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    numata

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    POIPOI 14

    numata

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    謎の多い団長に名前を付けようとするトの話。全部思いつき。らくがきのつもりだったけど長くなったので分割。時代や地理の考察はさっぱりしていないので自然由来の諸々は現代日本にぼんやり準拠

    【トル団】音色は針のように(前) トルペは、悩み多き青年である。些細な事から身の丈に合わぬ大層な事まで、なんでもかんでも内に抱え込んでは溜息をつくのが日課と言っても過言ではなかった。
     ピアノの弾き方に納得いかないとうんうん唸る日もあれば、どうして空に手が届かないのかと涙ぐんでいる事もあった。人の争いが止まないのも、今朝の食事が不味かったのも、犬がワンと鳴く事も、彼にかかれば等しく悩みの種となった。
     町の楽団という集団に混じるに当たって、この悩み癖も人間関係にそれなりに作用した。ウジウジしていると倦厭する者も居たし、面白い性格だと関心と理解を示す者もあった。そしてトルペにとっては幸いなことに、元々個性的な者の多い楽団内に限れば、後者が圧倒的に多いのだった。
     彼のこの性格に関して、肝心の団長はただ一言、繊細なのだと評した。ただし、これはトルペが自身の人生に対して抜け目がない故の繊細だと、彼は見ていた。要は、がめついのだ──とまでは団長も言葉にはしなかったが、どんな悩みもいつの間にか乗り越えて、あわよくば糧にするだけのしたたかさは、確かにあった。

    「団長さん、実は僕、悩みがあるんです」
     団長がトルペからそんな相談を受けるのも、そろそろ片手で数えるには収まらなくなるくらいの頃。春先の薄曇りに太陽が優しく透ける、練習終わりの午後である。団長は、楽譜を整理していた手を止めて、トルペと向き合った。
    「どうかしたのかい。今回の曲は運指も表現も問題ないし、合奏でもよく合わせられているだろう」
    「練習は、その、僕にしては上手くいっていると思います。そうではなくて……」
     言ってのけながら、もじもじと空中にのの字を書いている。団長は苦笑して、トルペの次の言葉を待った。青年の、濃い金色の前髪の奥で、べっこう細工の色をした目が揺れている。黙っていればビスクドールを思わせる顔立ちなのに、感情が素直に出過ぎてしまうため、どちらかというと迷子の子犬みたいに見られがちであった。
    「あの、僕は、失礼ながら、団長さんの名前を知らなくて……」
    「うん」
    「よく考えたら、僕団長さんのことなんにも知らないんです。音楽以外に好きなことはあるのかとか、昔は何をしていたのかとか……あの、そういうのを根掘り葉掘り聞くのもよくないと思うのですが、せめて名前くらいは、知りたくて……最近は、そればっかり気になって……」
     トルペの言う通り、彼は楽団の団長という立場にありながら、恐ろしいほどに秘密の多い人だった。名前も、年齢も、出身も、はっきり口にした事はなかった。だが団長という呼び名だけで不思議なくらい通用したし、町の人は誰しもが心から彼を信頼していた。トルペのようにわざわざ得体を問う者は、むしろ珍しいのだった。
    「すまないね」
     トルペの金髪が、ぽんぽんと宥めるように撫でられた。
    「趣味や過去については、必要ならば話題にすることもできるだろうが、名前だけは教えられないよ。私に名前は無いからね」
    「……えっ?」
    「取られてしまったんだ。もう随分昔の話になるがね」
     団長は微笑んだが、トルペは言葉を失ってしまった。彼は、誰かの相談を冗談で返す人ではなく、だからこそ言っている意味が分からなかった。悩んでいた頭に、疑問と不可解とが加わってぐるぐると回転し、それが肥大して、青年の目を次第に暗くさせた。
    「……あの、取るなんて、誰がそんなことしたんですか」
    「通りすがりの誰かさんさ。今思うと物好きなものだ」
    「なんで取られたんですか」
    「さあ。珍しかったんじゃないかな」
    「取り返せないんですか? 取ったやつは、今どこに居るんですか」
    「トルペ君」
     優しい両手が、青年の頬を包んでそっと上向かせた。トルペの潤んだ目に、彫像めいた白皙と、そこに嵌められた二つの檸檬色が映った。
    「私は今、きっと君をからかっているんだ。どうか笑ってくれないかい」
     ぽす、とまた金髪に手が置かれた。トルペと出会って以来、彼の白い手はすっかり饒舌になってしまった。
    「それにしても素直だね。名前を取られたなんて、そんな可笑しい事をそのまま信じられたのは初めてだよ」
    「あの、じゃあ嘘なんですか」
    「いいや、本当さ。私の名前は取られてしまって、どこにも無いんだ。残念だけれど」
     トルペは俯いた。頭を撫でる手が、急に重たくなったような気がした。取られるとは、どういうことだろう。一体なにがあってそんな事になったのだろう。秘密を暴くような真似をしたのが、返って謎を増やしてしまい、団長という存在をまた少し覆い隠してしまうのだった。
     そしてトルペの中に、また一つ悩みが生まれた。どうにかこの人を示す、唯一の、彼のための言葉が欲しかった。どうしても、欲しくなった。取り返せないならどうすればいいだろう。トルペの視線がくるりと彷徨った。
    「名前、なんですけど」
    「うん」
    「新しく付けることは出来ないのですか」
    「ふむ。考えた事なかったな。呼び名には困っていないから」
    「でも団長というのは、肩書きです。そういうのじゃなくて、僕は、貴方の名前を呼びたいんです。だって僕は、団長さんに名前を呼ばれるのが大好きだからです。きっと皆そうです。大体僕にすら名前があるのに、団長さんは誰かに取られてもう無いなんてそんなの理不尽です。もう一度、なるだけ偉い人に、なるだけ立派な名前を付けてもらうべきです。きっと、そうです……」
     こういう時のトルペは、普段の人見知りが嘘のようによく口が回った。回りすぎて、少しずつ言うことがおかしくなった。それを自覚しているものだから、だんだん空しくなって、最後には聞き取れないくらい小さな声になってしまうのだった。
    「じゃあ、君が名付けてくれるかい」
     団長が、檸檬色の目を細めて言った。そしてトルペが驚いて首を横に振るのを遮って、言葉を続けた。
    「私は、形はどうあれ芯のある偉い人物しか楽団に入れないよ。それに、自分の名は君に決めてほしいと、私自身が強く思ったんだ。今はもうどこにもない名前を思って泣いてくれる、君にね」
     団長はそう言って、トルペの目元を撫でた。大きな目から今にも溢れそうだった温かい雫が、白い指に掬われてころりと落ちていった。
    「……自信がないです。貴方に相応しい名前を見つけるなんて」
    「いいさ、いつまでも待っているよ。とうとう付けてもらえなくたって、それは状況が変わらなかったという、それだけの話だからね」
     微笑を崩さない団長がなんだか寂しくて、トルペの目からもう一つ、大粒の涙がこぼれた。



