きみだけ/あなただけ 白昼に晒されている間だけが、人が己を取り繕える時間で、夜の前では無力だ。夜の帳に隠せることはいくらでもあるのに、闇で正体がはっきり見えないのをいいことに、仮面を付けている意識が疎かになり、むしろ油断してしまう。誰かでいることができなくなって、誰でもない自分だけがそこにいる。
ファウストはフィガロを前にして戸惑っていた。「今晩、僕の部屋で」と言った後で、自らフィガロの部屋に出向くべきだったと猛省していた。
夜にやってきたフィガロは、琥珀色の液体の入ったボトルを片手に気軽に、さもいつも晩酌をしている二人のような体で、ファウストの部屋にするりと入り込み、二つのグラスを用意して、寛いだ様子で椅子に腰かけた。
自室にも拘らず、おずおずとフィガロの向かいに座ったファウストは、言いにくそうに、情緒もなくさっそく本題を話し始めた。
「その、結婚式だって……。クロエが張り切っている……」
「いいじゃない、そういうのも」
「お前はそれでいいのか、本当に」
「何だっていいよ。君と、一緒なら。本当に、何だっていいんだ」
琥珀色の液体をぐいと呷って調子のいいことを言うフィガロに、ファウストは口ばかりのくせにと返そうとして、フィガロが思ったよりも真剣にじっと自分を見ていることに気付いて、耐えかねて俯いた。
「きみが本当に嫌なら、クロエにちゃんと言うよ」
いや?とフィガロはファウストの手を取ってあやすように聞いた。この男は、本当にずるい男だとファウストは思った。
「嫌じゃないけど」
ファウストは戸惑いの方が強かった。あまりにも現実感が薄いような気がした。
「ならよかった」
嬉しそうに笑った男の頬に差す朱が喜びだったのか、アルコールによるものだったのか。ファウストは自分の都合のよい方に勘違いしそうになって、眉の間に力を入れてきりりと表情を引き締めた。
「よくないだろう。僕が、きちんとみんなにあなたとの関係を伝えられなかったから」
「俺たちの間に適切な言葉が見つかるかい?結婚式はするけど、あくまでごっこだ。別に俺たちは結婚するわけじゃない。ただ、みんなが俺たちを祝福したいだけなんだ。クロエが誂えてくれた服を着て、みんなにおめでとうを言われる。ネロの作ってくれた美味しいごはんとラスティカの奏でる音楽のちょっとしたパーティーでしかない。でも、せっかくの気持ちに応えようよ」
「ああ」
同意までに一拍の間が空いた。ファウストにもフィガロの言うことが分からないでもない。師弟だったものたち、仮初の関係、仮初にしたくなくて、正直にいったところで、当人たちがなにも分かっていないのに、どうして説明ができるだろう。迷いながらも、ファウストは結局善意の人の好意を無下にすることなどできなかった。
するりとフィガロがファウストの指を一本、一回りするように撫でた。大抵の人々が結婚指輪を嵌めるところだ。
「そうと決まれば、俺たちはどうしようね。指輪でも用意しようか」
「おい変な冗談はよせ」
ファウストが腕を引くと、フィガロはあっさりとファウストを解放し、抵抗しなかった。
「きみに対して、冗談なんてことは一度もなかったよ」
「そんなこと……」
「信じるかどうかは、きみに任せる」
「どうしてそんな……あなたは、おまえは」
「つい癖で。飲まなきゃよかったかもな」
パッと呪文もなしに、テーブルの上のボトルもグラスも、自分の分だけ片付けて、フィガロは今からできる精一杯の誠意を見せたつもりだった。
「今から魔法でアルコールを抜いたっていいよ」
ファウストはわなわなと身体が震えるのを感じた。
「茶化すな」
低く地を這うような声でファウストは言った。自分の都合でフィガロを信じるられるかどうか吟味して、予防線を張ってしまう自分の手前勝手さにも嫌気がさしているのに、言葉だけが止められない。
