そして幸福が訪れる 名前を呼ばれ、振り向くと、廊下の向こうから、代名詞とでもいうべき黒いキャップを被った男がずんずんと大股でやって来るところだった。柳と同じでラケットバッグを背負っている。
「お前も今から部室に行くのだろう」
「ああ」
真田が言葉を続けることはなかった。ならば一緒に行くのは当然というわけだ。柳としてもそれに反対するつもりはないのだが、空振りしたときのようなすかっとした奇妙な感覚が残り、そのせいか並んで歩く二人の間に名状しがたい空気が滞留している。
真田は元来、快活に笑う男だ。腹の底から声を響かせ高らかに笑う。名うての仏師が木を彫り抜いてつくった金剛力士像のごとくくっきりとした面立ちも相まって、その様は悪人じみていた。周囲の者はたいていうるさげに顔をしかめるが、その一方で、あまりにも率直な感情表現にどこか仕方ないと思っている風でもあった。
今は、もっとかたく、張り詰めている。からだの内側に、ぎりぎりまで水をたたえた器を抱いて、縁で膨らんでいるいつ溢れるともしれない水を決壊させてはならないと心に誓っているみたいに。
いきいきとしていた目はこの頃、常に静かだ。テニスコートに立つときだけ激しく燃える暗い色の炎が宿る。
誰もあえて指摘しないが真田の変化の理由が幸村の入院にあるのは聡い柳でなくとも容易にわかることだった。
十年も切磋琢磨してきた親友が突然難病で部活も学校も休んで入院しているというのは、それほどの大事なのだ。こんな状況では真田でなくてもきっと、誰しもが同じように不安定になることだろう。
それに、柳は知っている。二人が全国大会三連覇を目指して立海大附属中に入学し、着実にその目標を実現してきたという歴史を。同学年のライバルとして友としてすぐそばで見てきたのだから。
「おお」
いきなり真田が感嘆の声をあげた。かと思うとさっと敏捷に花壇へ近づき、すとんとしゃがみ込んだ。
困惑しつつも後についていった柳は、腰を折って真田が食い入るように見つめている花を見下ろした。
「鈴蘭だな」
つやつやと大きく立派な濃い緑の葉の間で、細い茎は杖の持ち手のようにゆるくカーブし、いくつかの釣り鐘形をした小さな花を咲かせていた。柳は物心つく前から擦り切れるまで愛読した百科事典でこの花の存在を知っていたし、姉のヘアスプレーにそのシルエットが描かれているのも目にしていたが、実物は初めてだった。
なるほどとその形状をまじまじ観察する柳の横で、真田がやおら口を開いた。
「俺の花だ」
ぎょっとして柳は真田の横顔を凝視する。ほんのわずかに聞き間違いかもしれないとも思ったが、頭の中で打ち消す。真田の口調はやけにはっきりとしていた。
この男は、こんなたおやかで風に吹かれたらその身ごと揺れるような花を自分に見立てるほど繊細な男だっただろうか。柳は考える。真田は強硬だ。傲岸不遜だ。しかし、幼馴染の幸村が病に伏して以来まめまめしく見舞いに通ったり、弱った戦友の吐露した後ろ向きな発言に誰よりも心を痛めていたではないか。
うんうんと考えこんでいた柳はふと一つの可能性に行き着いた。
「弦一郎、お前、この五月が誕生日だったよな?」
「そうだが?」
「鈴蘭は誕生花なのか」
「いや」
推論はいともあっさりと打ち砕かれた。
「そんなことはなかったと思うが。そもそも俺は誕生花など把握しておらん。花なら幸村の方が詳しいのではないか?」
この場に不在のもう一人の友人がガーデニングを愛しその手の知識に長じていることなど十二分に承知したうえでの質問である。柳は眉をひそめた。返事によってさらに、無骨な真田が俺の花などとと言ってのけたゆえんからどんどんと遠かり混迷が深まっているように思われた。
その表情から何を読み取ったか、真田はふんと小さく鼻を鳴らし(もしくはため息をついて)、再び花に向き合うと節くれだった指で華奢な茎をつついた。
「……ずいぶんと昔のことだ。幸村の庭でこれを見かけて、名前を聞いた。それで言われたのだ」
これは鈴蘭。ああ、そうだ。真田、お前の花だよ。
真田自身は淡々とした声音だったが、その奥で幸村がにこにこと笑みをたたえながら歌うように話している姿が柳には見えた。
「フランスでは五月に鈴蘭を贈る風習があるというし、精市はそれに絡めたのかもしれないな」
柳の説明を聞いて真田は興味深げに頷いた。
「やはりお前はものをよく知っているな。お前が言うのだからたぶんそうだろう」
真実がどうであれ構わないとでも言うような口振りだが、それでも一応納得はしているのだろう、膝に手をついてぐっと立ち上がった。
「寄り道させて悪かったな」
「いや。普段の働きを考えたらこんなの寄り道にも含まれないだろう」
「しかし副部長たるもの、皆の手本となるような振る舞いを常に心がけねばならん」
ときに痛ましいほど真面目なこの男を清らかな気配をまとった花にたとえた幸村のことを柳は思った。
「よし行くぞ」
何かに挑むように顎をぐっとこわばらせた真田の佇まいからは感傷の片鱗など少しも見当たらなかった。常勝だけを見据えている。これが当たり前になっていつしか疑問にも思わなくなっていたが、力のこもった顎のかたい線と険しい目もとを、柳は眼差した。歩調を合わせてともに歩きながら、今このとき病室で一人きり過ごしているはずの幸村はありし日、どんな心持ちで真田に鈴蘭を見出したのか思いを馳せずにはいられなかった。