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    ms_teftef

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    ms_teftef

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    自カプになったらいいな

    夢と骨 目覚めた瞬間に、今日は妙に温かいとぼんやりと思った。小さな手で、自分の頬を触る。いつもよりも冷たくはない。衾をすんなりと剥いで、身体が震えるような寒さがない。春になるのは、もう少し先であることは知っていた。この時期は、鈍色の空から薄っすらと霞んだ光が一日に一度差し込めば良い方で、大抵は仄暗いか暗いのどちらかであった。
     まるでいきなり冬が終わったような麗らかさな雰囲気に、妙な胸騒ぎがした。
     この世に生を受けて、まだ年端もいかないわりに妙に大人びた雰囲気の子どもは、これはどうしたことだろうと寝所を抜け出した。
     周りには親らしき大人は見当たらない。
    「誰か、誰かいないか」
     小さな口から零れる言葉は、子どもの舌足らずで甘く甲高い声には不釣り合いなほどに人を使い慣れているようだった。親を求める幼子の寂しさなどは欠片もない。
     子どもは、訝しんだ。常ならば、自分が寝所から抜け出せば、出入り口に付けられた鈴が鳴り、下女が着替えや食事を運び、あれやこれやと身の回りの世話を焼く。
     溜息を吐いた。下女がきちんと仕事をしないと、酷い目にあうことを、子どもはよく知っていた。子ども自身は、誰の世話などなくとも問題なかったが、大人たちは、そうではないようだった。子どもがその身体に触れて撫でてやると、折檻された箇所の痛みが和らぎ、治りも早くなるが、仕事を怠った下女に触れてはならぬと子どもは言いつけられていた。
     そうは言っても一度だけ情けをかけたことがある。しかしその後彼女を一度も目にすることはなかった。賢い子どもは己の失態を悟った。
     誰かに咎められる前に、見つけてやらねばならない。依然胸はざわついているものの、己の違和感よりも下女の心配の方が勝っていた。昨日子どもの元に来たばかりで何も分かっていないのだろう。
     耳を澄ますと、外から声がした。鼻歌を唄っているようだった。
     外は突き刺すような寒さがぬかるんで、外套を羽織らずに外へ出ても身体が震えだしたりしなかった。
     白い雪が反射して眩しいことなど、この頃ではあり得ないほどのことだ。
    「そなた、何している」
    「ああ、フィガロ様。今日は本当に温かくて、つい…… 」
     下女はまだ大人とは言い難い、少女の輪郭の丸さを持っていた。無邪気にもう春が来たのかもしれないと外に出てはしゃぐ娘には、満面の笑みが浮かんでいた。
     フィガロと呼ばれた子どもは、目を大きく見開いた。
     予兆はなかった。なかったのではなく、季節外れの温かさこそが、予兆そのものだったのだと、その時は気が付くことができなかった。
     どんなに賢くとも、この世に生を受けて数年の子どもに経験のないことを予測するというのはできないことだった。例え、不思議な力を有していたとしても。
    《   》
     子どもは咄嗟に口を開いた。
     どん、と大きく地が轟く音が聞こえて、瞬く間に視界が真っ白な闇に染められた。


     ぱっと目を開けば、いつもの白い天井が見えて、アシストロイド研究開発を担うフォルモーント・ラボラトリー知能機械情報部部長、フィガロ・ガルシアは自分が今までラボ内の仮眠室で休憩を取っていたことを思い出す。夢を見ていた。
    「フィガロちゃん、大丈夫? すっごい汗~。風邪ひいちゃうから、早く着替えるのじゃぞ」
     フィガロが視線を横に移すと、大きく、くりくりした目が愛らしい子どもが覗き込んでいた。
     フィガロを覗き込むのは、アシストロイドのスノウだった。眉を寄せて、いかにも心配だという表情を作っているが、彼は人間ではない。フィガロと、彼の同僚であるラスティカ・フェルチと共に開発した、人と同じく心を持つことができるカルディアシステムを搭載したロボットである。
     スノウは、子どもをあやすように、フィガロの汗で少しべとついた頭を撫でた。
    「可哀そうに。悪い夢でも見たのじゃろう。心拍数も上がっておるの」
     フィガロが白い悪夢を見るのは初めてのことではない。物心ついた頃から、たびたび同じ夢を見ている。十年以上も繰り返してなお、慣れることのない悪夢。
     脳波計測機でフィガロとスノウを繋ぎ、フィガロの脳波をスノウに共有し、フィガロの脳裏に浮かんでいるイメージをスノウに直接反映することは容易い。記録を取り、カウンセラーと対話をし、場合によっては精神安定剤の処方、メンタルケアをすべきであることをフィガロはよく知っている。しかし、それをするのは、なんとなく憚られた。自分に欠けている感情の一部のような気がしていたのだ。あまりにも根拠も論理もない話に、フィガロ自身も己の直感を恥じていた。それゆえに、幼いころから誰にも打ち明けることはなかった。フィガロは、幼い頃から周囲の子どもたちよりも図抜けて頭がよく、神童と持て囃されていた。
     フィガロは、自ら命を与え、身の回りの世話をするように親身な存在として傍に置いているスノウにさえ、昔から繰り返し見る夢の内容を話したことはない。たびたび魘されているフィガロを見ていても、スノウが夢の内容を聞くことはなかった。
    「大丈夫、大丈夫じゃよ」
     スノウのひんやりとした掌がフィガロにはちょうど良い。人間の血潮の通う生温かさは、今のフィガロにとっては、むしろ気分の悪さを助長させるものだった。 フィガロはだいぶ落ち着いてきて、大きく深呼吸をした。
    「もう問題ありませんよ。ところで、俺はどのくらい寝ていました?」
     背中に張り付いた布の感触が気持ち悪いと思いながら、フィガロはゆっくりと起き上がり、スノウに尋ねた。長いこと寝ていたような気がしたのだ。
    「ほんの一時間程度じゃ。そなた、いい加減もっとちゃんと寝ないと身体を壊してしまうぞ」
    「あのね。俺は知っての通り、忙しいんですよ。カルディアシステムの倫理や法整備やら、新規開発の他にホワイト様のメンテナンス。やることが山積みなんです」
     フィガロはうっすらと自虐とも取れるような笑みを浮かべて言った。それに対し、スノウはいささか腹を立てたようだった。
    「だから余計身体は大事にした方が良いぞ。そなたは、人間なのじゃ」
    「人間がいないとメンテナンスもされず、生命を維持できないアシストロイドが言うじゃないか」
    「今のは良くない言葉じゃ、フィガロ。何を苛立っているかは知らぬが、我らが産んでくれとそなたら人間に頼んだか」
     フィガロとスノウは一瞬にらみ合った。先に目を逸らしたのは、フィガロのほうだった。
    「シャワーを浴びてきます」
    「あと三十分でファウストとのミーティングじゃぞ」
     スノウはフィガロに調子を合わせた。これ以上の不毛な喧嘩は無意味である。
    「分かっていますよ」
     スノウの丸い頭をひと撫でしてからフィガロはシャワールームへ向かった。
     お湯ではなく、ほとんど水のようなシャワーを被る。身体はぶるりと震えたが、頭は次第に冴えていくようで、フィガロはしばらくのまま冷たいシャワーに打たれていた。


     ピコンと電子音が鳴る。フィガロのPCモニターにメール受信のマークがついた。
     ミーティングに備えて、ラボで軽く資料確認をしていたフィガロは、そのメールを開いた。
    『パパへ 今日はミスラたちと湖に行ったよ。ルチルが詩を読んだ。ロマンチックだから夫婦になるってよく分からない。けど、湖はキラキラしている世界がもうひとつあるみたいで悪くはなかった』
     短いメッセージと共に、赤毛の大型のアシストロイド、ミスラと一緒に映るオーエンの画像データが送られてきていた。後ろにいるブロンドヘアの青年が、ミスラのオーナー、ルチルだろう。フィガロは、オーエンが関わるアシストロイドやその周辺情報をきちんと確認している。 
     オーエンからのメッセージを読んで、フィガロは、思ったよりもきちんと行動の報告をしてくれる、と感心した。

