メモリア 南の国は、天鵞絨のような滑らかな濃紺の夜だった。天鵞絨を彩る宝石の輝きが一層美しく映えている。
この夜、国随一の医者の診療所では、夜間の急患もなく、医者と彼を訪ねてきた男が、寛いだというには僅かばかりの緊張感と遠慮と不遜の狭間で揺られていた。
診療所の客人、ファウストは自宅ではないこの場所で、魔法を使いなさい、日頃から細かなことも神経の先まで魔法を使う感覚を忘れないでと師匠から口酸っぱく言い聞かされていた四百年前の修行から一変し、飯屋を営む友人の影響を受けて、迷いない慣れた手つきで、人間と同じように手ずからお茶を淹れていた。
ミルクパンに水を注ぎ、火をくべ、ぐらぐらと煮えるのを待っている。
沈黙。
この診療所の医者であり、ファウストの師匠でもあるフィガロも、ファウストも喋らない。フィガロは背を向けたままのファウストの後ろ姿を、椅子に座ってぼんやり眺めていた。
成人の一歩手前で、永遠に留められた中途半端な骨の細さに、初めての罪悪感を覚えた。もう少し手塩にかけてゆっくり育てることができたならと思わずにはいられない。
フィガロの前でファウストはこんなに静かなことはなかった。乾いた大地が雨水をその肌にぐんと染み込ませていくような貪欲さで、昨日知らなかったこと、今日知ったこと、あらゆる疑問をフィガロに投げかけていた。謙虚な態度と言葉とはちぐはぐな様子がフィガロにとっては面白かった。
なぜなぜと世界の全てを知りたがる子どものようで、意志の強い瞳に宿る正義と信念の炎が、生きた十数年の未熟さを凌駕して他者を圧倒する。
白く発光する光を見た。光は翳すらをも飲み込んでしまって、あまりにも眩しいので、見たものの目を焼いた。燃えてゆく星の勢いに似て、受け止めたフィガロの心に火を付け、一瞬のうちに盲目にしてしまった。
――一緒に神様になりたかった。一緒に国を見守る未来を夢に見た。
ファウストの表情は、フィガロからは見えないけれど、手を動かして、沸いた湯を鍋から湯冷ましに移し替え、ポットに注いでいるのが分かった。
ふわりと薬のような独特な滋養のありそうな苦みのある香りがした。水面に浮かんで咲く東の国に生息する花の雄しべで香りづけをしたお茶。
安眠にも効果があるそれをファウストがわざわざ土産に持ってきた理由は、このところフィガロがやつれたように見えるからだろう。
借りている本が読み終わったので返しに訪れてもよいか、というファウストの手紙が嬉しくて、つい二つ返事で了承してしまったことを、フィガロは後悔とまではいかないまでも、軽く失敗したと思った。
本ならば、借りると言わず、欲しいものはすべて譲ってやることもできた。形見と言ってもいい。「きみには何でもあげるのに」と本人にも伝えたけれど「これはあなたのものだから」ときっぱり断って、近所に出来た図書館かのように結構な頻度でやってくるのは、ひょっとして口実だと思うのは、フィガロの自惚れだろうか。
フィガロの心には、ファウストに会いたいという気持ちとファウストには何も気付いてほしくないという気持ちが同居している。
フィガロがファウストの前で完璧な姿を保つことは、年々難しくなっている。魔法を使うこと自体に問題はないものの、魔法を使えば使うほど、身体が摩耗し、回復に時間がかかっている感覚があった。
人間も歳を重ねると、傷の治りが遅くなるのに似ている。
この頃のフィガロは、診療所での日常生活、ファウストに会いに嵐の谷へ、時折中央の国にアーサーやオズを支えに、あちらこちらに移動していた。さらに呼びつけられて北の国にも双子のために顔を出す。自分でも甲斐甲斐しいと思うほどだった。
