分の知恵を借りることで、ファウストが楽になればいいと思った。
     勝利が目的ではなかった。勝利は目指した理想の世界に近づくために必要な手段であり、その後、これから先はどう生きていくのか。どう生きたら夢見た世界を手に入れられるのか。
     ああ、フィガロの言う通り、道のりは気が遠くなるほど長い。アレクは容赦ない現実に唇を噛んだ。
     ファウストだけでも俗世から切り離してもいいのかもしれない。既に魔法使いたちの優しさが広く知れわたり、人間との相互の協力関係も徐々に築き始めている今、ファウストに不向きなことまでさせる必要はない。民衆を一か所に集めて、時間を決めて礼拝をさせることができれば、ファウストが四六時中人々に付きまとわれることもなくなる。静かに気が済むまで弔いをして、気が晴れれば――。
     発言者は単なる思い付き、ファウストを煙たく思い、体の良い厄払いとして言ったことで、深く考えて出た発想ではなかっただろう。アレクは、それを逆手取ることができる、なかなかいい考えだと思った。
    「では、可決ということで!」
     パン、と発言者が揚々と大きく手を打ち鳴らし、ファウストだけの反対を無視して、聖堂の建設が初めに決まった。
     
     以降ファウストは、政治の一線から、半ば強制的に退場することになった。
     英雄の姿は、日に日に聖職者の姿へと変容していく。泥だらけのしがない農民だった子ども時代も、汗と血にまみれながら弱きものを導いた青年時代も、すでに過去のものとなった。
     祈り、祈り、祈り。平和(に見える)世界で、ファウストができることのすべて。朝目覚めて、与えられた城の一角、高い塔の上から人々の顔を見て祝福を与え、聖堂に移動しては、人々の告解を聞き、晩鐘で死者に祈る。国王として担ぎ上げられた親友の武器、カレトヴルッフがもう剣としての役割を終えたとして聖堂へ奉納されると、ファウストは、ますますこの国の平和の守護者としての地位を高めたのだった。

     ファウストは、アレクと面会した後、ひとりになりたいと言って、レノックスの護衛も外し、そのまま聖堂へと足を向けた。自分を赦すということは何かを考えていた。ファウストは、ただ今も昔も変わらずに真っすぐに生き続けている。
     若い時分は無鉄砲ともいえるほど勇敢で、大地を駆け、大きな剣を奮った力強いアレクの肉体はやせ細って頼りなくなり、顔も手も、皺だらけになっていた。しかし、その目は全てを悟ったように穏やかだった。同じ時を刻んでいたはずなのに、急にフィガロのような年長者のような、自分の生きてきた時間以上の年月を生きたかのような分別と諦念をみせる。そうするとファウストは、自分の幼稚さにいたたまれなくなった。皺ひとつない手を開いては閉じ、開いては閉じて、自らの未熟さを痛感する。
     聖堂内のステンドグラスから、マナ石の輝きにも似た虹色の柔らかい光が降り注ぐと、ファウストが身につけている白いローブは、まだらな光に染められた。
     聖堂には、先客がいた。
    「フィガロ様。珍しいですね。こんなところに」
     フィガロは、祭壇の近くの椅子に腰かけていた。普段は滅多に聖堂には現れない。特別な指南役として、意見を求めて会議に呼ばれる以外は、アレクが用意した城の見晴らしがよい部屋でひとり過ごしている。
     ファウストがフィガロのもとを訪ねるのは、ほとんど夜で、日中フィガロが何をして過ごしているのか知らなかった。国が大きくなるにつれ、国を興した魔法使いの上にさらに魔法使いがいて、ファウスト様が通っているというのは外聞が良くないと、口さがない城の人間が増え、ファウストは専ら夜に紛れてフィガロを訪ねる。明るいうちからフィガロの顔を見るのは、久しぶりな気がした。
     ファウストよりもしっかりと骨ばった成人男性の骨格。瞬きをするたびに、フィガロの瞳は万華鏡のように生きてきた一千年以上の知恵や優しさ、厳しさを映しているような気がした。人は、自分が見たい姿、望んだ姿を彼に見る。
     おもむろにフィガロは、ひとり分の座れる場所をあけ、ファウストに椅子に座るように無言で促した。ファウストは失礼しますと言いながら、肩が触れ合う距離で隣あって座る。
    「あなたは、この聖堂があまり好きではないのだと思っていました」
    「そんなことはないさ。きみがあらゆる魂を浄化しているからね、きみの魔力に満ちた羨ましいほど綺麗な場所だ」
    「ここへ、式典以外でいらっしゃったことはありますか?」
    「……。ここに俺は必要ないだろう」
     ファウストは困ったような表情でフィガロを見た。わずかに子どもの駄々をこねているような言い方を感じ、その意図も意味も測りかねた。
    「では、どうしてフィガロ様は今ここに?」
    「きみが来るだろうと思ったからね」
    「答えになっていません。僕は、いつも決まった時間にここへ」
    「今はその時間ではないだろう。俺は、来ない方がよかった?」
    「そんなことは言っていません」
     ファウストは少しだけ癇癪を起したようにフィガロに噛みつくように言った。
    「フィガロ様は、僕が不幸そうだから、ここにいてくださるのですか」
     フィガロがファウストのもとへ訪れるタイミングは、決まってファウストが苦しい思いをしている気がした。
    「そんなことは言っていないだろう」
     冷静なフィガロの声に、少しだけ我に返ったファウストは、自分の未熟さに顔がかっと熱くなった。
    「きみは、長く生きる魔法使いとして、はじめてのことに動揺しているだけだ」
     フィガロはファウストの肩を抱き、出会った頃と違い、絹のように滑らかになったファウストの髪を撫でた。
    「フィガロ様には、どうしても、無性に寂しいときはないですか」
    「きみに、言っただろう」
     静かに目を伏せたファウストの瞼に、フィガロはその唇でそっと触れた。蝶の羽ばたきほどの軽い戯れのこそばゆさに、ファウストがふと小さな息を漏らした。その吐息をフィガロは吸い込むようにして、ファウストの柔らかい唇を食み、自身の息を注ぎ込み、甘い舌を吸った。
     聖堂にマナ石が降るように光は降り注ぎ続ける。死者の念をその身に受け止めているようにも、逆に死者に蹂躙されているようにも見える光の中で、二人の寂しい魔法使いは抱擁しあった。
    「アレク国王陛下、ご崩御! ご崩御!」
     このとき、城では、アレク・グランヴェルは最後に長くふぅとため息を吐くと、そのまま眠るように穏やかに息を引き取っていた。
     このとき、聖堂には、司祭の見習いとして働いていたひとりの青年が、ひそかにフィガロとファウストを目撃していた。ファウストが人払いをしたにもかかわらず、熱心な信仰のあまり、ようやく彼に近づけるとこっそり後を付けて、話しかける機会を伺っていた。あわよくば、ファウスト様の側近の一人として、聖職者として認めてもらうのだと夢を見ていた青年に、偉大な魔法使いと聖なる魔法使いの親愛を超えた生々しい触れ合いは、この国に生きる人間と魔法使いへの大きな裏切りとして映った。
     赦せない。こんなこと、赦してはいけない。わたしたちの神様は、わたしたちの神様ではなかったというのか!?「魔性だ。こんなことがあってはいけない。罰を、罰を与えなくては」
     光が強ければ強いほど、その影は濃くなる。ひたひたと狂気が近づいていた。

