悔い改めよ「爛れています」
半ば自棄のように懺悔のような告白をしたミチルに、リケは真っすぐ、そしてきっぱりと言い切り、断罪した。
リケは、中央の国の人気のカフェで、甘い生クリームや、チョコレートアイス、オレンジが山盛りになったフルーツパフェを頬張り、リスのように頬を膨らませながら、できる限りの顰め面をしてみせた。
カフェのオープンテラスで、陽だまりを溶かし込んだようなリケの色の髪の毛は、キラキラと輝いているように見えた。男性も女性も、待ちゆく人々は、ちらちらとリケを見ていく。リケは、見事に美しく成長した。女性的ななよやかさはないものの、一本芯の通った凛とした澄んだ美しさが体の芯から溢れて、内面からも輝きを放っている。
ミチルは、逸らしていた視線を戻し、リケを眩しいものを見るように目を細めて見た。
相変わらずの仲良しの友達。兄弟を見失った子羊のように迷いが生じたとき、ミチルは必ずリケの顔を思い出した。リケならなんて言うだろう。
大人になったリケの世界は、ミチルと出会ったあの頃よりはだいぶ複雑になった。今では中央の国の学校で先生をしている。誰の影響かと言えば、間違いなくルチルだろう。昔の文字も読めなかったリケには考えられない仕事だった。まだ何ものにも染まっていない無垢な子どもたちに、学問を、世界の道徳を説く。きちんとしたカリキュラムに則って規則的に生活をする。
子どもたちの指導にうまくいかないことがあれば、リケは丁寧に文をしたため、ルチルに相談していた。未だにリケが誰かに話して聞かせられないことなど何一つない。染み一点すらない健やかさでいる。
一方で、ミチルは思春期を経て、共に育ち自分を支えてくれた兄に話しづらいことが多くなっていった。共にいまではハンナおばあさんになったハンナおばさんが作ってくれた羊の煮込みスープ、ルチルが学校の子どもたちと作って焼いたパン、いつぞやにレノックスが土産に持ってきたチーズと昔と同じような食卓を囲んでいても、主に話すのはルチルばかりになった。
「兄様に何か言うことはない?」
大丈夫かと暗に心配してくれる兄の優しさが、ミチルにとっては後ろめたさを責められているようで、心を痛ませた。
「大丈夫ですよ、ボクももう大きいんだから」
ミチルはいつも通り笑ったつもりだった。
「ならいんだけど」
ルチルの困ったように眉を下げて柔らかく微笑む顔、目じりには薄っすら笑い皺ができた。ルチルの体の成長はもう止まっているが、しばらくはミチルの成長と共に体は年を刻んでいた。
「私、ついにフィガロ先生と同い年になっちゃいました」
というルチルの冗談でみんなで思い切り笑ったのは、いつのことだっただろう。純粋に信じていた三十二歳、薄っすらと三十二歳ではないと思った時、永遠の三十二歳だと知った時。大きな衝撃を受けたと同時に、納得をした。
先日偶然久しぶりに顔を合わせたレノックスは、ミチルに何か言いたげだったが、結局何も触れなかった。努めてこれまでと変わらない態度でいるのが、ミチルには分かっていたが、自らレノックスの知りたいことを教えることはなかった。相変わらずのレノックスの寡黙さによって言わない選択肢を与えられていた。
いつまで経ってもどこまで行っても誰もが子どもに対するようにミチルに優しかった。ふわふわで甘い虹色のコットンキャンディのような膜にミチルを包んで、あやしている。時折ミチルは無性にこの膜に思い切り歯を立てて嚙みちぎり、ろくに味わうことなく腹の中に納めてなかったことにしたい衝動に駆られる。
衝動に駆られた結果、ミチルはリケに白昼の懺悔をしたのだ。リケならば、ミチルを公平に責め立ててくれる。この厳しさ、叱責が、ミチルが今求めていたものだったのかもしれない。
大人になっても、対峙する人が誰であれ、リケはとても単純明快な正義で潔く人を裁く。白は白、黒は黒。リケの躊躇う方が間違っていると言わんばかりに直進していく姿は、突き詰めてみれば基本的には何もかもが単純なのかもしれないと思わせてしまう力があった。
