骨
目覚めた瞬間に、今日は妙に温かいとぼんやりと思った。小さな手で、自分の頬を触る。いつもよりも冷たくはない。衾をすんなりと剥いで、身体が震えるような寒さがない。春になるのは、もう少し先であることは知っていた。この時期は、鈍色の空から薄っすらと霞んだ光が一日に一度差し込めば良い方で、大抵は仄暗いか暗いのどちらかであった。
まるでいきなり冬が終わったような麗らかさな雰囲気に、妙な胸騒ぎがした。
この世に生を受けて、まだ年端もいかないわりに妙に大人びた雰囲気の子どもは、これはどうしたことだろうと寝所を抜け出した。
周りには親らしき大人は見当たらない。
「誰か、誰かいないか」
小さな口から零れる言葉は、子どもの舌足らずで甘く甲高い声には不釣り合いなほどに人を使い慣れているようだった。親を求める幼子の寂しさなどは欠片もない。
子どもは、訝しんだ。常ならば、自分が寝所から抜け出せば、出入り口に付けられた鈴が鳴り、下女が着替えや食事を運び、あれやこれやと身の回りの世話を焼く。
溜息を吐いた。下女がきちんと仕事をしないと、酷い目にあうことを、子どもはよく知っていた。子ども自身は、誰の世話などなくとも問題なかったが、大人たちは、そうではないようだった。子どもがその身体に触れて撫でてやると、折檻された箇所の痛みが和らぎ、治りも早くなるが、仕事を怠った下女に触れてはならぬと子どもは言いつけられていた。
そうは言っても一度だけ情けをかけたことがある。しかしその後彼女を一度も目にすることはなかった。賢い子どもは己の失態を悟った。
誰かに咎められる前に、見つけてやらねばならない。依然胸はざわついているものの、己の違和感よりも下女の心配の方が勝っていた。昨日子どもの元に来たばかりで何も分かっていないのだろう。
耳を澄ますと、外から声がした。鼻歌を唄っているようだった。
外は突き刺すような寒さがぬかるんで、外套を羽織らずに外へ出ても身体が震えだしたりしなかった。
白い雪が反射して眩しいことなど、この頃ではあり得ないほどのことだ。
「そなた、何している」
「ああ、フィガロ様。今日は本当に温かくて、つい…… 」
下女はまだ大人とは言い難い、少女の輪郭の丸さを持っていた。無邪気にもう春が来たのかもしれないと外に出てはしゃぐ娘には、満面の笑みが浮かんでいた。
フィガロと呼ばれた子どもは、目を大きく見開いた。
予兆はなかった。なかったのではなく、季節外れの温かさこそが、予兆そのものだったのだと、その時は気が付くことができなかった。
どんなに賢くとも、この世に生を受けて数年の子どもに経験のないことを予測するというのはできないことだった。例え、不思議な力を有していたとしても。
《 》
子どもは咄嗟に口を開いた。
どん、と大きく地が轟く音が聞こえて、瞬く間に視界が真っ白な闇に染められた。
ぱっと目を開けば、いつもの白い天井が見えて、アシストロイド研究開発を担うフォルモーント・ラボラトリー知能機械情報部部長、フィガロ・ガルシアは自分が今までラボ内の仮眠室で休憩を取っていたことを思い出す。夢を見ていた。
「フィガロちゃん、大丈夫? すっごい汗~。風邪ひいちゃうから、早く着替えるのじゃぞ」
フィガロが視線を横に移すと、大きく、くりくりした目が愛らしい子どもが覗き込んでいた。
フィガロを覗き込むのは、アシストロイドのスノウだった。眉を寄せて、いかにも心配だという表情を作っているが、彼は人間ではない。フィガロと、彼の同僚であるラスティカ・フェルチと共に開発した、人と同じく心を持つことができるカルディアシステムを搭載したロボットである。
スノウは、子どもをあやすように、フィガロの汗で少しべとついた頭を撫でた。
「可哀そうに。悪い夢でも見たのじゃろう。心拍数も上がっておるの」
フィガロが白い悪夢を見るのは初めてのことではない。物心ついた頃から、たびたび同じ夢を見ている。十年以上も繰り返してなお、慣れることのない悪夢。