     風のない生ぬるい夜だった。グランヴェル城には、半旗が掲げられている。ひらりともはためかない。太陽を失った国中が、どっぷりと悲しみに浸され、ひっそりとしている。
     アレク・グランヴェルの遺体は、たくさんの百合の花を敷いた棺に納められ、聖ファウスト聖堂に運ばれ、葬儀を執り行うまで、厳重に警備を敷かれて安置されていた。聖堂内では、噎せ返るほどの香が絶やすことなく焚かれている。香のにおいは、鼻腔から体内に入り、内側から燻されているかのようだと、その晩の衛兵たちは感じていた。みな浄化の香でもある甘く芳しい香木の香りにやや酔いかけていた。
     街中の誰もが喪に服し、夜の明かりも最小限に抑えていた。小さな蝋燭を灯し、王の死を悼んで祈る。祈り方は、聖ファウスト様に教わった。
     アレクの葬送の儀式を一任されたファウストは、聖堂で葬儀についての指示を出し、訃報を聞いてから休む間もなく働いていた。幼い頃から共に生きてきた片割れを失って気丈に振舞う魔法使いに、臣下たちはさすがファウスト様であると感心しながらも、同時に薄気味の悪さも感じていた。涙ひとつ流さなず、ただ淡々と遺体の処理をしているようにも思えたのだ。
    「ファウスト様、ずっとこちらで働きづくめです。あとは我々でもできますので、日が昇るまで少しお休みになられてはいかがですか」
     誰かがファウストに声をかけた。
     いつもそばにいるはずのレノックスは、聖堂の警備にあたり、代わりに聖堂の聖職者や見習いの者たちがファウストの指示を聞いて動いていた。全員が白ではなく、全身黒のローブに身を包み、わずかな蝋燭の明かりだけでは、顔も満足に分からない。ファウストは聞き覚えのある声だと思ったが、名前までは思い出せなかった。
    「いや、大丈夫だ」
    「ファウスト様が心から心配なのです。御友人を失って、どうして正気でいられましょう。我々はあなた様に休息を与えられ、順番に休んでいます。だというのに、あなたはずっと休むことなく働いておいでで」
    「……わかった。ありがたく、少し休もう」
     昔のファウストならば、助言に礼だけを言い、そのまま朝まで働いていただろう。しかし、下の者の助言は有難く聞いておくべきだという親友の言葉を思い出した。
     ファウストへ進言した者に目を合わせて礼を言ったファウストは、突如として奇妙な既視感に囚われた。蝋燭の炎を映して、赤にも見えるが恐らく鮮やかな紫色の瞳――。まさかとは思った。
     自室に戻ったファウストは、ベッドの上に腰を下ろすと、何者かに上から身体をぐっと押し付けられているかのような重たさを感じて、知らず、ずいぶんと疲れていたのかもしれないと思った。
     ファウストは、いつのまにかぼんやりとうたた寝をしていた。焚いていた香が服に染みついて、その奥に燻る別の焦げたようなにおいには気が付かなかった。
     ほとんどの警備を聖堂に移していたため、城の方の警備は、若干手薄になっていた。
     小さな火が、やがて大きな炎の海となる。風もないのに、静かに静かに放たれた火がじりじりと魔法使いの住む塔を焼いていく。不自然なほどに誰も気付かない。遠くから見える明滅する炎は、祈りの蝋燭の炎にも似ていた。
     煙が充満し、明らかに異変が起こったと誰もが気付く頃には、城の一角がごうごうと大きな音を立てて燃えていた。
    「火事だ!」
     大きな音に、ファウストが目を覚ますと、部屋はすでに煙が充満していた。呪文を唱えようにも、煙を吸ってしまった喉が痛んで咽てしまう。
     レノは無事だろうか。フィガロ様さえいてくだされば……。咄嗟にそう思った。何者かの魔法の気配がする。あちらこちらが焼ける焦げ臭いにおいにかき消されているが、魔法が使われたことだけは分かった。迂闊だった。何者かの狙いは分からない。せっかく世界一とも言えるほどの魔法使いの弟子だというのに、あまりの不出来さに、ファウストは笑いが込み上げてきた。めらめらと燃える光景を見て、自然と懐かしさを覚える。
     その時、窓の外から箒でフィガロがこちらへ飛んでくるのが見えた。珍しく焦って息を切らしているように見える。常に泰然としている師匠が、こんなに焦ることもあるのだと、ぼんやする意識の中で珍しいものを見たと思った。
     本来なら、フィガロはここには来ないはず。不出来な弟子など、捨ててしまうはずだと思った。
     フィガロは攻撃するかのように飛んでくる火の粉を避けながらファウストに手を伸ばした。ファウストが駆け寄ってフィガロに手を伸ばせば、フィガロにファウストを救えないはずがない。
    「俺の手を取って」
     フィガロの声はファウストには聞こえない。ファウストは抵抗をしなかった。ファウストは踊る炎に身体を焦がされ悶えながら、これが本来あるべき姿だったのだと感じていた。ようやく正常に戻ったような気がすると、これまでの空虚な日々を振り返って思う。
    「なぜ、きみは……」
     フィガロは呆然と呟いた。
     ファウストの視界は真っ赤な色に埋め尽くされ、耳には、もはや自分の身体が燃えていく音しか聞こえなかった。意識を失う最後に、大きな厄災を見た。後のことは何も分からない。

     熱い、熱いと魘されているファウストを起こしたのは、フィガロだった。ぎょっとしたファウストは、フィガロの腕から身体を咄嗟に勢いよく離した。
    「大丈夫かい」
     それを何事もないように気遣うフィガロに、ファウストは我に返って、無意識とはいえ己の行動を反省した。
    「大丈夫です」
     部屋はまだ夜明けにはほど遠く、とても暗い。
     ファウストは背中に汗をびっしょりとかいていた。何故か足が一番痛む気がする。そろりと足に手を伸ばすファウストに気付いたフィガロが、先んじてファウストの足を摩る。フィガロの手は、ずいぶんとひんやりしていて、気持ちが良かった。
    「申し訳ありません、あなたにこんなことを」
     ファウストは、いつぞやにもこんなことを言ったような気がした。
    「気にしないで」
     フィガロはファウストと目を合わせずに言った。
    「片付けもせず、寝入ってしまい、あまつさえ、こんな……」
    「きみは俺でも運べるくらい軽かったよ。もっと食事をした方がいいね」
     ぐらつく身体を凭れたらいいと言うフィガロの強引さに甘えながら、ファウストはその体温の心地よさに、つい再び目を閉じてしまった。ファウストはこれまで海に行ったことがない。けれど、フィガロからは心臓のどくどくという鼓動ではなく、ざあざあという漣の音がした。きっと本で読んだ海とはこういう音を立てるものなのだろうと思った。

     しばらくして、部屋では男の話し声がする。喧嘩をしているのか、いささか声が大きい。
     気が付いたものの完全に意識は覚醒しきらず、ファウストの頭も瞼も妙に重たく、重力に逆らうことができない。瞼が明かないままでは、夜の底のような闇しか見えない。ぐったりとベッドに横たわったまま、辛うじて、その声でどうやらフィガロとレノックスが部屋にいるらしいことが分かった。
    「あなたはまた、そんなことをして……」
     話している内容は分からないものの、ごく親しい人との遠慮のないやりとりのように聞こえ、二人はやはり親しい仲ではないかとファウストは、自分の直感が正しかったことを知る。どうして自分に嘘などついたのだろう。
    「別にいらないことまで思い出させる必要もないだろう」
    「いらないかどうかを決めるのは、俺たちではないでしょう」
    「あの子にまた苦しみを与えろと?」
     フィガロの声には、珍しく苛立ちが滲んでいた。レノックスも頑なに自分の主張を続ける。
    「そうは言っていません。ただ、ファウスト様は真っすぐな方ですから」
     レノックスは、結局上手くいかなかったではないですかと言いかけて口を噤んだ。
     二人が自分を落ち着かせようと無理やり息を吸って吐く、呼吸の音が響く。ややあってフィガロが先に口を開いた。
    「おまえのそれは、おまえの願望だろう」
    「あなただって同じではないですか」
    「うるさい」
     ハッとフィガロとレノックスは、口を噤んでベッドの方を見た。ファウストは眉間に皺をよせ、唸っていた。
     会話は途切れ途切れにしか耳に入らなかったファウストだが、自分の知らないことを自分を置いたまま勝手に話しているのは、どんな思惑であれ腹立たしいことだった。意志のない人形でも、誰の理想でもない、誰のために生きているわけでもなく、誰に干渉されることも不愉快だ。そんな怒りがファウストにふつふつと込み上げてきた。
     乾いた喉から発せられた声は、不鮮明で掠れていたが、言い争いを止めるには充分だった。狭くなかった気管支から吐き出される覚束ない呼吸音を聞いて、慌ててごつごつした大きな手がファウストの身体を支える。
     ぬるい液体がファウストの唇を湿らせる。反射的に小さく口を開くと、手慣れた仕草で水が少しずつ流されて、ファウストの喉を潤していく。
     この安堵も、ファウストは知らないはずなのに知っている。ぴくりとも動かないファウストの手を、分厚く温かい手が握りしめている。見えずとも、熱い視線が注がれているのが分かった。
     汗で額に張り付いた前髪を滑らかで少し冷たい手に丁寧に避けられた一瞬、気のせいかと思うほどの虫が触れたような感触。
    「あなたって人は……」
    「おまえだって同罪だろう」
     微睡みに落ちていく途中のファウストの落ち着いた呼吸を聞いて、二人はファウストを残して、静かに別の部屋に向かった。
     ひとりになったファウストは、ようやく身体が軽くなったような気がした。不自由なく呼吸ができる。ふーと長いため息を吐いて、どくんどくんと心臓が鼓動し、血が体内を巡っているのを意識する。生きている。


     風が音を立てている。雪を舞い上げ、木々をしならせ、咆哮する。外は、いまだにひどい吹雪だった。
     夜が明けて完全に目が覚めたファウストは、これ以上の世話になるわけにはいかないと、屋敷から出ようとした。夜の間の夢のことは、あまり覚えていない。妙な夢を見て、熱くて途中フィガロが起こしてくれたことだけを記憶している。しばらくひとり清潔なシーツの上で横たわり、耳を澄ましていたが、近くにフィガロの気配は感じられなかった。ひょっとすると、フィガロに起こされたことすら夢であったのかもしれないと思った。悪夢を見た夢の中で悪夢から救われるなどあまりにも自分に都合のいい夢。こんなことではいけない。ファウストは、これから故郷に帰り、家族の面倒をみなくてはいけない。つかの間の休息としては、充分だった。
     この天候では、列車は到底走れるとは思えない。しかしファウストには足がある。ただひたすら歩けばいいと無鉄砲な決意をした。幸い、ファウストの荷物は、寝かされていた部屋にまとめてあった。
     フィガロに挨拶をしないのは不義理ではあるが、正直に話せばきっと止められて、また厚意に甘んじてしまうので置手紙を書いた。そして、ファウストは部屋に気持ちばかりの礼を包んで残した。
     記憶を頼りに駅まで戻り、線路に沿って次の停車場まで向かえたら、もしくは、駅にいるレノックスに、どうにか駅員の宿舎を交渉しよう、そう考えていた。
     一歩外へ出ると、雪は細かな氷となり、凍える風が弓矢のように身体に刺さる。一足進むごとに積もった雪で身体が沈む。道はひどく不安定で歩きづらかった。息を吸えば内側から、足を踏み出せばつま先から、大地の鋭利さを知る。
     あまりにも無茶が過ぎるのではないかと、冷静に考えれば、自分の行動が軽率であることに気付くはずだった。昨日のように、死んでしまえば元も子もないという考えはどこにもなく、ただ、今のファウストは正気を失ったように行動していた。焦燥感に突き動かされるように、ひたすらどこかへ歩みを進めなくては、と。
     ぶわりと向かい風が地表の雪を吹き上げる。純白の冬の女王が牙を向いた瞬間、突如として眩しい白銀の光が眼を焼き、ファウストは咄嗟に目を瞑った。
     