     フォルモーント・ラボラトリーは、アシストロイド オーエンの独立した自由行動を許可する代わりに、一日最低一回の行動記録と連絡の義務を課していた。
     先日行われたカルディアシステムの処遇について、ラボと市長や市議会議員を交えたバーチャル会議には、もちろんフォルモーント総合研究機関理事長であるムル・ハート博士も参加していた。
     フィガロ・ガルシア博士およびラスティカ・フェルチ博士の秘密裏の開発の元を辿れば、というよりもカルディアシステムの生みの親こそがハート博士であり、一部の議員は、彼の研究の危険さを糾弾した。
    「なぜアシストロイドが人の心を持つことに怯えるの? 危険だって、心がなくたって、アンドロイドを使ったテロが横行している! それを指示しているのは誰?」
    「そう、オーナーである人間だね! 人間は危険じゃない? もちろん、人間にもよるよね! オーナーがアシストロイド自身の危険性とどのくらいの差があると思う? それはアシストロイド自身にも寄らないかい?」
    「きみのそばにいる秘書はアシストロイドだろう? きみは自信を持って、彼、ないし彼女は武器にならないと言い切れる? きみ自身が潔白だとして、何者かにクラッキングされたら?」
    「危険性なんて人間とほとんど変わらないと思わないかい? ただ、生き物は確かに、未知の存在に恐怖を抱くだろう。未知でなくすには、どうしたらいいと思う?スクラップなんて、思考停止だ。我々には考える頭脳がある!」
    「きみは感情を完璧にコントロールして飼いならせるかい? カルディアシステムを搭載したアシストロイドも然り。アシストロイドに支配される未来? アシストロイドと人間の比率が逆転する可能性もまああるね。でも考えてごらん。アシストロイドがいてもいなくても、既に人口は減退期。というよりも人口減少に伴って必要なAI開発の果てに生まれたものでもあることをお忘れなく」
     会議はほとんどムル・ハートの独壇場であり、「会議」というものにならなかった。ムルは、爛々と光る緑の目でホログラムを通して、向こう側にいる、あらゆる生身の議員たち一人ひとりの目をしっかり覗き込んでいるかのように振る舞い、大半の議員は、その態度にもたじろいでいだ。市長だけが、苦笑しながらも頷いていた。
     先日の騒動の発端となったフィガロは、肩身の狭い立場ゆえに沈黙を貫いていたが、ムルの言葉には、内心、元凶のくせによくまぁいけしゃあしゃあと、思っていた。
     会議に市民代表として選ばれてたハイクラスの人間も参加していた。この街一番の金持ちといっても過言ではない無口な長髪の男も、密かにカルディアシステムを搭載したアシストロイドを所有しており、ちらちらと彼の顔色を伺う議員もいた。彼が反論をしないということは、ムルに対しての諾と捉える。所詮は、金がものを言うのである。
     あともう一押しのところで、ムルが言った。
    「散々堅苦しいことも言ったけれど、単純なことを忘れないでほしいね。アシストロイドと本当の友だちになる夢を抱いたことは? 友だちになれたら、そう思わないかい」
    「は? 僕は友だちになんてなりたくない」
     それまでフィガロの隣で、大量のお菓子を与えられて、もくもくと口を動かしていたオーエンがボソッと呟いた。オーエンはバーチャル会議上には存在していなかったが、フィガロの隣で全ての話を聞いていた。
     当事者不在で進む会議など、人権(アシストロイド権というべきか)無視も甚だしいと思わないか、とフィガロに言われて、なんとなく口車に乗せられてしまったような気もしながら、オーエンもしぶしぶの体で、フィガロと一緒に参加していたのだった。
    「しぃ。おまえは黙っていなさい」
    「はあ? 僕だって友だちを選ぶよ。決まってるだろ」
     ぼそぼそとフィガロがオーエンと話している間に、
    「様々な人間がいるように、様々なアシストロイドがいる。目指すべきは、排斥ではなく、共存じゃないかい」
     ムルの演説はほとんど終わりを迎え、パチパチと拍手が起こっていた。
    「とはいえ、先日騒動を起こしたラボをどの程度信頼すべきかという点について、定期報告がほしいところですね。法律制定もまだまだこれからですが、カルディアシステムの研究について、独占的であればあるほど、一般の理解からほど遠くなると思いませんか」
     それまで静かに聞いていた市長が、冷静に言った。
     ムルは、そうですね、と頷いた。
    「その点は、勿論、そこにいるガルシア博士が報告いたしましょう」
     急に矛先を向けられたフィガロは、ぎょっとしながらも取り繕った顔で笑った。
    「もちろん、何かあれば、今度こそ組織解体は免れないことは私も存じています」
    「結構。わたしたちは、未来に期待しています」
     市長の言葉に、ムルは芝居がかった仕草でお辞儀をした。会議はその場で終了となった。次々に議員たちのホログラムが消えていき、会議を設定したムルとフィガロだけがその場に残った。
    「まあ、というわけだから、オーエンのことをよろしくね」
    「また勝手なことを……」
     フッとバーチャル上にオーエンも姿を現した。
    「僕は何をよろしくされたわけ? 僕だって友だちは選ぶし、おまえたちの勝手を承諾するわけないでしょ」
     オーエンはムルを小馬鹿にしたように鼻で笑った。
    「まあね、きみはきみの好きなように生きる権利や自由がある。きみ一人がなにもアシストロイドや我々の未来を担っているというつもりは毛等もないよ。好きにしたらいい。けれど、自由には責任があることを忘れないでね!」
    「それって脅し?」
    「脅しにもならないよ。だって、人間だって同じだからね」
    「本当の自由って存在すると思う? コミュニケーションストレスからの解放を望みながら、意思のない存在の意思を望んだ人間をきみは笑うかい?」
     ムルは一切笑っていなかった。
    「馬鹿言わないで」
    「その通り、これは俺たちの責任だからね。こんな問いかけをきみにする方が間違っている。ね、フィガロ」
     フィガロは顔を顰めたが、ムルの代わりに言葉を続けた。
    「オーエン、これは強制ではない。でも、きみの生み親として、責任を果たさせてほしい。きみを、きみたちの未来を約束する。だから、少しの間だけでいい。俺たちに協力してほしい」
    「具体的には?」
    「好きに行動してもいい。ただし、一日一回、俺に行動の報告を」
    「……ふうん? まあいいよ。でも、本当におまえに僕の行動が制御できるとでも思っているの?」
    「人間も大人になるまでは、親の監督責任があるから、そういうものだと思ってほしいね」
    「勝手に生み出しておいてよく言うよ。おまえたち人間のエゴしかないくせに。それに前々から思ってたけど、おまえはお父さんて柄でもないだろ」
    「それはそう! まあ、これだとフィガロに負担がかかり過ぎるからね。アシスタントを付けておいたからね」
     オーエンの言葉にも、色々と言いたいことがあったが、生身の他人と長い時間を過ごすことに抵抗があるフィガロは、ムルのアシスタントという言葉の方に慌てた。
    「は? 何を言ってるんですか? アシスタントはいりません。俺にはスノウ様で充分ですよ」
    「スノウは研究には特化してないから、助手には不足でしょ。というわけで、ファウストをサポートにアサインしておいたよ。オーエン、新しくお母さんができるよ」
    「ちょっと!」
     言いたいことだけ言って、ムルはふっと消えた。
     オーエンは、ひとつ伸びをすると
    「もういいよね。じゃあ、そろそろ僕も出かけてくる」
    とバーチャル上からも、実際のラボからも、今度こそ身一つで出て行ってしまった。後に残されたフィガロは、その場で頭を抱えた。
     ピピッとフィガロのモニターがメッセージを受信した。
    『フィガロへ 理事長より、あなたの研究アシスタントにアサインされました。今後の研究方針等については、直接確認するようにとのことでした。ミーティングされますか? お時間のあるときに、時間設定ください』
    「本当にあの人は……」
     フィガロは、天を仰いだ。