相変わらず子どもたちに大人気のルチルは、あちこちに顔を見せ、精力的に活動するフィガロを見て、「あらあら。フィガロ先生ってば、若いひとに負けず劣らず元気一杯ですね」と、フィガロが何も告げていないので、何も知らずに軽やかな冗談を飛ばしている。レノックスは相変わらず変わらない態度でフィガロにファウストの様子はどうだと世間話をしたり、付き合いの長さで無言で酒に付き合ってくれる夜もある。ミチルだけが心なしか距離を測りかねたように遠巻きにしているようで寂しい。
愚痴を零し、「ミチルだって年頃なんだから」とファウストに言われた時は、親離れとはよく言ったものだと思った。
産土を捨てたとまでは言わないまでも、南の国から北の国へ、中央の国へと渡り鳥のように自由に羽ばたく子どもの姿に、今になって、双子の気持ちがよく分かった。
「あの子は少し、あなたに似ている」
「ええ?どの辺が?俺よりもずっといい子じゃない」
「そういうところ」
昼頃にファウストと共に、しばらくミスラさんのところへ行ってきますと、ぐんぐんと危なげなく高度を上げて粒のようになって見えなくなるミチルを見送ったときのファウストの台詞に、フィガロは未だに首を傾げている。
柔らかな飴色の水色(すいしょく)のお茶を、そっとファウストが差し出した。
「ありがとう」
「どういたしまして」
ファウストがフィガロに伺うような視線を投げかけた。ああ、この子は昔から口を開く前に、必ずこんな目でフィガロを見ていた。
「きみも座りなよ」
フィガロは懐かしくなった。律儀で謙虚な弟子は、声をかけてやらないと、いつまでも立ったままで、座るという発想すらないようにみえた。
ファウストは大人しくフィガロの目の前に座って、話を切り出した。
「お前、本当に大丈夫なのか」
「何が?」
「何がって……」
疲れているんじゃないかという一言を、ファウストは頑なに言わなかった。寿命という二文字が、フィガロに打ち明けられて以降ファウストの頭の中には常に過っている。
ファウストの気のせいの可能性もある。師匠に対して、あまりにも不遜ではないか。それに、頻繁に口にしてしまえば、その現実がすぐにやってきてしまう気がしていた。理屈の分からない不安に駆られて迷信を信じた子どもと変わらない。縋るものが何もないから、まじないにもならないことにまで馬鹿のように手を伸ばしている。
「今日は朝からたまたま忙しくて、疲れたように見えただけだよ。きみが来てくれて、助手みたいに働いてくれたからずいぶんと助かった。きみだって、中央の国に行ったり来たり、たまにアーサーの様子を見に行っているんだって」
むっとした顔を見せるファウストに、フィガロは話題をすり替えることにした。
「なんで、それを……」
フィガロがどういうつもりで貴族や、やり手の商家のパーティーに参加しているのか。ファウストは、アーサーだけのためだと思っている。この子は、それでいい――。
「俺はフィガロ様だよ」
「そうだけど、そうじゃないだろう」
詰め寄ろうとしたファウストに、フィガロはただ笑ってみせた。その顔を見てファウストは、勢い半分ほど浮かせた腰を、薄い尻が痛まないのか不安になるほどいつもより乱暴にもう一度椅子に戻した。
フィガロのあからさまな言い方にファウストは憤慨したものの、詰め寄ることの無駄を悟った。いつになっても、視野の広さではフィガロには勝てないのだろう。
やけくそのように「だいたい呪い屋なんて、ろくな魔法使いではないのに、なぜか僕のところにやってくる」と行儀の悪さを意図的に作りながらぼやくファウストに
「みんな君のことが好きなんだ」
とフィガロは言った。俺も、と自分の好意を素直に表せず、全体の好意の中に組み込んでしまうのがフィガロだった。
目を伏せたファウストにフィガロはそれ以上何も言わなかった。
