正体をなくした彼ら 最近仕事後の一服が癖になっているなと考えながら、ブラッドリーは携帯端末を取り出した。入っていた一件の通知を開くと旧友であり恋人である男からのメッセージが表示される。『仕事片付いたら来いよ』という素っ気ないながらも誘いの言葉に、地図のリンクが付いていた。屋外喫煙所には他に誰も居なかったので、自然と口角が上がるのを抑える事はしない。本音を言えば飯屋を営んでいる恋人の手料理が食べたかったのだが、文句を言えば返ってくるのは拳だ。ブラッドリーは殆どの事象を腕っ節で解決出来る男だが、ネロの拳だけは甘んじて受けようと決めている。彼が手を出す時に悪いのは自分の方だという事をよく分かっているからだ。
会うのは何日振りだろうか。一週間前に客として店に食べに行ったのが最後だったと思う。なので恋人の顔で会うのは半月振りになるのかもしれない。
そう思うと足は急いた。愛車を近くの駐車場に停めると舎弟に回収を指示しておく。この後は必ずアルコールが入るだろうし、移動するにも邪魔になる。
くぐった暖簾の先で雲が薄らと棚引く春の空の色をした髪を探した。一等目を引くのは彼が目立つからなのか、自分の目がネロに対してだけ異常を来しているのかは分からない。だがすぐに待ち合わせの人物は見付かった。
けれどそれと同時に勘違いに気付いて、何かが一息に収束するのを感じた。恋人が自分との逢瀬を楽しみに呼んだわけでも無かったし、この後店を変えてしっぽりとした雰囲気を作ろうとしていた予定も崩れた。やる気が削げながらも引き返すなんて大人げないし、呼ばれたのは間違い無いので後ろ頭をガシガシ掻きながらその四人席に向かった。
「おつかれ、生で良いよな?」
「ああ。……よう、久しぶりだなファウスト」
ネロの隣にどかりと腰掛けると、対面に座るネロの友人は軽い挨拶を返しながらタッチパネルを寄越してきた。この二人が飲んでいるのは珍しい事では無い。大学時代の友人らしいが、全くタイプの異なる外見に趣味すら擦っていないというのに未だに交流があるから気が合うのだろう。ネロは友人が多い方では無いため、ファウストは貴重な存在だ。デートだと思って来た自分は肩透かしを食らったが、仕方が無いと割り切る。若干残念な気持ちは否めなかったけれど、解散すれば朝までは独占出来るだろう。どうしてこの場に呼ばれたのか分からないが、ネロの気が済むのを待つほか無い。
「あ、先生それさっき頼んだって」
「だってまだ届いてない……。ネロこそさっきから同じもの食べてないか?」
「俺はいいんだよ。あ、箸転げた。ブラッド、新しいのタッチパネルで注文してくれよ」
それから思ったよりも二人が酔っている可能性に気付いて、もしかしたら本当に意味も無く呼ばれたのかもしれないと思い至ってしまった。無意識に連絡をもらうのは吝かでは無いが、酔っ払いのおもりは性に合わない。
コツンと音を立てて打ち鳴らしたジョッキの中身を一気に飲み干すと、横から「あまり飲み過ぎるなよー」と棚に上げた言葉がかけられた。どう考えてもこの場の雰囲気に合わせるのなら早急に脳をアルコール漬けにしなくてはならないのに。
続けて届けられたフライドチキン、唐揚げ、チキン南蛮にブーイングが上がった無視をした。これは全て自分が食べるために注文したものであって、文句を言われる筋合いは無い。それらをつまみにしてしこたまアルコールを摂取する作戦だ。店の開店時間から飲んでいるであろう二人に追いつく事は難しいが、素面でいるのは地獄である。
「ブラッドリー来るの早かったな」
向かいでファウストは若干不服そうな顔をしていたが、勝ち誇った顔をしたネロは可愛い。上機嫌で肩に手をかけてきたりするので、急いで来たのは間違いで無かったのだと思える。
「あの時間だったら煙吐きに出るの知ってたしな。元々勝ち戦だったよ」