ミチルはリケと意見が対立した時、未だに彼の我の強さに気圧されることも少なくなかった。リケの優しさとミチルの優しさが、どうにも噛み合わない。絶対的な正しさをリケは信じている。あの頃から今でも、きっと。そんな曲がらないリケがミチルには羨ましく、そしてリケの強さと世間知らずな脆さが愛おしかった。できれば、彼の人生のこれからは傷付くことなく、そのままの彼でいてほしいと願っている。誰もかれもが知らない人になりゆく中で、まだ、自分のよく知るリケが存在していることにミチルは深く安堵している。
揺らぐことのない正しさは、良心を計る指針だった。
深いパフェグラスの中を抉るためのよく磨かれたシルバーの長いスプーンをきちんとカトラリーレストに置いて、祈るように手を組み、きっ、とミチルを見据えるリケの強い瞳に、ミチルの背中はぞくりと震えた。
ミチルが成人してから祝いだと称してブラッドリーに連れていかれたシャイロックのバーで、美人は怒らせると怖えぞ、と耳打ちされた思い出した。絶対に同席すると言って聞かずについてきたのはフィガロ先生なのに、またシャイロックさんに余計な一言を言って、とその頃はどちらかと言えばダメな大人だと思っていた方ばかりしか目に入っていなかったミチルも、ようやくこの凄みを理解した。
リケの吊り上がった眦が化粧のように微かに赤く色付いている。
「リケ……」
ミチルは咄嗟に口を開いて、何を言おうと思ったのか、考えてはいなかった。
「言い訳は無用ですよ、ミチル。ひとづま、ひとだんな……? 何ていうんでしょう。とにかく、ファウストはフィガロと結婚して、僕たちは二人をお祝いしたんですよ。それなのに、ミチルってば、今になってファウストとそういう仲になりたいなんて」
「あのね、リケ」
「あまつさえ、押し掛けるなんて本当に、もう信じられません」
「いやだって」
「だってじゃありませんよ、ミチル」
「ひとのものを取ろうだなんて。ファウストもファウストです。ちゃんと自分がフィガロを伴侶としていることを自覚した行動をしなくては。僕が一回びしっと言って差し上げます」
「そ、それだけはやめてリケ」
がたんと席を立って、今にも東の国に飛び出していきそうなリケの手を握って、ミチルは懇願した。
大きな音に、何事だ、すわ痴話喧嘩か、と周りがミチルとリケをちらりと好奇の目で見るのが気まずい。何でもありません、お騒がせしました、とミチルがあちらこちらに目を向けて、愛想笑いをしながらぺこりと頭を下げると、目が合った人々は慌てて元の自分たちの会話に戻ったので、ミチルはほっとした。
仲良くやりなよ、というお節介に飛んでくる人は、中央の国にはいない。多くの人と人が交差する中央の国では、ミチルもリケも偶然そこにいただけの存在で、誰も深く気に留めはしないのだ。万が一噂になろうものなら困ってしまう。
「ほら、まだパフェが残ってますよ」
ミチルが行儀よく揃えられたスプーンをリケに手渡すと、リケはむっと眉を寄せながらも、パフェがまだ三分の一程度しか食べられていないことを思い出し、着席する。
「では、食べ終わったら行きます」
ミチルは、自ら生み出した結果のこの窮状をどうやったら乗り切れるのか、頭をフル回転させた。リケに嵐の谷に行ってしまうのは、予想外だ。どうにも中央の国の人たちは思い切りが良すぎる。リケが直接ファウストに会いに行くと思うと、ミチルは途端に背中に汗をかき始めた。
「ええと、でもボクは今日リケと遊べるのを楽しみにしていたのに」
「友達の一大事ですよ。遊びより優先すべきことでしょう。だからミチルは僕に言ったのではないですか?」
「それはそうなんだけど。ボクは、リケが最近どんな風に過ごしているかとかそういう、リケの話も聞きたかったんです。ボクだけでなくて、リケだってボクに話したいことがあるでしょう?」
「う、それは……。そうに決まっているでしょう。楽しみにしていたんですよ。朝ごはんだって今日はお代わりせずに来たんですから」
この細いリケの身体にどうやったらそんなに食事が詰め込まれるのか、謎だった。
「ねぇ、ミチル。このこと、僕以外に誰かに相談しましたか?」
「してませんよ」
「ならよかった」
満足そうに頷いて、リケは完全に冷めてしまっているであろうコーヒーを美味しそうに嚥下した。