フィガロはまだ温かいままのお茶を啜った。淹れるときには魔法は使わないのに、わざわざフィガロのために冷めないよう保温の魔法がかけてある。
苦い薬のような癖のある香りのお茶さえも、フィガロにはファウストが差し出したなら褒美のように甘く感じる。
「もう遅い。あなた、早く寝た方がいいよ」
もう年寄なんだしと続ける、ファウストの拗ねた言い方を、フィガロはいじらしくて可愛らしいと思った。
「折角だから、一緒に寝ようよ」
今日なら許されるという、常のフィガロらしくない根拠のない自信があった。
ファウストは俯いたまま、無言だった。
二人で転がったベッドから見える窓。二人で一枚の毛布を使う。こんな夜は、これまで一度としてなかった。一つ屋根の下で過ごしたとして、ベッドは二つ。
南の国では、土地の精霊ですら夜はぐっすり寝てしまうくら
い、力がかそけく弱い。ゆえに、空を滑る月と星々が圧倒的な強さを持って国を制覇する。気候も植物も生き物も、川の水の温度、味さえもあらゆるものが違う地上にも関わらず、北の国でも南の国でも、星たちは暴力的なまでに集って大河をなしている。
「ああ、星が流れた」
夜空のあちこちに大小様々な輝きを放つ星のひとつを指して、フィガロは言った。
デジャヴ。フィガロは四百年前にも同じことをファウストに言った。
ファウストはフィガロの指の先を追って窓の外を見た。
その時は眠る前、一日の終わりが惜しくて、いつまでもいつまでも夜のお茶の時間を引き延ばし、それぞれの寝室へ向かうにも、共にゆっくりと歩いていたところだった。
一等明るい星がある。
北の国の、晴れたと思った瞬間に風が吹いて分厚い雲がやってきて地上を灰色に覆ったり、途端に雪が降って吹雪になるような変わりやすい天気にも関わらず、あの夜はよく澄んでいて、星たちの囁きがあちらこちらで大きな騒めきとなって、うるさいほどだった。星は存外お喋りである。お喋りに夢中になるあまり、ついうっかり天体から落ちてきてしまいそうなほどだった。実際、飽和状態に陥った星がいくつか溢れて地上に零れてきていた。
「見えるかい」
「ええ。怖いくらいに星が落ちてきています」
ファウストは無意識に震える自分の身体を抱きしめた。
気付いたフィガロが、後ろからファウストの肩にそっと手を添えた。フィガロの体温はさほど高くない。それでも、ひとの体温が触れたところからじわりと温かさを伝え、冷えていたファウストの身体に温もりを与えた。
フィガロの住処へ、猪(しし)のごとくやってきた星の遣いとの一年は、千年以上を生きたフィガロの長い人生の中で最も色鮮やかなものだった。
ひとりの若い、フィガロからすれば赤子にも等しい魔法使いに付きっ切り、収集していた貴重な書物やらなにやらをすべてひっくり返して、眠らせていた知識と考え方、魔法使いとしての在り方を導いた。
鈍色の空虚な生活の最中、突然聞こえてきた凛とした声の意志の強さの中に混じる震えは、武者震いであり、怯えではなかった。フィガロを紫色の気高い澄んだ瞳で射抜かんばかりに見つめていた。
フィガロは反射的に手を伸ばした。フィガロを求めるいくつもの手、旋毛、フィガロを憎む憎悪の炎に燃える瞳、腥い手。どれとも違う、フィガロだけの一等星。
いつかの日に海を渡れなかったフィガロが手を伸ばした月の代わりに、フィガ
ロに生きる意味を与えた。
魔法使いに縋る人間も、魔法使いを忌む人間も、魔法使いを愛する人間も、魔法使いに怯える人間も、フィガロを残して百年そこらで等しく消えていった数々の地上の砂粒。生まれては死んでいく命を掌に転がして、矯めつ眇めつ、時折息を吹きかけ、フィガロなりに慈しんだつもりだ。
「あなたは、恐ろしい/優しい、けれど」
けれど、に続くものが何だったのか。みな一様に続けることなく口を噤み、二度と開かない。ファウストだけが「あなたは優しい」と断言をした。同じように人間を愛でることができる魔法使い。