     気が付くとファウストは、草いきれの蒸した香りの濃い地面にうつ伏せに横たわっていた。下半身が痛む。痛いというのも正しい感覚ではない気がした。ひたすらに身体が熱い。ひどく熱い。同時に、雨に晒された身体が冷えて震えている。
     ちかちかと己が身を焼く炎がまだ目に焼き付いている気がして、視界は赤い。
     獣が唸るような声がして、咄嗟に身構えようとして、ふとその声は自分の喉から発せられていることに気付いた。ひとの言葉は出ない。肺から吐く息が焼け爛れて細くなった喉を弱弱しく震わせ、犬とも猫とも判別の付かない悲鳴のような音が血と泡と共に出てくる。
     頬を濡らすのは、天から落ちる雫。ぬかるんだ土の中で、ファウストは寝返りを打とうと試みるものの、骨と皮、肉付きの悪い棒きれのような腕では、蚯蚓が這うような動きしかできなかった。
     一粒一粒はほとんど無力な雨粒でも、数となって振り続ければ、打たれた頬は痛む。しかし、ファウストは皮膚の感覚を失っていた。どんなに雨に晒され茶色く汚れていっても、そこに屍のように微動だにせず横たわり、雨の懲罰が終わるのを待った。
     日が暮れて、夜が来て、薄墨の世界が漆黒に変わり、そしてまた滲んだ灰色の世界がやってくる。それを二日三日繰り返した。
     新しい水滴が水たまりの中に落ち、跳ねた泥水が、ファウストの閉じることを忘れた口の中に入り込む。空っぽの身体は、綺麗な水でなくとも、吐き出すことなく貪欲に水分を吸収した。
     僅か一滴の水、されど一滴の水。泥の中を藻掻いて、ファウストはようやく身体をもぞもぞと動かし、仰向けになることに成功した。
     空から降る透明な雫を正面から受け止めた。そのまま口を開けて、落ちてくるままに雨水を飲む。
     熱かった下半身も、だいぶ冷えてきたように思えた。しかし頭は靄がかかったようで、ここまで来た道のりをファウストは記憶していない。
     霞む視界に、遠巻きにファウストを見ている何らかの獣の姿が映った。ひょっとするとここは、獣たちの通り道であり、ファウストが倒れていることによって、彼らの生活を邪魔しているのかもしれない。錆びついて鈍くはあったものの、ファウストは思考をわずかばかり取り戻した。
     依然として身体は鉛のように重たく、震える腕の力を振り絞り、身体を引き摺って傍に見えた木の洞の中に収めることができた。そこでまたしても全ての力を使い果たし、そのまま気を失うようにして目を閉じた。
     それを遠くに見ていた一匹の牡鹿が、恐る恐るファウストに近づいてきた。洞からはみ出て、だらりと垂れた手の甲をひと舐めする。
     今のファウストには、何の感覚もなかった。獣が傍にいることも、肌に触れたことも知らない。
     やがて風がそよぎ始めると、雨雲はどこかへ行ってしまった。緑をふんだんに孕んだ薫風が通り抜けていく。ここは、嵐の谷と呼ばれている場所だった。天候は変わりやすく、雨も多いために植物が繁茂している。歩けども歩けども、似たような景色ばかりで目印になるようなものもない。一度迷い込むと出ることができない、迷い谷とも言われている。
     小さな羽虫がファウストの頬に止まったのを、牡鹿が頬ずりするようにして払ってやった。
     木々の隙間から透明な光が零れ落ちて、まだらに地面を照らす。ぐんと草木の背が伸び、白い小さな花の蕾が次第に膨れる。耳をすませば、自然の呼吸が聞こえる。見えなくとも水の音が、土の中から、あるいはどこかのせせらぎから、大木の内側から、そこここで血液のように流れているのが聞こえる。
     さわさわと葉が音を立てて、大きなざわめきとなると、またあたり一帯は暗くなり、雨が降る。暗くなり、明るくなり、晴れてそして雨が降る。何度繰り返したのか、目を閉じたままのファウストには分かりようがない。
     しばらく近くをうろついていた牡鹿の姿はもう見えない。一向に目を覚まさない生きものに飽いたか、いなくなってしまった。
     咲いた白い花が種を落とし、新しい命が芽生え、やがて枯れていく。それからまた新しい芽が出て、茎をのばし、蕾を付け、花開く。永遠のように繰り返す植生を無視して、ファウストだけがこんこんと木の洞の中で時を止めていた。
     汚れて襤褸くずになっていたファウストを綺麗に、その泥や汚れを流すかのように、うす明るい空から、風で横に吹き付ける霧のような細かい雨が降る。これは直に止むだろう。
     その証拠に、ちちち、と鳥が明るく鳴いた。
     ファウストの紫石英にも似た目が開いた。人の気配のない代わりに、精霊の気配が濃い、見知らぬ土地にいた。
    「どうして……」
     突如聞こえた声に、ファウストは肩を竦めて辺りを素早く見回し、周囲を警戒した。ファウストは自分が無意識のうちに声を発したことに気が付かなかった。何年も何年も、あまりにも長い間昏睡し続け、自分の声を忘れてしまっていたのだった。
     ここにはどうやら自分と精霊以外はいないということが分かって、先ほどの声が自分から零れ出たことに気付く。
    「あ、あ、あ」
     意識が戻ると、突然、身体の内から憎悪と後悔が勢いよく噴出しはじめた。この世に生まれたばかりの赤ん坊のように喘ぎながら、生まれて初めて言葉にならない人を呪う言葉を吐いた。
    「どうして、どうして」
     これより先の言葉を紡ぐことができない。頭に浮かぶ全ての言葉が適切ではない。
    (どうして親友は僕を裏切ったのだろう)(人間を信じることはできない)(どうして僕はそれに気付くことができなかったのだろう)(僕が至らないせいだったのかもしれない)(どうしてフィガロ様はどこかへ消えてしまったのだろう)(あの方がいてくれさえすれば)(僕が至らないせいだったのかもしれない)(愛想をつかされたのだ)(どうして)(いいや僕が……)
     取り戻した意識と共に、友人だった男に裏切られて火刑に処せられ、尊敬していた師匠に見捨てられた事実がファウストを襲い、苛んだ。
     ひとを、何者かに形作るのは、肉体と精神のどちらが先だろうか。
     ファウストにとっては(不)幸なことだったかもしれない。肉体が倒れるより先に精神が倒れていれば、きっと肉体ごとファウストは破壊されていただろう。しかし、精神よりも先に肉体が力尽きた。(不)幸なことに、この土地の精霊とも相性が悪くはなかった。ファウストの虫のような息から滲み出る魔力は、知らず自然と精霊と呼応していた。人間であれば死んでいたはずの酷い火傷跡は、驚くべき再生を試み、爛れて赤く引き攣り、皮が剥けたままでありながら、それでもどろどろに溶け、異形になりかけた皮膚をひとの形にまで戻していた。
     ファウストは恨みのまま終ぞ異形に成り果てることはできなかった。
     錯乱した理性は、あくまで理性であり、雨でぬかるんだ土を両手で掻いて、襲い来る狂気をひとの形で耐える。回復した肉体が、精神の許容を、限界の天井を高くしていた。とはいえ、常人ならば呆気なく堕ちている狂気に届くことがないのは、もともとのファウストの精神が、他の追随を許さないほどの高潔さを持つものであったからに他ならない。けれど、今ここにそれを知るものは存在しない。
     過去が現在を侵食し、頭の中で幻影の死者がファウストを責め立てる。ファウストにとって、それは幻影ではなく、自らの罪そのものであり、責任から逃避するための言い訳、己の弱さの証拠だった。
     これからはどう生きていたらよいのだろう。自分を信じて付いてきてくれた同胞たちに顔向けができない。
     カツン、と腕が硬い何かにあたった。腕に痛覚はもはやないものの、何か、存在自体が妙に気にかかり、被っていた泥を何度か払ったそれは、鏡であった。ファウストの魔道具だ。どうして、こんなことまで今まで忘れていたのだろう。ファウストは、毎晩鏡の前で懺悔するのが日課だった。
     全てを映す鏡。今そこには、ひとりの醜い男が映っていた。身につけていた白い服は泥水が染み込み黒い襤褸となっていた。ひどく似合っている格好だとファウストは思った。これが自分にとって本当にふさわしい姿なのだと、次第に笑いが込み上げてきた。
     今まで実際にやることはなかったが、ひとを呪う方法を知っている。祝福と呪いは表裏一体、どちらかを知れば、どちらも自ずと分かってくる。どんな魔法も使い方次第だと、ファウストは教わっていた。
     長いこと喋ることも笑うこともなかった体では、すぐに胸が苦しくなる。ぜいぜいと肩で息をし、朦朧とする意識の中で、必要な道具と材料を思い浮かべた。
     死んだばかりの生きものの死骸、斑蜥蜴を百日の間天日干しにしてから臼で挽いた粉、沼地の最低でも一ヶ月は澱み滞留した泥水、その他に、呪う対象にまつわるもの。
     あの男を呪ってやろう。呪って、僕はどうするのだろう。誰も帰ってはこないというのに。いいや、人間は憎いはずなのだから、呪われるのも道理、呪ってやるのも道理だろうと、媒介を――。
     媒介になるようなものは、もはや自分自身しかない。死にかけの生きもの、親友だったものから受けた裏切り、皮の剥けた皮膚は、しかし焦げていて弱すぎる。組んだ肩も、酒を回し飲みした時の唾液も、必要なものをなにひとつ今のファウストは、所持していない。
     何もせずとも、ファウストを置いて、時は経った。どれほど経ったのか。人間が生きている時間は、魔法使いよりもよほど短いのだと不安になったことがあった。実感が持てないまま、漠然とした不安に苛まれたことすら遠い昔のように感じる。
     知った気配がない。人間は、とうに死んでしまった。過去何度、戦で離れては存在を確かめるためにその気配を探っただろう。やろうと思えば、未だに容易く彼の存在を探ることができる。中央の国で人間だけに優しい国を成立させ、その頂点で驕っているのだと思いたかった。時は虚しく人に老いを与え、人を死に至らしめ、過ぎていく。ファウストが手を下すことなく、もうこの世にはいなくなっていた。知った人間は、もう誰も。
     己の愚かさに、ファウストはなおも喘ぎながら笑った。笑いながら喘いだのかもしれない。
     苦しくて土を藻掻こうとして、腕がずるりと滑って、ファウストは身体ごと逆さまに斜面を落ちていった。
     とぷり、と静かな音を立てて入水した。透明な青い川が流れていた。上流から流れてくる水は、雪解けのキンとした冷たさを残したまま清らかに静かに、下流にさらさらと流れている。
     これでファウストの身体に燻っていた熾火は完全に鎮まった。落ちて沈んだ水底から、小魚が泳ぐ青い空が見えた。そうなると、すべてのことが、もうどうでもいいように思えた。
     ファウストはこのまま流れに身を任せようとして、こちらに向かって懸命に鳴いている黒い猫を視界の端で捉えた。こんな場所にも猫は存在するのだと、微かに口元を綻ばせかけ、ふと黒とは別の白い毛玉が近くで溺れかけていることにハッと気付き、どこから湧いて出たのか分からない力を振り絞り、慌てて泳いで猫を救出しに向かった。
     水底から這い上がったファウストは、仲間であろう黒い猫のもとへ白い猫を届けた。
    「本当にすまなかった」
     きっと自分が滑り落ちたときに、無関係の生き物まで巻き込んでしまったのだろう。
     ファウストは、どんなに感情を苦しみに蝕まれても魔法を呼吸のように忘れることがなかった。使うことも、使い方も、徹底的に自分の意識に、身体に沁み込んでいる。子どものころに拙い魔法で歪な治療をしたときとは違う。今はごく自然に呪文を唱え、猫の身体を乾かし、木の枝にでも引っかけたのか、不自由に固まっていた足にもきちんと治癒の魔法をかけることができる。
    「ふふ、くすぐったいよ」
     白い猫は、お礼のつもりか、ファウストの指先をざりざりと舐めてにゃぁと小さく鳴いた。黒い方も、まだ少しの警戒を持ちつつも、ファウストに近寄ってきていた。
     姿かたちも仕草も猫のように見えるが、これらは猫ではない、精霊が猫の形をしているものである。もちろんファウストもすぐに気付いた。
     誘惑に負けて、猫のようにじゃれる精霊の顎の下を撫でる。
    「きみは、ここがどこだか知っている?」
    ――嵐の谷
    「あらしの、たに……。僕は、遠く東の国まで来ていたのか」
     川の水で冷やされた頭で、すぐさまかつて師匠が持ち出したこの世界の地図を思い浮かべることができた。同時に胸がつきりと傷んだ。中央の国の田舎地で育ち、狭い世界しか知らなかった無知な若者に、師匠は様々な国があることを教えてくれたのだ。その教養を、世界のために役立てることは叶わず、ひとりきりで迷い谷にいる。
     ぽたぽたとうねる前髪から垂れた雫が、精霊の顔を濡らして、精霊は首を勢いよく降って水を払った。
    「ああ、本当にすまない」
     ファウストはそれまで顧みなかった自分自身を振り返り、すぐに濡れた身体を乾かす魔法をかけた。谷の水が汚れの全てを落とし、草臥れてはいたものの、身体はすっかりきれいになった。それでも火傷のあとはくっきりと刻まれている。
    「僕は本当に馬鹿だな」
     ファウストは仰向けに転がった。目を閉じると、さわさわと風が草木を揺らす音がする。耳と神経を済ませ、深呼吸をする。土地の息吹と自身の呼吸がどんどんひとつに収斂していき、そのまま一体になるかと思えた時、黒い猫の形をした精霊が、ファウストの胸に飛び乗った。
     うっとファウストは呻いて、飛び起きた。
     精霊は、ファウストが受けた衝撃には知らんぷりで、気まぐれにどこかへ駆けて行った。いなくなった鬱蒼と茂る森の獣道を、ファウストはじっと食い入るように見つめた。がさがさと音を立てて歩いてる何かがいる。
     まるで誰かがやってくるのを期待しているような素振りだった。あの草叢を分けて、会いたいひとが――。
     そんなお伽噺は存在しないことなど、ファウストもよく分かっていた。一瞬でも浮ついた思考をした自分の愚かさに腹が立った。
     自嘲するファウストの前に出てきたのは、一匹の野兎だった。狼にでも襲われたのか、全身血だらけで、息も絶え絶えの様子だった。背中に立てられた爪痕から赤々とした肉の色が見え、傍目に見ても、もう助からないことが分かった。魔法は万能ではない。もともとの生きたものが持つ治癒力を高め、生存の手伝いをするだけにすぎない。狼から逃げられたことが、幸運に近い。いっそ喰われてしまえばこんなに痛い思いをすることなどなかっただろうに、諦める前に生存本能が逃げろと身体を動かしたのだろう。
     じゅうじゅうと喉から血が零れているが、虫の息だった。
     ファウストは、それでもこの野兎を憐れだとは思わなかった。ファウストが楽にさせてやることも可能だったが、ひとを前にして、逃げることは叶わないながら濁った目で睨むようにして無言の抵抗をしている。ファウストはただじっとこの懸命に生きた野兎の健闘を視線だけで讃え、最後まで見守った。
     野兎はファウストを睨んだまま絶命した。生きている間は全身で他者を拒絶するように毛を逆立てていた野兎を弔うため、ファウストは汚れることも厭わず、血だらけの身体に触れた。ほどよい筋肉の張りのある身体は、まだ生温かい。
     ファウストが子どもの頃、大人たちに混じって狩猟に出かけ、初めて仕留めた獲物も野兎だった。あの頃は、ひとりでよくやったと大人たちは褒めてくれたが、よくよく考えなくとも、ファウストの自力などではなく、ほとんど大人たちがお膳立てをし、仕留めやすいように仕向けてくれたのを、最後にファウストが矢で射抜いたに過ぎない。つい先ほどまで生きていた生きものの温かさに、命を奪うことの、命を食べることの意味について、初めて知ったのもその時だった。けれど、残酷なことだとは思わなかった。
     家に獲物を持ち帰ると、祖母も母も妹も、今晩はご馳走だと喜んだ。祖父はすでに鬼籍に入っていた。
     四人で切り分けた兎のパイ。ファウストは言うほど肉が好きというわけではなかったが、滅多にありつけない馳走に浮かれる家族の姿が嬉しくて「これからもっと僕が頑張るよ」と言ったことを思い出した。ようやく家族の力になれたような気がした。
     当然、既に家族ももう誰もいなくなっている。ファウストのことをどう聞いただろうか。ファウストのせいで不憫な思いをさせていなかっただろうか。もはや、過去のこと。過去に祈ることに意味はない。
    《サティルクナート・ムルクリード》
     小さく呪文を呟いた。
     野兎は土に還されることなく、ファウストは、手にした小さなナイフで野兎の腹を割き、内臓を取り出した。生臭いにおいに反応して、ピイーと姿は見えないものの、猛禽の鳴く声がする。皮を剥ぐと、魔法で熾した火にそのままかけ、丸焼きにした。
     パイなどといった上等なものは、今のファウストには作れない。自分ひとりだけのために、パリパリによく焼いた野兎の肉をナイフで削いで、ぱくりと一口、いつぶりからも分からない食事を久しぶりに取った。腹が減っていたかといえば、そうではない。もともと食の細い方で、そもそも魔法使いが食べものなどなくとも生きていけることは、現在のファウスト自身が証明している通りだった。
     正直なところ、ファウストにはこの味が美味しいかどうかは分からない。筋肉質な兎の肉は、何年も、何十年も動かしていない顎には硬く、疲れる。しかし、飲み込むたびに、じんわりと胃と腹のあたりが温かくなって、指先に少しずつ力が戻ってくるように感じた。
     腹がきついと感じるまで、ファウストは無心で兎の肉を食んでいた。
     獣のにおいに連れられて、辺りには野生の動物たちが寄ってきていた。焚火を怖がって、ファウストの近くまでは来られない。
     ファウストは体内によく血が巡り、力の入るようになった足ですっと立ち上がると、火を消し、大きな木の股のあたりにまで移動した。傍に来た生き物たちに後を譲ってやったのだった。
     ファウストには目もくれず、狼やタカ、梟の後には狐などが生きるために肉の残骸を漁りに来るのをじっと見ていた。
     夜が来て、また朝が来る頃には、野兎は骨だけの姿になっていた。ファウストは、それを丁寧に土に埋めて、手を迷いのなく祈りの形に組んだ。生きものの死骸が出たことで、微かに乱れていた土地の澱みが少し収まった。
     精霊の拒絶がないことを感じ、ファウストはここを住処にしようと決めたのだった。
     まだ何もない大地に再びファウストは横たわり、目を瞑った。眠気というものを久しぶりに感じていた。腹が満たされると、眠くなるという摂理を思い出し、少しずつ身体が人に戻ってきたように思えた。
     