「ミチルがちゃんと僕にお話ししてくれて嬉しいです。どうしたらいいかは、この後でもちゃんと考えましょうね」
ミチルは一旦リケの気が逸れたことにほっとして、ようやく解けかけた自分のストロベリーアイスクリームを口にした。シロップをたくさん入れたカフェオレの氷も解けていて、コーヒーはかなり薄まっていた。
「それにしても、このお店、本当に素敵だね」
「カインが教えてくれたお店なんです。オーエンと一緒に行ったみたいで」
「へぇ」
リケの屈託のないお喋りには、常にいろいろな人が登場して、話のタネが尽きない。
「ああ、リケ。口にビスケットが付いてますよ」
「んぅ」
ミチルは手を伸ばして、リケの口元を親指で拭った。
「ありがとうございます」
「どういたしまして」
照れたように笑うリケにミチルは優しく微笑んだ。
当然のように受け入れるリケとミチルは、瑞々しい若いカップルのようで、周囲の人々にはカップルの喧嘩が丸く収まったように見えた。
「ところで、カインさんは元気ですか?」
「そうだ、もう、カインのこと!聞いてください!」
リケはパッとわざとらしい渋面を作ると、未だに頭を遠慮なく撫でるカインの愚痴をこぼし、ミチルは真剣に相槌を打った。
「どうしようもないんだから」
「そうだね」
どうしようもないのは果たして誰か。
「この間ネロのお店に行ったときに聞いたんですけど、ファウストの家によく遊びに行っているなんてどうしてボクに言ってくれないんですか」
僕だってファウストのお家に遊びに行きたいのに、誘ってくれてもよかったのに、と唇を尖らせて拗ねた表情を作ったリケに、ミチルの頭は真っ白になった。
カフェで待ち合わせ。ノリのきいた白いシャツに黒いベストをきっちり着込んだウェイターが注文を取った後の、白と青の爽やかなカラーのパラソルの下で、リケが何気なく言った一言に、ミチルは言葉を詰まらせた。
誰にも知られたくなかった。誰もが見ぬふりをしてくれていた。ただ本人だけが、まざまざと無情な現実を突きつける。
「他にはなんて?」
「東の魔法使い四人でお茶をしたって話も聞きました」
「ボクの話はそれだけ?」
「ええ。何かありました?ミチルがもっと教えてくれたらいいだけでしょう」
ミチルは口を噤んだ。何をどう話すべきか考えている間に、顔にそばかすを浮かべた茶色い髪の若いウェイトレスがテーブルに注文したデザートと飲み物を並べて去っていった。
「どうかしましたか?」
「なんでもないです、食べましょう。リケのパフェ、すごく大きい」
目の前のデザートにそわそわしながら、ミチルを心配するリケに、ミチルは慌てて自分を取り繕った。
あまりにも大人はひどくて、憎たらしくて、いっそのこと清々しいくらいだった。ずっと誰かに黙っていることはできないと、ミチルは自分の中の限界を感じ始めていた。ファウストへの気持ちが好きと嫌いとで反対方向に膨らんで、心が破裂してしまう寸前だったのだろう。
「ミチル?やっぱり気分でも悪いんですか?」
ミチルを心配する澄み切ったリケのエメラルドグリーンの瞳には、裁きを待ち受ける罪びとのように揺らぐミチルが映っていた。
「ボクが、フィガロ先生と同じ意味でファウストさんが好きで嵐の谷に通っていると言ったらどうしますか?」
ようやく口を開いたミチルは、自分の行為の罪深さに恥じ入り、目を伏せた。
街の喧騒が自分を指さしているような気がして、気が気ではなく、視線を彷徨させる。しかしミチルの心は、同時に、それまでひた隠しにしていた後ろめたい気持を初めて第三者に打ち明けることができて、どこか楽になったような気がした。
好きだなんて生ぬるい表現だとミチルは思った。具体的に嵐の谷で自分がファウストに何をしたのか。
もし、今では自分よりも背の低いファウストの腰を抱いて、ファウストの髪の毛の香油の香りを吸い込んで、たまらない気持ちになったたと伝えたなら、リケは次はどんな言葉をミチルにぶつけるだろう?
リケにすべて話して伝わるだろうか。リケは、知らないままでいい、知らないでいてほしい――。何も知らないまま、不埒な感情だけに裁断を下して。
ミチルは裁かれる愉悦を知った。叱られたいっていうのは、こういう気持ちだったんですか。