ようやく、フィガロにもかつての双子のように、共に見守り、我が子のように愛でていく存在を手に入れた。
人間と魔法使いが手を取り合って暮らす国を頂で見守ろう。めでたしめでたし、というお伽噺の終わりが現実になる。
「僕には、成さなくてはいけないことがあります」フィガロの胸に頭を預けることなく、首を真っすぐに据えて言い切るファウストは、決してフィガロを振り返らない。きりっとした目は、出会った当初から変わらず、前を見据えている。
見てみたいと思った。彼にすべてを与えたら見ることができると思った。
「知っているよ」
ファウストは、肩から下がって腹に回されたフィガロの両の手を避けることもなく受け入れた、男性としてはいくぶんまだ柔らかさの残る器が、一年前とさほど変化ないことに、いつ気が付くだろうか。
ファウストがひとりぼっちになることに怯えたのは、革命が成功することを信じていたからだ。信じさせるだけの力と知恵をフィガロが与えたからだ。
「この革命が成功した暁、そのもっと先、僕はいつかみんなに置いて行かれてしまうのでしょうか」
「魔法使いは、総じて長寿だ。人間はみな我々よりも先に逝く。それが定めだよ」
「あなたは寂しさを感じたことはありますか」
「きみが寂しいならば、俺と一緒に生きていけばいい」
「フィガロ様……」
ファウストは、フィガロの手にそっと自分の手を添えた。フィガロには髪で隠れた顔が、はにかんでいるように見えた。
ファウストはずっと無言でいる。もとの大きさのベッドにぎゅうぎゅうに横になって一緒の毛布にくるんだ時も、今しがたフィガロが星を指したときも。
無言に耐え切れなくなったのは、フィガロの方だった。
「ねえ、あの日のことを覚えている?」
フィガロは、あえて具体的な日を言わなかった。
「は?お前じゃあるまいし、忘れるわけないだろう」
ファウストがつり目がちの眦を一層釣り上げて、フィガロの方を振り向いた。
「どの日か分かるの?」
「馬鹿、馬鹿、馬鹿!あなた、どうして一緒に生きていこうって、僕が忘れられると思うの」
ファウストは勢いよく起き上がって、大きな声で叫んだ。びりびりとフィガロの鼓膜が震える。ひょっとしたらすぐそばの湖だって漣がたったかもしれない。
フィガロは妙に緊張感が抜けて、くつくつと笑ってしまった。
「ごめん、きみを試すつもりなんてなかった。ただ、そうだな。もう一回だけ、チャンスが欲しいんだ」
「またそんなふざけたことを」
「ふざけてないよ。きみが、俺を受け入れることが怖いんだ」
「そんなこと……」
「約束じゃないなら、俺だけでいいよ」
「本気なのか?」
ファウストが思わずといったように、フィガロの肩を両手で掴んだ。下からフィガロを伺う視線が揺れていた。
「俺はいつだって本気だったさ」
「嘘ばっかり。もう僕は騙されないぞ」
「逸らさないでファウスト」
フィガロは、人差し指だけでフィガロから顔を背けようとしたファウストの顎を軽く持ち上げた。
「魔法を解いて、きみの脚にもキスできるよ」
反対の手を伸ばして、ファウストのつるりとした脚を撫でた。そこには本来ならば爛れた火傷跡があることを良く知っている。
「ひどい」
「今更?」
フィガロは鼻で笑った。
「本当に、酷い」
「いいでしょう。呪い屋に、似合いなんじゃないの」
フィガロは少しも思っていないことを言った。だから「はい」と答えて――。
ファウストを傷付けたいわけではない。意地悪をすることに、フィガロも抵抗がないといえば嘘になる。ただ、もうフィガロはファウストに譲ってやれないのだ。
「ねえ、泣いているの?」
「泣いていない。見えているだろう。おまえこそ」