     トルペは、悩み深き青年である。悩みが彼にとって重要であればあるほど、暇無くその事ばかり考えているような、そんな性格を持って生まれていた。
     顕著だったのは、先のコンクールだろう。団長に提案されて以降コンクールの事を考え続け、それでも星を見上げる事は止めなかったあの話は、今や誰もが知る物語だ。
     さて、それと同じくらいには、彼は団長の名付けに悩んでいた。トルペは繊細だったが、いかんせん学が無かった。綺麗で、賢くて、優しくて、ちょっと色気があって……求める雰囲気はいくらでも浮かんだが、それに合致する言葉が分からなかった。今からでも語彙を増やそうと、古本屋で手に届く値段の辞書を買ってはみたが、多少の読み書きしかできないトルペに、古めかしいそれはちょっと難しかった。練習の合間にペラペラと通してページを捲るまでは頑張ったが、物を理解しきる前に折れてその場に突っ伏してしまい、通りすがりのタンバリンの少女に指でつつかれたりなどするのだった。

     悩んでいる内に、週末になった。
     トルペは団長から、たまには休日に二人で歩かないかと誘いを受けた。若い者の面倒を見るのが好きな団長は、暇を見てはトルペを色々な場所へ連れていってくれた。今回も多分、そういう事なのだろう。
     待ち合わせの時間は、日の出よりも少し前。時間になると、団長がトルペの下宿の前で待っていてくれるのだった。トルペはいつも自分が迎えに行きたいと言うのだが、団長はそれをやんわり断わって、こうしていつの間にやら青年を迎えにやって来るのだ。彼の、数ある謎めいた部分の一つだった。
     とっくに準備を済ましていたトルペは、仕立てたばかりのコートに袖を通し、揃いのキャスケットを被り、下宿を抜け出して団長と合流した。
     薄暗い中、小さな声で挨拶を交わす。時間帯といい、どことなく秘密の逢瀬のような格好であるが、これはトルペも団長も、早朝に特有の澄んだ空気と静けさが好きなので、自然こういう事になるのだった。
    「確か、向こうに大きな公園があったね。今日はそっちに行ってみようか」
     団長はそれだけ言うとスッと歩き出してしまい、トルペは慌ててそれを追った。トルペが子犬だとしたら、こういう時の団長は気まぐれな猫に似ていた。まだ冬の名残をかすかに残す風が、二人のコートの裾を揺らしてひんやりと通り過ぎていった。

