あの星をみてよあの星を見てよ
夜空のあちこちに大小様々な輝きを放つ星のひとつを指して、フィガロは言った。ファウストはフィガロの後ろから窓の外を見て、フィガロの指の先を追った。
眠る前、一日の終わりが惜しくて、いつまでもいつまでも夜のお茶の時間を引き延ばし、寝室へ向かうにもゆっくりと歩いていたところだった。
「はい?」
一等明るい星がある。
今夜は一年中それなりに変わりやすい天気にも関わらずよく晴れていて、星たちの囁きがあちらこちらで大きな騒めきとなり、うるさいほどだった。星は存外お喋りである。お喋りに夢中になるあまり、ついうっかり天体から足を滑らせて落ちてきてしまいそうなほどだった。明日にでも、その先頭をいきそうな今にも零れそうな星。
「なんだ、分からないかい?」
「修行の終わりの日に、己の不足を晒してしまい、申し訳ございません」
フィガロは硬くなったファウストの表情と言葉に、声を出して笑った。
「ははは。違うよ、ファウスト。別に責めているわけではないし、修行とは少し違うというか。まぁ、あの時のきみは、それどころじゃなかっただろうからね」
ファウストは、かすかに首を傾げて、眉間に皺を寄せ、よく分からないという顔をした。これはフィガロがこの一年でずいぶん見慣れた仕草だった。
「ほら、こっち」
「フィガロ様?」
一歩後ろに下がっていたファウストの腰を抱いて寄せながら「でもきみは思い出せるはずだよ」と星の喧騒に紛れないようファウストの耳元に落とされた声に、ファウストはぱちぱちと目を数回瞬かせると、
「あ!」
と大きな声を出した。
「思い出した?」
「ええ。あれは、僕たちがあなたのもとへやってきた日にも、今日と同じように輝いていた星ですね」
「そう」
フィガロの住処へ、猪(しし)のごとくやってきた星の遣いとの一年は、フィガロにとっても近年まれにみるほど刺激的だった。それまでの惰性を捨てて、ひとりの若い、フィガロからすれば赤子にも等しい魔法使いに付きっ切り、収集していた貴重な書物やらなにやらをすべてひっくり返して、眠らせていた知識と考え方、魔法使いとしての在り方を導いた。
施しではない。あの日落ちてきたひとつのきら星が、フィガロの心に火を付けた。抱き合って、ぬるい二つの体温が溶け合ってひとつになるように、フィガロはファウストであり、ファウストはフィガロであるように、流星の炎はフィガロを飲みこんで、ひとつに均した。煮えたぎる臓腑だけが、どうにも熱すぎる気はしないでもない。それでも。
聞こえてきた声の意志の強さも、緊張による震えも、それでいてフィガロを射抜いた紫色の気高い澄んだ瞳も、フィガロが反射で手を伸ばした。いつかの日に海を渡れなかったフィガロが手を伸ばした月よりも、はるか近くに掴める距離にいて、互いにようやく触れられた。
「あれから、もう一年経つのですね」
ファウストがこの生活を惜しむようであればいいのに、と思ったが、ファウストには、そんな甘い感傷はない。それでこそ己の弟子であると誇らしく、一層の愛おしさが募る。
魔法使いに縋る人間も、魔法使いを忌む人間も、魔法使いを愛する人間も、魔法使いに怯える人間も、等しくそれなりに愛おしく柔い存在、退屈したフィガロが欠伸をするうちに消えていった数々の地上の砂粒。掌に転がして、矯めつ眇めつ、時折息を吹きかけ、フィガロなりに慈しんだつもりだ。
ようやく、フィガロにもかつての双子のように、共に手を出し、見守り、愛でていく存在を手に入れた。
「まだ一年だよ」
「分かっています。あなたからの教えを全て受け止めるには、僕はまだ未熟で、まだまだであるということは。それでも……」
成さなくてはいけないことがあります。言い切るファウストは、決してフィガロを振り返らない。きりっとした目は、出会った当初から変わらずに、前を見据えている。
「知っているよ」
フィガロの見下ろす小さな旋毛下、撫でるとふわふわと細い胡桃色の毛は、出会った当初は凍り付いて傷んでいた。頭の天辺から足の先、隅々までフィガロはもうファウストの体を知り尽くしている。
腹に回されたフィガロの両の手を避けることもなく受け入れた、男性としてはいくぶんまだ柔らかさの残る器が、一年前とさほど変化ないことに、いつ気が付くだろうか。
「明日、俺もきみと行こう、ファウスト」