「ごめん。茶化してないよ。でも、これでも俺はきみを前に緊張しているんだよ」
「フィガロ……」
「俺の心臓を取り出してきみに見せることができたら、きっと驚くよ。どれだけドキドキしてると思う?」
「そんなことするな」
ファウストがパッと表情を変えて縋るようにフィガロを見るのを、フィガロは愛おしく思う。
ファウストはサングラスの奥で瞳を揺らし、唇を噛む。いつまで経っても、何度話しても、剥き出しのファウストは、剥き出しのフィガロと正しいお喋りが出来た気がしない。
「困らせたいわけじゃないよ。また話をしよう。今日のところは、おやすみ」
フィガロはファウストの額に猫のように掠める程度のキスをして部屋を去った。
「もとはと言えば、僕のせいなのに」
嫌だとは絶対に言えないくせに、素直に快い返事もできない。フィガロが信じられない自分が一番悪いのだと理解していて、フィガロの負担になりたくないという建前とフィガロ様はなんだかんだ懐に入れた者を易々と無下にはしない優しさと憐憫さに甘えている。
ファウストは、床に跪いて、鏡に向かって自分の醜い心を悔いた。
部屋の蝋燭の炎は、ファウストの揺れる心に反応するように、揺れていた。
ファウストが迷子のラスティカに遭遇するのは初めてのことではない。
未だに、そう、もう逃れられない過去の自分によって、心が粉々に砕け散らないように張った忘却という予防線、ひとが神から与えられた赦しから向き合った今でも、ラスティカは変わらずにふわふわと一人でそこかしこ気の赴くままに散歩をしていた。ラスティカの散歩はイコール迷子だ。ラスティカが道を歩けば、自然と誰もがラスティカに親愛を示し、誰かが行き先を教えてくれる。教えてくれた人々に惜しみなく感謝の気持ちを示す優しいラスティカが愛されていた証。
ラスティカの罪がどうであれ、彼の優しさや世間知らずな貴族の本質が変容したわけではないということを示す行為は、安心すると同時に、果てしない無垢の愛の放出に呆れて、もやはラスティカの迷子は、一種の趣味だと言い切ってもいいほどだとファウストは思っている。
「やあ、ファウストこんばんは。今日はいい天気だね」
出会い頭の挨拶は、まったくその言葉通りではなかった。夜空は月明かりも、星明りすらも灰色の雲で覆ってしまい、目には見えにくい霧のような小雨が降っていた。
「こんばんは、ラスティカ。生憎だけどもう夜だし、雨が降っているし、いい天気とは言い難いのでは」
「僕らにとっては濡れてしまって寒くなる雨だとしても、この辺りの木々や花々、植物たちには恵みとなります。それなら彼らにとってはいい天気でしょう?悪い天気なんて、きっと存在しないよ」
「それはそうだけど」
「ね」
同意を得られたことに、ラスティカは手を叩いて喜んだ。
「きみは植物ではないのだから、濡れると風邪をひいてしまうよ」
ラスティカは、とくに防水の魔法をかけていなかった。ファウストは手早くラスティカが濡れないように魔法をかけると、ラスティカは不思議そうな顔をした。
「そういえば、恵みの雨が降ってきたことが喜ばしくて魔法をかけ忘れていたね。
ファウストは自分はいいのかい?きみも風邪を引いてしまわないかい?」
お帰しに僕が、と言ったラスティカをファウストは丁重に断った。
「僕には必要ないよ」
「そうなのかい?そういう気分の時もあるよね」
ファウストは深く追求しないラスティカにほっと胸を撫でおろした。
ファウストがこの晩に森の中にいたのは、大きな騒動が余波と課題をたくさん残しながらも一旦の落ち着きをみせて以降再びフィガロにこっそり教わっている魔法を反芻したかったからだった。もっと遠く離れて誰にも見られない場所が理想的ではあった。しかし、現実問題、深夜にそろりと魔法舎を抜け出して夜明け前に帰る。何食わぬ顔で食堂でみんなにおはようの挨拶をして朝食を食べ、子どもたちへの授業をするとなると、自ずと修行場所は限られてしまっていた。