     とろりと重たい瞼をやっとの思いで押し上げる。暖炉の前で揺れる椅子に座り、ファウストはうたた寝をしていたらしい。混沌とした意識の中で、獣のように外で過ごしていたことを夢に見ていた。昨日までのことのように思えるのだが、ファウストが小さな家を建てて、呪い屋として仕事を始めてから三桁の年は経っていた。
     ふるりと肩が震えた。窓からは丸い厄災がよく見えた。夜だった。
     嵐の谷の夜はいつも冷える。どんなに冷えても、雪はほとんど降らないのだとファウストが気付いたのは、ここに家を建てて数年経った頃だ。
     夜の精霊たちは、比較的凪いでいる。これが人間や、谷に馴染む魔法使い以外が間違って谷を彷徨いはじめると、ざわざわと風が騒めき、混乱に陥る。
     ぽう、と青白い光が窓から滲んで見えた。これは、谷に住む厭世の魔法使いからの、誰かが谷に迷い込んだという知らせだった。こんな知らせは初めてのことだった。しかし知らせを受け取る前にファウストも気付いていた。精霊たちが、急にお喋りをやめたようにしんと鎮まり返った。空気が、谷の生き物たちが、鳥も虫も呼吸を止めた。一瞬の沈黙。
     これはとても珍しいことだった。ファウストは突然胸騒ぎがして、椅子から音を立てて立ち上がった。精霊たちが、侵入者を警戒をしている。この谷は精霊が支配している。嵐さえ起こしてしまえば、人も弱い魔法使いも、行くべき道を失い、谷に取り込まれる。取り込む力を持っている。嵐を起こす前の一瞬の静けさも感じられないうちに、突風が吹きつけ、道という道をなぎ倒し、目印を失ったものたちの方向感覚は乱される。どちらへ進むべきかも分からぬまま、あるものは導かれるようにして森の中に取り込まれ、あるものは異物としてどのような形になるかは運次第、排除される。
     どちらでもない場合を、ファウスト自身は経験したことがない。何者かが前触れもなく訪れた気配に、己の感覚を澄ませた。
     一歩、また一歩ずつ近づいてくる何者か。精霊たちがまるで怯えているかのような張り詰めた空気。異質な存在は、森の中に生きる長老の威厳を纏い、他者に畏怖の念を与えている。
     凍てつく水の香りが鼻腔を擽った。ハッとファウストは思わず口を抑えた。この気配を自分は知っている。心臓が大きく跳ねた。ファウストは、ほとんど意識せずにそれまで磨いた鋭敏な探知の力を眠らせていたのだ。期待したくなどなかった、もう期待などしないと決めていた。期待しないことを決めるというのは、結局のところ心の奥底で期待していないと出来ないということに、見て見ぬふりをしていた。
     厚い雲が垂れこみはじめ、異物が通った後を洗い流すかのように強い雨が降り始めた。しかしその雨は、侵入者の足音をかき消してしまった。
     ぴか、と外が光ると同時に、ファウストの家の扉が勢いよく開かれた。
     ファウストは、首を扉の方に向け、目を見開いて、呆然とした。
    「フィガロ様……」
    ――ファウストは見捨てられたわけではなかったのだ! 心配して様子を見に来てくださった!心配してくれるのであれば、いつか訪ねてきてくださる。
     脳裏をかすめた喜びと、現実。目の前の男には、影がない。
     ファウストは、それが意味することをよく分かっていた。
     一拍遅れて轟音がする。ファウストが、間違えるはずなどない。
    「いつまで経っても、僕は、馬鹿みたいだ」
     魔法を唱えるまでもなかった。
    「きみに会いに来たんだ」
     聞きたいと思っていた言葉は、雷鳴でかき消された。
     

