ふたりのマナー 手袋と燕尾のコートは丸めてソファに投げる。眼鏡とクロスタイを粗野な手つきで外して、髪を掻き上げると頭を振った。階段を上がる音が聞こえるのもお構いなしに、ベストのボタンを一つずつ外していく。その足音は自室の前で止まった。
ブラッドリーは安堵の息を吐き、ノックと同時に声をかけた。
「早えじゃねえか」
向こう側の男も心得たもので、すでにドアを開けている。
「今晩はカナリアがいたからさ。昨日まで任務だったから、俺は休み」
「は、いいご身分だな。こっちはさんざんな目に遭ったってのに」
「自業自得じゃね?」
「どこが」
バーの花瓶を割った穴埋めに、オーエンが西の国のけったいなカフェに向かった。そのことは魔法舎中の噂になっていた。そんな不始末の一因である、ブラッドリーとミスラが連帯責任で双子に仕置きされたことも、周知の事実というわけだ。
「俺は、シャイロックのバーではやめとけって言ったからな」
「はいはい、直前までかっかしてたんじゃ世話ないだろ」
「おまえ……」
ブラッドリーが脱ぎ捨てたベストの放物線を目で追いつつ、ネロは後ろ足でドアを閉めた。片腕で支える皿の一つに載ったフライドチキンに喉が鳴る。チーズだの葉っぱだのが載った皿だって、ネロが晩酌で味わうために用意されたのなら悪くない。
それはそうと。隠すつもりもない、にやついたツラは気に食わないが。ブラッドリーがいくら睨んだところで、けろりとした様子で近寄ってくるのだから今更だろう。
「あんたのそれ、なんだかんだ活躍してるよな」
ネロはテーブルに皿を置くと、ソファの上に乱れる執事服とブラッドリーとを交互に見つめた。
「似合わないって思ってたけどさ」
「なんだ、一から着て欲しいのか」
「……馬鹿、何言ってんだよ」
むっとしたネロに、胡椒が飛んでるかとブラッドリーは身構える。しかし、慌てた彼は乱暴にフライドチキンを掴むと、薄い唇に押しつけてきた。あつあつな、出来立ての脂っこい匂いに誘われるがまま、口を開ける。歯を突き立てれば、じゅっと溢れた衣と肉汁が唇を濡らした。「やっぱ美味えな」「だろ」もくもくと食べるのに夢中になり、外すのを忘れられたシャツの釦が、心許なく留まっている。
ブラッドリーにひとしきり食べさせたネロは、どこかそわそわした様子で、シャツに掛かったままのボタンに人差し指を這わせた。
「なあ、どこまで知ってんだ?」
「え……あー、なんだっけな、そう『猫耳執事の萌え萌え♡おもてなし大反省会』……?」
「クソ、全部じゃねえか」
今はないはずの獣の耳がぴんと張り詰め、神経質に膨らんだ尻尾の錯覚に、ブラッドリーは苛立ちを吐き捨てる。
『こやつらにもマナーを叩き込むのは名案じゃが、我は前に執事のブラッドリーからもてなしを受けてしまっておる』『むむむ……そういえばこやつら、仲良く猫耳を生やしておったな。オプションとやらを付けるのはどうか?』『確かに、萌え萌えきゅんきゅんの執事なら、我も初めてじゃ!』『きゃ〜ホワイト(スノウ)ちゃん最高〜!』の斉唱から始まって、飽きるまで弄ばれて。堪ったものではない。
「まあ、大変だよな。あのおまじないとか……」
「美味しくな〜れって?」
「…………」
「引くなよ」
「引くだろ」
複雑だぜ、と渋面ながらネロの手つきはもっと性急になった。もう待ちきれないと、シャツの鈕をすっかり外してしまう。何だってそんなに落ち着きがないのか、気になってきたブラッドリーだったが、その答えはすぐにもたらされた。
「ブラッドリー様に、着替えのお手伝いは必要か?」
そう言って困った顔をしたネロは、横目にテーブルに並んだ皿を見ていた。
鼻を鳴らし、着慣れたスーツに戻る。
「いらねえ。ちんたら着替えてたら、飯が冷めちまうからな。それに——」
無防備に安心しきった男の薄い顎を掴んで、ブラッドリーは笑った。
「この俺様を笑い飛ばそうと駆け足で来たくせに、飯食って欲しくなったてめえの話を聞かせろよ、ネロ」