幸いにして結界を張るのが得な二人で、目くらましなども二重に貼って、これまで誰にも悟らせずに慎重に行うことができていたのだ。
二人して得意、というよりもフィガロに魔法の基礎を叩きこまれたのだから、素地があったのは勿論、ファウストが得意になるのは当然のことで、二人で四百年前を体現するたびにフィガロは毎度嬉しそうな顔をし、ファウストはどこかいたたまれない思いを抱えながら、魔法舎のみんながそれぞれの部屋に戻るような時間になってから深夜0時までの数時間をフィガロと森の中で過ごし、ファウストはそこから一人で復習を行うのがこのところの習慣になっていた。
フィガロは一緒に帰ろうと言うものの、万が一、一緒にいるところを誰かに見られて勘ぐられてしまっては、とファウストが頑なに帰る時間をずらし、間の時間すら無駄にするまいと励んでいたのが悪かった。ひとりになったタイミングで結界は一度消している。
雨が降ってきて、そのまま濡れていたのも、数時間のうちに魔法を教わるときに近すぎて自分に染み付いたフィガロの魔法の痕跡が自然に流れてしまえばいいと思って、教わったことを振り返るために木の根元に座って頭の中で何度もやり方を復習していたからだった。
「お手をどうぞ、ファウスト。僕の身体を気遣ってくれたきみに、せめて立ち上がる手伝いをさせて」
白くすらりと長い手を持つ音楽家の爪は、短く切られ、行き届いた手入れによってつるりと磨かれて暗闇でもほのかに輝いて見えた。
「ありがとう」
断るのも気が引けて、ファウストは大人しく手を取った。ぐいと思ったよりもしっかりした力で引っ張られた。
油断してふらついたファウストを、ラスティカは淑女をエスコートする完璧な仕草で抱き寄せた。
「おや、ファウスト。なんだか、きみからフィガロ様のような香りがするね」
ファウストはどきりとした。油断した自分に青い顔をする。
「気のせいじゃないか」
「そうなのかな。きみが言うなら、きっとそうかもしれないね」
もう大丈夫だとさりげなくラスティカから距離をとった。
「そうだよ。さあ、また迷子になったんだろう、帰ろう」
どうしてこうなったのだろうと考えながら、ファウストはラスティカと手を繋いで歩いていた。ラスティカは上機嫌でハミングしていた。ファウストの雨除けの魔法によって弾かれた雨粒のつぶらな囁きというタイトルだそうだ。ファウストが手にした明かりによって金色に輝いて見える透明な水滴が、跳ねてダンスをしているというのだ。
暗い道を歩くラスティカは、危なっかしかった。何度となく、ぬかるみに嵌まり、梟が鳴いているみたいだ。どこにいるんだろうねとファウストの案内から道に逸れるので、致し方なく、手を貸してとファウストは手を差し出した。
「きみはなんてかっこいいんだろうね」
とラスティカはほぅとため息を吐いた。
「ラスティカ、もう少しで魔法舎だから」
ファウストが箒で飛んで帰った方が一瞬だったと気付いたのは、温かい橙色の光が零れる魔法舎が見えてきた頃だった。
「楽しい夜だったね」
いつの間にか歌は聞こえなくなって、前を向いたまま名残惜しそうに言うラスティカに、ファウストは「そうだね」と答えようとして、道の石に躓いた。
「アモレスト・ヴィエッセ」
あ、と思った瞬間、ラスティカがファウストを庇った魔法は、ぱんと軽く花火が弾けたような音を立てて跳ねのけられてしまった。ファウストは転ぶ手前で、前からふわりと誰かに身体を支えられたような温もりを感じながら、自分の力ではなく何者かの力をもってして体制を立て直した。