脳波計測機でフィガロとスノウを繋ぎ、フィガロの脳波をスノウに共有し、フィガロの脳裏に浮かんでいるイメージをスノウに直接反映することは容易い。記録を取り、カウンセラーと対話をし、場合によっては精神安定剤の処方、メンタルケアをすべきであることをフィガロはよく知っている。しかし、それをするのは、なんとなく憚られた。自分に欠けている感情の一部のような気がしていたのだ。あまりにも根拠も論理もない話に、フィガロ自身も己の直感を恥じていた。それゆえに、幼いころから誰にも打ち明けることはなかった。フィガロは、幼い頃から周囲の子どもたちよりも図抜けて頭がよく、神童と持て囃されていた。
フィガロは、自ら命を与え、身の回りの世話をするように親身な存在として傍に置いているスノウにさえ、昔から繰り返し見る夢の内容を話したことはない。たびたび魘されているフィガロを見ていても、スノウが夢の内容を聞くことはなかった。
「大丈夫、大丈夫じゃよ」
スノウのひんやりとした掌がフィガロにはちょうど良い。人間の血潮の通う生温かさは、今のフィガロにとっては、むしろ気分の悪さを助長させるものだった。 フィガロはだいぶ落ち着いてきて、大きく深呼吸をした。
「もう問題ありませんよ。ところで、俺はどのくらい寝ていました?」
背中に張り付いた布の感触が気持ち悪いと思いながら、フィガロはゆっくりと起き上がり、スノウに尋ねた。長いこと寝ていたような気がしたのだ。
「ほんの一時間程度じゃ。そなた、いい加減もっとちゃんと寝ないと身体を壊してしまうぞ」
「あのね。俺は知っての通り、忙しいんですよ。カルディアシステムの倫理や法整備やら、新規開発の他にホワイト様のメンテナンス。やることが山積みなんです」
フィガロはうっすらと自虐とも取れるような笑みを浮かべて言った。それに対し、スノウはいささか腹を立てたようだった。
「だから余計身体は大事にした方が良いぞ。そなたは、人間なのじゃ」
「人間がいないとメンテナンスもされず、生命を維持できないアシストロイドが言うじゃないか」
「今のは良くない言葉じゃ、フィガロ。何を苛立っているかは知らぬが、我らが産んでくれとそなたら人間に頼んだか」
フィガロとスノウは一瞬にらみ合った。先に目を逸らしたのは、フィガロのほうだった。
「シャワーを浴びてきます」
「あと三十分でファウストとのミーティングじゃぞ」
スノウはフィガロに調子を合わせた。これ以上の不毛な喧嘩は無意味である。
「分かっていますよ」
スノウの丸い頭をひと撫でしてからフィガロはシャワールームへ向かった。
お湯ではなく、ほとんど水のようなシャワーを被る。身体はぶるりと震えたが、頭は次第に冴えていくようで、フィガロはしばらくのまま冷たいシャワーに打たれていた。
ピピっと電子音が鳴る。フィガロのPCモニターにメール受信のマークがついた。
ミーティングに備えて、ラボで軽く資料確認をしていたフィガロは、そのメールを開いた。
『パパへ 今日はミスラたちと湖に行ったよ。ルチルが詩を読んだ。ロマンチックだから夫婦になるってよく分からない。けど、湖はキラキラしている世界がもうひとつあるみたいで悪くはなかった』
短いメッセージと共に、赤毛の大型のアシストロイド、ミスラと一緒に映るオーエンの画像データが送られてきていた。後ろにいるブロンドヘアの青年が、ミスラのオーナー、ルチルだろう。フィガロは、オーエンが関わるアシストロイドやその周辺情報をきちんと確認している。
オーエンからのメッセージを読んで、フィガロは、思ったよりもきちんと行動の報告をしてくれる、と感心した。
フォルモーント・ラボラトリーは、アシストロイド オーエンの独立した自由行動を許可する代わりに、一日最低一回の行動記録と連絡の義務を課していた。
先日行われたカルディアシステムの処遇について、ラボと市長や市議会議員を交えたバーチャル会議には、もちろんフォルモーント総合研究機関理事長であるムル・ハート博士も参加していた。
フィガロ・ガルシア博士およびラスティカ・フェルチ博士の秘密裏の開発の元を辿れば、というよりもカルディアシステムの生みの親こそがハート博士であり、一部の議員は、彼の研究の危険さを糾弾した。