     パチパチと焚火が燃える音がすると思ったが、それはファウストの気のせいだった。
     ファウストはベッドに横たわっていた。横たわったまま、首だけを少し捻ると、近くで肩に白衣をかけて、医者然としたフィガロが椅子に座って、窓から入る銀色の月明かりを頼りに本を読んでいるのが見えた。ただでさえ白い面が不健康に青白く、ぼうと発光しているかのようだった。
    「僕は……」
     フィガロには、ファウストの声は聞こえていないようだった。
     朝になって目覚めたファウストは、これ以上の世話にはなれないと、果敢に外へ出たはずだった。雪の女王の到来にひれ伏し、意識を失ったのは、現実だろうか。
     昨晩と同じベッドで、同じように寝かされている。今さらながら、ここに来てから時計を見ていないことに気が付いた。どこにも時計が当たらないのだ。時の流れが止まったように、昨日も今日の明日も曖昧に溶けているような感覚。
     夢の中で夢を見ていた。今もまだ夢から醒めているのか定かではない。果てのない夢の中で微睡んでいる。
     ファウストの耳の奥で、パチパチとずっと火が小さく爆ぜて燃えている。不快と言えば不快だが、こんなこには慣れているとも思った。
     ファウストは、ふと月に照らされたフィガロに、影ができていないとに気が付いた。
    「あなたは……」
     ファウストはきちんとはっきりと問いかけた。声が聞こえていないはずがないというのに、フィガロは振り向かなった。声が聞こえていないだけではなく、ファウストがここにいることにすら気付いていなかのような態度だった。
     ファウストも、これにはさすがに腹が立った。
    「おい」
     ファウストの口調は、つい厳しいものになった。起き上がって、フィガロの方へ思い切って近づこうとした時、パッと窓から差し込む月光の眩しさに目が眩み、この明るさは、どうしたことだろうと思わず外を見てしまった。
     忌々しいほどに丸く大きな月が、地上に迫って落ちてくる錯覚に陥った。
     吹雪は止んで、一面の雪野原は、水晶でも敷き詰められたかのようにきらきらと輝いている。よく見ると、きらきらと光るのは、雪ではなく、虹色の宝石にも似た石たち。輝く石がいくつもごろごろと転がっていたのだった。
     遠くで、ガラスの割れるような高く澄んだ音が響いた気がした。
     

    「ファウスト先生! 」
     歳若い魔法使いの悲鳴のような叫び声を、ファウストの耳は辛うじて捉えた。
     月は厄災である。どんなに冴え冴えと美しくとも、年に一度、最もこの世界に接近する日に、それを選ばれし賢者の魔法使いたちで、もとの天高くへと押し返さなくてはならい。月が愛する世界、人々はそれを愛でながらも忌み、怯え、恐れ慄いていた。
     ある年の厄災はおかしかった。歳若い魔法使いには大儀だろうが、ある程度年長の魔法使いにとっては、厄災を押し返すことは面倒ではあったが、特別困難な作業というほどのことでもなかった。
     目の前に迫りくる厄災の記憶。ファウストの視界が鮮やかな黄金色に染まり、ちかちかと明滅する。何も見えなくなったと同時に、身体から黒い煙が上り、呪いのように内部から厄災に蝕まれていることが分かった。ファウストはもう終わりだと思って、心臓を貫くような痛みと苦しみに襲われながらも、ほっとした気持ちになった。
     ぐったりと生気を失った青白い顔で倒れた瀕死の身では、誰が今、自分の手当てをしているのか考える余裕もない。治癒の魔法は、繊細で難しい。治癒は魔力の強さだけでどうにかできることではないのだと言って、魔力も充分であるにも関わらず絶えず研鑽を欠かさない、かつてファウストが師匠と仰いだ男の、背中に一筋のひやりと冷たい水が流れるような、それでいて水が通った後から追ってくるぞわぞわとした柔らかい温もりの干渉を、ファウストはこんな時でも思い出すことができる。その繊細さからはほど遠く、苛烈な雷を伴う前触れの風のようにファウストの魔力に干渉する力がファウストを辛うじて繋ぎ止めている。それだというのに、ファウストは、懐かしい魔法の水のような気配の鱗片だけを嗅ぎ取った。
     仲間の魔法使いの力の甲斐なく、今にもファウストの命の灯は、虚しく消えかけている。
     走馬灯のように振り返るファウストの人生の半分以上は、呪いを生業としている。掘った穴のひとつに、いつか入れられる時が来るのを待っていた。
     ファウストが幼い頃から祈り続けていた神に実体はなかった。どんな姿をしていると想像したことも、存在を疑うこともなかった。
    「神様……」とうわ言のように呟いて、ファウストの魔道具がぺかりと輝く。
     鏡には何も映らず、何も見えないのだ。神も何も。己の顔すら、大切な人の顔すら、ファウストを慕ってきたものたちの顔すらも。
     ファウストは、かつて会いたい人に会えると、たくさんの同胞たちを看取ってきた。いざ自分の番になると、会いたい人の顔も思い浮かべることができない。すぐそばで「ファウスト」と自分の名前を呼びかけてくれる人々が誰であるかも、もはやどうでもいいのだと思考を放棄したかった。
     ずっとずっとうるさいくらい誰かにファウストは名前を呼ばれている。ファウストが誰かの呪いであり、望みのように。