     コンコン、とフィガロの研究室の扉が叩かれる音がした。
    「どうぞ」
    「失礼します」
     入ってきたのは、栗色の巻き毛に色の濃いアイウェアを着用したフィガロの部下、ファウストだった。
    「わざわざここまで来させて悪かったね」
    「いえ……」
     フィガロの方へわずかに視線を向けたかと思うと、すぐに逸らして、ファウストは、腕の中にいる猫型のアシストロイドをぎゅっと抱えてた。
     互いに気まずい沈黙が流れた。
     ファウストは、フィガロの優秀な部下であり、顔を合わせてもきちんと会話ができる数少ない人間だったが、フィガロは意図的にカルディアシステムの研究からは除外していた。それにも関わらず、カルディアシステムを搭載したアシストロイドの騒動の際には、フィガロを庇うために、熱弁を奮ったうちの一人だった。
     フィガロは、その礼すら満足に伝えていないことに、今更ながら気が付いた。さらに、ファウストは普段は自分の研究室に引きこもりがちであり、生身で会うのはずいぶんと久しぶりのことだった。
    「あ~、あの、ファウスト。この間は、ありがとう。きちんとお礼を言っていなかったと思って」
    「いえ、お礼を言われるほどのことではないです」
    「いや、そんなことはないよ、きみが猫型のアシストロイドとして駆けつけてくれたおかげで、まだきみたち部下から見限られているわけじゃないと思って、心強かったというか」
     フィガロの言葉の勢いに、ファウストはぽかんとした。
     また二人の間に沈黙が降りる。
    「えっと……」
    「んも~、フィガロちゃんってば、お茶も出さないで!」
     突然、予告なくドアが開く音がして、パタパタとトレイに湯気を立てているコーヒーカップを二つ持ってきたスノウが入ってきた。フィガロは、あからさまにほっと息を吐いた。
    「遅いですよ」
    「せっかく我が気を利かせて遅くやってきてあげたっていうのに、何をぼんやりしておるのじゃ」
    「何の話をしているんです」
    「何の話じゃろうな」
    「あっ、あの、スノウ、ありがとう」
     フィガロとスノウがわずかに険悪な雰囲気になり始めたのを察して、ファウストが大きな声で割って入った。
     スノウは、きょとんとした顔をした後、ファウストの反応に思い至った。
    「ふむ。今まで何度か会っていたと思うが、我は他者とコミュニケーションをとって反応を学習し、自己で意思決定をする。プログラムされたデータ反応とは違って、それは次第に人でいうところの自我となり、心を獲得してゆく。ゆえに、こうやってじゃれあいみたいな喧嘩もするのじゃ。その様子を初めて目の当たりにしたら、驚くのも無理はなかろう。慣れてくれるか」
     スノウは、真っすぐに手を伸ばして、ファウストの手にそっと触れた。
     ファウストがややあって小さく頷くと、スノウはパッと明るい表情を作って、ファウストを近くの椅子にエスコートした。
    「フィガロちゃんは気が利かぬから、椅子も勧めてやれんのじゃ」
    「ち、違いますよ。タイミングを逃して」
    「あなたの意思がプログラミングでないということが、未だに少し信じられない気持ちもする」
    「今はそれで良いのじゃ。詳しいことは、これからフィガロちゃんが説明するからの」
    「今まで秘密にしていて」
    「いいえ、僕が研究者として至らなかっただけです」
     ファウストは、勢いよく立ち上がり、フィガロの謝罪を遮った。
    「それなのに、また機会をいただけて、今回アシスタントとしてサポートできて光栄です」
     至らぬこともあると思いますが、その際はご指導くださいと、かつてフィガロと出会った頃。フォルモーント・アカデミーの学生だった頃の初々しさを彷彿させる態度でファウストは頭を下げた。
     フィガロが特別講師としてアカデミーに招かれ、、しぶしぶ公演した際、壇上から見て一等光る星のような輝きを持った研究者の卵が、ファウストだった。
    フィガロにとって、「ガルシア博士の論文は全て読んでいます」と、頬を硬直させ、きらきらした瞳で真っすぐに自分を見つめるファウストは、あまりにも眩しかった。
     どうせ他の人同様、フィガロのルックスや地位が目当てでの擦り寄りに違いないと穿った見方をするには、ファウストの口から矢継ぎ早に出てくる質問は、なかなかに鋭く、フィガロが少し意地悪くした質問にも臆することなく答えたファウストを、フィガロは天命を見つけたのだと思った。
     アカデミーを卒業したファウストを引き抜いて、部下にして育てている最中で、任せていたアシストロイドがたまたま標的にされて、クラッキングされ、スクラップ処分されるという事故が起きるまで、ファウストは、フィガロのそばにいたのだった。
     事故を未然に防ぐことのできなかったファウストをフィガロは見限ったわけではなかった。
     たった一体のアシストロイドのスクラップで、職を辞するほど心の傷を負ったファウストに、カルディアシステムの研究をさせるのは酷だろうとフィガロの配慮だった。
     ファウストを引き留める言葉を、フィガロは持たなかった。部下のひとりであるレノックスがファウストをフォルモーント・ラボラトリーに留めたときには、ほっとしたが、どういう顔をしてファウストに会っていいのか分からなかった。
     アシストロイドの心に見えるものが心ではなく、全てプログラミングによる応対だと理解していてなお、自分の責任だと自責し続ける部下に、アンドロイドの心を知る研究の話が適切ではないことくらい容易に分かる。
     監視モニターを見つめるフィガロに、それは臆病というのだとスノウが声をかけた。勇気を出した果てが、スノウの双子のアシストロイドの破壊だとして、生み出されて数年もしないロボット風情が分かったような口をきくなと、スノウに言い放ったフィガロを、確実に覚えているのだろう。
     貼りつけた柔和な笑みにそぐわない、品定めをするかのような視線で、スノウは二人の人間を見ていた。
    「まず、カルディアシステムについて、きみにきちんと説明しよう。それから、オーエンのこともね」
    「はい、よろしくお願いいたします」
     

     生きものが死ぬ。それは、食卓に上る鶏であったり、野兎だったり、野犬に襲われた子猫だったり。
     人間も死んでいく。
     流れた赤い血は、やがてすぐにどす黒く変色する。
     死のにおいがする。それは、身近な存在だった。
     年寄りが、生まれたばかりの赤ん坊が、病人が、弱者だけでなく、次第に戦争で若い男も女も死んでいく。
     その子どもは、初めは、持てる不思議の力で、微力ながら流れる血を止血し、清潔にし、怪我の治りが早くなるように祈りを捧げた。
     誰もが持っているわけではない不思議は、病気を治すほどの力は持ち得なかった。病に侵され、身体が痛むと唸る人の痛みを和らげ、あとは安らかであるようにと手を握る。温かい手の温もりは、次第に脱力し、温度を失い、硬くなっていく。
     かつて子どもだった青年が、初めて人を殺めたのは、不思議の力ではなく、刃物の力を借りてのことだった。
     ぷつり、と皮を破った先に肉があり、更に奥には柔らかな内臓があり、ああ、一瞬のこと、目を丸く見開いて、相手は何が起こったかも分からないまま、刃ものによって開いた肉体は、熱いほどの血潮を勢いよく吹いた。
     青年には、全てがスローモーションのように感じた。敵意はなかった。ただ、反射的にやらなくては、と手が動いただけだった。そこには人間の理性など存在せず、獣のような本能とも言うべき、防御反応に過ぎなかった。
     青年のそばにいた青年は、友人の取った行動に呆気に取られていた。彼が行動を起こさなければ、虚ろな瞳で地面に伏すのは彼の方だったのだ。
     彼が温和なことを、幼い頃からよく知っていた青年は、自分のせいで彼が道を踏み外したのだと、その時はっきりと悟った。彼は、友人を戦争に誘ったわけではない。むしろ融和のための戦いをしようと奮い立っただけだった。
     戦や些細な対立で身を隠す人がいないようにしたい、堂々とあなたと友人になりたいと言える社会を目指したい。そのために立ち上がったのだった。
     青年は、青年が思うよりもずっと冷静だった。いつかこういう日が来るのかもしれないと感じていたからだった。
     赤く濡れてべとついた己の掌を見つめて、自分の業――不幸な人生――を思い出す。
     青年は躊躇なく人を屠った手に触れて、彼の命を救った友人に「ありがとう」と言った。
     彼もまた、彼の比ではなく、他人の人生を破壊した。信条のために破壊せざるを得なかった。対話をしたかった。ただ和解がほしいだけだった。自らを守るため、大切な人を守るためにとった自衛のための武器を振るうたびに、信念を確認する。理想への道のりは、屍でできている。


     ぱっと目を開けば、いつもの白い天井が見えて、ほっと溜息を吐いた。
     妙に頬がくすぐったいと思うと、猫の形を模したロボットがファウストのすぐそばに控えていた。尻尾にあたる身体パーツでファウストを優しく叩いており、目覚めの時間だと懸命にアラートしていた。
     手を伸ばして、二、三度撫でると、尻尾の攻撃は止んだ。
     ファウストは、そこで寝過ごしただろうかと、はたと気付き、慌てて飛び起きて時計を見やった。焦るほどではないことが分かり、胸を撫でおろした。
     寝ている間にかいたべとべとした汗が不愉快で、ファウストはベッドから降りるとシャワーを浴びるために仮眠室を出た。
     ファウストの不愉快な夢は、あの日、フォルモーント・ラボラトリー知能機械情報部の主任になって管理を任されたアシストロイド「アレク」をスクラップした日から始まった。
     名前を、個性ともいえる学習データをはく奪されたアシストロイドのスクラップ実行書にサインをし、同僚であるレノックスにそこまでする必要はないと止められながらも、責任から逃れることはできないと、廃棄処分される工程を見届けた。人の形から、ただのぼろぼろのメタルパーツとなった部品の残骸は、機械の死そのものだった。
     アレクがファウストをおまえのせいだと責める夢ならば、どれだけよかっただろうか。彼の手足が、身体が、頭が、全てがただの部品に還る、耳に響く金属音。思い出そうとすれば、ファウストは今でも鮮明に記憶を思い出すことができる。しかし夢に見るのは、事実とは異なる、まったく荒唐無稽な、お伽噺のような夢だった。
     初めのうちは、魘される自分の声で飛び起きた。仮眠室は防音になっているにもかかわらず、セキュリティのしっかりした扉を蹴破る勢いで(実際のところ、扉は壊れた)レノックスが駆け寄ってきたほどだった。
     夢にしては妙に生々しく、皮膚がぷつりと裂ける瞬間の感触が手に残っているようで、ファウストは思わず震える自分の両手を見つめ、ありもしない汚れを見た気がした。。
     何よりも怖かったのは、夢の中でアレクは、人間でありファウストの本物の友人で、ファウストを思いやっていたことだった。
     あまりにも自分に都合の良い願望すぎると、ファウストは絶望した。自らの過失で失ったアシストロイドを、自分勝手に友人にして、友人のための行いだと自己を正当化する、グロテスクなまでの願望。あまつさえ現実を直視せず、空想の世界に逃げている。
     許されてはいけない、許しを与えてくれる存在もいないのに、ファウストは自らの罪に向き合ったつもりで、心のどこかで甘えて許しを乞うている。