その会話で大体の事情は察せられた。呼ばれたのは自分だけでは無い事と、遊びに付き合わされた事だ。酔っ払いというのは普段はしない事を平然としてしまう。ネロがそんな下らない事で呼び出すなんて無いと言っても良いし、会いたいと思っても我慢してしまう所があるくらいだ。
「……何か賭けてたのか?」
「ここの飲み代」
げ、と思わず声を漏らした。二人とも何も考えずに注文を続けているが、大衆居酒屋とはいえ結構な額になってそうだ。それを賭けで全額支払うなんて酔っ払いくらいしかしない。
「……仕方ないな、あいつ既読すら付かない」
「フィガロが来なかったらブラッドリーが払うよ。流石に旦那が来ない先生に三人分払わせるなんて可哀想な事させないさ」
そこは自分が払うじゃないのか。いつもだったら必ず半分払うと頑固なくせに、今日に限っては随分な女王様だ。ここで口を出したら負けな気がして、黙ったまま体で返して貰おうと考えた。それなら採算が合う。
むくれながらスマートフォンを弄るファウストは記憶よりもやや幼い印象を受けた。こんな姿を晒している事を知ったらあの男はどんな反応をするのだろと想像する。いつも澄ました表情で飄々としているフィガロでも嫉妬したりするのだろうか。
頬杖をついてファウストを眺めながら、改めてしっくりこないなと考える。フィガロとファウストが並んでいる姿を見た事が無い訳では無いが、どんな付き合い方をしているのか分からない。酒が入っていないファウストはそれはもう清潔で潔癖で純情を形にしたような男だ。それがフィガロとねぇ……。
「繁忙期だからな、忙殺されてんだろ。そんなしょげるなよ」
「別に。来ないなんて最初から分かってるし」
今度は拗ね始めたファウストに、ネロは機嫌を取るための酒を振る舞った。ネロはそこそこ酒が強い事を知っているが、ファウストの方はこれ以上酔わせて平気なのだろうか。知らねぇぞと心の中で呟いて、再びジョッキを持ち上げる。
「きみはえらく上機嫌だな。良かったな愛とやらを確かめられて」
「はは、そもそも心配なんてしてないさ。な、ブラッド」
「よく言うよ、さっきまではあんなに……」
「バカ、それ以上言うなって!」
なんだこの会話は。友人同士で普段何の会話をしているのか垣間見てしまったようで、本当にこの場に居ても良いのか不安になる。飲み代を払うのは別に構わないが、どうも居たたまれなくて堪らない。無言でアルコールを摂取しながら、この時間が終わるのを待った。
それから一時間も経った頃だろうか、大衆居酒屋にあまりに不似合いな男が現れたのは。夜中だというのにパリッとしたままのシャツに、初夏だというのに一切着崩さないスーツ姿だ。一見して出来る男オーラが溢れ出ていて、いっその事詐欺師だと疑ってしまいそうな出で立ちの男は迷い無くファウストを見付けるとテーブルまで歩いて来た。
「遅い」
「ごめんね、ちょっとトラブルがあって……はは、大分飲んだね? 可愛くなっちゃって」
恨みがましい目で見上げるファウストの隣に落ち着くと、その頭を子どもにするように撫でた。まるで保護者だ。
「タッチパネルで注文するんだよ。……分かる?」
予想通り不慣れなのであろう、ファウストが前に持ってきたパネルを見ながら「成る程」と呟いた。だがすぐにシステムを理解して手早く注文をしている。間も無く届けられた黄金色の液体と叩き胡瓜にほっけの開きはこの場に合わせたオーダーなのだろう。TPOをよく理解している男だ。
フィガロもブラッドリーと同じくただこの場所に来てくれと言われただけだろうに、その場にファウスト以外の人物が二人もいた事に驚く様子は無かった。
「ブラッドリーは相変わらずだね、脂っこいものは体が受け付けないから羨ましいよ」
「まあな、死ぬまで食い続けるつもりだ」
「こいつも前よりは食える量減ったよ。作った分だけ食っちまうから、作る側が減らしてんだ。胃もたれには縁が無いと思ってたんだけどな」