つるりと口を滑った言葉に、フィガロ自身も驚いた。ファウストをこのまま放してしまうのは惜しいと思っていた。数限りない別れを繰り返して、こんなにも執着したものがあっただろうか、と。
「っ! 本当ですか!フィガロ様」
燃えるように光る瞳とかち合うと、淀みなく言葉はすらすらと紡がれる。
「きみに嘘を付いたことなんてあった?」
ファウストは首を振って答えた。
「きみはここまで良くやった。でもまだ完全ではない。俺は厳しいよ?」
「ふふ、もうとうに存じています」
「いつ言おうかなと思っていたんだ。強くなったきみが導く未来、折角だ。俺にも手伝わせてよ」
「フィガロ様、こんなにも嬉しいことはありません。ああ、本当に嬉しい」
滅多にない破顔するファウストのこめかみに、フィガロは軽く祝福を込めて口を付けて、子どもような生え際の産毛の柔らかさを堪能した。
「明日は流星雨の日だ。きみは、きみ自身が、吉兆になるんだよ」
「必ず」
宝石にも星にも負けない紫色の瞳に映るのは、フィガロであり、未来である。
(と信じていた)
あの星を見てよ
誰がそういったのか、あるいは誰もそんなことは言っていなかったのかもしれない。誰にも分からない。誰かが、その場でそう言った(ような気がした)ので、みんな一斉に上を向いて空を見た。
途端に、空一面を掌握していた星々が降ってきた。闇を割いて轟くような音がしたというのは幻聴で、己が身に当たって、何もかもを燃やしてしまうのではないかと心配になるくらい眩い光が筋となって流れる。
ああ、世界はこうして終わっていくのか、荒廃した土地、救いようのない血だまり、腐肉の饐えたにおいとも無縁に、終末とはこんなにも美しく圧倒的で敵わないものか。
同時に、頭の片隅で神に祈る。明日も、未来もまた無事でありますように。今日という日を生き延びたい。
天から星が落ちる日に、安全な家もなく視界の開けた荒地で野営とは心許ない。なんとなく、誰ともなく近くにいた仲間と手を繋ぎ、肩を寄せ合う。みな心からの安寧が欲しかった。この瞬間、みな隣人を訳もなく愛していた。ただ呆然と立ち尽くしながら、今ここにひとりではなく、仲間がいるのが幸いだと群衆は感じていた。
また一年、この季節が巡ってきただけだと、これは単なる天体現象にすぎず、不吉の予兆だというのは迷信だ、なぜなら我々がこれからの明るい未来を築くのだからというのは単なる強がり、みな「ふり」ばかりがうまくなる。
「おい、あれ!」
複数人が同時に指を指す方向から、大きな星が二つ、ぐんぐんと中央の国に革命を起こす群衆たちに近づいてくるのが分かった。
「ファウスト様だ!」
「ああ、ファウスト様が帰っていらっしゃった!」
すぐ隣を飛行する、見知らぬ星に首を傾げつつ、待ち望んでいた彼らの希望にわっと歓喜の声が上がった。
地上では、銀の星明りを溶かし込んだ髪、どんなときでも青空をそのまま映したような瞳を持つ男が、言葉を一つも発してすらいなくとも、ひと際目立ち、存在を主張していた。
彼を目指して、二対の星は降下する。
朋友と一年ぶりの再会を果たしたファウストは、どうにもおかしいと違和感を感じた。アレクと視線が合わない。一年前、ここに戻ってくるとしっかり目を合わせて別れたはずの男を、いつの間にか見上げるようになっていた。
「アレク、しばらくぶりで、ずいぶん背が伸びたな?」
「おまえが変わらなすぎるんじゃないか、ファウスト。そんなに小さかったか?」
「僕は大して変わらないはずだ」
「? なんだ、もう体の成長が止まってしまったのか。随分早いじゃないか」
しばらくぶりのハグ、もともとアレクはファウストよりも骨がしっかりしていて、魔法を使わずに剣を持つ分しっかりと鍛えられていたが、筋肉も充分発達して、硬く完全に大人の姿になっていた。ちくりとファウストの頬を刺すのは、剃り残しの髭であることに、ファウストはびっくりした。
「おまえが成長するのが早いんだよ」
首を傾げたままファウストはアレクに答えた。
ファウストは魔法の使い方をしっかりと習得し、魔法使いの実力という意味では、勿論成長したに違いない。しかし、それ以外の、外見的なもの――それは骨がしっかりと確立し、子どもが持つ柔らかな肉体を脱し、成人男性としての殻を得ることのごく「自然」な成長が不完全なまま終わりを告げられてしまったような、奇妙な生き物になっていたことには、この時まで気付いていなかった。