明らかにフィガロの魔法の気配がした。ファウストに小さな守護の魔法が掛けられていたのだった。
「おや、まあ」
この時、ファウストの瞳がうっすらと灰かかって見えることに、ラスティカはサファイアの目を大きく見開いて驚いた。
ファウスト自身も混乱した。
ラスティカが「すごく熱烈だね。素敵だ。ひょっとしてファウストはフィガロ様の花嫁になるのかな?」と無邪気に聞いた。混乱しながらも、ファウストは自分のことよりもまず、ラスティカの口から花嫁という単語が出たことに、思い切り心臓が跳ねた。きみは、もう大丈夫なのか、そう問うことでラスティカの傷を抉ることにはならないか、誰かに知られてしまっている過去だとしても、迂闊に誰かに触れられることは極力避けたいと思うことをファウスト自身がよく理解していた。
整理が付いたこと付かないこと、すべてがぐちゃぐちゃで自分自身でさえ上手に扱えない傷を、ラスティカに与えてしまうことを恐れて、ファウストは、肝心なラスティカにどんなことを言われているかまで頭に入っていなかった。
そんなファウストの心配などお構いなしに、俄かに賑やかになった魔法舎の入り口まで、ちょうどタイミング良く(悪く)大慌てで部屋に不在のラスティカを探していたクロエが、ラスティカの「ファウストがフィガロの花嫁」という部分だけを聞いて、驚きで大きな声で叫んだ。
「ええ!? フィガロとファウスト、結婚するの!?すごぉい!おめでとう!」
夜の静寂は切り裂かれ、瞬く間に、いっそ誰かが悪戯に拡声したのではないかと疑うほどに瞬時に魔法舎中に知れ渡った。
「わぁ!結婚式はどうするの?いつ?衣装は?ドレスにする?タキシード?あっ、俺が用意してもいいかな?せっかくだからできれば俺にプレゼントさせてほしいんだけど、迷惑かな?」
「では、僕が二人のために曲をプレゼントしましょう」
「いいね、ラスティカ!素敵だ!」
「なんじゃなんじゃ、我らはフィガロちゃんから何にも聞いてないぞ」
「そうじゃそうじゃ、薄情なやつじゃて」
「ファウストちゃんも先に我らに言うべきじゃな~い?」
「それはそれとして、よしよし。我らが日取りを占ってやろう」
三人というよりは、盛り上がる二人の間に、自室から面白そうな騒ぎを聞きつけて、スノウもホワイトも参加してきた。この中の誰よりも乗り気で、ファウストの周りをぐるぐると回っていた。
眠そうな目をしたリケがミチルに連れられ、その後からルチルに引っ張られて駆けつけたフィガロは、困惑するファウストの眼差しを受けて、すぐさま全てを悟った。主に起こった一大事(?)に疾風の如く駆けつけたレノックスは、フィガロを見て半ば呆れたような溜息をついた。
「なんだか面白いことになってるね」
「まあ、先生ってば。そんな人ごとみたいに!ちゃんと教えてくださればよかったのに!」
「うーん」
ファウストが何か騒ぎに巻き込まれたらしいと心配して様子を見に来た東の国の魔法使いたちは、心なしか居心地が悪そうに二人を交互に見やり、この場には来なかった北の国の魔法使いたちは、それぞれ、このおぞましいものを見るような目つきでファウストを、この事態を遠巻きに見ていた。
「またあとでちゃんと報告するね。急なことでファウストがびっくりしているじゃないか」
魔法の使えないオズが一番最後にアーサーと共にやってきて「なんの騒ぎだ」と一言。
「僕が知りたい」
ファウストはこの場で唯一正気のオズに縋るような視線を送ったが、オズにはファウストの言いたいこともこの場の騒動が何なのかもさっぱり分からなかった。