    「僕は『ファウスト』。死にぞこないの魔法使いだ」
     頭の中で反響する様々な声に呼応するように、無意識にファウストは自らの名前を口に出していた。ずっと自分の名前だったにも関わらず、この時自分の名前を初めて口にしたかのように、ぎこちない言い方だった。しかし、口に馴染む響きであった。

     自分の声で、目を開いたまま見ていた夢から醒めたファウストは、目を瞬かせ、もう一度外の月を見た。それは地上から高く離れ、適切な距離を保ち、中天にかかっていた。
     振り返ると、フィガロは部屋からいなくなっていて、白衣だけが床に落ちていた。ファウストはそれを拾い上げた。その下から、ごろりと光る石が出てこないことに安堵した。
    「この期に及んで、どうしようもないな」
     ファウストは溜息を吐いた。
     この部屋には、自省するための鏡など一つもない。客室ならば一つくらい鏡を置いておいてもよいものを、敢えて置かなかったのか、幽霊に鏡など必要がなかったのか。
     ファウストは白衣をベッドの上に畳んで置いた。それからフィガロが座っていた場所に移動すると、そのまま椅子に腰を下ろした。
     そろりと裾を捲って自分の足を確かめた。そこには、傷跡ひとつなく、ただの生白い足が揃っている。ファウストは生まれてこの方、大怪我をしたことがない。健康で丈夫なのが取り柄だった。火傷のあとも痛みも知らない肌のはずが、ぴりりと痛んだような気がした。過去、それもファウストが生まれるよりもずっと前の、信じられないような大昔のファウストの話。きっと、誰かに離したら、頭を心配されてしまうかもしれない。けれどファウストは、凪いだ気持ちで全てを受け入れていた。
     これまで生きていたファウスト・ラウィーニアと、今日いまこの時点のファウスト・ラウィーニアは、同じようで違う。これまでの自分から脱皮して、生まれ直したような気分だった。子どもの頃からの妙な勘の鋭さも、不思議も、むしろ納得がいった。腑に落ちることがあると、安心するものだ。これが記憶といっていいものかは測りかねたが、このまま何も思い出すことがないよりも、よほど理由がわかってファウストはすっきりと憑き物が落ちたような気分だった。
     月の位置が、時が止まったように全くといっていいほど変わらない。窓からちらちらと月光に反射する光が入り込んで、ファウストをちくちくと刺すようだった。
     ファウストにとっては、こんな怪異はもう今さらのことだ。
    「何が、『口説いている?』 だ。なにが『今生一度も会ったことはない』だ」
     ファウストは、初めから言ってくれたらよかったのに、と思った。フィガロは、いつだって肝心なことは何も言わない。
    「どうして、こんなことを……」
     自分に都合のよい夢を見ていたようで、いたたまれない。今さらこんな夢のような夢を見せられて、ファウストはどうしたらいいのだろう。
     ファウストには生まれ直しても、一生フィガロの考えていることなど分からない。そのことが無性に腹立たしかった。
     ひょっとすると、アレクもレノックスも、何もかもを知っていたのかもしれない。きっとそうだろうと確信めいた予感があった。
     罪滅ぼしのつもりなら、きっとファウストは胸倉をつかんで怒鳴っていた。今を生きているファウストに、過去を理由に何かをしてもらう理由も理屈も何もない。けれど、ファウストは確かにそうではない、親愛の情を受け取っていた。
     ふつふつとファウストに、それとは別の怒りの感情が沸いてきた。
     フィガロを掴まえて、説明をしてもらわなくては気が済まない。ファウストは、フィガロが原因だと無意識に決めつけていた。こんなことは、フィガロならば造作もないと信じ切っていた。
     ファウストがよく思い返してみれば、ここは過去にフィガロが住まいとして使っていた館にそっくりな設えの屋敷である。であれば、フィガロがどこに自分の寝室を作っているかなど、ファウストが把握することは容易かった。
     立ち上がって、フィガロを探しに行くためにドアノブに伸ばしたファウストの手は、わずかに震えていた。
     屋敷はがらんとしている。外の音は雪がすべて吸い込んでしまっているかのようで、風の音すら聞こえない。
     静かな屋敷の中を歩いていると、ファウストは修行していた頃、ひとりでその日の復習をしようとこっそり屋敷から出ようとしたことを思い出した。
     屋敷全体に張られていた結界にすら気が付かないほど、未熟だった頃のことだった。一歩外に踏み出す前に、後ろからフィガロに声をかけられた。休むことも修行のうちだとして、初めて手を引かれて、フィガロの寝室に連れられた日があった。シュガーを入れられたホットミルクを差し出され、昼間の厳しさとは打って変わって、子ども扱いに面映ゆい気持ちになった。
     次に思い出したのは、賢者の魔法使いとして、共に酒を飲み合うようになったこと。テーブル越しにかち合う視線の意味が変わったのが分かった。
     その次を思い出そうとしたところで、自然と向かっていた足がぴたりと止まり、フィガロの私室に辿り着いた。
     ファウストは小さく息を吸い込んでから、コンコンと小さくノックをした。
    「どうぞ」
     中からフィガロの声がした。
     一拍置いてから、一言「入るぞ」と言って、ファウストは部屋の扉を開けた。
     部屋の中で、フィガロは先ほどファウストが見た幻のように、カーテンのかからない窓のそばに座って本を捲っていたようだった。何の本かは、今のファウストに正しく読解のできない言語でタイトルが書かれていて分からなかった。
     この部屋は、ファウストが魔法使いだった頃、賢者と二十一人の魔法使いで暮らしていた魔法舎のフィガロの私室に似ている。
     窓から差し込む月の光に照らされたフィガロの輪郭は、朧気に見えた。しかし伸びた影が、フィガロには実体があることを示していた。
     先ほどまでの勢いが嘘のように、ファウストはたった一歩進めばフィガロの部屋に入れるにもかかわらず、その場にとどまったまま、どう切り出したらいいのか逡巡していた。
    「おいで」
     フィガロは、ドアを開けたまま立ちすくんでいるファウストに、少し困ったように、我儘を言った子どもを前にしたような表情で笑いながら言った。
     ファウストは、そんなフィガロを前にした途端、急に自分が駄々をこねる聞かん坊になったように感じて、いささか己を恥じ、顔を赤らめた。言いたいことは、たくさんあったはずだった。
    「おいで」
     二回目は、いささか命令の響きを帯びて、ファウストは自然とその声に従って、フィガロの近くまで歩みを進めた。
    「よく来てくれたね。俺は、きみとは違って、部屋からきみを追い出したりはしないよ」
    「どうして、わざわざそんなことを言うんだ。おまえは、本当に相変わらず最低なやつだな」
    「そうそう、そうこなくっちゃ」
     わざとらしくウィンクをするフィガロに、「この期に及んで茶化すな」とファウストは捲し立てた。
    「それに、どうして、あんな夢……。おまえの仕業だろう。だいたい、なんだってこんなことを」
    「わ、待って、ストップ、ファウスト!」
     フィガロは勢いがついて、どんどん自分に迫ってくるファウストの肩を両手で掴み、その勢いを止めた。
     緑柱石が埋まった瞳と、紫石英の瞳が近い距離でかち合う。
    「す、すまない。つい、こんなこと、てっきり、僕はあなたに違いないと勘違いして」
    「一旦、座って話さない?お茶でも出そうか?」
    「いらない。というか、あなた、飲み食いできるのか?」
    「やだな、忘れたの?してたじゃない」
    「あ、そうか」
    「思ったより、動転している?」
    「そんなんじゃない」
     ファウストはムッとなって言い返した。
    「あはは。俺は幽霊じゃないよ」
     たぶんね、と付け加えて、フィガロはベッドの上に行儀悪く座った。隣の空いた場所をぽんと軽く叩き、ファウストに座るよう促した。
     ファウストは、フィガロの隣に拳一つ分ほど開けて、遠慮がちに浅く腰かけた。
     沈黙が降りる。ややあって、フィガロが妙に明るい調子で口を開いた。
    「ファウストと会うなんて、何年ぶり、いや何百年?ひょっとして何千年と経ってる?」
    「茶化すなと言っただろう。いい加減にしろ」
     ファウストは、今度は自分の意志できちんとフィガロの目を見て言った。
    「ちゃんと話して」
     フィガロはわずかに目を伏せた。
    「……。ごめん。嬉しかったんだ。きみと会えて」
    「説明になっていない」
    「分かってる。でも、俺にも説明しようがないんだよ。死んだと思って気付いたら、ここにいた。魔法も使えないし。嘘みたいな話だけど」
     フィガロは頬を掻き、気まずそうに言った。
    「信じてよ。本当にこんなところで嘘はつかないよ」
     ファウストは魔法が使えないフィガロを笑わなかった。魔法が使えないフィガロを見た記憶は、最後のほんのわずかな時。この人は、こんなにもはっきりと、こんなことを言う人だっただろうかと思った。
     ファウストは、そろりとフィガロの手に触れた。一瞬だけフィガロの指先が痙攣したようにぴくりと反応した。
    「当たり前だけど、今の僕にも魔力なんてものはない。あなたに触れても、やはり魔力の有無なんて分からないな」
    「きみさぁ」
    「何か変なことをしたか?あなたを傷付けた?疑ったわけじゃないんだ。でも、ひょっとしたらとも思って」
    「いや……」
     フィガロは脱力した。
    「ところで、レノックスは?彼もいただろう」
    「示し合わせたわけじゃないよ。偶然なんだ。レノと会ったのは。あいつも気付いたらこんなところにいたってさ。きみを待つのに、それぞれが丁度いい場所ってものがあるだろう。だからレノはずっとここにいるわけじゃない。たぶんね」
    「どのくらいこんなところに?」
    「どうだろう。ここにいると、そういう感覚がないんだ」
     ファウストは屋敷に時計がなかったことを思い出した。その様子をみて、フィガロは満足そうに頷いた。
    「ほら、きみは気付いていただろう」
    「飼い被り過ぎだ」
    「そう?」
     眉を下げて、ファウストはこれには答えなかった。
     そしてファウストは、こほんと一つ咳ばらいをして、意を決したように姿勢を正すと、フィガロを真っすぐに見つめて聞いた。
    「あれは、僕の願望だったのか」
    「違うよ」
     フィガロの返事には迷いがなかった。
    「おい、やっぱりこれはおまえのせいじゃないか。それに僕の夢は、相変わらず零れ出ているのか」
    「ち、違うんだ、ファウスト。聞いて。きみの零れ出る夢は、俺にはどうにもできない。でも、チャンスだと思ったんだ。その前に思い出さなくてもいいとも、それが自然かもしれないと思った。でも、俺は我儘になっていた。きみに、俺たちを思い出してほしい。これが自分勝手なのは承知している。でも、思い出すことによって、きみに傷付いてほしくなくて。正確に思い出す必要はないと思ったんだ。そう願った。もう俺には、願う以上のことはできなかった」
     フィガロは端正な顔を歪ませて言った。
    「でも、結局きみがきみである限り、上手くいかなかったし、きみはきみのまま、夜明けを迎えた」
     俺が要らなかったみたいに、と言いかけてフィガロは口を噤んだ。