ファウストは懸命に瞬きをしていた。
「俺だって」
事実、フィガロの瞳から雫は溢れず、頬も乾いていた。
フィガロは、ファウストを真正面から抱きしめた。
ぐぐもって蚊の鳴くような小さな声で、フィガロの胸の中のファウストがぼそりと「申し訳ございません」と言ったのを、聞き漏らさなかった。
「そんなのいいのに。きみってば、本当にどうしようもない子だなぁ」
「おまえほどじゃないよ」
そうかもね。フィガロが指通りのよいくるくるの髪を撫でている間、ファウストは借りてきた猫のように大人しかった。
「だいたい、俺たち結婚式を挙げた仲じゃない」
「だって、あれは、ごっこだって」
ファウストは急に身体を強張らせて、焦りはじめた。
「えっ、キスまでしたのに」
「えっ、だってあれは、そういう……?おまえ、僕に何も言わなかったじゃないか」
「そうだけど、普通伝わるでしょう?」
「僕が、普通じゃないみたいな言い方をするな」
ファウストはさっと青ざめた。
「ごめん、ごめん。そういう意味じゃないよ。でも、きみは俺が思う一般的じゃなかったからこそ、特別っていうのかな、こうして、俺と同じベッドで寝かせている」
「……。レノも、ルチルもミチルだって、おまえと一緒に寝ていたんだろう」
「ええと、あれは、なんていうか単純に家族みたいなもので」
ひとりで見上げた星、スノウとホワイトとオズと見上げた星、レノックスとルチルとミチルと見上げた星、いくつもの夜があった。あの星は双子星、あの星は吉兆あるいは凶兆の、あの星々は、仲良しの証。ひとつひとつに物語が加えられていくのを隣で寝そべりながら聞いた。やがて聞こえてくる寝息の健やかさに、どの夜もフィガロは、凪いだ海のように静かに満ちたりていたと信じている。
自分の正体をなくして、剥き身になるほどのみっともなさはなかった。近づけば近づくほど、ヒリヒリと痛くて熱くて、いっそのこと、一緒に燃え尽きてしまえばいいと思うほどの荒々しさ、狂おしさはなかった。
フィガロは何も言わず、ファウストをそっと押し倒した。瞳の真ん中、豊穣の緑がちらちらと炎に燻られている。
「怖い?」
「怖くはないよ」
「本当に?どういう意味か、分かっている?」
「あなたがそれを聞くの?それに、僕には嵐の谷は捨てられないよ」
「絶対に?」
「絶対に。あなたはあなたで、僕は、僕だから」
「本当に、どうしようもない子だなぁ」
「従順がいいなら、きっと相応しいのは僕じゃないよ」
フィガロは心のどこかでファウストの答えを予想していた気もする。
「分かった分かった。それでもいいよ。今度は俺が、きみに会いに行くね」
――きっと、星になっても会いに行くよ。
「うん」
一緒じゃなくていい。でも、俺の/僕の中にあなたが永遠に住まうことを赦して。
二人は同時に目を閉じた。
次に目がきちんと開かれた時、曙が訪れた。
紺碧の夜空に菫色が流れ、血潮の赤が空に映る前のわずかな時間、世界はすべてが白く光り、昨晩の罪は洗われた。
ファウストはフィガロを置いて箒に跨り、フィガロを振り返りもせずに風のようにふわりと流れていった。フィガロはファウストが遠く見えなくなるまで見送った。
またある時は、フィガロがファウストを置いて箒に跨り、意地悪をする精霊を振り切って飛ぶ姿を、ファウストはいつまでも見送った。
何千年何百年巡りくる長い日夜の、時間にしてたった一瞬とも言える交わりだったとしても、南の国の随一のお医者さんの診療所で、あるいは東の国の陰気な呪い屋の嵐の谷の家で、二人は確かに幸せだったのだろう。
明日明後日明明後日、その先へ誰かが死んでいっても、生まれてくる命と続く命がある限り、脈々と世界は続いていく――。
幸いがありますように。この世界には、どこかで誰かの祈りが響いている。