とにかく、この場の狂騒を収めるようとして、途中駆けつけていたムルの花火が数発バンバンと打ち上げられて曇りの夜空を彩ったのをきっかけに、一体全体、どうしてこんなことになったのか、発端は誰にも分からなくなって、いつしか雨が止んでいたのも、空がうっすらと白み始めて曙の紫に侵食されていくのも、確かに目撃したのかしなかったのか、覚えているものは誰もいなくなり、気付けば各々ベッドで真白の光が眩しい朝を迎えていた。
シャイロックに、とりあえず気付けの酒をもらったところまでは、ファウストはきちんと覚えていた。
後にも先にもしんと静まり返った魔法舎だけが一夜の記憶の目撃者であり、記憶者であった。
翌日、遅くまで魔法舎で働いていたクックロビンから騒動の顛末を聞きつけたヴィンセントが泡を吹いて倒れそうになったというのはまた別の話――。
ファウストは、ちゃぷちゃぷとバスタブに湯をためて身体を清めている。魔法舎の広い浴場のほかに、ごく小さなプライベートな浴室があった。人の目を気にする年長の魔法使いの中でも奇特な湯あみを好む魔法使いしか使用しない。基本的には魔法ひとつでどうとでもなる年嵩のものたちは、湯あみの習慣もなく、ほとんど使われることはないそこをファウストは長い時間独占している。もともと湯を使うことは贅沢なので滅多なことではなかったが、水浴びなどはほとんど人間と同じ生活をしていることから嫌いではなかった。
この後、クロエがファウストの採寸をする。いつものように魔法でやってしまうべきだったのかもしれないと思いながらも、結局白い香を浮かべ、オリバナムのオイルで香りよくした湯に身体を浸しているのは、採寸の目的を思うと頭から足の爪の先まで身綺麗にするのが礼儀なのだろうと考えていた。
常に自分にかけている魔法を解いて、赤く爛れた足を撫でた。到底人には見せられないほどひどく引き攣った皮膚――赤黒く沈み、あるいは皮が剥がれ肉の色を見せ、あちらこちら皮が歪んで撓んだ跡は、ファウストの過ちの標だった。未熟な自分への戒めであり、ファウストがこれまで生きてきた証左である。
見た目ほどもう痛みを感じない。それは、本当に痛みが軽減されたのか、それとも単に痛みに慣れたのかファウストにも定かではない。いづれにせよ、石になるその時までファウストの肉体の一部として保持するつもりであった。
フィガロは、もうこの火傷跡を知っているはずである。地下水路で深手を負ったファウストを治療したとき、この傷跡を治すことも出来たはずだ。
以来ファウストはフィガロに何か言われるだろうと、どこかでずっと身構えていた。今日になってもフィガロは傷跡に触れてはこなかった。弟子の恥とも言うべき傷を見て見ぬふりをしているのか、単なる憐れみなのかファウストには判別がつかない。いっそ自ら明かすべきなのかもしれない。
教え子に素性を教えることと、師匠に自らの弱さをさらけ出すことは異なる。一度捨てられた身の上、これ以上の醜態をさらすことを考えると震えてくる。
もし、あなたに似合うほどの魔法使いではないのだと、今更当人に告げて、同意が返ってきたらファウストはどうしたらいいのだろう。心が砕けてしまいそうになる。
温かい湯の中にいるにも関わらず、心臓から身体が凍えるような気がして、ファウストはぎゅうと自分を抱きしめた。
それでも、何度かフィガロに与えられた弁明の機会を使って、やっぱりやめようという一言を誰にも言わずに飲み込んだのは、ファウストだ。尊敬した師匠とどんな形でももう一度関係を結べるのなら、と思ってしまった。あくまで「ごっこ」だとしても、一緒に生きていこうという、甘美な響きをどうしても思い出さずにはいられなかった。結末が火炙りだとしても。人はファウストを愚かだと笑うだろうか。あまりにも不敬だと眉を顰めるだろうか。
――それでもいい加減覚悟を決めなくては。