    『報告書を読んだよ! きみはいささか、人の善を信じすぎるきらいがあるね』
     アシストロイドのクラッキング事件についてファウストの報告書を読んだムルは、ファウストにチャットを送った。
    「はあ……」
     それを読んだファウストは困惑した。
    『フィガロにも指摘されてない?』
     ファウストが返事を送るよりも早く、次のメッセージが届く。
    『フィガロのことは、まあいいや。報告書は良く出来ていたよ。
     今やサイバーテロなんて、警察といたちごっこだ。プロメテウスは、人類に火を与えた。人間は与えられた火で、暖を取ったり、調理もしたが、やがて武器を作って戦争をはじめた。空を飛んでみたいという純粋な気持ちで空を飛ぶマシンを作れば、戦争に利用される。最新技術はいつだって、純粋な好奇心や探求、困難な現実を乗り越えるために開発されて、そして同時に悪用もされる。今回、たまたまきみの管理するアシストロイドが標的になっただけだ。
     アレクは、不特定多数の人との接触を増やして、これまで以上に精緻に人間にも似た行動や思考をプログラミングできるよう実験をしていた個体だ。きみが管理責任だったけれど、メンテナンスやら何やら、他のスタッフだって対応していたし、標的になりやすく、他者との接触が多い分、隙もあった。それは、きみが報告書で指摘するように、不注意だけではない、管理体制の不備も要因のひとつだ。むしろ、きみが、自らの手で市民の安全のために、大事に至る前にアシストロイドを潰せたことは褒められるべきだろう。きみ自身は自分に納得がいっていないって顔をしているだろうけれどね』
     ファウストは、実際、PCの前でムルの言うとおり複雑な顔をしていた。動作不備を起こしたアレクをメンテナンスしている最中、ラボで厳重に管理しているはずの予備バッテリーを使用したところ、アレクのクラッキングが起こった。
     ファウストがメンテナンスチームにアレクを預けている間の出来事だった。
     アレクに組み込まれていた知能に関する技術は、ラボ内でも屈指のものであり、ひとたび漏洩すると、ラボの財産の損失が大きいだけでなく、人好きのするように人間心理面から緻密に容姿を整え、眩しいまでの笑顔を作れるような顔を作っている以上、何らかのプロパガンダに利用されてしまえば、特にワーキングクラスに多い扇情されやすい人間たちは、あっという間にクラッキングされたアレクの空気に飲み込まれてしまうだろう。ゆえにアレクの管理は、厳重に行わなければならないはずだった。例え、フォルモーント・ラボラトリー内だとしても。
     ファウストは、それまで研究室内に内通者がいると考えたことはなかった。
     メンテナンスから戻ったアレクは、一見してそれまでと変わらなかった。これまでの蓄積した対人間へのプログラムに新しいプログラムが差し込まれていた。バグにも似た、人間の不安を煽るノイズ。人が抱えている不安や不満を増幅させる言葉をわざと使い、疑心暗鬼に陥れる。
     人々の社会不審を煽るアシストロイドへの変容。
    「さあ、あなたもともに社会を革命しよう!」
     輝く笑顔の眩しいネオン広告がシティの薄汚れた夜空に広がれば、人々は途端に自らの生活の不満を解決してくれる救世主が現れたと勘違いする。同時に「あなたもより良い暮らしのための蜂起を!」というショート動画も配信される。ポップなメロディは耳馴染みがよく、一度聞いただけでハミングできてしまいそうなくらい。これまで蓄積した人間心理のデータを遺憾なく発揮して、次の行動を示す動画を拡散する前に、アレクはファウストの手で処分された。
     フォルモーント・ラボラトリーは、万が一のことがあっても、アシストロイドの暴走の始末をきちんとつけることができる優秀なスタッフがいるということが周知された。
     洗脳にも似たアシストロイドの効果を解くために、福祉施設に人のために奉仕するアシストロイドを派遣し、安全性の優位を説くことも忘れなかった。
     ファウストがアシストロイド対応に当たっている一方で、アレクのメンテナンスのタイミングを狙ってハッキングをしかけたスタッフは、ファウストの上司であるフィガロが特定し、警察に引き渡し、犯人は法による裁きを受けている。
     犯行理由は、嫉妬。
    『この後だけど、別にきみを主任から外すつもりはないよ。部長からも特に何も言われていないしね。でも人型を管理することが今のところ辛いなら、ペットとしてのアシストロイドの開発にも力を入れたいところだから、一旦はそちらにシフトしてもいいよ。
     トラウマのメンタルケアが必要なら、遠慮なく専門のドクターにアクセスするように。
     この話はこれで終わり。返信は不要。
     P.S.きみが書くものって、面白いくらいフィガロの論文に似てる! 』
     ファウストが何を返す暇もなく、メッセージは一方的に打ち切られた。ファウストは途方に暮れた。
     理事長が直々にメッセージを送ってくることも、ファウストに対する処罰がないことも、ファウストにとっては想定外だった。よりによってアシストロイドの研究施設からテロを生み出すところだったのだ。未然に防ぐことができたとはいえ、ファウストは非難されてしかるべきだと思っていた。
     上司であるフィガロからの叱責がないことも、最大の疑問だった。ファウストの書く報告書がフィガロに似ているのは当然だろう。アカデミーに在学の時からフィガロはファウストにとって憧れの存在だったのだ。人間がどうアシストロイドを活用して生活するか、人間の代用としてアシストロイドをどう扱って久賀に焦点に絞った論文が多々発表される中で、人間とアシストロイドをフラットに見つめ、共存方法を提唱するフィガロの論に強く惹かれた。
     アカデミアを卒業して、フィガロの研究室に配属され、ようやく憧れの人の近くに行くことができたと喜びのあまり気が抜けていたのかもしれない。重大な事故を起こした部下に何も言わないのではなく、言う価値もないほど呆れられてしまったのだとファウストは思った。
     ファウストにとって、アレクを自ら手に掛けたことと、憧れの存在に見捨てられたことの、どちらの心の傷の方が深かっただろうか。その判断力を失って、辞職を後輩の止められたまま、理事長の言うままにずるずると、罪悪感を抱えたまま居座っているのだった。


     フォルモーント・ラボラトリーに所属している人間が、次第に慣れないながら慣れざるを得ないことといえば、理事長からの唐突なメッセージである。これがただのチャットもしくはメールであれば、唐突なことに面食らったとしても、対人関係が苦手な人間でも、対処ができる。いたずらにホログラムで立体映像として現れるときも、ぎょっとして嫌々ながらも、これは生身ではないと自分に言い聞かせて対峙できる。
     一番ひどいのは、生身のムル・ハートが突如として現れて、相手が目を白黒させているのもお構いなしに遠慮なく話し始めるときであるが、多忙な身であるがゆえに、被害者は少ないことが救いだった。はずだった。
     普段、研究室に引きこもりがちのファウストではあるが、食事や睡眠、シャワーなどで部屋の外に出ることもある。誰にも会いたくない時、夜の誰もが寝静まったタイミングでこっそり、ということは、フォルモーント・ラボラトリーにおいては難しい。大抵昼夜逆転していたり、夜にも構わずに生活をしているエンジニアも多く在籍している。しかしファウストは朝にも強いタイプのエンジニアだった。
     この世界では、空が白んでくる朝方が一番静かな時間かもしれない。
     シティは、ほとんど四六時中ネオンに照らされて、嫌でも何かを経験し、体験し、消費を喚起されるようなハイテンションの広告に溢れていて、休む間もない刺激に晒されている。けれども、朝が生まれる瞬間だけは、人工的な光は自然が持つエネルギーに制圧され、欲望までもが洗われる。
     夜中に活発だったエンジニアたちが力尽きる頃、ファウストは規則正しく仮眠から起き出して、身なりを整えて研究室へ向かった。研究員たちの自宅などはないに等しい。大抵のラボラトリーの人間は、ラボラトリー内で生活をしている。
    「おはよう、ファウスト」
     突然、どこからともなく呼びかけられて、ファウストの肩は大きく跳ねた。一体どこからやってきたのか、隠し扉でもあったのではないかと思うほど唐突にムルはファウストの前に姿を現した。
     大抵にこにこと笑っている時ほど、厄介なことはないとラボの人間ならば全員知っている。それでも律儀に挨拶を返そうとしたファウストにお構いなしにムルは喋る。
    「ねぇねぇ、そろそろカルディアシステムの研究、したくない? もう良い頃合いなんじゃない? 気になるでしょう。だって、アシストロイドを限りなく友人に近づける話の先の研究なわけだし」
    「あなたが最初に作ったシステムでしょう。僕の研究などなくても、一足飛びにシステムを作っていながら、あなた方は僕にアレクの研究をさせていたのですか」
    「人間に限りなく近い反応のできる人工知能と、人間の心と同等の機能を手に入れた人工知能は似ているようで別ものだよ。意志の有無と言えばいいのかな。どちらの研究もしなくては、比較もしようがない」
    「倫理の問題は……」
    「アシストロイドが発展している世界で説く倫理とは? 人間は傲慢だね。きみはよく知っているはずだ。好奇心にも誘惑にも逆らえない」
     ファウストは何も言わない。何も言えないというのは、肯定を意味する。
    「フィガロに正式にカルディアシステムの研究続行を依頼するから、ファウストもアシスタントとして参加してよ。知りたいこといっぱいあるでしょ」
     心があれば、アレクは、僕のアシストロイドは――。最後に彼の心を確かめることができただろうか。カルディアシステムを知ってから、ファウストはずっと考えていた。
    「きみが知りたいことは、きみ自身が答えを見つけるしかないさ」
     ファウストが心の中で浮かべた質問を見透かしたような言葉だった。
    「あとはフィガロと打ち合わせして進めてね」
     そしてムルは、猫のように軽やかな身のこなしで、どこかへ行ってしまった。誰も何の目的でどこへ行くのか、彼の好奇心の行き着く先など知らないでいる。
     こうして、ファウストは直々にフィガロの補助につくように任命されたのだった。


