兄上どんな人やろな、で捏造してる話(あ2〜3)◯愛のあいさつ 第二話
聞いている人間も苦しくなるような咳の音が、屋敷に響いていた。
ようやく少し持ち直したかに思われた巴の家で、嫡男が病を得て寝かされていた。
父、母、弟、彼を愛する家族たちは枕元に立って、不幸を嘆くことしかできていなかった。なぜ、気づくことができなかったのか。自分たちに何かいたらないことがあったのではないか。後悔は先立たない。
現当主である父親は、頭を抱えたまま独り言のように呻いた。
「なんということだ。我が一族にまであの天祥院の御曹司のような厄災が降りかかるなんて」
「……ち、父上⁉︎ な、なにを言うのですか⁉︎」
次男の日和が、その独り言のような呻き声に反応した。
「えい……あの子と違って治らない病気ではなかったのでしょう? 手術さえすれば兄上は……」
「……そんな金、どこにあると言うのだ」
「お前が無心してきた端金とは訳が違うんだぞ。無論私たちがかき集めた分でも足りない……」
色々な意味で心が冷えて、日和は黙り込んだ。お前が無心してきた端金。それをするように命じてきたのは祖父であること。そして、父親も知っていたこと。
「そ……それでも……天祥院さんの家なら……」
「もういいやめよ。日和、今後はそのような恥知らずな真似を禁ずる」
部屋に、日和が頭に浮かべたばかりの祖父が現れた。杖をつきながらベッドに近づき、横たわる病人の顔を一瞥した。
「お、お爺様……恥知らずな真似を禁ずるとは……?」
声がかけられると、今度はそちらの方に冷たい視線を投げた。
「今後は立場が変わる。だからそのような真似をさせるわけにはいかなくなる」
祖父の視線に嫌な予感がして、日和は横たわる兄の手の片方を握った。兄は何も言わなかったが意識はあるようで、弟の手を握り返してきた。
「次男がなんのために存在すると思っている。後継にもしものことがあった時のためのスペアだ」
「そんな前時代的なこと……」
父親が思わず口にしたが
「家を建て直すこともできない現当主のお前が口答えをするか。せめて次代は有能に育てなければ」
ピシャリと祖父は断じた。
祖父が日和に近づいてきた。その場にいた人間の目には信じられないことに、膝を折って孫の頭を撫でてくる。そして兄の手を握っている孫に、さらに信じられないことを告げた。
「ほら、お前も喜ぶといい。お前がこの世界で除け者、添え物にされていた原因はもうすぐ消えるぞ」
ここまで何も言わなかった兄が、「ああ……」と合点がいったような声を出した。
「そうだよね」
そして、握っていた弟の手を離した。
途端に弟はガタガタと震え出す。必死の形相になって、今度は両手で兄の手を掴むと
「……本人の目の前でそのような非道なことが言えるなんて。なんで。お爺様のくせに、孫のことをなんにも分かってない!」
叫んで、もう一度兄の手をぎゅっと握った。そして一旦離れると、祖父に向かって訴えた。
「次男が当主のスペアになれることは認めます。けど……ぼくの兄上は、この兄上以外に代わりなどいません。ぼくから家族を奪わないで!」
【幕間〜いつかどこかのお見舞い〜】
「お見舞いの花、自分で生けてる人初めて見た」
「他の人からの花はお手伝いさんが生けているの? あそこのやつ萎れているね。ちょっとなおそうか」
「それよりか、良かったらもう捨ててくれる? 枯れるのみたくないからさ」
「うわー冷たーい。手入れすればもうちょっとは咲くはずだね」
「どっちにしても、切花ってすぐ枯れるよ。みんな根がついた花を持ってくればいいのに」
「英智くんが知らないはずないよね。入院してる人に根がついた花は」
「寝付く……だっけ。あんまり好きじゃない駄洒落だからそれは。もっと僕好みの駄洒落考えてって感じだ」
「ほら、綺麗になる角度に向けようね。英智くんなんかに見せるのは勿体無いけど英智くん宛のお花だものね、スイートピーちゃん」
「花じゃなくて、ぼくに話しかけてよ」
「とにかく。きみはせっかくもらった花なんだから枯れるまで見届けることだね。この際もう遠慮しないけど、きみだって長い命じゃないでしょう。お仲間なんだから見送って」
「短い。本当に嫌だな。死にたくない」
「まあとりあえず、花の方は水切りすれば案外持つものだよ、英智くん。最後まで美しく咲かせようね。きみも、すぐ死ぬにしたって一応未来の御当主様でしょ? 最後まで綺麗でいようね」
・・・・・・
天祥院英智が入院する病室は今日も静かなはずだった。
その静寂を、ガラッという扉の音で突然破った者がいた。英智は闖入者の顔を見て、ベッドから体を起こし弾んだ声を出した。