湯のなかに顔ごと埋めた。ぶくぶくと水泡が浮かんでは消えていった。息苦しくても肺の中に燻った灰が入り込んで内臓をじりじりと蝕んでいく炎の中よりも幾分マシに思えるつかの間の窒息。ファウストは時間にして数十秒、石になるにはぬるい息苦しさを覚えた頃、勢いよく立ち上がった。
魔法で身体を一瞬で乾かしてしまうと、採寸のために極力装飾を削ぎ落した布一枚の清潔な衣装に袖を通したところで、丁度クロエから声がかかった。
「入浴中にごめんねファウスト、俺の方は準備できたらから、いつでも部屋に来てね」
「ああ、分かった。今すぐ行くよ。よろしく頼む」
深呼吸をして、ファウストは扉の外へと踏み出した。その足はつるりとして、傷ひとつ見当たらなくなっていた。
「ファウストはフリルもいいけど、レースをふんだんに使った繊細な服もすごく似合うと思うんだよね。フリルで飾るのも捨てがたいんだけど、ファウストの雰囲気にはこっちも……うーん」
クロエは、ファウストを部屋に招くなり、待ってましたとばかりの勢いで繊細な花柄のレース生地をファウストにあてたり、柔らかく滑らかな肌触りの良い淡い紫色の生地をあてたりして、忙しなく動いていた。
クロエの部屋には、光沢のある白、黄味がかった白、青に近いような白、真珠のような煌めきの白、向こうを透かして見ることできるくらい薄い白、白糸で刺繍の施された白い布、あらゆる白い布が散乱している。これからフィガロとファウストが結婚式で着る衣装のスケッチのラフ案、没案。布と布と布がクロエの机や椅子、ベッドを独占し、紙と紙と紙が床に落ちていても、部屋が乱雑だとも汚れているとも感じられない。
クロエの笑顔は、窓から入り込んだ光彩と相まって輝きを増し、ファウストにはちかちかして見えた。
「呪い屋の僕にそんな綺麗なものは似合わないよ」
「そんなことないよ!先に採寸したフィガロにちらっと見せたら、すごくいいねって言ってたよ。いつもより表情もちょっと甘くてさ、俺、思わずきゅんとしちゃったよ!いいなぁ、幸せいっぱいって感じだったよ」
かつて「あなたには配偶者がいたことはありますか」とファウストはフィガロに質問したことがあった。革命の最中でも、人と人、魔法使いと魔法使いは、生死を繰り返しながら繁茂する自然のように結ばれていった。ひとりで生きていくには辛いことが多いから、二人なら大丈夫という魂の慰め、魂の片割れを見つけた彼らを見て、ファウストは自分の行く先を思う。アレクは同士であり、友達だが彼を置いて、遠くない未来でファウストはひとりになる。魔法使いと人はどうしているのだろうと疑問だった。片翼で生きていけるのか。
魔力を失っていないということは、約束をしていないか、約束を破っていないか、どちらだと思う?という回答は当時のファウストにはよく分かっていなかった。今、あの男は恐らく経験があるのだろうと確信した。与えることが得意なひとだから――。
「僕には、幸せになる資格はないんだよ」
ファウストは無意識に自分の足を摩りながら小さな声で言った。若者に聞かせるつもりはなかったが、止めようと思う間もなく、言葉は勝手にするりと漏れ出てしまっていた。
クロエは手を止めて、ファウストをじっと見つめた。零れそうなほど大きく丸い瞳の中にファウストがいる。
ラスティカの四百年に、記憶を保ったままでは正気でいられないほどの苦しみがあったことをもう知ってしまったクロエは、持っている布に皺が寄るのも構わずに、拳に力を入れた。四百年も生きていたら、知られなくないことも忘れちゃいたいこともいっぱいある、けれどこの人は一度も忘れたことなどないのかもしれないと直感した。ラスティカとは真逆の方法で、忘れないことで、心から血を流し続けることで自我を保ってきたのだ。