「ファウスト、本当に強くなったのか?」
「当たり前だろう。そのために偉大な方に教えをいただいて、修行したんだ。疑うのか?」
ファウストは手を伸ばし、両手でアレクの頭を掴んで、強い視線でアレクを射抜いた。
文字通り、容赦のない命がけの修行だった。ファウストが強くならなければ、師であるフィガロの顔にも泥を塗る。例え冗談だとしても、自分はともかく、師への侮辱とも捉えかねない言葉を見過ごすわけにはいかない。
「すまない。そういうつもりではなかったんだ。そうだな、お前はそういうやつだ」
アレクは肩を竦めて降参のポーズを取った。分かればいいんだと、アレクから手を離し、上げていた踵もおろして、ようやく足全体が地に付いた。
もう背伸びをしなくては、アレクと対等に目を合わせることができないことに気付いて、内心ファウストは動揺した。この一年、自分の外見の成長に関心なく、ただひたすらフィガロと共に魔法を磨くことだけに専念していた。これが何を意味するのか意識したことなかった。
出会ってから今までずっと、無意識に共に生きていくのだと思い、疑ったことなどなかった。人と魔法使いは、共存できることは疑いようがない。しかし、魔法使いは長寿である。彼らと同じように老いて死ぬことができないのだと、ようやく実感を持ってじわじわとファウストの心に一抹の不安を与えた。老いていかれてしまう。アレクの背中が遠い。人に囲まれているのに、みな遠くにいる気がして、急にうすら寒さを感じる。
唯一、ファウストの肩を優しく叩き「そろそろみんなに紹介してくれないか」と声をかけてくれる師匠だけが、確かに傍にいた。
「フィガロ様」
「なあに?」
「つい、内輪で盛り上がってしまってすみません。みんなにご紹介します」
常に冷静さを保ち、ファウストとしっかり目線を合わせる。フィガロもファウストより背は高い。細身ながらしっかりとした骨格で、厳しくもあり優しくファウストを導くフィガロの存在は、何年も一緒に歩んできたアレクよりもしっかりとした輪郭を持って、未来に存在するのだとファウストは無意識に安心した。
あの星をみてよ
ぽかりと穴があいたような湖は、鏡のように空を反映して、輝きを放っていた。時折、水面が風に撫でられて、映し出された星がゆらゆらと揺れた。
夜鳴く鳥もとうに寝てしまった頃に、星が風にそよいだわけでもなく、形を変えた。水が澄みすぎていても、養分が少なすぎて、魚は生きていけない。この湖はもともと極端に魚が少なく、水の中の住人の仕業でもない。
ぱしゃりと水が跳ねる音が微かに響いて、飛行する光る虫だけがその音を聞く。
野生の鹿ではない、わずかに日焼けしたひとの健康的な足が水の中に遠慮なく入ってくる。水はそれなりに冷たい。白い麻でできた服が濡れるのも構わずに、身を清める乙女のごとく、湖の侵入者は腰あたりの深さまで星をかき分けて進んでいく。
ざぶん、と侵入者、ファウストはそのまま水の中に身を沈めた。ぶくぶくと水が粟立ち、夜の視界は朧気になり、遠い光はさらに遠く感じる。いつかの海で修業したとき、成すすべなく沈み、飲み込んだ水は塩辛く苦しかった。波が幾度となくファウストを打ち付け、沖へ沖へ、誰も知らない彼方へと無情に連れ去っていく恐怖を覚えたそれとは異なり、ここは良くも悪くも停滞している。
どれほどの時間が経ったか、さほど時間は経ってはいないだろう。当たり前のように水中でも息ができるよう簡易な魔法をかけていた。死ぬつもりはなく、もはや魔法を使うことは息を吸うことのように容易く扱えることの一つになった。ファウストが過ごしてきた人生のうち、魔法を使わないことの方が多かったにも関わらず、たった一年でファウストは、それまでの自分から脱皮した。新しい自分に馴染むということに戸惑いを覚え、水辺でもう一度修行を再現しようと試みたものの、難しいことに聡いファウストはすぐに気付いた。
物事に集中することと同時に、周囲への注意を怠れば足元を掬われるという教えの通り、声も何もかもがくぐもっている中でも、間違いようのない気配に気付いて、水底から顔を出す。
「フィガロ様」
「やあ。きみが、野営地から抜けてどこかへ行く姿が見えたものだからね」
フィガロが岸辺でファウストを眺めていた。駆け出すには、水を吸って重たくなった服が邪魔をする。