「なぜアシストロイドが人の心を持つことに怯えるの? 危険だって、心がなくたって、アンドロイドを使ったテロが横行している! それを指示しているのは誰?」
「そう、オーナーである人間だね! 人間は危険じゃない? もちろん、人間にもよるよね! オーナーがアシストロイド自身の危険性とどのくらいの差があると思う? それはアシストロイド自身にも寄らないかい?」
「きみのそばにいる秘書はアシストロイドだろう? きみは自信を持って、彼、ないし彼女は武器にならないと言い切れる? きみ自身が潔白だとして、何者かにクラッキングされたら?」
「危険性なんて人間とほとんど変わらないと思わないかい? ただ、生き物は確かに、未知の存在に恐怖を抱くだろう。未知でなくすには、どうしたらいいと思う?スクラップなんて、思考停止だ。我々には考える頭脳がある!」
「きみは感情を完璧にコントロールして飼いならせるかい? カルディアシステムを搭載したアシストロイドも然り。アシストロイドに支配される未来? アシストロイドと人間の比率が逆転する可能性もまああるね。でも考えてごらん。アシストロイドがいてもいなくても、既に人口は減退期。というよりも人口減少に伴って必要なAI開発の果てに生まれたものでもあることをお忘れなく」
会議はほとんどムル・ハートの独壇場であり、「会議」というものにならなかった。ムルは、爛々と光る緑の目でホログラムを通して、向こう側にいる、あらゆる生身の議員たち一人ひとりの目をしっかり覗き込んでいるかのように振る舞い、大半の議員は、その態度にもたじろいでいだ。市長だけが、苦笑しながらも頷いていた。
先日の騒動の発端となったフィガロは、肩身の狭い立場ゆえに沈黙を貫いていたが、ムルの言葉には、内心、元凶のくせによくまぁいけしゃあしゃあと、思っていた。
会議に市民代表として選ばれてたハイクラスの人間も参加していた。この街一番の金持ちといっても過言ではない無口な長髪の男も、密かにカルディアシステムを搭載したアシストロイドを所有しており、ちらちらと彼の顔色を伺う議員もいた。彼が反論をしないということは、ムルに対しての諾と捉える。所詮は、金がものを言うのである。
あともう一押しのところで、ムルが言った。
「散々堅苦しいことも言ったけれど、単純なことを忘れないでほしいね。アシストロイドと本当の友だちになる夢を抱いたことは? 友だちになれたら、そう思わないかい」
「は? 僕は友だちになんてなりたくない」
それまでフィガロの隣で、大量のお菓子を与えられて、もくもくと口を動かしていたオーエンがボソッと呟いた。オーエンはバーチャル会議上には存在していなかったが、フィガロの隣で全ての話を聞いていた。
当事者不在で進む会議など、人権(アシストロイド権というべきか)無視も甚だしいと思わないか、とフィガロに言われて、なんとなく口車に乗せられてしまったような気もしながら、オーエンもしぶしぶの体で、フィガロと一緒に参加していたのだった。
「しぃ。おまえは黙っていなさい」
「はあ? 僕だって友だちを選ぶよ。決まってるだろ」
ぼそぼそとフィガロがオーエンと話している間に、
「様々な人間がいるように、様々なアシストロイドがいる。目指すべきは、排斥ではなく、共存じゃないかい」
ムルの演説はほとんど終わりを迎え、パチパチと拍手が起こっていた。
「とはいえ、先日騒動を起こしたラボをどの程度信頼すべきかという点について、定期報告がほしいところですね。法律制定もまだまだこれからですが、カルディアシステムの研究について、独占的であればあるほど、一般の理解からほど遠くなると思いませんか」
それまで静かに聞いていた市長が、冷静に言った。
ムルは、そうですね、と頷いた。
「その点は、勿論、そこにいるガルシア博士が報告いたしましょう」
急に矛先を向けられたフィガロは、ぎょっとしながらも取り繕った顔で笑った。
「もちろん、何かあれば、今度こそ組織解体は免れないことは私も存じています」