     人気のない広い公園を、二人は並んで歩いた。徐々に染み渡る朝の気配に、眠っていた花が少しずつ開いていく頃合いだった。
     団長は物知りで、トルペが不思議そうに何かを見ていると、これは何という草だ、あれは何という鳥だ、という具合にぽつぽつとそれについて教えてくれた。無学なトルペにとって、団長は様々な知識を与えてくれる先生でもあった。
     歩いていると、小さな庭園のような場所に出た。公園の一画は薔薇園になっていて、よく手入れされた薔薇がいくつもあった。気の早い花がもう綻んで艶姿を披露している中、トルペは薄闇の向こうに一際目立つ薔薇を見つけ、足を止めた。
    「団長さん、あの花はなんですか?」
    「あれかい? 何だろうね。少し近付いてみようか」
     言われるとすぐ、トルペは薔薇へと駆け寄った。それは青みがかった緑の葉を背景に、極々薄いピンク色の花を咲かせていた。純白に、ほんの少し赤みが差した、絵画に描かれる天使の頬の色だ。貴族のフリルのように波打った花弁が幾重にも重なっており、そこから透き通って胸に抜けるような、なんとも良い香りがした。
    「それは、セレスティアルだね」
     後ろからのんびりと追いついた団長が、名前書きも見ずに言った。
    「白薔薇の祖、アルバローズに連なる古い花だ。こういう、所謂オールドローズと呼ばれる物は、人の手が加わっていない分よく香る物が多いそうだよ」
     青年の胸はときめいた。セレスティアル。なんて清々しくも神々しい響きだろうか。トルペは団長を振り返ると、花にも負けぬほどに頬を上気させて言った。
    「団長さん、僕、これがいいと思います」
    「うん? 何がだい」
    「団長さんの名前です。セレスティアル! ほら、素敵な名前だと思いませんか」
     興奮する青年を落ち着かせるように、団長は彼の頭をぽんぽんと撫でた。そしてしばらく、檸檬色の目でその高貴な花を見つめていた。そんなはずはないのだが、トルペには団長とその薔薇とが、何か秘密の言葉で話し合っているように見えた。
    「……私の名前にするには、ちょっと華やかに過ぎないかい」
    「そうですか? 綺麗で、気高くて、いい匂いで、団長さんにぴったりではないですか」
    「そうかな。まあ急ぐ必要もないし、保留としておこうか。もっといい名前が見つかるかもしれないしね」
     そう言って、団長はコートを翻してその場を去ってしまい、残されたトルペは花の前で立ち尽くした。
    (絶対いい名前だと思ったのに……)
     がっかりしていると、薔薇の葉に乗ったコガネムシがこちらを馬鹿にしてけらけら笑うので、トルペはムッとしてそいつを指で弾き飛ばしてやった。