「バラすなよ」
そしてこの酔っ払い達に引いている様子も無く、すんなりと馴染んでいるように見える。それはもしかしたら先に来ていたブラッドリーが緩衝材になっているのかもしれないが。
「せーんせ、来てくれて嬉しそうじゃん」
先程の仕返しのつもりか身を乗り出したネロを、ファウストはジョッキを呷ることで黙殺した。
「ああもう、こぼしてるよ」
「ん」
口の端から零れる酒を拭ってやろうとして、フィガロはくいと顎を持ち上げた。すると条件反射なのだろう、自然とファウストは目を閉じる。思わずにやけた口元をネロは手で隠したが、ブラッドリーはぽかんと口を開けてしまった。
当人のフィガロはといえばその素直な反応に苦笑をして、備え付けのペーパーナプキンで綺麗に拭ってやっていた。
「……?」
状況が分かっていないらしいファウストは貰えるであろうキスが未だに貰えない事に疑問を抱いている様子だが、流石にこの場でそのような振る舞いをするフィガロでは無いらしい。
「あー……ネロ、悪いけど連れて帰っても良いかな? ここの支払いは俺がしておくから」
「えっ、あ……ありがと。悪い、ちょっと飲ませすぎたわ」
賭けの事など知らない筈なのに、たった一杯だけ飲んで支払いを引き受けた男は、先程覚えたばかりのタッチパネルで会計ボタンを押していた。
「迎えに来たみたいになっちまったな」
「元々そのつもりだったから構わないよ。注文したのアルコールじゃないしね」
てっきり見た目で生ビールだと誤認していたが、フィガロが注文したのはオールフリーだったらしい。最初からそのつもりでいた訳では無いだろうが、ファウストの酔い具合を見て車で連れ帰る選択をしたのだろう。抜け目がない奴だ。
「ほらファウスト、ネロにさよならして」
「今日はたのしかった。また飲もう」
「ああ、連絡するよ。……あんまり旦那に我が儘言うなよ? 後で後悔するの先生なんだから」
「うん、わかった」
「俺はファウストの我が儘なら大歓迎だけどね。普段はさっぱりだから」
本音なのだろう、愉快そうなフィガロはファウストの手を引いて店を出て行った。大人しく付いて行くファウストは散歩中の犬と飼い主を彷彿させるものがある。
「……俺らも出る?」
そう訊ねてくるネロの瞳は若干濡れていて、ああこれは二人に感化されたなと一発で分かってしまった。
会計を済ませたテーブルにいつまでも座っている道理は無い。ネロの腕を引くと立ち上がらせてそのまま連行するように暖簾をくぐり抜けた。
冷えてきた夜風が心地よく、タクシーを呼ぶ気が一瞬で失せる。
「ちょっと歩かねぇ?」
すぐにベッドに雪崩れ込むのは簡単だが、何となく二人でゆっくり話すのも良いなと思えた。酔い覚ましにもなるし。ブラッドリーはともかくネロは脳だけじゃなく男性機能もアルコール漬けにされているだろう。勃たなくてもブラッドリーとしては大いに構わないのだが本人は少し辛いかもしれない。ファウストの方はもう手遅れだろう。ちょっと夜風に当たったくらいではどうにもならないに違い無い。ふにゃふにゃになりながら、しかもあれだけ人前で煽ったのだから据え膳は必ず食されるだろう。フィガロは終始保護者のような面をしていたが二人きりになったら豹変するのは目に見えている。あーあ、可哀想にと思わなくもないが、結局の所ブラッドリーにとっては他人事だ。
「今日はくだらねぇ賭けに付き合わせちまって悪かったよ、次はちゃんと二人で会おう」
醒めてきた頭でそんな事を反省していたらしいネロの頭を掴み、わしゃわしゃと混ぜるとやめろと批難の声が上がった。
「気にしてねぇよ。普段からそれくらい気軽に声かけやがれ」
両手でよく顔が見えるように固定して覗き込むと、「ありがとう」と小さく聞こえてきた声を拾うようにキスをした。