    ――生まれ変わったら、今度は俺がきみを見つけようか。約束したっていいよ。
    ――ふん、馬鹿言え……。
     嵐の谷の精霊たちが起こした嵐の中で交わした言葉を、フィガロは覚えている。
     フィガロは、ファウストだけを選ぶことはなかった。ファウストもフィガロだけを選ぶことはなかった。大切にしたいものが、たくさんできたことは、幸せなことだと思う。たった一つだけを選ばなかった代わりに、フィガロもファウストも、お互いの特別を欲した。形に残さない代わりに、誰も経験したことのない思い出をもう一度。そう言って、二人きりで静かに過ごした数日があった。
     フィガロは、その数日間のファウストの苦しそうな顔をよく覚えている。
     忘れてほしいと、忘れてほしくないのどちらも伝えることができず、フィガロの精いっぱいの虚勢をファウストは鼻で笑い飛ばした。それが、ファウストの精いっぱいの虚勢だということも、勿論フィガロには分かっていた。
     嵐の谷の夜には、目を閉じていてもフィガロが隣でいることに気付けるように、ファウストは、フィガロの心臓に耳をあてるようにして眠った。
     フィガロにはファウストのいじらしい温もりだけで充分満たされた。共に修行した一年間に、こんな温い日はなかった。例え死ぬ間際に、ファウストが傍にいなくとも、これでもう寂しくはないのかもしれないとフィガロは思った。ファウストを胸に抱きながら、寄りかかる重たさが愛おしいのだと、ようやく実感することができた。赤ん坊を抱いたときにも似たようなことを感じた気がする。長い生の果てに、ついに得られた充足感に溺れ、フィガロは初めて満ち足りた気持ちのために、息継ぎの息を吸って、そして吐いた。
     ファウストの巻き毛が、フィガロの息で揺らされる。小さな子どもがむずかるようにファウストは身じろぎをした。ファウストの唇が「いやだ」と動いた気がしたが、声に出していない以上、確かめるすべもなかった。
     ファウストは、結局それ以上フィガロに何も言わなかった。眉間に皺を寄せたまま、フィガロはファウストにそんな顔をさせたいわけではなかったが、何を言うにも適切ではなかった。ファウストの物分かりの悪さと諦めの悪さを、現実は無情に振り切っていく。何も言わないのではなく、言えないのかもしれなくとも、ファウストはフィガロに安易な憐憫の言葉をかけることはない。ファウストの眼差しだけは雄弁で、フィガロへの敬意を決して忘れたりはしなかった。
     嵐の谷は、最後までフィガロを歓迎することなく、精霊たちは容赦なく異分子に厳しかったが、フィガロが南の国へ帰る間際にだけ、ファウストの意を組んだように静かになった。
     お互いの存在を確かめるように、二人で最後に骨が軋むほどの抱擁を交わした。ハグが必要かどうかの是非を問う必要もなかった。
     蜜のように甘く、薬のように苦かった日からそう長くないある日、フィガロは重たく落ちていく感覚に身体を委ね、目を瞑った。
     次に目覚めた瞬間、またフィガロは一面の銀世界にひとりぼっち、佇んでいた。
     何処かに行こうにも、どこへも行けない。寒さも感じない、ただひたすらに白い世界で、誰かを待っていることだけを思い出した。退屈だという気持ちもなく、ない時間を浮遊している。フィガロにとって、それは懐かしい感覚だった。
     ある日突然、レノックスに会えた時には、彼もまた一つの生涯を終えたのだということが分かった。
    「待ち望むというのは間違ってはいると思うのですが。それにしても、こういうのは、性に合いませんね」
    「せっかく仕事を紹介してやった俺に言う?」
    「羊飼いは、それでも冬以外は移動していましたよ」
     レノックスはしれっとした態度で、思い立ってはあてもなく、あちらこちらを彷徨っていた。
    「フィガロ様、あちらをご覧ください」
     レノックスの姿が見えなくなったと思うと、走ってやってきて、遠くを指さした。
    「あれは……」
    「鉄道ですね」
     見ればわかるとフィガロは思った。振り返ると、靄の中から懐かしいような、いつぞやにフィガロが暮らした屋敷のようなものが建っていた。
    「そういえば、これまでフィガロ様も野営の経験が役立ったようですね」
     レノックスは皮肉ではなく、事実としてフィガロに述べた。
     近づいてきている、と二人で確信したが、互いに言及はしなかった。それは、あまりにも仄暗い喜びだった。
     万事が上手くいくわけではない。今はもう、フィガロには支配できない世界にいる。
    「何があるにせよ、俺は行きます」
     レノックスはフィガロの反応を確かめることもせず、フィガロの言葉も待たずに足を進めた。
    「また会えたら……」
     会えたら、どうしたらいいのだろう。ファウストが、フィガロを欲していない可能性は――。
     世界に初めて薄闇が降りてきて、星がひとつ、輝きを放った。月が上り始めた。

    「僕は、僕だ。お前が勝手に僕を決めつけるな!」
     ハッとしてフィガロがファウストを見ると、ファウストは震えていた。震えながら、怒っていた。
    「レノがいて、おまえがいたから、僕もここまでこれた。思い出した方が良かったかどうかも、僕が決めることだ。おまえの意志なんか知るものか」
    「だいたい、なんだ、見つけるだなんて言っておいて。結局レノックスを使いにやらせて、やっぱり信用のならない男じゃないか」
    「……覚えているの」
     フィガロは思わず目を瞠る。
    「嘘だったのか」
     ファウストの声が一段と低くなった。
    「ち、違うよ。本当にそういうつもりだった。この場合は、生まれ変わったとは違うし。俺は、レノもだけど、幽霊じゃないと言ったけど、似たようなものではある。残滓なのかも。だから……」
     続きを言いかけて、フィガロは一瞬、口を噤んだ。
    「参ったな。きみが泣くのを初めて見た」
     泣きながらファウストは眉を吊り上げて、必死に怖い形相を作ろうとしていた。
    「なんで笑うんだ。僕は、泣きたいわけじゃない、お前なんか、お前なんて……」
     抑えきれない感情を爆発させたファウストに対し、フィガロは柔らかな表情をしていた。
    「怒らないで。本当に、きみを怒らせたいわけじゃないんだ」
     はらはらと、植物の葉を伝う透明な朝露のような涙を流しながら、ファウストはフィガロを睨んだ。
     フィガロは、これまでファウストの泣き顔を見たことがなかった。
     フィガロは、ファウストの涙を大きな掌で拭った。そしてそのままファウストの血が出そうなほど噛み締めた唇に、そっと自らのそれを重ねた。
     ん、とファウストは涙で鼻が詰まって、少しだけ苦しそうに吐息を零した。
    「相変わらずこういうの下手だね」
    「は?当たり前だろ、僕とこんなことするの、おまえくらいなんだから、どれだけしてないと思っているんだ」
    「うそぉ」
    「なんだ、その反応は。殺すぞ」
    「うん。でも、きみはそんなことできないでしょう」
     フィガロはおかしそうに笑った。
     月が傾き始めている。
     窓から零れた夜のほの青い光が、ひたひたと室内を満たしていく。
    「ムーンロードみたいだ」
     それを見たフィガロがぽつりと零した。
    「あなたへ続く道ってこと?」
    「きみまで続く道の間違いじゃないかな」
    「本当に、僕は馬鹿だ」
    「そんなことないよ。ごめんね」
     言いながら、ようやくフィガロはファウストを抱きしめることができた。
     フィガロの左肩が、じわりと生暖かくなった。ファウストが落ち着くまで、その柔らかな巻き毛を何度も撫でた。
    「きみは、俺を忘れて生きたってよかったのに。きっとその方が幸せになれた」
    「今更そんな、傲慢な男。ふん。僕は、あいにく幸せになるつもりなんてなかったんでね」
     ファウストを腕に抱えながら、まだ少し煮え切らなさの残るフィガロをファウストは愛おしいと思った。
     フィガロにとってファウストが未練だとして、ファウストにとってもフィガロは、唯一の存在だった。
    「ごちゃごちゃうるさい。僕の目を見て、ちゃんと言って」
    「……。敵わないな。次は、俺が、きみを迎えに行くよ」
     今度こそ、絶対に約束しよう。
     ファウストは、また一筋の涙を流した。透明で澄んでいて美しい雫が、やがて部屋を満たす光に混じって消えていった。
     コンコン、とドアをノックする音がする。
    「名残惜しいとは思いますが、どうやら出発の時間のようです」
     腕時計を見ながら、駅員の姿をしたレノックスが現れた。
    「レノ、僕はきみにも……」
    「あなたに、また会えてよかった。俺はそれだけで充分ですよ。さあ、時間が」
     ファウストは混乱した。フィガロもレノも、事態を自力で動かせるだけの魔力もなく、それだというのにこれから先に何が起こるかを瞬時に把握し、落ち着き払っている。
    「どういうことだ?」
     気付くと、フィガロもレノックスも、肉体がかすかに煌めいて、透けている。
    「僕は、どうしたら――」
     月が落ちて、闇が訪れた。
     

