無題 天の川は渡れない。そう言ったのは誰だったか。
はじめて七夕を知ったのは、まだこの世界が平和だった――当たり前過ぎて、平和の何たるかを知らない子どもの頃だった。
織姫と彦星の切ない恋物語。女の子たちが盛り上がっていたけれど、俺にはいまいちよくわからなかった。
好きな人と一年に一度しか会えないなんて、そんなの苦しいだけじゃないのか。好きなら待つのではなく川を渡る努力をすればいいのに。
「絶対、天の川は渡れない」
俺の心を読んだように、ぽつりと誰かが言った。
***
「こーよー、これはどこに置くのー?」
「キャビネットの横かな。あとで俺がやるから、来主は短冊用意して」
「はーい!」
元気よく返事をした来主は、ぱたぱたと走って来てカウンター席に座った。それから一騎が用意してくれた色紙とハサミとにらめっこをはじめる。
「指切らないようにね」
子ども扱いし過ぎたかと思ったけど、真剣な顔の来主はこくりと頷いた。素直なところは彼の美徳だと常々思う。
海神島に移り住んでもうすぐ一年。決して規模は大きくないが、季節に合わせたイベントは毎回欠かさず行ってきた。物資に限りはあるけれど、ただ生を繋ぐためだけに使っていては心がゆるやかに枯れていってしまうからと遠見先生が提案してはじまったことだ。この店はその中心になることが多い。
竜宮島の人もシュリーナガルから来た人も気兼ねなく集まれる場所。そこに〈楽園〉が選ばれたのは嬉しかった。俺にとって、あたたかい記憶に満ちている大切な場所だから。
「ねぇ甲洋、こんな感じでいい?」
突然、近いところで声がした。いつの間にか立っていた来主がこちらに身を乗り出してきている。その手には何枚かの短冊があった。フリーハンドだから真っ直ぐに切れていないし、太さにもバラつきが出てるけど、これはこれで味がある。
「いいよ。その調子で作って」
「やった!」
来主は嬉しそうに笑って再び作業に没頭する。単純作業はわりと早々に飽きる印象があったけど、今回は違うみたいだ。
「……楽しい?」
「うん! 俺が作ったものにみんながお願いを書くんだって思ったらわくわくする!」
気になってつい投げてしまった問いに返ってきたのはすごく純粋な感情で、だからこそすっと心に入ってきた。自然と頬が緩む。
「そっか。良かった」
「えへへ。当日も楽しみだなあ。天の川見たい!」
天の川。その単語を聞いて、昔の会話が脳裏を過った。
「……来主はさ、俺と一年に一度しか会えなかったらどうする?」
口に出した次の瞬間には後悔した。視線が交わる前に咄嗟に後ろを向く。背中に視線を感じるけど、追及する言葉はない。……あからさまに変な態度を取ったのに、珍しい。
「くる、」
「行くよ」
無言に耐えきれなくて振り返った、その先に。笑うでもなく、不思議そうにするでもなく。真っ直ぐに俺を見る来主がいた。
「会いに行くよ、甲洋に。天の川を渡って」
「……天の川は、渡れないんだよ」
「やってみないと分からないじゃん!」
―――その言葉は、幼かった俺が飲み込んだ言葉で。あのとき「渡れない」と言ったのは他でもない俺自身だったのだと、今更理解した。
歩く時間すらじれったくて、空間を跳んで来主を抱きしめる。驚いた様子の来主は、それ以上何も言わずに腕の中に収まってくれた。身体的にも精神的にもあたたかい。ああ、これが幸福ってことなのかな。
……柄にもなくそんなことを考えてたから、扉が開くまで俺たち以外の気配に気付けなかった。
「ただいま。仲いいな、お前ら」
買い出しから帰ってきた一騎が微笑ましそうにこっちを見てくる。言い訳が次から次へと湧いてくるけど、今はとにかく、穴があったら入りたい。