「結構。わたしたちは、未来に期待しています」
市長の言葉に、ムルは芝居がかった仕草でお辞儀をした。会議はその場で終了となった。次々に議員たちのホログラムが消えていき、会議を設定したムルとフィガロだけがその場に残った。
「まあ、というわけだから、オーエンのことをよろしくね」
「また勝手なことを……」
フッとバーチャル上にオーエンも姿を現した。
「僕は何をよろしくされたわけ? 僕だって友だちは選ぶし、おまえたちの勝手を承諾するわけないでしょ」
オーエンはムルを小馬鹿にしたように鼻で笑った。
「まあね、きみはきみの好きなように生きる権利や自由がある。きみ一人がなにもアシストロイドや我々の未来を担っているというつもりは毛等もないよ。好きにしたらいい。けれど、自由には責任があることを忘れないでね!」
「それって脅し?」
「脅しにもならないよ。だって、人間だって同じだからね」
「本当の自由って存在すると思う? コミュニケーションストレスからの解放を望みながら、意思のない存在の意思を望んだ人間をきみは笑うかい?」
ムルは一切笑っていなかった。
「馬鹿言わないで」
「その通り、これは俺たちの責任だからね。こんな問いかけをきみにする方が間違っている。ね、フィガロ」
フィガロは顔を顰めたが、ムルの代わりに言葉を続けた。
「オーエン、これは強制ではない。でも、きみの生み親として、責任を果たさせてほしい。きみを、きみたちの未来を約束する。だから、少しの間だけでいい。俺たちに協力してほしい」
「具体的には?」
「好きに行動してもいい。ただし、一日一回、俺に行動の報告を」
「……まあいいよ」
「ありがとう。人間も、大人になるまでは、親の監督責任があるから、そういうものだと思って」
「前から思ってたけど、おまえはお父さんて柄でもないだろ」
「それはそう! まあ、フィガロに負担がかかり過ぎるからね。アシスタントを付けておくから」
色々と聞き捨てならないことがあったが、生身の他人と長い時間を過ごすことに抵抗があるフィガロは、アシスタントという言葉に慌てた。
「は? スノウ様で充分ですよ」
「スノウだけじゃ研究の助手は不足でしょ。彼は研究者じゃない。というわけで、ファウストをサポートにアサインしたから。オーエン、新しくお母さんができるよ」
「ちょっと!」
言いたいことだけ言って、ムルはふっと消えた。
オーエンは、ひとつ伸びをすると
「じゃあ、そろそろ僕も出かけてくる」
とバーチャル上からも、実際のラボからも、今度こそ身一つで出て行ってしまった。後に残されたフィガロは、その場で頭を抱えた。
ピピッとフィガロのモニターがメッセージを受信した。
『ガルシア博士へ ハート博士より、研究アシスタントにアサインされました。今後の研究方針等については、直接ガルシア博士に相談するようにとのことです。ミーティングされますか?博士のお時間のあるときに、時間設定ください』
「本当にあの人は……」
フィガロは、天を仰いだ。
コンコン、とフィガロの研究室の扉が叩かれる音がした。
「どうぞ」
「失礼します」
入ってきたのは、栗色の巻き毛に色の濃いアイウェアを着用したフィガロの部下、ファウストだった。
「わざわざここまで来させて悪かったね」
「いえ……」
フィガロの方へわずかに視線を向けたかと思うと、すぐに逸らして、ファウストは、腕の中にいる猫型のアシストロイドをぎゅっと抱えてた。
互いに気まずい沈黙が流れた。
ファウストは、フィガロの優秀な部下であり、顔を合わせてもきちんと会話ができる数少ない人間だったが、フィガロは意図的にカルディアシステムの研究からは除外していた。それにも関わらず、カルディアシステムを搭載したアシストロイドの騒動の際には、フィガロを庇うために、熱弁を奮ったうちの一人だった。
フィガロは、その礼すら満足に伝えていないことに、今更ながら気が付いた。さらに、ファウストは普段は自分の研究室に引きこもりがちであり、生身で会うのはずいぶんと久しぶりのことだった。