    ――汽笛が聞こえる。
     ゴーーーッというトンネルを抜ける音が耳を劈いて、ファウストは、ハッと目を覚ました。
     ガタガタと汽車が揺れている。きょろきょろと辺りを見回してみても、俯いて黙ったままの乗客ばかりで、乗り込んだときと何ひとつ変わりがない。
     外は、冬が始まったばかりの景色をしていた。灰色の空は、それでも鈍い明るさがあり、まだ雪は深くなく、うっすらと土の色が覗いている。
     ファウストは目を瞬かせ、思わず、呆然と近くにいた人に声をかけた。
    「あの、すまない。ここは……」
    「あんた、ずっと眠ってたんだろ。ひとつ山を越えて、もう少しで次の駅だよ」
     ファウストは、自分でも気付かないうちに、いつの間にか居眠りをしていたらしい。
     ガタン、と大きな音が手前から響いて、視線を前に向けると、ちょうど切符を確認しに、車掌が回ってきたところだった。帽子を目深に被った不愛想な男は、ずんぐりとした中年の濃い髭面の男性で、どう見てもレノックスではない。
     ファウストは、鞄を漁って車掌に切符を差し出しながら
    「つかぬことを聞くが、レノックスという男はこの辺の鉄道で働いていたりはしないか?」
     と聞いた。
    「はあ?」
    「いや、変なことを聞いてすまない」
     全てが長いようで一瞬の夢だったのだろうか。夢の中でさらに長い長い時を過ごしていた時代の嘘の夢を見た。しかしそれは、あまりにも身に覚えがありすぎて、むしろそちらの方が現実のようで、今が夢なのではないかとさえ思う。
     いきなりそわそわし出した様子のファウストを、一瞬だけ好奇の目で見た乗客の誰も彼も、もうファウストには関心がなくなっていた。
     停車駅が近づく。汽車が止まる前に人々は呆然としているファウストを置いて、我先にと列車を降りようと席を立った。
     完全に列車が駅に到着すると、それまで無愛想だった人々の、出迎えの家族と無事に会えた喜び溢れる明るい声が聞こえた。
     またしばらくすると、汽笛が鳴って、ぽつんと一人座ったままのファウストを列車は運んでいった。このとき、列車を見送る赤く燃える瞳をした背の高い大きな男がいたが、ファウストには知る由もない。大男は、微笑んでいた。
     ファウストが二十年ほど生きて知っている景色がだんだんと近づいてくる。

     すでにとっぷりと夜は更けて、月が出ていた。
     それまでぼんやりと夢見心地だったファウストは一変、故郷への最寄りの駅を降りて、厳しい顔をして家までの道のりを速足で歩いている。月明かりのおかげで、一人の男性の足跡が、ずっと家の方まで伸びていることが分かった。ファウストが家を出てからも村の人々が、男手のない家を心配してよく気にかけてくれてはいると聞いてはいるが、女性だけの暮らしに、村の外から良からぬものが近づかないとも限らないと、ファウストの不安は募っていった。祖母も母も妹も、機転が利き、聡明な人たちではある。不審な人間をまさか容易には招くまいと信用してはいるが、親切過ぎるきらいがある。優しさに付け入る不届き物でないことを祈りながらも、元来の勘の良さが、そうではないと告げている。
     ファウストの心臓がどくどくと早鐘のように打つのは、息を切らしているからでも、家族の安易の不安、緊張ではない、別のところからな気がしている。それでも、万が一のために、ファウストは短くはない距離を、最後はほとんど走るようにして、懐かしい家に辿り着いた。
    「ただいまっ」
     ファウストが勢いよく家の扉を開いて声をかけると、ちょうど扉の傍のキッチンにいたらしい彼の母が出てきて、彼女にしては珍しく目を丸くして大きな声を出した。
    「まあ、ファウスト!」
     まずは無事な家族の姿に、ファウストはほっと胸を撫でおろした。
    「おばあ様が、ご病気とあの子から聞いたから。それに、ここまで変な足跡が……」
    「まあまあ。それでここまで?ありがとう、ファウスト。実はね、先ほど通りすがりのお医者様が、おばあ様を治療してくださったのよ。今、だいぶ顔色も良くなって」
    「通りすがりって?本当にちゃんとした医者なの?法外なお金とか要求されたり……。おばあ様とあの子は?」
    「ふふ、心配してくれてありがとう。大丈夫、ちゃんとしたお医者様なのよ」
    「それにしたって、知らない人をむやみに家に上げるなんて」
     言い募ろうとして、コツコツと奥の方から靴音が聞こえたファウストは、音のする方へ顔を向けた。
     一人の男が現れる。
     にこやかな顔でファウストに挨拶をした、男の名は――。

    「はじめまして、ファウスト。俺はれっきとした優しいお医者さんのフィガロ・ガルシアだよ」
    Tap to full screen .Repost is prohibited
    ❤👏👏👏💕💕💕💕❤❤❤💕❤❤🙏🙏💕💕❤🙏❤❤🙏🙏❤❤🙏🙏❤❤❤❤❤❤❤❤❤❤❤🙏❤❤❤❤❤❤❤❤❤💕💕💕💕🙏❤❤❤❤❤
    Let's send reactions!
    Replies from the creator

    ms_teftef

    DONEフィガファウ/ファンタジーになる予定だったもの
    ▼あるもの
    ・意識はしていないけど、見ようによってはアレファウかも
    ・革命if
    ・フィやウサギなど死の描写(ぬるめ)
    ・捏造のファの家族
    月に追われて退場 その年の冬は、例年よりも早くやってきていた。

     ガタガタと揺れる列車の二等車の窓側で、ファウスト・ラウィーニアは、はらはらと空から降りはじめた今年初めての雪を眺めていた。
     ファウストの手荷物は少なかった。膝に抱えたボストンバッグ一つのみ。
     街を離れていく列車に、人はさほど乗り込んでおらず、数少ない乗り合わせた乗客は、皆どこか後ろめたい雰囲気で、誰とも目を合わせようとはしない。気休め程度の暖房では、窓から入る隙間風に負けてしまい、車内はさほど温かくもなく、乗客たちは着込んだゴワゴワしたほつれ気味のコートの襟を合わせ、背中を丸めて静かにじっと座っている。その中でファウストだけが、しっかりと背筋を伸ばし、どんなに揺れても美しい姿勢を保っていた。着ている服の質は、そのあたりの苦学生同様、着古してくたびれてはいたものの、出来る限りの手入れを施して身綺麗にしているのが分かる。真っすぐな紫色の瞳は澄んでいた。美しい青年は、この中で奇妙に浮いて見えた。
    57498

    ms_teftef

    PROGRESSn年後のフィガファウ前提ミチファウ
    かなり荒いので、雰囲気で読んでほしい~~
    これは作業進捗なので……
    本にするときは、もっとちゃんと整えて、その他の話ともちゃんと整合性を整えたりします。
    先生 ミチルが大人になってから初めて嵐の谷にやってきたとき、精霊たちの歓迎は散々だった。
     箒に乗って近くまで行くのに、風に乗れず、まるで箒に乗りたてのほやほやの魔法使いみたいに、あちらこちらめちゃくちゃな軌道を描き、箒に乗られているような操縦になった。そこから、谷の入り口で降りると、濃い霧が立ち込めていた。足元はぬかるんだ土と草でぐちゃぐちゃになり、時折木の根に足を取られそうになる。服は目に見えないほどの細かい水の粒が纏わりついて、ぐっしょりと重たくなり、身体が冷えていった。
     風は吹かず、空気が淀んでじっと停滞しているように思えた。教わった通りの道筋を進んでいるのに、先ほどと同じ道に戻ってきているような気がする。もうすぐ大きな瘤のある木が見えるはず。見慣れない細長い草があちらこちら好き放題伸びて、目印を隠蔽している。植物が意志を持って生えるはずもないのに、まるで故意にミチルを迷わせようとしているようだった。
    7959

    recommended works