     それは寒い雪山の記憶だった。
     一面の白に覆われた山の中ほどに、小さな集落が存在していた。近くの集落まで行くには、山の道を大人の足でも三日はかかる。そもそも、この世界に自分の村意外に人が住んでいる場所があるとも知らない者がほとんどだった。
     そこには「神様」と呼ばれている子どもがいた。年端もいかない幼い子どもに、老人も働きざかりの大人も、未だ分別などもついていない子どもたちも、皆が頭を垂れ、口々に「私たちの神様」と頭を下げ、奇跡の力を乞うた。
     神様とは、不思議な力を持った子どもだった。
    《    》
     神様が何事か短い言葉を唱えると、大抵のことは万事解決した。腰を痛めた老人の痛みを和らげたり、怪我をして足を悪くした子どもが次の日には杖もなしに歩けるようになっていたり、神様がひと撫でした槍や矢は、正確に獲物に刺さった。神様が生まれてから、飢えることを知らなくなったと老人たちは涙した。
     神様に母はない。己の身と引き換えに、神を産み出した。
     神様に父はいない。娘は村の中でも一番身分が低く、知恵も身よりもない娘で、どんな下心を持っていようとも、優しく声をかけてくれるだけで、どんな男でも懸命に愛した。
     娘は村の誰よりも痩せっぽちで、ずっと青白い顔をしていたが、娘の胎が膨れていることに誰も気が付かなかった。なぜなら、一年の大半は雪に覆われる大地では、寒さに震える身を毛皮に包んで温めている。家から出ることはあまりない。
     ようやく地面から緑色の草が顔を出す頃になっても、娘の姿が見えないことにさすがに不審に思った男たちが、彼女の家を訪れると、そこには目をかっと開いたまま死んで硬直している娘と、その傍らに愛らしい赤ん坊が、裸のまま機嫌よく笑って座っていた。
     これはただ事ではないと男たちが、慌てて長老を呼びに行くと、長老は「おお、なんという奇跡! この子は神様だ……神様に違いない! ようやく、神様が我々のもとへ。なんと長かったことか」とおいおいと泣きだした。
     長老曰く、神様はいつ現れるとも知らず、ただいつの間にか人の形をした救いがやってくると昔々の文献に記載されていたという。
     神様の父親は名乗り出なかった。神様はどの男にも心当たりがあったが、どの男にも似ていなかった。
     村の女たちは、男たちの態度に不審感を抱いていた。死んだ娘のことも、もともと良くは思っていなかった。しかし、赤ん坊の形をした神様を見るなり、あまりの愛らしさに、不幸にも赤ん坊を産み落として命を失った娘への恨みも忘れて、我先にと世話役を買って出たのだった。
     誰もが神様の母であり父であり、子どもであった。愛されていた。
     ところが、季節外れの温かい日に、神様は突如として全てを失った。
     音が聞こえた頃には、既に手遅れだった。世界は一瞬にして白い暗さで覆われた。
     神様はただひとり、真っ白な雪の世界で立っていた。村の者たちは、皆神様の下に。
     誰かの名前を呼ぼうと思ったのに、神様は誰の名前も思い出せなかった。直前まで会話していた下女の名前は知らなかった。女は女である。名を呼ぶ必要もないと言われていた。名を呼べば、図に乗る。誰も神様には名前を呼ばせなかった。神様が誰かを呼ぶ声として聞いたのは、親を呼ぶ声。
    「ととさま、かかさま」
     小さな手で、埋もれた人間を掘り起こそうとしたが、ほんの小さな手では何もできなかった。すぐに真っ赤になってしまい、指の感覚がなくなる。
    《    》
     いつもの呪文を唱える。けれど、何も起こらなかった。いつもなら使える不思議の力が上手く発揮されない。
     力の入らない手に、はぁと息を吹きかけてみるも、凍えた身体から吐き出された吐息では意味もない。
     神様は普通の子どものように疲れ果てて、その場にしゃがみ込んだ。行く当ても頼れる人もいなかった。神様が頼られるはずの人だったのだ。
    「お食事の時間ですよ」
     そう言って、温かなスープを運んだり、貴重な真っ赤な甘い果物を差し出す人間は、もう誰もいない。
     己が空腹であるかどうかも、神様には分からない。じっとそこで動かず、もしかしたら、自力で雪をかき分けて人間が出てくるのではないかと、あるはずもない希望を抱いたのかもしれない。
     神様は、ぱたりと身体を雪の上に静かに投げ出した。顔が少しだけ生暖かい。その目から零れた熱い雫では、山の雪を溶かすことは不可能だった。
     神様はそのまま目を瞑った。小さな身体と心は疲弊していた。
     
     ふと目が覚めた。
     地面からは、さらさらという音が聞こえる。水が流れ出したのだ。雪が水になって、緑と土の青臭いにおいがする。本当の春がやってきた。庇護する人間のいない春が、神様にやってきたのだ。
     雪が解けて人間たちが再び現れると、神様は、はっとした。みな目を見開いて、神様を見ているような気がした。けれど、人数は少なかった。山の下の方へ流されていったものも多いのだろう。身体が生きているときには見たことのない方向へ捩れているものもあった。
     神様は力なく横たわったまま、人間を観察していた。力が無く、起き上がることもできなかったのだ。
     人間の形をしていたものが、次第に腹が膨れていく。目が飛び出して、顔に穴が開く。皮膚が裂けて肉の色と血の色がじわりじわりと滲む。赤とどろりとした何色ともつかぬ液体が地面を汚していく。赤は空気に触れて黒に、肌も色を失い、
    どろりどろりと身体が溶けて、肉はもはや塊ではなくなりつつある。ぞろぞろぞろと不気味な音がすると思えば、白く地を這う蛆があっという間に人間だったものを覆った。
     上の方から、ピューと甲高い声が聞こえたと思えば、下降してきた鳥が蛆ごと腐肉をかっさらう。
     強烈な不浄のにおいにも神様は眉を顰めることはなかった。ただじっと成り行きを見守っている。
     水音が地面の下から絶えず聞こえている。白い骨だけが残されて、それもやがて土にのまれて消えていった。それから、神様はその場所に小さな花が咲いたのを見た。茸が生えたのを見た。
     どれほどの時間が経っただろう。どれほどの時間、そこで見守っていただろう。
     神様は、やっとのことで起き上がることができた。
     神様は、もう神様ではなくなっていた。神様と呼ぶ人間は、もうどこにもいない。