「あ~、あの、ファウスト。この間は、ありがとう。きちんとお礼を言っていなかったと思って」
「いえ、お礼を言われるほどのことではないです」
「いや、そんなことはないよ、きみが猫型のアシストロイドとして駆けつけてくれたおかげで、まだきみたち部下から見限られているわけじゃないと思って、心強かったというか」
フィガロの言葉の勢いに、ファウストはぽかんとした。
また二人の間に沈黙が降りる。
「えっと……」
「んも~、フィガロちゃんってば、お茶も出さないで!」
突然、予告なくドアが開く音がして、パタパタとトレイに湯気を立てているコーヒーカップを二つ持ってきたスノウが入ってきた。フィガロは、あからさまにほっと息を吐いた。
「遅いですよ」
「せっかく我が気を利かせて遅くやってきてあげたっていうのに、何をぼんやりしておるのじゃ」
「何の話をしているんです」
「何の話じゃろうな」
「あっ、あの、スノウ、ありがとう」
フィガロとスノウがわずかに険悪な雰囲気になり始めたのを察して、ファウストが大きな声で割って入った。
スノウは、きょとんとした顔をした後、ファウストの反応に思い至った。
「ふむ。今まで何度か会っていたと思うが、我は他者とコミュニケーションをとって反応を学習し、自己で意思決定をする。それは次第に人でいうところの自我となり、心を獲得してゆく。ゆえに、こうやってじゃれあいみたいな喧嘩もするのじゃ。その様子を初めて目の当たりにしたら、驚くのも無理はなかろう。慣れてくれるか」
スノウは、真っすぐに手を伸ばして、ファウストの手にそっと触れた。
ファウストがややあって小さく頷くと、スノウはパッと明るい表情を作って、ファウストを近くの椅子にエスコートした。
「フィガロちゃんは気が利かぬから、椅子も勧めてやれんのじゃ」
「ち、違いますよ。タイミングを逃して」
「あなたの意思がプログラミングでないということが、未だに少し信じられない気持ちもする」
「今はそれで良いのじゃ。詳しいことは、これからフィガロちゃんが説明するからの」
「今まで秘密にしていて」
「いいえ、僕が研究者として至らなかっただけです」
ファウストは、勢いよく立ち上がり、フィガロの謝罪を遮った。
「それなのに、また機会をいただけて、今回アシスタントとしてサポートできて光栄です」
至らぬこともあると思いますが、その際はご指導くださいと、かつてフィガロと出会った頃。フォルモーント・アカデミーの学生だった頃の初々しさを彷彿させる態度でファウストは頭を下げた。
フィガロが特別講師としてアカデミーに招かれ、、しぶしぶ公演した際、壇上から見て一等光る星のような輝きを持った研究者の卵が、ファウストだった。
フィガロにとって、「ガルシア博士の論文は全て読んでいます」と、頬を硬直させ、きらきらした瞳で真っすぐに自分を見つめるファウストは、あまりにも眩しかった。
どうせ他の人同様、フィガロのルックスや地位が目当てでの擦り寄りに違いないと穿った見方をするには、ファウストの口から矢継ぎ早に出てくる質問は、なかなかに鋭く、フィガロが少し意地悪くした質問にも臆することなく答えたファウストを、フィガロは天命を見つけたのだと思った。
アカデミーを卒業したファウストを引き抜いて、部下にして育てている最中で、任せていたアシストロイドがたまたま標的にされて、クラッキングされ、スクラップ処分されるという事故が起きるまで、ファウストは、フィガロのそばにいたのだった。
事故を未然に防ぐことのできなかったファウストをフィガロは見限ったわけではなかった。
たった一体のアシストロイドのスクラップで、職を辞するほど心の傷を負ったファウストに、カルディアシステムの研究をさせるのは酷だろうとフィガロの配慮だった。
ファウストを引き留める言葉を、フィガロは持たなかった。部下のひとりであるレノックスがファウストをフォルモーント・ラボラトリーに留めたときには、ほっとしたが、どういう顔をしてファウストに会っていいのか分からなかった。