     石畳を並んで歩いていると、ようやく東の山の端から太陽が顔を出し始めた。透明なオレンジの光が目の前に差すと、朝露に濡れた景色が一層瑞々しく輝いた。
     トルペは、隣を歩く団長にちらりと目をやった。黒い中折れ帽の下で、整った横顔が朝日に照らされている。団長はトルペよりも西側を歩いていたので、夜の色を仄かに残す空に、薄紫色の髪が溶けそうになっていた。
     団長の髪は、少し不思議な色をしている。空が一幅の織物だとして、夜と朝の境界の、一番綺麗に染まった紫の糸を一本抜き、それを毎日集めたならばこんな具合になるだろう。夜空が星々の輝きのためにあるならば、夜明けと暮れ時は、このひとすじの紫のためにあるのだろうとトルペは思っていた。
     ふと青年の脳裏に、一つの響きが浮かんだ。どこかで聞いた、いや見たような音だ。思い出そうとしてトルペは脳みそをぎゅうぎゅうと絞った。そうだ、たしかこの前の辞書だ。日に焼けた、古い紙の隅に、その言葉は書かれていたのだ。
    「……そうだ。トワイライト」
    「どうかしたかい」
    「団長さんの名前です。今閃いたんです。トワイライト。夕暮れでもいいですが、僕は夜明けだと思います。空が一番静かで、神秘的で、団長さんの髪の色みたいになる時間のことです。古い辞書の中で見つけた言葉です。どうですか」
     団長は立ち止まり、空へと目を向けて少し考えていた。すらりと伸びた背筋に、上質なコートがしっくりと似合っていて、トルペは思わず溜息をつくのだった。
    「……ちょっと仰々し過ぎやしないかい」
    「いいえ。いいえ絶対似合っています。見た目も響きも全部ぴったりです。あそこの木に居るカラスだってそう思っています」
     トルペは押しを強くしてみた。こっちは早く決めてあげたいのに、このままではまた保留になってしまう気がした。たまたまそこに留まっていたカラスは、急に話を振られ慌ててカアと鳴いてみせたが、団長の反応はあまりよくなかった。
    「まあ、もう少し探してみようか。その場で決める事でもないし、候補は多い方がいいからね」
     そう言って、また歩き出してしまった。トルペが肩を落とすと、先程のカラスが彼に向かってカアカア喋りかけた。
    「トワイライトねえ。御伽噺の魔法使いみたいでかっこいい名前じゃないか。あの人が使わないなら今日から俺が名乗っちゃおうかな」
     カアカアカアカアとうるさいので、トルペは悔しくなって、石を投げてそいつを追い払ってしまった。