「そんなこと、絶対にないよ。ファウストからしたら、ううん。ひょっとしたら長生きしている魔法使いたちからしたら、俺みたいな若造に何が分かるって感じかもしれないけどさ、俺、ファウストに絶対に幸せになってほしいよ。そう願わせてよ。願うだけのことを、ファウストは俺たちにいっぱいしてくれているよ」
クロエは握った指を一本ずつ開いていった。一つ、ファウストは俺が危ない呪いを受けそうになった時、慌てて駆け寄ってきてくれたでしょう、二つ、任務のときにはちゃんと俺たちを守ってくれるでしょう……
「クロエ……」
「それに、俺が騒いじゃったせいで、二人には迷惑かけたんじゃないかって」
赤毛が俯いて、旋毛が露わになる。目には涙はなかったが、絞り出すようにか細い声は、幼い頃に戻ったかのような怯えた態度に見えた。
「望んでよ。俺はラスティカから、シャイロックから、ムルから、みんなから、望むことを許されたんだ。今度は、みんなが望むことを望んでよ」
午後の日差しが差し込む温かい繭のような部屋は、夢をみるのに最適な温度に達していた。
爛々と輝く瞳も、強い意志で擡げた顔、正面から吐き出される言葉は、思いの外力強かった。
ファウストは言葉に詰まった。クロエの言うことは、まるで子どもの駄々のようではあった。魔法使いというだけで閉じ込められ、虐げられていた子どもは、未来を渇望し、贅沢にも掌に掬い上げたものを余すことなく掴もうとしている。余沢のはずのファウストもクロエの未来に組み込まれている。
シノも、ヒースクリフも、ファウストを知ってなお、無邪気に彼らの未来にファウストがいないことなど疑わない。暴力にも似た願望だ。何の負い目もない分、彼らの言葉を悪意をもって跳ねのけることは、ファウストには難しい。
ファウストはクロエの燃えるような赤毛を撫でた。熱くない。人の温もりに身体が包まれている。次の瞬間、クロエは役目を思い出して叫んだ。
「そういえば、俺、つい新しいデザインばかりに気を取られて、ファウストのサイズ測ってなかった!」
「みんなの前で誓いの言葉はしない」と二人は予め皆には伝えていた。若い子どもたちは、どうして?という疑問を隠さなかったが、百歳を超える年長のものたちは当然納得していた。不誠実ではなく、誠実だからこそ結べない約束があることを知っている。
魔法舎の噴水のある庭に集まって、主役の登場を待っていた。双子を除く北の魔法使いたちを引っ張りだすことは用意ではなかった。
誓いをするのであれば、二人の隙をついてどうすることもできる魔力と実力を持つ北の魔法使い三人は、誓いがないことに不満だった。
ネロの食事がなければ、到底参加はしていなかっただろう。用意した三段の豪華なクリームたっぷりのイチゴのショートケーキも、フライドチキンも、消し炭も、早々に彼らの胃袋に納められていく。
責任からの逃避だと約束の経験のあるシノはヒースクリフに文句を言った。ヒースクリフは誓いを立てる二人の姿がさらけ出されないことに、実のところほっとしていた。
「約束をするっていうのは、当人同士だけでいいんだよ。むしろ、二人きりだからこそ成立するものがあるだろう」俺たちみたいに、と付け加えなくても、シノにはヒースクリフの言いたいことが伝わった。あの日の朝焼けを思い出した。
難しい顔をして頷いた。シノはファウストが好きだ。だからみんなの前で堂々していてほしかった。近くにいたレノックスがシノを見て笑った。
フィガロとファウストは、クロエが誂えた真新しいアラベスク模様が所々に死刺繍された白いモーニングコートに着替えていた。揃いに見えるそれは、タイや襟の色を彼らの瞳に合わせて淡い灰緑と紫に、フィガロのベストは薄いグレーのストライプ、ファウストのベストは白一色のレースの装飾が施され、チーフの代わりにフィガロにはファウストのような紫や青みがかった小花のブーケを、ファウストにはフィガロのような青や緑の葉を中心としたグリーンブーケを差していた。