アシストロイドの心に見えるものが心ではなく、全てプログラミングによる応対だと理解していてなお、自分の責任だと自責し続ける部下に、アンドロイドの心を知る研究の話が適切ではないことくらい容易に分かる。
監視モニターを見つめるフィガロに、それは臆病というのだとスノウが声をかけた。勇気を出した果てが、スノウの双子のアシストロイドの破壊だとして、生み出されて数年もしないロボット風情が分かったような口をきくなと、スノウに言い放ったフィガロを、スノウは確実に覚えているのだろう。
スノウは、貼りつけた柔和な笑みにそぐわない、品定めをするかのような視線で二人の人間を見ている。
「まず、カルディアシステムについて、きみにきちんと説明しよう。それから、オーエンのこともね」
「はい、よろしくお願いいたします」
生きものが死ぬ。それは、食卓に上る鶏であったり、野兎だったり、野犬に襲われた子猫だったり。
人間も死んでいく。
流れた赤い血は、やがてすぐにどす黒く変色する。
死のにおいがする。それは、身近な存在だった。
年寄りが、生まれたばかりの赤ん坊が、病人が、弱者だけでなく、次第に戦争で若い男も女も死んでいく。
その子どもは、初めは、持てる不思議の力で、微力ながら流れる血を止血し、清潔にし、怪我の治りが早くなるように祈りを捧げた。
誰もが持っているわけではない不思議は、病気を治すほどの力は持ち得なかった。病に侵され、身体が痛むと唸る人の痛みを和らげ、あとは安らかであるようにと手を握る。温かい手の温もりは、次第に脱力し、温度を失い、硬くなっていく。
かつて子どもだった青年が、初めて人を殺めたのは、不思議の力ではなく、刃物の力を借りてのことだった。
ぷつり、と皮を破った先に肉があり、更に奥には柔らかな内臓があり、ああ、一瞬のこと、目を丸く見開いて、相手は何が起こったかも分からないまま、刃ものによって開いた肉体は、熱いほどの血潮を勢いよく吹いた。
青年には、全てがスローモーションのように感じた。敵意はなかった。ただ、反射的にやらなくては、と手が動いただけだった。そこには人間の理性など存在せず、獣のような本能とも言うべき、防御反応に過ぎなかった。
青年のそばにいた青年は、友人の取った行動に呆気に取られていた。彼が行動を起こさなければ、虚ろな瞳で地面に伏すのは彼の方だったのだ。
彼が温和なことを、幼い頃からよく知っていた青年は、自分のせいで彼が道を踏み外したのだと、その時はっきりと悟った。彼は、友人を戦争に誘ったわけではない。むしろ融和のための戦いをしようと奮い立っただけだった。
戦や些細な対立で身を隠す人がいないようにしたい、堂々とあなたと友人になりたいと言える社会を目指したい。そのために立ち上がったのだった。
青年は、青年が思うよりもずっと冷静だった。いつかこういう日が来るのかもしれないと感じていたからだった。
赤く濡れてべとついた己の掌を見つめて、自分の業――不幸な人生――を思い出す。
青年は躊躇なく人を屠った手に触れて、青年は
「ありがとう」
と言った。
彼もまた、彼の日ではないくらいの、他人の人生を破壊した。信条のために破壊せざるを得なかった。理想への道のりは、屍でできている。
以下メモ軍
夢を見た。
ぱっと目を開けば、いつもの白い天井が見えて、自分が誰だったのかを思い出す。
妙に頬がくすぐったいと思うと、愛玩動物に近い形をしたロボットがファウストのすぐそばに控えていた。尻尾にあたる身体パーツでファウストを優しく叩いており、目覚めの時間だと懸命にアラートしていた。
手を伸ばして、二、三度撫でると、尻尾の攻撃は止んだ。
寝過ごしただろうかと、時計を見て、焦るほどではないことが分かり、ほっと胸を撫でおろした。
寝ている間にかいた汗が不愉快で、ファウストはベッドから降りるとシャワーを浴びるために仮眠室を出た。
勢いよく燃える炎に呑まれながら、
夢である。
ムル・ハート博士から、直々にフィガロ・ガルシア博士の補助につくように任命された。
心があれば、アレクは、僕のアシストロイドは、クラッキングなどされずに済んだのでしょうか。
どんな?