     次第に太陽が昇ってくると、空気がほのぼのと暖かくなった。朝もまだ早いが花壇の花もよく開き、それに誘われた蝶があちこちでひらひらと飛んでいた。いかにも平和な景色は、トルペの好む所であった。
    「団長さん、あそこで小さなチョウチョが二匹で踊っています。仲がいいんでしょうか」
    「おや、本当だ。求愛行動か、雄同士なら縄張り争いかもしれないね」
    「えっ?」
     トルペは驚いて声を上げた。
    「チョウチョも喧嘩をするんですか?」
    「そう聞くね。とはいえこれも一般論に過ぎないよ。雄同士でも求愛行動を取るという説もあるし、何の思惑もなく本当にただ仲良く踊っているだけかもしれない。結局、彼らにしか分からないことだ」
     団長は淡々と言った。だがトルペには、こんなにかよわい生き物でさえ争っているのかもしれない世の中が、少し悲しかった。
    「……どうして喧嘩しようなんて思うんだろう。花はたくさんあるんだし、あんなぺらぺらな体でわざわざ闘わなくたっていいのに。なんだか可哀想です」
    「そうだろうか。私は必ずしもそうとは思わない」
     トルペは再び吃驚した。優しい団長ならばきっと賛同してくれて、慰めの言葉が貰えるとばかり思っていたのだった。少なからずショックを受けて団長を見るが、彼の思慮深い視線は未だ二匹の蝶に注がれていた。
    「蝶の一生は短く、その体は弱い。そんな儚い存在でさえ、勇敢にも何かに立ち向かう事があるのだとしたら、その生き様を無闇に否定したくはない……うん、まあ、音楽家の性だよ。長く芸術に触れていると、こんな事も思うようになるんだ。平和が一番なのにね」
     トルペはぽかんとした。やっぱり、団長の言うことは一味違ってかっこいい。物語の賢者を見るようなきらきらとした尊敬の眼差しを向けると、団長は自分の言った事ながら少しくすぐったくなってしまったらしく、すいと目を逸らされてしまうのだった。
     不意に、花々の上を青い影が舞った。やはり蝶のようだが、周りのものよりも少し大きい。トルペが思わず目で追うと、その蝶は花を過ぎ、団長の側を慕わしそうに撫で羽ばたくと、彼の中折れ帽の上にちょんと留まってしまった。
    「団長さん、何やら不思議なチョウチョが帽子に留まっていますよ」
    「おや? どんな姿かな」
    「広げた黒い羽に、青い筋が通っています」
    「ふむ、成程……」
     団長は、注意深く帽子を外してみた。普段は見られないそろそろとした様子にトルペの頬は弛んだが、手元に下ろされた蝶を見ると、途端にその目は奪われてしまった。黒いと思っていた羽は、光にかざすと夜空のような紺青になり、通った筋は真昼の空みたいに真っ青だった。
    「これはルリタテハだね。綺麗な羽をしているが、裏側は落ち葉のように地味で擬態も上手い蝶だ。もっと暖かくなってから出てくる印象だったが、もう飛んでいるのだね」
     トルペは嬉しくなって、その蝶を食い入るように見つめた。ルリタテハ。その名の通り、なんだか宝石みたいな蝶だ。トルペは虫の言葉は分からなかったが、優雅に広げられた羽は、まるで二人にその模様をよく見せてくれているようだと思った。深い黒に、両羽合わせてふた筋の青。トルペは上目で団長を窺った。青年に劣らず熱心に蝶を眺める目に、薄紫に混じった青い前髪が柔らかく掛かっている。団長の髪に、まるで流星の通ったように何故か二房だけある、鮮やかな水色の髪だ。トルペはぴんときた。
    「団長さん。僕これがいいと思います」
    「私の名前かい」
    「はい。ルリタテハ。とっても綺麗です。団長さんにぴったりです」
     団長は、長い睫毛を伏せて手元のそれを一層よく見つめた。蝶は彼の手の内で、安心しきって羽を休めている。
     トルペはドキドキしながら、団長が肯首してくれるのを待った。これだけ見つけてまだ決まらないとなると、そろそろ後が無い気がした。なのに、団長は喜んだ風もなく、その柳眉は困ったように下がっている。ダメかもしれない。察してしまった途端、トルペの中で何かがぷつりと切れた。
    「……私にはちょっと、」
    「ちょっとじゃないですよ!!」
     トルペがとうとう大声を上げて、驚いた蝶がパッと帽子から飛び立つ。トルペは飛んでいくそれを指差しながら、ぐいぐいと団長に詰め寄った。
    「ほら、ほらほらほら! あんなに綺麗で軽やかでかわいくて、どう見ても団長さんみたいじゃないですか、ルリタテハ!! 僕はこれがいいです。これじゃないと嫌です!!」
     地団駄まで踏んで主張するトルペに、団長も流石に圧倒されてしまったのか口をつぐんだ。せめて落ち着いてほしくて、興奮のあまり湯気を立てる頭に手を乗せると、その優しい感触にトルペの方もだんだん静かになって、最後には黙り込んでしまった。奇妙な沈黙の中、動かない二人を花と思った蝶にひらひらと戯れられながら、お互いしばらく佇んでいた。
    「……少し、お腹がすいてしまったね」
     団長が帽子を被り直しながら、小さく言った。
    「公園を出た所に、新しくパン屋ができただろう。今日はそろそろ開いていたはずだし、行ってみようか。さあ」
     青年の手を引いて、団長は歩き出した。トルペは団長の後ろを歩きながら、麗かな光に霞む景色の中に、彼の白い首筋が幻のように在るのを見た。この人に付くはずの名前は、本当にどこを探したってもう無いのかもしれない。やけになってしまったのも最早恥ずかしくて、それからトルペはずっと下を向いていた。
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    numata

    DOODLE楽団のモブ視点のトル団。トが楽団に入るまでの両片思い話。モブは見守り系ではなく、がっつり二人に関わってきます。序盤の感じが最後まで続きます。団長がちょっとやんちゃかもしれない
    (モブの要素→楽団のベテラン/既婚者子持ち/ノリが適当/世話焼き/団長の友人)
    【トル団】ある弦奏家の言うことには 俺はしがないバイオリン弾きだ。ある町の楽団でそれなりに活躍して、それなりに楽しく、またそれなりにつまらない生活を送っている。
     ところが、平凡な人生の中にも、流れ星みたいにきらっとして、でもちょっとやっかいな出来事というのは降ってくるものだ。
     これから話すものが面白いかどうかは人によると思うが、例のピアノ弾きにまつわる話だと言ったなら、少しは興味もそそられてくれようか。



    (人形みたいな奴だ)
     オーディション会場にあいつが入ってきた時、俺が最初に思ったのがこうだった。ちょっと癖のある金髪、不安そうに伏せた睫毛も金色。ガチガチに緊張した表情は、その柔らかそうな童顔をむしろ無機物っぽく見せている。
     長机に着いている団員らの方も見ずに部屋の真ん中まで進み出たそいつは、ぺこん、とぎこちなく一礼をした。粗末なシャツから、痩せた鎖骨が覗いている。果たして音楽をやる余裕があるほど食えてるのか? 思わず隣に座る団員と顔を見合わせた。
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