「あっいらっしゃい。よく来たね」
「英智くん……お金を、ください……」
「えっ?」
突然やってきた日和のさらに唐突な言葉に、英智は一瞬頭の処理が追いつかなくなった。その間に日和は「……うっ……く……」と嗚咽を漏らしたが、やがてもう一度、懇願してきた。
「……お、お金を……ください……ぼくの愛する兄上を、助けてください……」
「ちょ、ちょっと待ってどうしたの? なんで土下座なんか……」
「……ごめん、ごめんね英智くん。ずっと病気で苦しんでる英智くんに、他の人の病気を治すために、金を出せ……なんて……」
手を合わせて床につけていて、そこに涙の雫がぽたりぽたりと落ちる。その奥にきちんと並んだ膝小僧も見える。英智には、何故彼がこんな姿勢になるのだかさっぱり分からない。
「それに悔しい……悔しい……。今までは自分なりに対価を用意したのに……今回ばっかりはどうしようもない……そんな額じゃない……」
「うん。日和くんは、そういう言い訳でぼくからお金をせびるひどい奴だったでしょ最初から。なんで今更恥ずかしがっているの?」
「…………!」
顔をあげた日和は、目を見開き愕然としていた。英智はその表情を含めて彼をもう一度眺め、やはり首を傾げる。ぼんやりと(あまり愉快な表情ではないな)とも思った。
「ほら、もちろん出してあげる。だから立って」
「…………」
英智は、喋りながら思い続ける。笑ってくれないなあ、と。顔をあげたものの、日和はまだその場に正座した状態だ。いつまでそうしてるんだろうかと、英智は不思議だった。
巴家の嫡男が突然倒れたという噂は英智も聞いていた。だから、家族大好きと英智の前で公言していた日和が、兄を助けるために金を出せと言ってくるのも腑に落ちた。英智が分からないのは、目的のものが手に入ったのに、まだ泣いたり傷ついたりする日和の態度だった。
「黙ってないで。今日もお喋りしよう。いろいろ教えて、ね? それとも今日はお兄さんが心配かい?」
「……ありがとう、ございます。それなら、いつもの場所に、お金を……」
「うん、振り込むよ。今日はお兄さんのところに帰ってもいいけどまた来てね」
だいたい、この子は何をすれば笑ってくれるんだろうか。笑ってほしい。他の人の前では笑うくせに。お金ならあげる。ううん、お金しかあげられない。今の僕から君が喜びそうなものって。
「まだ変な顔をしているね。確かに今回は僕一人で動かせる額じゃないけど、天祥院家だって別にいつも損得で金を出してるわけじゃない。私情で動く時もあるよ」
日和の瞳から大粒の涙がまたこぼれて落ちた。しかし言葉は発さなかった。そして英智がいつまで待っても立ち上がらない。痺れを切らした英智は、手をかそうかとベッドから降りて近づいていった。
「まあ確かに、今回の僕はどういう気持ちで動いてるって言うのかな。憐れみ? ちがうだろうね。そうだなあ……」
腕を掴んで引っ張りあげようと思いながら、自分の手を伸ばした。
伸ばしながらこんなことを話しかけ続けたのは、答えを相手の口から聞きたくなったからだった。
「ねえ、日和くん?」
「……大っ嫌い‼︎」
しかしもう答えが返ってくることはなかった。
◯愛のあいさつ 第三話
英智の部屋から日和は飛び出して、病院の出入り口も逃げるように通り抜け、口の中に走った直後特有の苦い味を感じた。一度立ち止まってから、ふらふらと道の脇の茂みの中に入っていく。そこが誰も見ていない場所だと思えた途端、堪えきれなくなって声を放って泣き出した。
「……ふ……ぐうぅ…………うわわああ」
しばらくの間「うわああぁぁん!」と小さい子どものような調子で泣いてしまった結果、そのうち息の仕方も見失っていった。苦しくなって今度は、「……ヒー……ヒュー……ッ」と喉からおかしな音を立てる羽目になり、肩を激しく上下させながら、なんとか息を整えようともがいた。
「ど、どうしたんだっ!」
「……うあ……?」
さすがの大声に、誰かが茂みに入ってきたようだ。 日和が振り返ると、そこには自分と同じくらいの年の、しかし自分や英智とは全く雰囲気が違う男の子が立っている。
「なんでそんなところで泣いてるんだっ! 誰かに虐められたのか⁉︎ い、今助けるぞ!」
「……う……」
返事をしようとしたが、喉がひりついた。叫ぶように泣き続けて、当然のように喉はダメージを負ったらしい。一度唾を飲み込んでから、もう一度声を出した。
「きみこそ誰?」
「俺か、俺はここでよく治療してもらってる守沢千秋だ。とにかく事情を話してほしい」
千秋と名乗った子は、初対面の日和に対して、心の底から思いやっているような顔で手を差し出してきた。それは日和にしてみれば、ただ己に対する羞恥心が増すだけの振る舞いだった。