「海ならその辺にたくさんのデータがあるだろう」
「本物の海に決まっているだろ」
「監視じゃないさ。子どもの見守りと一緒だ」
「僕を子どもだって言うの? おまえだって、本物のことは知らないじゃないか」
「人間は不思議な生きものじゃの。我らがするのは記憶の整理。我らのはバックアップのための記録の反芻にすぎぬ。そもそも我らのは睡眠ではない」
「我らも夢を見ることができるようになるか」
「夢を見たいなら、そうプログラミングしましょうか」
「むむ。そうではない」
ファウストが気付けば、真っ赤な舌にちろちろと足の裏を擽られていて、熱いと思った瞬間に、全身に炎が回る。逃げ出そうとして、ようやく、自分が手足を括られ、貼り付けにされているのだと思い至り、あまりの苦痛にうめき声をあげかけたところで、死ぬ気配がないことを悟る。
「きみは、もう平気なのか」
オーエンから送られてきたペアチケット
「ちょうどよいからファウストちゃんと一緒に行ったら?」
自然史博物館に行くフィガファウ
それは寒い雪山の記憶だった。
一面の白に覆われた山の中ほどに、小さな集落が存在していた。近くの集落まで、山の道を大人の足でも三日はかかる。
そこには「神様」と呼ばれている子どもがいた。年端もいかない幼い子どもに頭を垂れて、人々は「私たちの神様」と口々に言う。
神様は、不思議な力を持った子どもだった。
《 》
何事か短い言葉を唱えると、すべてのことは万事解決した。
真っ白な世界で、たった一人ぼっちになってしまったことを悟った。
「ととさま、かかさま……」
誰かの名前を呼ぼうと思ったのに、フィガロは誰の名前も思い出せなかった。新しく来た下女の名前は知らなかった。女は女である。名を呼ぶ必要もないと言われていた。名を呼べば、図に乗る。誰も、フィガロには名前を呼ばせなかった。よく聞いたのは、親を呼ぶ声。
小さな手で、埋もれた人間を掘り起こそうとしたが、小さな手では何もできなかった。
《 》
いつもの呪文を唱える。けれど、何も起こらなかった。フィガロに応えてくれた何者かは、いつの間にか消えていた。
冷たい雪で手が真っ赤になり、はぁと息を吹きかけてみるも、凍えた身体から吐き出された吐息では意味もない。
フィガロは疲れ果ててしゃがみ込んだ。
行く当てもなかった。
「フィガロ様、お食事の時間ですよ」
そう言って、冬の間貴重な干し肉を供してくれた人間はもういない。貴重な真っ赤な果物を差し出す人間は、もう誰もいない。
己が空腹であるかどうかも、フィガロには分からない。じっと、そこで動かず、もしかしたら、自力で雪をかき分けて人間が出てくるのではないかと、ない希望を抱いたのかもしれない。
誰の名前を呼ぶべきなのだろう。
フィガロは、身体を雪の上に投げ出した。顔が少しだけ生暖かい。目から零れた熱い雫では、雪を全て溶かすことは不可能だった。
フィガロは目を瞑った。小さな身体は疲弊していた。
ふと目が覚めた。
地面からは、さらさらという音が聞こえる。水が流れ出したのだ。本当の春がやってきた。
誰もいない春。
「ガルシア博士? 具合が悪いのですか?」
アシストロイドは、骨にはならない。土に還ることなく、ただの屑となる。
電脳の世界を入れる? ゴースト?
スノウとホワイトの電脳セックス
セックスでもする?
どうして?
人間の根源的な欲求的な?
どうして僕なんだ。セクシー2位なら、他にも
どうしてだろう前世からの縁とか
信じないんじゃなかったのか
夢を共有しあうフィガファウ
それってなんだかセックスみたいじゃない?
馬鹿じゃないの
パパへ
オーエンから送られてきた一枚の写真がある。
「なんか、風がべとべとして気持ち悪い」
そう言いながらも、彼の機嫌は悪くはなさそうだった。
パパへ
前世って信じる?
信じる?随分信心深いんだな。
あるかもしれないし、ないかもしれない。あるというには材料が足りない、ないというにも材料が足りない。オカルトじゃなくて?
「海?」
「きみは、海に行ったことがある?」
「ない」
「実は、俺もないんだ」
「そんな気はする」
「バーチャルで充分だと思っていたんだ。だって、わざわざ出かけなくても、投影すれば済むし、環境音だって風やにおいも」
「今度の休みで、でかけないか」
「あの、キスしていい」
「……。好きにすれば」
「あっ」
ファウストが大きな声を出して、遠くを指さした。
フィガロは、
クジラがいた。
「初めて見た」
「僕も……」
海のあなたに消えていくまで、二人はずっとそれを眺めていた。