外からざわめきが聞こえる。
子どもたちがオズに絶対に天気は晴れにしてくれと無茶を言うのを青ざめながら嗜めるファウストに、フィガロはまあまあ、オズの気持ちってことだよ、な、と気安い調子で肩を叩いていた。
実際に本当に雲一つない青空になっていて、ファウストは若干のいたたまれなさに眉を下げた。
ファウストは緊張していた。ファウストにとっては、四百年の人生で初めての、恐らく最初で最後になるであろうイベント。師匠と共に生きる――ポーズだけに違いないにしても、若い頃の自分をこんな形で昇華することになる。この人にとっては、長い人生の中の何でもない一日に違いない。真っ白な手袋をはめるフィガロは鼻歌を歌って、ずいぶんと機嫌が良さそうに映った。
「気負わないでよ。これは俺が望んだんだ、そう思って。事実だから気にしなくて大丈夫」
「いや、そんな、あなた、これは僕が……」
「ファウストも望んでくれたんだ」
感激のあまり、フィガロは両手でファウストの手を取った。
「なんていうか、その、きみは本当に綺麗だよ」
「……。ありがとう。おまえも、かっこいいと思う」
急に黙ったフィガロを不信に思ったファウストがちらと視線をあげると、フィガロは首まで真っ赤になっていた。釣られてファウストも眦を朱に染めた。
フィガロが自分の口元、顔を覆うために手を放そうとしたのを、ファウストは咄嗟に阻止しようとして握りしめた。
「ファウスト、ちょっとぉ」
「すまない、つい。でも、おまえのそんな顔、初めて見た。まるで、なんていうか、僕のことがちゃんと好きみたい」
フィガロは愕然とした。今この時まで、ファウストは自分のことを何だと思っていたのだろう。勢いに任せてファウストの腕をぐいと引っ張り、ぐらりと自分の方へ倒れ込んできたファウストに一瞬の口付けをした。ファウストは目を見開いて、口をぽかんと開けていた。
この時のこの情景を、二人が遅いと呼びに来たリケとミチルだけが扉の影から目撃していた。逆光になった二人の影が重なり合う。二人の頭には白く輝く光の輪ができているように見えた。これを特にリケはうっとりと見とれていた。これは、のちに二人だけの秘密になった。誰にも言わない、本人たちにも。
「もう、ふたりとも遅いですよ!」
「さあ、そろそろ行こうか」とフィガロがファウストの手を引いた。ファウストは黙り込んで大人しくフィガロに従うかに思えたが、急にフィガロの腕を引いて、仕返しをした。
リケとミチルはもう前を向いて揚々と駆け出していた。
「エッ」
「ほら行くぞ」
二人の子どもを先頭に、導かれた二人が、建物から出た瞬間、
「フィガロ、ファウスト!ふたりに祝福を!」
特定の西の魔法使いの発案により、上からも下からも、左からも右からも斜めからも、四方八方から虹色の嘘みたいな量の花びらが降り注いだ。
あはは!
カンと青空に響くほどの朗らかな笑い声がこだまする。
珍しいものを見た、というのは四百年前のファウストを知らないものたちで、レノックスは目を細めて懐かしいあの頃の姿を重ねていた。
結婚式といっても、特に何か変わったことがあるわけではない。単なる外での立食パーティーに近い。
ラスティカの滑らかな旋律、時折弾むようなリズムが合わさるおめでとうの演奏が響く。
「「なんじゃ、せめてものキスはせんのか!」」
野次を飛ばす双子にフィガロはたじろぎながらも、ファウストは隣に安心できる温もりがあるというだけで、泣きそうになるほど嬉しかった。
たまの青空も悪くない。
きっと誰一人として、ここを離れる日が来ても、この日を忘れることはないだろう。