じゃぶじゃぶと子どもの遊びのような飛沫を立てながら、ファウストは師匠の元へ急いで戻った。何となく、呼ばれているような気がした。
布から透けた肌、身体は、成人男性とは言い難い中途半端に伸びた骨と皮の細さ薄さ、まろやかさが、性の境界を曖昧にして倒錯的な艶を放っていた。
フィガロは目を細めた。
「ご心配をおかけしてすみません」
フィガロが差し伸べた手をファウストは迷いなく取って、上がった。
「ずいぶん冷たくなったね。温めてあげよう」
ファウストはフィガロが魔法を使うのだと思った。それなら自分でもできるという前に、自分が濡れることも厭わず、フィガロはファウストの手を取ったまま抱きしめた。
「えっ、あの……。フィガロ様?」
海での修行、魔力が枯渇するまで徹底的に追い込まれた時でさえ、与えられたのはシュガーで、自力で回復を求められた。自分の力の把握と、力の使い方のバランス、余力の残し方、闇雲に魔法を使うだけではない知略の必要性を説かれた。
「うん?今のきみに必要なのは、魔法ではないものかと思って」
「え?」
ファウストは、フィガロの腕の中で震えた。
「何か悩みでもあるの?」
全てを見通す力にほぅと尊敬の息を吐き、同時に自分の中に沸いた小さな悩みを話してもいいものかと不安になった。
革命を成功させるためにこれまで過ごしてきて、気の早いことにその後をもう気にしているなんて、まだ成し得てすらいない未熟者に悩む資格などあるだろうか。師は、自分の志に協力を申し出てくれたというのに。
「俺では不足かな?」
「いえ!いえ、そんなことは全くあり得ません」
自分よりも遙か長い時をひとりで生きて、寂しくはなかったのだろうか。この温もりを知る人は、他にもいるのだろうか。
戦場に散った命を、ファウストの腕からすり抜けていった同胞たちの命を悼み、忘れずに生きていく覚悟はできていた。そうではなく、やがてやってくる老いに対する別れには全く何の考えも及ばなかった。いつかみな顔には皺が増え、腰が曲がり、白い髭を生やして小さくなっていく。その時、ファウストは今の若い姿のまま、彼を彼らを見送る。何度考えても、思考が止まった。小刻みに震えるファウストの身体を摩り、フィガロは無言のまま、ファウストが口を開くのを待っていた。
「この一年で、僕の身体の成長が止まりました」
「ああ、そうみたいだね。俺もうっかりしていたよ。魔力が成熟した時点で身体の成熟が止まる。きみの修行の成果だともいえる。そのくらい頑張って一年で魔法を習得したということだ」
「僕は、このあとずっとこの姿のまま、みんなと生きて、そして……」
「魔法使いのさだめさ」
「フィガロ様は、おひとりで寂しくはないのですか」
「きみは、これから生きていくのが怖いかい?」
「僕は……。僕は……。このことは、革命が終わるまでは考えないようにしようと思っていたのです。でも、身体の、体格の差を知ると、つい先のことを考えずにはいられなくなってしまって」
「では、俺と一緒に生きていこう」
ファウストは目を瞠った。一瞬、本当に息が止まった。そうだったらいいと思ってはいた。フィガロの唯一の弟子であると誇れるのかも、本当のところ自信はなかった。許されるだろうか、甘えだろうか、という不安さえも一気に吹き飛ばしたのは、フィガロの魔法のような言葉だった。
「きみは、さっき俺が寂しくないか聞いたね?」
「はい」
「きみがいたら、俺は寂しくないよ」
パチン、と指先ひとつで濡れた身体も服も一気に乾いた。じんわりとフィガロの体温が移ってファウストの身体の震えはとうに止まっているのに、言葉にならなかった。代わりに、ファウストはフィガロの胸に顔を押し付け、情けなく垂らしていた腕を、背中に回してフィガロに抱きついた。とく、とく、と互いの心臓の音が聞こえる。
二人は、もう怖いものなど何もなくなったような気がしてほほ笑み合った。
瞼を閉じても、互いの瞳の中に浮かぶ星のような煌めきが分かる。約束はなくとも、唇を合わせてしまえば、吐息を食むだけで十分だった。
夜を溶かした湖は、静かに睦あうしなやかな鹿の姿もひそやかに映していた。一筋の流れた輝きが、水の中の二人を射抜いた。
あの星を見てよ、とはもう言わない。星はここにいる、
どうしようもなく盲目で、恋だったのかもしれない。