「……やめて。ぼくの方が悪者なんだから」
やっと絞り出すと、千秋はその返答に困惑したようだった。
「で、でも、そんなふうに大泣きする悪者なんか見たことないぞ……」
「ううん。悪者だね……。ぼくは、同い年の子からお金を奪ってきた」
「……ほ、本当に悪いことしてる……!」
千秋はついそう口走った。すると、千秋にとっても初対面の、色合いが上品な服を着たその子は黙ってしまった。目を伏せ、また涙がぼろっと頬をつたっていったのが見える。
「う、うう……泣かないで……。そうだよな、きっとおまえには何かしなきゃいかない理由があったんだよな?」
千秋はもう、目の前の子が悪い奴か良い奴かではなく、〈助けなきゃいけない人〉だと直感した。勇気を振り絞ってもう一回手を差し出した。
「だ、大丈夫。ならやり直せるぞ。ほらそのお友達? のところへ戻ろう。怖いなら一緒に行くぞ」
日和の方は、そんな千秋を見て、同じように自分へ手を伸ばした英智の姿を思い出した。泣き疲れたせいで心にどこかモヤがかかっているのも手伝って、つい千秋の手をとろうとした。
「お金を返して謝れば、おまえはもう……」
しかし何気なく付け足された言葉に、冷水をかけられたような気分になった。出しかけた手を引っ込め、日和は千秋から背を向けると再び走り出した。
「あっ待って! どこへ行くんだ⁉︎」
それから数日、巴家はつかの間静かだった。病院から戻った後に日和は顛末を正直に話したが、金額が金額なことと、最後に大嫌いと吐き捨てて別れてしまったこともあり、本当にお金が援助されるまで誰も信じなかったのである。
しかし数日後。また倒れた嫡男の部屋に家族が集まり黙って見守っていた静かな部屋の空気が、祖父が孫の頬をはたくバシンという音で破られた。
「お、おやめください!」
叩かれた日和の父親が、子の前に立ち怒る老人の体を抑えた。老人は顔を怒りと羞恥で真っ赤に染めていた。
「恥知らず! あの忌々しい天祥院家から正式に資金援助の申し出があったんだぞ。よくもこの家に泥を……!」
父親はもう一度、ゆっくりと静止の言葉を繰り返した。
「……やめてください!」
日和のもとには、母親も使用人数人も、寝ていたはずの兄も駆け寄ってきていた。父親も、ちらっとその様子を確認すると、決意するように頷き、祖父の方へ向き直った。
「……お言葉に甘えましょう。せっかくこの子が……」
「くっ。せっかくだから、か」
祖父もまた父親の後ろに視線を一度寄せる。母親と兄には身体を支えられ、使用人には甲斐甲斐しく頬の手当てをされ始めている孫が見えた。
「日和。お前はせっかくの機会が目の前にあっても……誰に成り代わってでも、上に立ちたいという思考はないのか? せっかく、人に愛される能力を……」
日和の方は祖父の視線を受けて、目を逸らさずに返してきた。彼はあの日、病院から帰る道中で、いよいよ決意が固まっていた。
どんなに恥をかいても、どんなに一人の〈友達〉の心を踏み躙っても、兄を助ける手段を受け取った以上は、もはや絶対に手放してたまるかと思ったのである。千秋と名乗った少年が、手放せばもろもろの感情から解放され許されると何気なく言った時、許されることより兄の命を助けることを、改めて優先したのだった。
「それとも一族を背負って立つような重責はこれからも兄に押し付けたかったか……?」
この祖父の言葉には少し萎縮した。兄が重責に苦しんでいるのは、確かに弟にも見えていたからだ。兄上自身も実は死ぬことを願っていたとしたら……? しかし、弟の体を支えていた兄は、それを力強く否定した。
「弟にそのようなことを言わないでください」
「兄上……?」
「お爺様の見抜く通り、私は弟と違い、社交の場に向かぬ性格です……弟が自分のいるはずだった場所で輝いてくれるならそれでもいいかとすら思いました」
臆病なところがあった兄は、生まれて初めて恐れている祖父をまっすぐ見つめ返した。祖父は兄と弟と、二人の孫たちの瞳にとらえられた。
「けれどもう逃げません。私がこの一族を背負い、そして立て直します。まずは手術を必ず耐え切ります」
祖父は、跡継ぎを見舞ったあの日に日和の方から言われたことを思い出した。「孫のことを何も分かってない」と言われたはずだ。二人の孫の意思は、確かに、今まではこの老人がまともに認識することができていないものだった。
祖父が孫たちの前に膝を折り、同じ高さにになってみると
「だから私からお兄ちゃんという立場と、この温もりを奪わないでください」
と、兄の方が言った。
(続く)