     ごそごそと部屋の中で何かが動く音がして、フィガロは目を覚ました。
     壁にかけられた時計が午前五時を指しているのが見えた。フィガロは、ラボで少しの仮眠をするつもりが、しっかりと寝てしまっていたらしい。ベッドではない硬いソファで横たわっていた身体が軋んで、思わず「いたた」と声を漏らした。
    「おはよう、パパ」
     オーエンがわざとらしくフィガロを覗き込んで言った。物音は、オーエンが勝手にラボに侵入したせいだった。
     フィガロは、大きな溜息を吐いた。普段は人の気配に敏感だと自覚していたものの、タイミングが悪かった。見たくない夢を見ている最中だった。
    「はあ。よくセキュリティを突破できたね」
    「僕にできないことはないよ。知ってるでしょ。はは、いい気味」
     オーエンは機嫌が良さそうだった。巷で人気のCBSC(チェリーブロッサムソフトクリーム)を舐めながら、近くにあった椅子に腰かけた。
    「朝帰りなんて、随分な不良息子だ」
    「ふん。僕の監視なんて嫌々やっているだけの癖によく言うよ。ねえ、スノウは一緒じゃないの?」
     オーエンはきょろきょろと辺りを見回した。常にフィガロの近くにいる子どもの姿をしたアシストロイドが見当たらなかった。
    「彼は今はメンテナンス中だよ」
    「へえ、そう。僕もそろそろメンテナンスが必要だと思って帰ってきたんだけど」
    「相変わらずふてぶてしいな。お願いします、だろう?」
    「は? 言うわけないだろ。逆に、僕のメンテナンスはお前たちの義務じゃないか。カルディアシステムを搭載したアシストロイドのチェックなんて、お前とラスティカくらいしかできないだろ。その辺の適当なところで適当にいじられるなんてゾッとする」
     フィガロと共にカルディアシステムの研究をしていたラスティカは、オーエンと同じカルディアシステムを搭載したアシストロイド、クロエと共にラボを去り、オーエンの騒動でまたラボに戻るかと思いきや、結局そのまま街の修理屋を続けている。シティポリスの定期巡回を義務付けられ、一定の監視下に置かれているので、万が一のことがあれば、二度目はないだろう。あらゆるデータを採取するために、ラスティカ、というよりもクロエは、オーエンと違った状況にあえて置かれていると言った方が正しい。
     シティポリスの一人、(本人は認めないが)恩人であるカインに(本人は否定するが)オーエンは懐いているので、ラスティカのところにいる方が多いくらいであるのに、なぜわざわざここに戻ってきたのか、フィガロは訝しんだ。
     ただ、オーエンが言うように、これからのカルディアシステムのことを考えると、扱える人数が二人――正確には、ムルを入れて三人だが、皆できれば技術力は確かでも、彼の剥き出しの好奇心に辟易してしまうため、彼のことはカウントしない――なのは良いことではないと、フィガロの助手になったファウストにも、フィガロが知りうるカルディアシステムについての知識を叩き込んでいる。
    「そろそろファウストもできると思うよ」
    「ファウストなら結局ここに帰ってこなきゃいけないじゃないか」
    「なんだ、帰るって言ってくれるんだ」
    「言葉の綾に決まってるでしょ」
     眉間に皺を寄せて、オーエンは食べかけのソフトクリームの最後の一口を食べきった。その後ふいと顔をあからさまにフィガロから逸らした子どものような仕草に、フィガロはようやく、冗談ではなくオーエンが本当に不調らしいことに気が付いた。
    「冗談は置いておいて。で、どこが悪いんだ?」
    「別に? 不調ってほどでもないから、メンテナンスってほど大袈裟じゃないっていうか。僕は人間と違って、エネルギーも長持ちするし、でも人間は絶対に寝るだろ。夜、暇なんだよね。僕には睡眠も必要ないから、ずっと起きてるし。目を瞑っているのも退屈。数日で飽きちゃった」
     ミスラはミスラでボディーガードとか言って、人間の面倒を見ているし、信じられない。その間遊んでもくれないし、カインだって、夜起きているのは仕事だからとか言って、とぶつぶつと不満を言い続けるオーエンに、フィガロは目を瞬かせた。
     オーエンには、ふらふらと遊び歩いている短期間でずいぶんと仲の良い友達が出来たのだ。フィガロは、メールで日頃報告を受けているにも関わらず、オーエンの友好関係を、単なる関係図でしか把握していなかった。そこに情がどれほどあるのか、これまで考えに至っていなかった。
    「ねえ。アシストロイドも夢を見られる?」
     オーエンの頭には、あらゆることがデータとして詰め込まれている。蓄積したデータベースのうちから何をどう検索すべきかも高度な人工知能が瞬時に導きだす。
    「見たい映像をランダムで脳内に再生させることは、今だってできるだろう」
     フィガロは、オーエンの言いたいことを理解した上で、あえてそう言った。
    「そうじゃないよ」
    「データのバックアップのために、「そうじゃないってば。おまえ、わざとやってるだろ」
    「見たって別に面白くもないだろう」
    「魘されるし?」
     ニヤニヤと意地の悪い笑みを浮かべたオーエンを、フィガロは軽く睨んだ。
    「人間って本当に変なの。寝ている間でも笑ったり泣いたりするし、無意識下で脳が情報を整理しているにしたって、大抵、些細なことも、時間が経てばいろいろなことをほとんど忘れてしまうのに」
     オーエンは座った椅子をくるくると回して、我慢のきかない子どものように見えた。
    「夢を見たいのか、見たくないのか、どっちなんだおまえは」
     フィガロは呆れた。オーエンがほしいのは、夢を見られる機能ではない。ただ仲の良い人間と同じような体験がしてみたいのだ。
    「そこまで情緒が育つとはねぇ」
    「うるさいな」
    「人間は不思議な生きものじゃの。今の我らが、人間が寝ているのと同等な行為は何かといえば、バックアップのため、記憶ではなく記録の反芻じゃ。そもそも我らのは睡眠ではないし」
     自動メンテナンスを終えて、ラボの奥からひょっこりとスノウが姿を現した。
    「面倒なのが増えた」
    「プログラミングすれば、近いことはできる。目を閉じてから、およそ三十分後に記憶の中からランダムに映像を脳内に投影させるとか。その間、意識と身体機能をもとの半分に自動で制御される」
    「まあ、それでもいいよ」
    「この世のあらゆるデータを所持して、丈夫なボディも持って、人間よりもあらゆることができるくせに、どうしてそんな不便な機能を持ちたいのか、疑問だな」
     フィガロは、心底不思議だった。
     フィガロの両親は、幼い時から仕事でほとんど家にいなかった。フィガロを育てたのは、ほとんど育児に特化したアシストロイドであり、年齢が上がるにつれて、教育特化のアシストロイドに変わり、単なる家事労働のアシストロイドのみになった。
     仕事でシティから遠出するはずの両親が、交通事故で亡くなったときも、喪失の実感は沸かなかった。フィガロの身近にいたのは、人間よりもアシストロイド、人間ではない機械だった。人間よりもよほどフィガロに親身な存在がアシストロイドだった。それを寂しいと思ったことも、悲しいことだと思ったことも一度もない。
     ただそれでも、例えば、熱を出したとき、設計されていない愛というものからくる大丈夫だよと声をかけてくれる人がどんなものかを知りたいと思った。アシストロイドの優しさは、優しさではなく、人間が予め設計をしている。そうではない人間から自発的に滲み出る「心」というものを実感してみたいと、ただ、人間は怖いから、アシストロイドに「心」があったら、と足を踏み入れた。
    「前に、我には人間のメンテナンスがないと維持できないとか言ってたくせに。フィガロちゃんのアシストロイドの扱いはまことに都合が良いの」
     ほほほとスノウは朗らかに言ったが、言葉には明らかに棘があった。
    「言った、言いました」
     フィガロは両手をあげて、降参のポーズをしてみせた。
    「ふん」
     冷たい目をしたオーエンは立ち上がってフィガロに近づいた。
    「前も言った。僕は欲張りなんだよ。知っているだけじゃ物足りない。。全てを体験したい」
    「苦しいこともあるだろう」
    「まさか、親心とか寒いこというつもり? やめてよね」
     オーエンは手を伸ばして、フィガロの胸を突いた。フィガロを守るはずのスノウは知らん顔だった。
    「心があるって、予測のつかないことでしょ。それに、お前が言うように苦しかったら僕は機能をアンインストールできるし」
    「いいご身分だ」
    「パパは人間で可哀想だね」
     スノウは溜息を吐いた。
     コンコン、と急なノック音で、会話が途切れた。
    「ガルシア博士、おはようございます。今日の業務の件ですが」
     ファウストの声だった。
    「さっすがファウストちゃん、いいタイミングじゃ!」
     はっとフィガロが時計を確認すると、ずいぶんと時間が経っており、ファウストが出勤する時間になっていた。フィガロが知る昔から、ファウストは時間にきっちりしていた。
     それまでの会話を切り上げて、鏡を見て、少し跳ねていた髪の毛の寝癖を整え、掛けてあった白衣をきちんと羽織ったフィガロを見て、オーエンは苦虫を噛んだような、なんとも言えない表情をした。スノウは、オーエンとは逆にパッと顔を輝かせた。
     アシストロイドたちは、デスクからドアまでの短い距離を滅多にない小走りで移動する浮かれた人間の後姿を見ることになった。
    「なんなの、あれ」
    「しっ! 見守ってあげて。おぬしとて知っておるじゃろ」
    「にしても、ちょっと気持ち悪いよ」
    「フィガロちゃん、普段が理知的に振舞おうと努めておるから。ちょっと、あの、でも否定はできないかも」
     スノウにつられてオーエンも小声で応じた。こそこそ話は、ファウストを迎え入れたフィガロの耳には届いていなかった。
     
     
     不思議な力を持つ青年が、人間を屠ることは少なかった。全くないわけではなかったが、それでも、徒党を組んだ人々の中では圧倒的に少ない方であったのは、事実だった。
     月の雫を一滴溶かし込んだかのような銀色の髪をした彼の友人が先頭を走り、誰よりも人を多く殺めた。彼が青年のために、誰もが幸せになるために蜂起し、誰よりも人の幸せを願っていたことを青年は知っている。
     後方で眺める光景は、常に赤黒かった。
     何回かの人殺しの経験の後、青年が自ら敵対する人々の肉を裂くことはなかったが、自らの手が周りのほど汚れていないからといって、青年の罪が軽いわけではないことに、青年は自覚的だった。
     折り重なる人間だったものたち。死者は何になるのだろう。志半ばで逝ってしまったものたち、ただ平和な生活がほしいだけだったものたち、なにも分からずに家族を守るために武器を手にした人たち。
     柔らかな肉が腐敗していく。
     土に埋めてやる時間も、彼らの帰りを待つ家に、せめて還してやる時間も存在しなかった。彼、彼女たちはきっとそのまま野ざらしで、野犬や野鳥などに喰われながら腐っていき、虫に覆われて、やがて骨になる。
     骨になる。そして骨もやがていつか土に還る。風に晒されて朽ちることもあるだろう。
     しかし骨にならない遺体が存在する。
     石が砕ける甲高く澄んだ音を耳にしたことがあるだろうか。どんな楽器で奏でる音とも違う、命が崩れていく音は、絶望の音色でありながら、美しいとすら思ってしまう。
     不思議の力は魔法とも言われ、魔法を使える人々が、絶命するときは柔らかな肉も腥い臓物も、生温かい温度も失い、無機質な石となる。原理は誰も知らない。
     体液にまみれ、臓物をぶちまけ、恐怖に歪んだ表情のまま硬直していく人間の醜さの中に、日にあたり、虹色に輝く石が散乱している様は、この世のものとは思えなかった。
     その石はどうなるのだろう。野に置き去りにされ、ただどこにも還るあてもなく、ぽつねんと転がったままだろうか。
     隣の国では、どうやって使うかは不明だが、魔法使いの石には価値があるらしい。戦をしていても噂話はまわるものだった。金がほしい人々が群がり、欲を貪る。そこに人間も魔法使いも区別はなかった。ただ、安全で、金があり、良い生活がしたかった。
     魔法使いは、なんの力もない人と同じように、一つの頭を持ち、二つの眼、一つの鼻と口、二本ずつの手と足があり、一見して魔法が使えるかどうかは分からない。
     ただ不思議の力があるがゆえに、力のないものたちは、その力が悪用されることを怖がった。。恐怖は群衆を飲み込み、狂気に追いやる。
     それは無知ゆえの悲劇であると、青年の友人は言う。人々は魔法使いをよく知らないから、友達になって、知っていったらよいのだとからりと笑う。
     人々は友情の前に明らかな証明をほしがった。
     息も絶え絶えの仲間たちに、青年は敵味方も区別なく祈った。彼らが安らかな最後を迎えられますように。時には、青年の手で苦しみから解放させた。看取りばかりが上手くなる。それは青年にとっては優しさではなく、単なる懺悔であった。力が万能であれば救えた命を数えたら、青年の友人が殺めた人よりも多くなる。
     硬く冷たい土に寝かされた頭を、そっと膝に乗せ、汚れた髪の毛を優しく手櫛で梳いてやる。せめて、終わりくらいは、楽になるように。子守唄のように囁かれる甘い夢への誘い。
     これが償いになるなど、なんという傲慢だろう。
     青年がきっかけだった。きっと友人と手を結んだこの戦いが終わるまでの矛盾であると思えば、前に進むことができた。
     平和のために、魔法使いと人間の共生のために戦う矛盾を抱えながら、真っすぐで潔白な姿に、人々と自然と頭を垂れるようになった。
     青年は、矛盾を超えるために、人々を不幸にするのではなく、癒すための力の教えを請うためにわずかの間に離脱した。
     暗転する視界。
     力は彼を再び孤独にした。目が合わない。同じ目線でいたはずの同志たちの旋毛ばかり。友達ではなかったか――。

     ファウストが気付けば、真っ赤な炎の舌にちろちろと足の裏を擽られていて、熱いと思った瞬間に、ぶわりと全身に炎が回る。肉が焼けていく、滲み出る脂のにおい。熱い以上の喉が焼けて痛い。
     青年はぐったりとしていた。手足は木に括られ、張り付けにされている。あまりの苦痛にうめき声をあげかけたところで、死ぬ気配がないことを悟る。
     どうしてこんなことになったのか、夢の中では分からない。
     青年が彼の友人の姿を一生懸命炎、炎の中から視線だけを動かして探す。
    ――いた。
     彼に表情はなかった。ただのっぺりと顔の中に目と鼻と口が付いていた。何の感情も読み取ることはできない。

     いつものように仮眠室で目を覚ましたファウストは、またしても己の夢に絶望しながらも、妙になるべくして起こったと感じた。焼かれたいかと言われれば、そんなマゾヒスティックな願望は、ファウストにはない。
     いつもまるで昔、本当に自分が経験したかのように、何故かリアルな手触りがあることに気味悪く思いながら、これが正しく自分に起こったことだと理性を超越して納得してしまう。
     ファウストは当たり前に魔法使いではない、ただの一介のエンジニアだ。まてょうなど、幼い妹に読み聞かせた絵本や空想小説の中にしか存在しない。
     アレクは人間ではない。アレクは、骨にも、複雑な光の屈折を孕んだ美しい石にもならないアシストロイドだった。
     ファウストは、寝ぼけているあまり、馬鹿なことを考えていると勢いよくベッドから起き上がると、洗面台で冷たい水で顔を洗い、鏡で自分の頼りない顔を確認して、自分で自分の両頬を思い切り叩いた。
    「よし」
     今日もカルディアシステムの研究のために、フィガロのもとへ行く。
     外では、白に近い黄金に光る天使のような少年の、巨大なホログラム広告が流れている。「今日も皆さんが今日もよい一日を過ごせますように。僕たちがあなたたちの安全を守ります」。人々はなんともなしにそれを眺めて、日常生活を送るのだ。

     フィガロの研究室へ赴くと、そこには意外なアシストロイドがいたので、ファウストは目を丸くして驚いた。
    「なに? 僕がいたら悪いの? 今度はおまえまでこそこそ人には言えない研究をしているってわけ?」
    「いや、そうじゃない。ただ、いると思っていなかったから。おかえり、オーエン」
    「……ただいま」
    「今、悪くないと思ったでしょう」
     ファウストの素直な言葉に、思いの外素直な反応を見せたオーエンに、フィガロは意地悪く言った。自分との違いに些か腹も立った。
    「うるさい、思ってない」
    「まあまあ」
     間に入るのはスノウだった。
    「オーエンはどこか不調なのか」
     ファウストは、フィガロからオーエンの生体データの開示を受け、ほぼフィガロと同じようにオーエンから送られてくる、ここ最近の行動記録を把握している。
    N=一のサンプルでしかないものの、今のところオーエンの生活に支障は見受けられないので、手持ちのタブレットで、これまでのオーエンのログをチェックしながら首を捻った。
    「夢が見たいんだって」
    「夢? 将来の、とか……?」
    「馬鹿なの、そんなわけないだろ」
    「は?」
    「やっぱりきみもそう思うよね」
     フィガロは味方を得たとばかりに、ファウストに頷いてみせた。ファウストは、困惑して眉間に皺を寄せている。
    「夢を見たいって、なぜ? 別にいいものではないだろう」
    「きみも悪夢を見るの?」
    「も」という言葉に、ファウストはぴくりと反応した。フィガロは目敏く気付いて、しまったと思った。
    「ほら、薄っすらと隈ができているよ」
     フィガロは咄嗟に、とんとんと自分の目の下を指すジェスチャーで誤魔化す。
    「ちゃんと寝た方がいい」
    「そのままそっくり返す」
     自分と同じように目の下にうっすらと隈ができている上司に、ファウストはふんと鼻で息をしながら返事した。
     その反応にフィガロはくつくつと喉で笑った。
    「ようやくいつもの調子に戻ったね」
     はっとしたファウストは、咄嗟に謝ろうとした。
    「謝らないで。いいんだ。きみが主任になったときに言った言葉を覚えているかい」
    「……はい」
    「きみには、俺のイエスマンになってほしいわけじゃない。きみの才能を見込んでいるんだ。技術者がいつまで臆しているつもりではいけないよ」
     学生の頃や役職のない立場とは異なる。憧れがすぎれば、他人からどう見られるか。
    「はい」
    「もちろん、無礼ではいけないけれど」
     ファウストは、どんな時でも礼を失したことはなかった。
    「ねぇ。もういい?」
     急に二人の世界に入ってしまったフィガロとファウストの会話がひと段落したのを見計らって、オーエンが無感情に声をかけた。たっぷりとチョコレートがかかったドーナツを食べている。
     スノウはなぜかにこにこしながら、会話を見守っていた。
    「一体それはどこから?」
    「昨日カインが張り込みのときに食べるって言ってたドーナツ。結局あいつ食べなかったから、もらっておいた」
    「彼は確かシティ・ポリスの巡査部長だったか。あまり、我儘を言って困らせるな」
    「なあに。おまえは、僕のママなの?」
    「違うけど」
    「仕事中のお友達にちょっかいかけて、追い出されたんだ。なんだ不貞腐れて、暇つぶしに適当に人間の真似をしたがっているってわけか」
     フィガロの言葉は図星だった。
     フィガロもファウストも、シティ・ポリスの面々の顔を思い出すだけで、コミュニケーション疲れを感じる。
     ラボの研究員たちや、ハイクラスの人間は、ムル・ハートというような極一部を除いてあまり他人をじろじろと眺めたりしない。ワーキングクラスの人々はいささか不躾に他者を真っすぐに凝視する。何も言っていないにも関わらず、コミュニケーションの圧を感じてしまう。
     けれどオーエンは違う。物怖じなどしない。
    「あいつが言ったんだ。休みの日には、遊びに付き合ってやるって。なのに、急に仕事だとかいって約束破るとか、警察がそんなんでいいわけ? 埋め合わせはするって信じられない」
    「えーっ、オーエンちゃん、それは可哀そう。オーエンちゃんは、ただ本当にカインとデートしたかったんじゃよね」
     それまであまり関心のなさそうだったスノウが割り込む。
    「デートじゃない。でも、スノウもそう思うんだ。ほら、人間って最低だよ、約束なんて守らなくもいいと思っているんだから」
    「スノウ様、黙っててください。致し方ないだろう。彼は街の安全を守るのが仕事なんだ。休みだって、何か事件が起きれば返上せざるを得ないさ」
    「僕がやってやったら、すぐに終わるのに」
     オーエンの言葉に、フィガロは顔を引き攣らせた。公的機関に勝手に関与されては、ラボの立場が危うくなる。
    「でも、ブラッドリーとかいうカインの上司? が無理やり素人はおよびじゃないとか言ってさ。カインもカインであんなやつに首を縦に振っちゃってさ」
     フィガロは、初めてブラッドリーの行動に感謝したが、後でなにか請求がくるのではないか、対策をしなくてはと瞬時に頭を働かせた。
     ファウストは、ずっと神妙な顔でオーエンの話を聞いている。
    「夜だって、あいつすぐ寝ちゃうんだ。寝言はうるさいし」
    「オーエンちゃん、一緒に寝てるの? オーエンちゃんって、確かセッ……」
    「ごほん」
     フィガロは突然咽た。ファウストは慌ててフィガロの背中を摩って、上司の落ち着きを取り戻そうとした。
     フィガロはアシストロイドの生々しい事情など知りたくはなかった。性的なことに従事するアシストロイドの存在を知ってはいたが、フォルモーント・ラボラトリーでの研究で扱うことはない。もちろん、技術的な面での知識はあったが、どちらかといえば、もっと俗な民間企業の得意とするところで、特許もそちらが先に取っている分野だった。
    「こほん。お付き合いはしていないんだよね? それなら節度を持ちなさい。もしそういうことがあるなら、ラスティカにちゃんと報告しなさい」
    「フィガロちゃん……」
    「「フィガロ……」」
     フィガロがラスティカに事情を放り投げたことに対して、非難の視線が注いだ。
    「……。夢を見ることについては、いいよ、きみが望むなら対応しよう。せっかくだから、実際にオーエンに夢を見るコードを挿入するのは、ファウスト、きみがやってみて。俺がチェックする」
    「はい、わかりました。しかし、アシストロイドが見る夢というものの定義をまず教えていただきたく」
     露骨に話を戻したフィガロに注ぐ痛い二対の視線は無視することにした。
     無視をされたオーエンとスノウは、技術的な話をする研究者二人を放ってお喋りの続きをする。
    「ていうかパパって、本当にそういうデリカシーないよね、アシストロイドだってもっとちゃんとしている」
    「オーエンちゃん、シーッ。ていうか、オーエンちゃん、恋バナしよっ。今日どこ行く予定だったの?」
    「うるさいな、しないよ」
    「しようよ~。そうしたら、我がホワイトちゃんとどんな風にエッチしてたか教えてあげる。アシストロイド同士と人間-アシストロイドだとまた違うかもだけど、参考になるかもよ?」
    「ゲッ。本当に最悪。そんなこと知りたくなかった」
    「またまた~。アシストロイド同士だったら、手を繋いでお互いに微量の電流を流しあって、頭を刺激するんじゃよ。で、体内に流れている電流のリズムを同期させて」
    「やめろよ、僕のは違う。今日は博物館とかいうやつに行く予定だった。人間は、子どもの頃にそこに連れていかれるんだろう? 歴史ってやつを知るために。僕は全部データに入っているけど、子どもの頃ってどんな風なのか知りたいって言ったら、連れて行ってくれるって」
     オーエンがスノウに掌を見せると、電子チケットが浮かびあがった。
    「あれ? 二枚ある。カインの分までオーエンちゃん払ってたの?」
    「お金は全部あいつ持ち。俺は行けなくなったけど、誰か誘って行って来いってさ」
     スノウは閃いたとばかりにパチンと小さな手を叩いて、その場の注目を集めた。
    「ちょうどよいから、オーエンちゃんのチケット譲渡してもらって、フィガロちゃん、ファウストちゃんと博物館に一緒に行ったら?」
    「なんです、急に?」
    「そうだ、なんなんだ。これからオーエンに新しいコードを入力しようっていう時に」
    「せっかくのカインのお金が勿体ないじゃろう」
    「オーエンが今からクロエでも誘って行って来たら?」
     ちっちっちっとスノウは芝居がかった仕草で人差し指を振った。
    「分からんのか。オーエンちゃんは、カインと、二人で行きたかったんじゃ。他の誰かじゃダメなんじゃよ」
    「オーエンはそれでいいのか」
    「なんでもいいよ。僕のお金じゃないし」
    「おまえの金は俺の金なんだよ」
    「そこじゃない。僕もフィガロも、人がいる外に出たくないし、仕事がある」
    「もう車も呼んじゃったもんね。そなたら、普通に仕事しておるが、今日はカレンダーは休日じゃよ。たまには息抜きするのがよいじゃろう。ムルからも、休みはちゃんと取るようにって、ほら、チャットが」
     フィガロとファウストが急いでPCを確認すると、確かにムルからのメッセージが届いていた。
    「あの人、ひょっとして研究員全員のPCログをチェックしているのか」
    「まさか……。そんな時間あるわけ」
     ないと言おうとして、否定しきれないところが怖いところだった。
     ――全研究員はこれから週に最低一日は完全休日を取ること! 最近、メディアに出たら労働条件に目を付けられちゃった。だからほとぼり冷めるまで、よろしくね。
     次に送られてきたメッセージに、フィガロやファウストだけでなく、同時に休日出勤という概念もないまま、日常的に仕事をしていたラボの人々は同時に無言になった。これは実に雄弁な無言であり、皆が余計なことを、と心をひとつにした瞬間でもあったが、研究員たちは互いの心を知る由もない。
     閑話休題。
    「そういえば、最近あなたはメディアに出ていなかったような」
     ファウストがはっと気づいた顔をしたのを見て、フィガロは苦く笑った。
    「まあ、さすがにね。例の事件は、全てを公にできたわけじゃないから、一部規制を敷いているし、俺の本職は研究員だから、こちらが忙しいということにしていれば、ゴシップのネタなんてたくさんあるから、喉元過ぎれば熱さを忘れる具合に、俺はみんなの記憶からなくなるだろう。で、今度はメディアがまた新しく代わりを見つけて、ムル博士がやり玉にあげられているってわけ」
    「はぁ」
    「ところでオーエン」
    「僕は今日はもうどこにも行かない。ここでスリープしてる」
    「ほらほら、オーエンちゃんもそう言っているし、早く私服に着替えて」
    「スノウ様も行くんですよね」
     フィガロは大切な確認をした。フィガロもファウストも、アシストロイドのサポートなしで外出は極力控えたい。
    「なんで我も一緒に行くんじゃ? チケットは二枚じゃろう」
    「そういうことじゃないです」
    「チケット送っておいたから」
     ひらひらと手を振って、オーエンは我関せずとばかりにフィガロの研究室の奥に引っ込んでしまった。
    「あ、チケット」
     オーエンはファウストのモバイル端末にチケットを送っていた。
    「ほら、サングラスあれば大丈夫じゃから」
     埒のあかない二人に業を煮やしたスノウが、まずは無理やりフィガロの服に手をかけた。
    「や、やめてください」
    「よいではないか、よいではないか」
     スノウは完全に愉しんでいた。ファウストは憐れな上司を助けるべきか、見捨てて逃げるべきか判断に迷った。この迷いが命取りだった。
    「ファウストちゃん~」
     きゅるんとした小動物のような目でスノウはファウストを見つめた。
    「……い、致し方ない」
    「ファウスト」
     
     結局スノウの案を拒否しきれなかった二人は、極力目立たないシンプルな服装に着替えて、完全無人自動操縦車に乗り込んだ。
     行き先はすでにスノウの方で登録していて、シートベルトを締めた瞬間に車は滑らかに走り出す。安全のため、窓は開けられない仕組みになっており、車内モニターでは、外気温や紫外線指数、大気汚染濃度の数値が示されている。
     郊外に向かうにしたがって、気温は上昇していく。人工的な光が無くなる代わりに、容赦のない太陽光が大地に降り注ぐ。光は温かさを通り越して、地上のものを焼くようにして緑は干上がり、土の色ばかり。
     当然、郊外に住む人々はほとんどいない。長期間滞在していれば、確実に体調を崩すだろう。一画には、シティから排出されたゴミの山もうず高く積まれている。
     郊外の場違いのような場所に、大きく立派な展望台のついた博物館は存在する。
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    ms_teftef

    DONEフィガファウ/ファンタジーになる予定だったもの
    ▼あるもの
    ・意識はしていないけど、見ようによってはアレファウかも
    ・革命if
    ・フィやウサギなど死の描写(ぬるめ)
    ・捏造のファの家族
    月に追われて退場 その年の冬は、例年よりも早くやってきていた。

     ガタガタと揺れる列車の二等車の窓側で、ファウスト・ラウィーニアは、はらはらと空から降りはじめた今年初めての雪を眺めていた。
     ファウストの手荷物は少なかった。膝に抱えたボストンバッグ一つのみ。
     街を離れていく列車に、人はさほど乗り込んでおらず、数少ない乗り合わせた乗客は、皆どこか後ろめたい雰囲気で、誰とも目を合わせようとはしない。気休め程度の暖房では、窓から入る隙間風に負けてしまい、車内はさほど温かくもなく、乗客たちは着込んだゴワゴワしたほつれ気味のコートの襟を合わせ、背中を丸めて静かにじっと座っている。その中でファウストだけが、しっかりと背筋を伸ばし、どんなに揺れても美しい姿勢を保っていた。着ている服の質は、そのあたりの苦学生同様、着古してくたびれてはいたものの、出来る限りの手入れを施して身綺麗にしているのが分かる。真っすぐな紫色の瞳は澄んでいた。美しい青年は、この中で奇妙に浮いて見えた。
    57498

    ms_teftef

    PROGRESSn年後のフィガファウ前提ミチファウ
    かなり荒いので、雰囲気で読んでほしい~~
    これは作業進捗なので……
    本にするときは、もっとちゃんと整えて、その他の話ともちゃんと整合性を整えたりします。
    先生 ミチルが大人になってから初めて嵐の谷にやってきたとき、精霊たちの歓迎は散々だった。
     箒に乗って近くまで行くのに、風に乗れず、まるで箒に乗りたてのほやほやの魔法使いみたいに、あちらこちらめちゃくちゃな軌道を描き、箒に乗られているような操縦になった。そこから、谷の入り口で降りると、濃い霧が立ち込めていた。足元はぬかるんだ土と草でぐちゃぐちゃになり、時折木の根に足を取られそうになる。服は目に見えないほどの細かい水の粒が纏わりついて、ぐっしょりと重たくなり、身体が冷えていった。
     風は吹かず、空気が淀んでじっと停滞しているように思えた。教わった通りの道筋を進んでいるのに、先ほどと同じ道に戻ってきているような気がする。もうすぐ大きな瘤のある木が見えるはず。見慣れない細長い草があちらこちら好き放題伸びて、目印を隠蔽している。植物が意志を持って生えるはずもないのに、まるで故意にミチルを迷わせようとしているようだった。
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